韮山反射炉

【はじめに】

こちらのページでは、静岡県伊豆の国市の韮山反射炉を中心とした、この近辺の大人散策情報を紹介致します。個人的なイメージが入るかもしれませんが、ここ伊豆の国市一帯は、鎌倉幕府の礎の地であり、且つ日本の近代化を引っ張った、日本の歴史において非常に重要な地域だと思っており、その歴史を感じつつ、大人散策できるエリアだと思っております。

小学生の時「鎌倉幕府の成立の前段階の話として、平治の乱にて源氏が破れ、幼かった頼朝は伊豆に流された」と教わった際、「伊豆諸島のどこかの島に流された?」と思い込んでいました。しかし、少しづつ勉強して、「頼朝がどういった人間関係のもと、どういった過程で鎌倉幕府の成立をしていったのか」を知るうちに、「海に隔たれた島で、そんなことできるの? 島から脱出するだけで、大変だと思うんだけど…」と思い、高校生の頃、改めて調べてみると、「伊豆に流された≠伊豆諸島のどこかにに流された」で、「伊豆に流された=伊豆国の蛭ヶ小島に流された」と新たな知識を得た事、覚えております確かに「伊豆」という文字と「島」と言う字は入っていますが、「伊豆諸島」ではなく、陸続きの「蛭ヶ小島」だったという事です。高校生だった自身にとって、騙された感があり、この決定をした役人が、「もしかして当時も清盛に報告するにあたり、『伊豆のどこか海に隔たれて容易に出てこれない島に流しましたので、安心してください』とミスリードさせるためにこの地を選んだのではないか?」と思ってしまった記憶があります。(ただ、Wikipediaによると、明確にこの地であるか否か不明の様ですが…)

個人的には、そんな記憶のある伊豆の国市ですが、上記個人の記憶とは別に、頼朝がこの地(少なくともこの近辺)に流された後、20年程の時間を過ごした地であると同時に、北条氏とも交わり鎌倉幕府の礎となって行った地である事は間違えないと思います

また、幕末には、頼朝(河内源氏)と同じ源氏の流れをくむ家系の江川氏(大和源氏)が、反射炉を建議し幕府直営として築造された地でもあり、歴好きの自身にとっては、長年訪れたい地域でした。

そんな背景のもと、限られた時間でしたが、峠の東側の網代近辺の温泉宿を拠点に、伊東でレンタカーを借り、1時間弱かけて移動し、この地の大人散策をさせて頂いた次第です。その際に参らせて頂きましたこの地域・韮山反射炉近辺の大人観光スポットを以下に紹介させて頂きます。

(別記事にて、伊豆高原駅周辺の大人散策情報伊豆高原のおすすめ温泉宿伊東のおすすめレストラン網代のおすすめレストラン網代のおすすめ温泉宿熱海/来宮駅周辺の大人散策情報韮山の大人観光スポット下田のおすすめレストラン下田(一部河津含む)の大人散策情報下田のおすすめ温泉宿等、伊豆半島エリアの観光情報も記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです)

【「韮山反射炉近辺」を大人散策】

まず最初にですが、この地域を観光するにあたり、土地勘のないエリアで、限られた時間の中(レンタカーの貸し出し時間=6時間)観光させて頂く前提で候補地を選びました。移動には、土地勘もない為、余裕を持って、3時間を必要とする前提だと現地滞在時間は3時間程度しかない中選んだ候補地」と言う事です。その候補地は、「韮山反射炉・蛭ケ島公園・江川邸・北条寺」の4か所です(途中プラスも出てきましたが…)。以下、順に紹介致します。

・韮山反射炉+周辺散策 (庭園・茶畑・ひな人形等)

まずは、「世界遺産・韮山反射炉」からです。そもそも、「韮山反射炉とは?」を抑えるべく、Wikipediaの力を借りますと、以下の様にあります。

韮山反射炉(にらやまはんしゃろ、英:Nirayama Reverberatory Furnaces)は、静岡県伊豆の国市にある反射炉跡である。築造当時の形で現存する反射炉であり、1922年(大正11年)国の史跡に指定されている。  

