月山富田城

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【はじめに】

こちらのページでは、山陰の首城とも言われた尼子氏の居城で、日本五大山城&日本五大山岳城でもある『月山富田城』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「月山富田城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

個人的な理解の域は出ませんが、この地方の歴史を語る上で、絶対に外せない毛利氏・大内氏・尼子氏。その三氏が登場する有名スポットとして挙げられるお城が、この日本五大山城 & 日本五大山岳城である「月山富田城」と認識しています。よく名前を聞くお城でですが、近くの現存12天守で、国宝5城でもある「松江城」と同じくまだお伺いできていない城郭で、お城好き・庭園好き・神社仏閣好きの私達夫婦にとっては「松江城・出雲大社・足立庭園美術館とともに絶対に足を運びたい城郭・月山富田城」といった位置づけで理解している次第です。

こちらのページでは、個人的にそんな思いれのあるものの、まだお邪魔したことがない「山陰の首城とも言われた尼子氏の居城で、日本五大山城 & 日本五大山岳城でもある『月山富田城』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂きます

【月山富田城の概要】

まずは、月山富田城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です… まとめも結構長いので…)。

月山富田城(がっさんとだじょう)は、島根県安来市広瀬町富田にあった日本の城。月山(標高183.9m)に営まれる。出雲源氏・富田氏の世居した城で、京極氏に支配権を奪われてからは、その守護代・尼子氏が在城した。のち尼子氏は主家・京極氏を追放して戦国大名となりこの城を本拠とした。城郭跡は国の史跡に指定されている。

概要
出雲源氏・富田氏の世居した城で、出雲国守護代の居城が塩冶より富田に移ってからは、守護代が在城した。1396年から1566年(戦国時代)には大名尼子氏の本拠地となり以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となる。尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い、尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げた。その孫・尼子晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となり、天然の地形を利用した難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれた。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われたが最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となった (略)
1600年(慶長5年)以降、堀尾氏が城主となるが、1611年(慶長16年)に堀尾忠晴が松江城へ移ると月山富田城も廃城となった。それまでは、山陰の首城たる地位を失わなかった。1934年(昭和9年)、国の史跡に指定された。日本五大山城の一つとされることもある (略)

平安時代
・保元・平治頃、「平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して、築城した」との伝承あり。
鎌倉時代
・1221年(承久3年)の承久の乱の功により、佐々木義清が出雲・隠岐2国の守護となり、彼国に下向し、承久の乱宮方の歿官領である月山富田城に入る
南北朝時代
・1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年) 出雲源氏の惣領・塩冶高貞が幕府の追討を受け討死。山名時氏が高貞追討の功として出雲の守護となり、富田秀貞を守護代とする。この時、守護代の在所が塩冶の大廻城から月山富田城となる。
・1343年(南朝:興国4年、北朝:康永2年) 佐々木高氏(京極氏、道誉)が守護となり、吉田厳覚を守護代として近江国より派遣する。吉田厳覚、山名時氏と戦って破れ、当城は山名氏領となる。
・1364年(南朝:正平19年、北朝:貞治3年) 山名時氏、出雲国守護となる。代々歴任
・1391年(南朝:元中8年、北朝:明徳2年) 山名満幸、明徳の乱で敗れ、再び京極氏が守護となる。
室町時代
・1392年(明徳3年) 京極高詮は、甥の尼子持久を守護代とする。代々歴任。
・1484年(文明16年) 守護代尼子経久所領横領により追放され、塩冶掃部介が守護代となる。
・1486年(文明18年) 尼子経久、不意をついて当城を奪回。(その後、尼子経久は月山富田城を拠点に勢力を拡大し、出雲の実質的守護権力となる。城域を拡大・整備する)  (略)
・1565年(永禄8年) 毛利氏の包囲を受け、籠城。
・1566年(永禄9年) 兵糧が尽き、開城。(尼子)義久捕らえられ、安芸国へ送致される。城代として毛利家臣、福原貞俊、口羽通良が居城 (略)
■ 江戸時代
・1611年(慶長16年) 堀尾忠晴が松江城に移り廃城となる。
■ 近現代 (略)
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(65番)に選定された  (略)

