Wikipediaより:方広寺, 明治期撮影 規模を縮小して再建された3代目大仏殿(1973年焼失)と梵鐘。 

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【はじめに】

こちらのページでは、江戸期に『日本三大仏』の1つと言われる『京の大仏』があり、現在『大阪の陣』の契機になった事で有名で、『日本三大梵鐘』に1つとされる『”国家安康” の梵鐘』が見られる『方広寺』の概要と歴史を抑えた上で考察をさせて頂こうと思います。

いきなりですが、皆様が思い浮かべる「日本三(大)〇〇」って何ございますでしょうか? 本ブログでは、様々な「日本三(大)〇〇」を取り上げさせて頂きました。城郭系では「三大山城」・「三大平山城」・「三大水城(海城)」等、神社仏閣に関連する切り口では、「三大東照宮」・「三大八幡」・「三大怨霊」等、更には「日本三大奇襲」・「日本三大河川」・「日本三大急流」・「日本三名園」・「日本三名城」・「三大曳山祭 / 山車祭 / 美祭」と言った内容でも記載させて頂きました。これらを調べ感じた個人的感想は、『「日本三(大)〇〇」の定義って “結構あいまい” で、誰が言い始めたかも不明なケースが多いものの、それなりに納得できるチョイスをしている!』と言ったもので、『であれば、個人的に、そして勝手に「日本三(大)〇〇」として、 “うまいチョイス” が出来れば、独自の「日本三(大)〇〇」を言ったもん勝ちのスタンスで、提唱できるのではないか?』とも思ってしまった次第です…。

そん中、今回取り上げさせて頂くのは「方広寺江戸期に『日本三大仏』の1つと言われる『京の大仏』があり、『大坂の陣』の契機になった、『日本三大梵』の1つと言われる『”国家安康” の梵鐘』を現在も拝見できる寺院が『方広寺』と認識して折る次第です。でも何故、この「方広寺」を今回取り上げさせて頂こうかと思ったかと言うと、「そもそも、方広寺ってどんな寺院?」、「”方広寺鐘銘事件” で有名だけど、”その梵鐘その物” は、すごい梵鐘なの?」、「”日本三大仏” の “京の大仏” ってどんな歴史を辿ったの?」と言った様々な疑問が沸いて来てしまった為です…。

こちらのページでは、上記の疑問を解決すべく、「方広寺」に付き記載させて頂きます。すなわち、江戸期に『日本三大仏』の1つと言われる『京の大仏』があり、現在『大阪の陣』の契機になった事で有名で、『日本三大梵鐘』に1つとされる『”国家安康” の梵鐘』が見られる『方広寺』の概要と歴史を抑えた上で考察をさせて頂こうと思います。

【「方広寺」とは?】

まずは「方広寺」の概要から抑えさせて頂たいと思いますが、「方広寺」を理解するには「法住寺」・「妙法院」・「豊国神社(別格官幣社)」・「豊国廟」等も併せて情報を抑える必要がある認識ですので、以下それぞれ、Wikipedia にて情報集させて頂きます(引用がいくつかあり、それぞれボリュームあるので、引用後にまとめを記載して折ります故、引用読まなくても大丈夫です)。

方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。通称は「大仏」・「大仏殿」・「大仏殿方広寺」。方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)の引き金となった「国家安康」の梵鐘を有することで知られる (略)

概要
豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として文禄4年(1595年)に創建された。豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、それらは文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。そのため江戸時代には、3代目大仏が寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、日本三大仏の一つに数えられた (略)
4代目大仏は、1973年(昭和48年)まで存続していたが、失火により焼失し、方広寺から大仏は姿を消した (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/方広寺

法住寺(ほうじゅうじ)は、京都市東山区三十三間堂廻り町にある天台宗の寺院。本尊は不動明王。後白河法皇ゆかりの寺である。

概要
12世紀半ばに後白河法皇によって建立された寺院ないし宮殿の名を引き継いだ寺院である。もとは鴨川から東山にかけての七条通り沿いに14ヘクタール以上の広大な敷地を有していた (略)
後白河法皇も崩御すると、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治時代に御陵と寺が分離され現在にいたる (略)