概要  

韮山反射炉は、伊豆の国市中字鳴滝入に現存している反射炉の遺跡。高さ15.6mの連双2基で合計4炉で構成される。日本に現存する近世の反射炉は、この韮山反射炉と萩反射炉(山口県萩市)のみである。また、世界的にも実際に鋳鉄の溶解が行われた反射炉としては世界で唯一現存する遺構とされている。  

1922年(大正11年)3月8日に敷地も含めて国の史跡に指定された。また、2007年(平成19年)、経済産業省により、近代化産業遺産に認定されている。さらに2009年には、萩反射炉などと共に九州・山口の近代化産業遺産群の構成資産としてユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載され、2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録された (略) 

歴史  

1840年(天保11年)のアヘン戦争に危機感を覚えた韮山代官江川英龍は海防政策の一つとして、鉄砲を鋳造するために必要な反射炉の建設を建議した。韮山反射炉は、1853年(嘉永6年)の黒船来航を受けて、江戸幕府直営の反射炉として築造が決定された。  

1853年、伊豆下田にて築造開始 (略) 1855年(安政2年)、江川英龍が死去すると、跡を継いだ息子の江川英敏が築造を進め、1857年(安政4年)に完成した (略) 1864年に閉鎖されたのち、1868年に幕府直営から江川家私営となる。 以降風化が進むが1908年(明治41年)、韮山村有志が反射炉敷地を買い、陸軍省に献納したことにより、陸軍省所管となった反射炉は再工事され、翌年に落成。 以降、韮山反射炉保勝会が維持・管理を行うこととなった (略)  

韮山古川  

韮山反射炉では鋳造した砲身に砲穴を刳り貫く鑽開作業に水車動力を用いたため、反射炉敷地脇を流れる古川を河川改修し、反射炉側へ流れを蛇行させ、取水口から木樋で水車に水流を供給した。世界遺産としてはこの改修した区間約144メートルも含まれている  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/韮山反射炉

日本に現存する近世の反射炉は、この韮山反射炉と萩反射炉(山口県萩市)のみとの事で、世界的に目を向けても実際に鋳鉄の溶解が行われた反射炉としては世界で唯一現存する遺構との事。歴史的な価値が非常に高い事、ご理解頂けると思います。その立ち姿は、正に歴史を感じさせてくれるもので、日本の近代化を支えてきた誇りを感じる立ち姿。見ているだけで、様々な思いが湧いてきます。江川氏の銅像の表情も誇らしさを感じるような気がしてしまいます。

また、反射炉の目の前には川(古川)が流れており、一部世界遺産の範囲にも含まれるその川岸を散策する事が出来ます更に左岸にある庭園の先から、台地の上にある茶畑に通じる竹林の道(階段)が続いており、その茶畑からの景色は格別です。お邪魔した時は、富士山は顔を出してくれませんでしたが、視界の開けた反射炉の立ち姿は是非とも見て頂きたい光景です(富士山が顔を出してくれれば、世界遺産の共演が見れる訳ですし!)。

また、この地点から、更に歩を進め、反射炉の方に戻る散策路を行くと、途中に、つるし雛・ひな人形・五月人形を展示している施設もありました。季節ものですので、常に空いている訳ではないと思いますが、気に留めておいて頂ければと思います。

尚、こちらの施設は、世界遺産らしく、広い駐車場やガイダンスセンター(反射炉をより知る事が出来る施設)、お土産ショップ、ちょっとした食事ができる所等もあり、それなりに時間を費やして、楽しみつつ韮山反射炉を知る事が出来ますので、皆様の興味度合いに応じて、自身でペースで大人散策されてはいかがかと存じます。

・蛭ケ島公園

韮山反射炉の次に、蛭ヶ島公園に向かいました。こちらも駐車場があり、車で5分程度のすぐそばでしたが、車で移動しました。こちらは、「頼朝が流罪の後、挙兵するまでの20年程度を過ごした場所と伝わるスポット」です。Wikipediaの「蛭ヶ小島」のページには、以下の様にあります。