構造
富田城は靴のような形の月山(吐月峰、標高191.5m)山上に本丸をおく典型的な山城である。
南東以外の三方は急峻な斜面であり、北側を正面とし、山麓部から山頂部へ郭を連ねる。進入路は、北麓の菅谷口(すがたにぐち)からの大手道(おおてみち)、富田橋を渡った正面の御子守口(おこもりぐち)からの搦手道(からめてみち)、南麓の塩谷口(しおだにぐち)からの裏手道(うらてみち)の3か所がある。これらの全ての登り口には城門を構え、門の外には深い堀がめぐらされ、そこから飯梨川(現在の西2~400mを流れていた)までが城の外郭となっていた。すべての進入路は山腹の山中御殿に通じ、急峻な一本道「七曲り」で、詰の城である山頂部と結ぶ
現存する古絵図では石垣や瓦葺きの櫓などが描かれているが、これらの古絵図が描かれたのは江戸時代である(後述の城安寺が所蔵している堀江友声作の「月山古城絵図」など)、発掘されている石垣が作られたのは関ヶ原の戦い後の堀尾氏による改築と推定される。尼子氏・毛利氏が城主であった時代の姿は、定かではないが、尼子氏の館(平素の住居)は里屋敷とよばれ菅谷口にありまわりに侍屋敷を設けたとされる (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/月山富田城

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 月山富田城は、国の史跡に指定された、日本五大山城 & 日本五大山岳城の一つである山城
  • 尼子氏の居城として有名で、山陰の首城とも言われたお城であるが、平安期に「平景清が富田荘に来た際、八幡社を移して築城した」と伝わる歴史の長いお城で、その後各時代の守護大名の居城となるも、城主は、佐々木氏(≒ 京極氏)、富田氏、山名氏、京極氏と変遷した
  • その後、不意を突いて月山富田城を奪取した尼子氏が戦国大名として城主になり、80年程収めた期間に城郭を拡大・整備し、天然の地形を利用した難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれたが、毛利氏に包囲され落城し、毛利氏の支配下に置かれた(40年くらい?)
  • 関ヶ原を経て、江戸期初めに堀尾氏が入り、出雲富田藩が成立するも、拠点を松江城に移したため、月山富田城は廃城となり、松江城を政庁とした松江藩が成立した
  • 南東以外の三方は急峻な斜面で、北側を正面としており、進入路は、北麓の菅谷口からの大手道富田橋を渡った正面の御子守口からの搦手道南麓の塩谷口からの裏手道3か所で、すべての進入路は山腹の山中御殿に通じ、急峻な一本道「七曲り」で、詰の城である主郭へと結んでいたらしい
  • 発掘されている石垣が作られたのは関ヶ原の戦い後の堀尾氏による改築と推定され、尼子氏・毛利氏が城主であった時代の姿は、定かではないと言われるらしい

こうして月山富田城の歴史を拝見させていただくと「戦国大名・尼子氏の居城」のイメージの強いお城ですが、平安期から続く長い歴史を持つお城の様で、その歴史の中で、富田氏、山名氏、京極氏、堀尾氏といった有名どころが抑えた「正に『山陰の首城』」といった印象を持った次第です。また、毛利氏により攻め落とされましたが、その前の大内氏の攻撃はしのぎ、毛利氏も力攻めはせず、調略を重視した事を考えると『物理的には「月山富田城」=「難攻不落のお城」』と理解してよいと思った次第でもあります。そんな月山富田城ですが、現在みられる遺構は、それぞれの城主によって手が入り、時代ともに整備・拡張・改良が加えられてきたお城と思われ、誰がどんな手を入れたのか分からないと思いますが、その長い歴史に思いを馳せつつ、是非とも大人散策を遂行したいと思った次第です。

【月山富田城の周囲も含めた見所】

上記、月山富田城の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。今後の月山富田城における大人散策のプランニングの内容になりますので、以下皆様の参考にもなれば幸いです。また登城ルートは、「北側:菅谷口・大手道」、「西側:御子守口・搦手道」、「南側:塩谷口・裏手道」の「3つのルート」あるという事ですが、安来市観光ガイドのHP(https://yasugi-kankou.com/spot/gassantodajouato/)にあるMapを拝見するに、現在では「第4の新規ルート」もある様で、このルートが最も効率的に遺構を拝見させて頂く事が出来そうですので、「菅谷口・大手道」、「御子守口・搦手道」、「塩谷口・裏手道」も意識しつつ、参らせて頂こうと考えております。