院政期・法住寺殿
平安時代後期中葉になり信西(藤原通憲)によって法住寺堂や邸宅が造営された。
保元3年(1158年)に後白河天皇は譲位して上皇となり、法住寺を院の御所に定めたという (略)
後白河上皇は嘉応元年(1169年)に園城寺の長吏覚忠を呼んで出家して法皇となり、後に鴨川の東・綾小路の地に比叡山にあった妙法院を移転させて法住寺と新日吉社を付け、妙法院を門跡寺院(綾小路門跡)とした (略) 

鎌倉期から江戸末期まで
その後、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として長く存続した (略) 時の権力の変遷に伴って法住寺はいくつかの近隣寺院と関係を持った。とくに妙法院との関係は依然として密接であった。
豊臣秀吉の時代には、すぐ北にあった方広寺(京の大仏)が法住寺や蓮華王院の寺域を包摂するということもあったが、江戸幕府によって妙法院が重要視されるようになると、妙法院と一体視され、法住寺は妙法院門跡の「院家」として待遇された (略) 現在は法住寺と分離されている隣接の後白河天皇陵内に「法住寺」と書かれた江戸時代の手水鉢が残されており、後白河天皇の陵を継続してまもってきたことが知られる (略)
明治に入ると、後白河天皇陵と妙法院門跡法親王の墓所が寺域から分離され、宮内省の管轄におかれた (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/法住寺_(京都市)

妙法院(みょうほういん)は、京都市東山区妙法院前側町にある天台宗の寺院。山号は南叡山。本尊は普賢菩薩。開山は最澄と伝わる。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺(京の大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も妙法院所管の仏堂となっている (略) 

豊臣秀吉が造営していた方広寺大仏(京の大仏)・大仏殿が完成したのは文禄4年(1595年)のことであった (略)
近世の妙法院は、方広寺(京の大仏)、蓮華王院(三十三間堂)、新日吉社を兼帯する大寺院であった。妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和元年(1615年)からである。これは大坂の陣で豊臣氏が江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/妙法院

豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区にある神社。旧社格は別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。現在の敷地の大部分は、かつて京の大仏を安置する方広寺の寺領であったが、明治新政府により収公され、最終的に豊国神社境内となった (略)

歴史
慶長3年8月18日(1598年9月18日)に亡くなった豊臣秀吉の遺体は火葬されることなく伏見城内に安置されていたが、死去の翌年の慶長4年(1599年)4月13日、遺命により京の大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され (略) その麓に高野山の木食応其によって廟所が建立されたのに始まる (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/豊国神社_(京都市)

豊国廟(正式名称:とよくにびょう、通称:ほうこくびょう)は、京都市東山区今熊野北日吉町にある豊国神社の飛地境内(境外地)で、豊臣秀吉の廟所。阿弥陀ヶ峰の山頂、麓から563段の石段を登ったところに石造五輪塔が建てられている (略) 

歴史
豊臣秀吉の死後間も無く作られた豊国廟は、現在の京都市東山区阿弥陀ヶ峰西麓の太閤坦(たいこうだいら)といわれる平坦地にあった。かつて、同地には豊国廟の他にも秀吉を祀る壮麗な豊国社も建立されていたが、豊国廟と豊国社は、大坂の陣で羽柴宗家(豊臣家)が滅亡すると、徳川家康によって破却されることとなった。秀吉の正室だった高台院(北政所)のたっての願いで社殿の破却は免れたが、以後一切修理をすることは禁止され、江戸時代を通じて朽ち果てるまま放置され続けた。