蛭ヶ小島(ひるがこじま)は源頼朝の流刑地と伝わる史跡。蛭ケ島ともいう。所在地は静岡県伊豆の国市。  

歴史  

平治の乱で敗れた源頼朝は1160年(永暦元年)に伊豆に配流され、のちに挙兵するまでの20年近くをこの地で過ごしたとされている。その間には北条政子と結婚している。しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されるのみで、「蛭ヶ島」というのは後世の記述であり、真偽のほどは不明。発掘調査では弥生・古墳時代の遺構・遺物のみで、平安時代末期の遺構は確認されていない。『吾妻鏡』では頼朝の流刑地について「蛭島」とのみ記し、当地が比定地であるかは不明

史跡  

史跡は旧韮山町が「蛭ヶ島公園」として整備し、公園内には「蛭島碑記」の石碑のほか、富士山に向かって立つ頼朝と政子の像がある。洪水等で変遷した狩野川の中洲の説や、湿田のなかに島状にある微高地であると考えられる。また、中洲の中でも小さい島であったことより、蛭ヶ小島と呼ばれるようになったとも考えられている。  

「蛭ヶ島公園」として整備されている場所は、江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、これを記念する碑が田野の中に1790年に建てられた。この石碑は韮山代官の江川家の家臣が建立したものとされている。これが「蛭島碑記」で伊豆の国市指定有形文化財となっている 

https://ja.wikipedia.org/wiki/蛭ヶ小島

今の時代となっては、中々正確な場所を特定する事は難しいかもしれませんが、少なくともこの場所 or この付近で、頼朝は、14~34歳までの最も果敢な時の20年程を過ごし、その中で北条氏と関り、政子と一緒になり、挙兵していった場所である事は間違いなく、鎌倉幕府の基礎はここにあると思った次第です。頼朝と政子の像が富士山の方面を見ながら立っているのを見ると、そんな歴史に思いを馳せてしまうのは、私達夫婦だけではないと思います。

・江川邸

蛭ケ島公園を後にして、やはり近場ですが、車で「江川邸」に向かいました(5分かからなかったと思います)。100m程離れた場所に広い駐車場がありました。

こちら江川邸の江川氏は、この地の名手と認識しており、大和源氏の流れをくむ一族の認識です。先に記載した、韮山反射炉の建設を建議した江川英龍が有名ですが、鎌倉・室町期辺りからの続く家の様で、江戸期には、伊豆韮山代官として天領の統治を行ってきた家と認識しており、頼朝の挙兵を助けた家の1つとしても認識しています(その当時は、宇野氏を名乗り、江川氏を名乗ったのは室町期の様)。

言い方を変えれば、「頼朝(河内源氏)よりも早く天皇の血筋を引いた家(いわゆる貴種)が、この地にいたと言う事で、鎌倉幕府・北条氏が滅んでも、江川家は続き、江戸期を生き抜いた家」(現在は存じないのですが…)という理解をさせて頂いております。

訪問した際は、建物(母屋)は改修中で、外観は見られず内部の鑑賞のみでしたが、その場に立って、上記の事を踏まえると、この土地の歴史を感じずにはいられない場所だと思った次第です。

・北条寺

江川邸を後にし、北条寺に向かいましたが、途中若干道に迷ってしまいました。しかしそれは旅の醍醐味で、幸いと言うかその迷った際に、北条義時邸跡の碑/地震動の擦痕を見つけました。しかし、まずは北条寺を目指し、お寺の目の前の駐車場に車を停め、参拝させて頂きました。そもそも北条寺ですが、Wikipediaの力を借りますと、以下の様にあります。

北條寺(ほうじょうじ)は、静岡県伊豆の国市にある臨済宗建長寺派の寺院。  

歴史  

平安時代末期、北条義時の開基とされる。義時の嫡子「安千代丸」が大蛇に襲われて亡くなった際に息子の菩提を弔うべく自分の所領に寺を創建したのが寺の起源とされる。その後、義時が亡くなった際に、後継者の泰時によってこの寺に葬られている。  