・小安来市立歴史資料館花ノ壇跡

スタート地点は「安来市立歴史資料館」を想定します。最寄り駅(荒島駅?・安来駅?)からも、10㎞前後ある様で、少し距離もありますし、足立庭園美術館にも参らせて頂く事を考えると、車でのアクセスが適切と思われ、駐車場もある様で、現代の第4の新規ルートの入口も近く、登城前に城郭情報を抑える事が出来そうな「安来市立歴史資料館」が最適と思った次第です。

「安来市立歴史資料館」より、第4の現代の登城ルートを進んで、「千畳平跡」・「太鼓壇跡」・「奥書院跡」・「花ノ壇跡」と、城郭の遺構をしっかりと拝見させて頂きつつ、進んで行きたいと思っております。

・花ノ壇跡~山中御殿跡

花ノ壇跡」まで来たら、「通路跡」を抜け「山中御殿跡」の周囲にあるらしい「多聞櫓跡」・「虎門跡・櫓台跡」・「井戸跡」・「大手門跡」・「大土塁跡」・「塩谷口搦手門・狭間塀跡」といった遺構を拝見させて頂きつつ進んで行きたいと思います。尚この「山中御殿跡」は、上記記載の「3つのルート(「菅谷口・大手道」、「御子守口・搦手道」、「塩谷口・裏手道」)が集まる曲輪」と理解しますので(ここを通らないと三ノ丸・二ノ丸・本丸といった主郭に行く事が出来ない)、それぞれの遺構の配置や意味といった築城者(改修者?)の思いにも感じつつ、歩を進めていきたいと思っています。

山中御殿跡~本丸

山中御殿跡」で各種遺構を拝見した後は、「七曲がりの坂跡」を登り、途中「山吹井戸跡」・「二ノ丸井戸跡」・「堀切跡」といった遺構を拝見しつつ、「三ノ丸跡」・「二ノ丸跡」を抜け「本丸」を目指します。「山中御殿跡」で、3つのルート(「菅谷口・大手道」、「御子守口・搦手道」、「塩谷口・裏手道」)が集まった後、主郭に向かう道は1本になる認識で、その道が「七曲がりの坂跡」と理解しております。見るからに急な道ですが、こういった坂を登るのも、山城巡りの醍醐味。景色を堪能しつつ、そして井戸等の遺構を拝見しつつ、「三ノ丸跡」・「二ノ丸跡」・「本丸」といった主郭をめぐっていきたいと思っております。そして「本丸」まで来たら、登城の達成感を味わい、景色を堪能し、来た道を戻り、大人散策を完遂したいと思っております。

・その他(足立庭園美術館松江城・出雲大社)

上記、月山富田城の大人散策に付き記載いたしましたが、麓には「尼子氏居館跡(里御殿)」もある様です。居館跡という事なので、通常時はこの場所にいて、戦時には主郭に移動する事を想定していたと推察できますので『「尼子氏居館跡(里御殿)=通常の政庁」・「主郭部分=詰城」』といった理解ができる認識ですので、併せて見学させて頂くべきと思った次第です。

また、私達夫婦の居住地は「埼玉の川越」ですので、鳥取はそれなりの距離があるエリアです。であれば、通り道にもなりそうでが、庭園好きの私達夫婦が、外していけないのは「足立庭園美術館」。そして、現存12天守 & 国宝5城である「松江城」は勿論、日本神話にも登場する「出雲大社」と合わせて訪問させて頂きたいと思った次第です。

【最後に】

以上が、山陰の首城とも言われた尼子氏の居城で、日本五大山城&日本五大山岳城でもある『月山富田城』の大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂いた内容になります

月山富田城の大人散策は、「月山富田城跡・等高線図」(安来市観光ガイドのHP(https://yasugi-kankou.com/spot/gassantodajouato/))を拝見する限り、恐らく往復で、2時間前後は見ておいた方が良いと思うので、前後の移動まで考えると足立庭園美術館」・「松江城」・「出雲大社」を、1日で全て回る事は、少々難しいと思われます。故に、「1日目:月山富田城 & 足立庭園美術館」、「2日目:松江城 & 出雲大社」のプランニングが適切ではないかと思った次第です(1日目と2日目の内容反対でもよいと思いますが…)。まだ、お邪魔できていない「日本五大山城 & 日本五大山岳城・月山富田城」。いつの日か、「足立庭園美術館」・「松江城」・「出雲大社」と合わせて訪問し、大人散策を実行できた暁には、本ブログで、改めて報告申し上げようと思います!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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