このように鎌倉幕府の実力者北条氏所縁の寺ということから、多くの寺宝を所蔵している。静岡県の文化財に指定されている「木造阿弥陀如来坐像」「木造観音菩薩坐像」「牡丹鳥獣文繍帳」の他にも、古文書などを所蔵している (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/北條寺

NHKの大河ドラマの主役と言って良いと思いますが、「北条義時ゆかりのお寺」と言う理解のもと、訪問させて頂きました次第です。

立派な門から失礼し、鴟尾(しび)が目立つ本堂でご挨拶ののち、義時のお墓参りをさせて頂きました。お墓は一段高い小山の様な場所にあり、そこからの景色は中々で、鎌倉幕府の礎となったこの地を見渡すと、「頼朝とどんあ話をしていたのかなー」と勝手な妄想が膨らんでしまいました。

・北条義時邸跡/地震動の擦痕

北条寺を後にする前に、道すがら見つけた、「北条義時邸跡/地震動の擦痕」に徒歩で向かわせて頂きました。現在は公園として整備されたこの空間が、義時の館と伝わる場所の様で、頼朝がいた場所と伝わる「蛭ケ島公園」からは、川(狩野川)を挟んで、2-3㎞の様です。改めてご近所だと思いながら大人散策させて頂きました。

そして、その義時邸跡の碑の直ぐ近くにある「地震動の擦痕」にも目が行ってしまいました。Wikipediaを調べると、以下の様にありましす。

地震動の擦痕(じしんどうのさっこん)は、静岡県伊豆の国市南江間にある魚雷に付いた摩擦痕。国指定の天然記念物。  

解説  

1930年(昭和5年)3月10日、旧・田方郡江間村江間尋常小学校の校庭に忠魂碑が建立された際、海軍省より譲り受けた魚雷(長さ約5メートル)が忠魂碑の付属物として展示された。  

同年の11月26日に発生したマグニチュード7.3の北伊豆地震により、魚雷を載せていた台座の突起物により魚雷腹部に曲線状の傷がついた。魚雷自体は重量が大きかったため地震による動きは乏しかったが、台座のほうは軽く不安定であったため、地震による激しい揺れによって、台座から突き出ていた突起物が地震計の針の役割をした結果、天然の地震グラフ曲線ができた。傷の長さは全長725mmに及ぶ。4年後の1934年(昭和9年)1月22日、この傷のついた魚雷そのものが国の天然記念物に指定された (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/地震動の擦痕#脚注・出典

「自然にできた地震の痕跡で、国の天然記念物」と理解させて頂きました。珍しい天然記念物だと思うと同時に、「昭和の初めは、小学校に魚雷が展示さえていたんだ…」とちょっと時代の違いを感じる展示物でした。

【最後に】

以上が、「静岡県伊豆の国市の韮山反射炉を中心としたこの近辺の大人散策情報」の共有になります。所要時間は、想定通り、(少し駆け足感はありましたが)3時間位であったと思います。

鎌倉幕府の礎となった地で頼朝や義時をはじめとする北条氏の痕跡を感じられるエリアで、また、世界遺産・韮山反射炉をその周囲含め、楽しみつつ散策出来、その生みの親である大和源氏の血筋の江川氏の痕跡を巡る事が出来る地が、この韮山反射炉と周辺地域になるエリアだと思います。鎌倉期から日本の歴史に影響を与えてきたこの地域、皆様も大人散策してみてはいかがでしょうか?

(別記事にて、伊豆高原駅周辺の大人散策情報伊豆高原のおすすめ温泉宿・きらの里伊東のおすすめレストラン・海女屋網代のおすすめレストラン・味くらべ網代のおすすめ温泉宿・竹林庵熱海/来宮駅周辺の大人散策情報韮山の大人観光スポット下田のおすすめレストラン・魚料理なかがわ/活魚料理新田下田(一部河津含む)の大人散策情報下田のおすすめ温泉宿・黒船ホテル等、伊豆半島エリアの観光/レストラン/お宿情報等も記載しておりますので、併せてご参照頂き、皆様の伊豆半島の旅行に少しでもお役立ちできれば幸いと思っております)

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