明治維新時の慶応4年(1868年)閏4月6日、明治天皇が大阪に行幸した際、大阪裁判所(大阪府の前身)に対して豊太閤(秀吉)の祠宇を造営する沙汰書を、同年5月10日に廟祠を再興する沙汰書が下された (略) 1873年(明治6年)8月14日の宣旨で山城国愛宕郡(現・京都府京都市東山区)の阿弥陀峯を以って豊国神社の鎮座地と定め、別格官幣社に列格して官祭を命じた。1875年(明治8年)4月、京都府に対して社殿の造営を命じ、1880年(明治13年)5月、方広寺大仏殿跡地に社殿が完成し、同年9月15日に阿弥陀峯から遷座が行われた (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/豊国廟

引用多岐にわたりましたが、「方広寺」に付き、まとめて理解すると、(かなりサマライズしましたが)以下の様になった次第です。

「方広寺」は、「豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏:京の大仏=かつては「日本三大仏の1つ」)を安置するための寺として 1595年に創建された寺院」で、1598年に秀吉が他界した後、方広寺の東方にある「阿弥陀ヶ峰」山頂に埋葬され、「豊国廟(秀吉のお墓)」が建立されたのに始まる「豊国神社」も置かれたらしい。
ただその敷地は、元々、平安期に「後白河天皇」が譲位して上皇となり、「院の御所に定めた」という「法住寺の敷地だったと考えられている様で、その「法住寺」は、1192年に後白河上皇が崩御し、法住寺殿の法華堂に葬られ、「後白河法皇の御陵をまもる寺」として、長く存続した歴史を持つらしい(=後白河法皇ゆかりの寺院)
一方で、江戸期には、「方広寺鐘銘事件」に端を発する「大坂の陣」で豊臣氏滅ぼされたことを受けて、江戸幕府により「妙法院」門主が「方広寺」住職を兼務するようになり(=「法住寺」は「妙法院」門跡の「院家」として待遇)、「江戸時代の妙法院」は、「方広寺」、「蓮華王院(=三十三間堂:元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂)」等を兼帯する大寺院となったようで、同時に「豊国神社」は、豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となった。

しかし明治維新時に、「明治天皇の勅命」により、「豊国神社」は再興され「別格官幣社」に列格されたらしく(現在は神社本庁の別表神社で、その敷地の大部分は「方広寺の寺領」であったが、明治新政府により収公され、最終的に「豊国神社境内」となった経緯らしい)、同時に、「後白河天皇陵」と「妙法院門跡法親王の墓所」が寺域から分離され、宮内省の管轄におかれたらしい。
また、大坂の陣」の発端になった「方広寺鐘銘事件」の物的証拠である『」の梵鐘は、日本三大梵」の1つとして、現在でも「方広寺」で見る事が出来る

上記、かなり大雑把ですが、まとめさせて頂きました。そして、感じてしまった事があります。それは、『元々「方広寺のあった場所」は、「後白河上皇の院政の拠点」として設置された「『法住寺』の敷地」で、その歴史においては、秀吉家康・明治天皇の政治的思惑が絡みあった事で、「日本と言う国の舵取りにおける主導権」も、「後白河上皇(院政@法住寺)」 ⇒ 「秀吉(「日本三大仏」の1つ:「京の大仏」の設置@方広寺)」 ⇒ 「家康(『「」の梵鐘』に端を発した「方広寺鐘銘事件」で、大坂の陣を経て妙正寺の管理下)」 ⇒ 「明治天皇(「豊国神社」の再興と「別格官幣社」への列格(法住寺がまもってきた「後白河法皇の御陵も宮内省管理下へ」))」と移り、正に「日本史における転換期の痕跡が詰まったエリア」になった』と認識したという事です。言い換えると、「”” の梵鐘」に端を発した「方広寺鐘銘事件」・『日本三大仏」の1つに数えられた「京の大仏」』で有名な『方広寺』を理解するには、「法住寺」・「妙正寺」・「豊国神社(豊国廟)」も併せて認識する必要があると言う理解になった次第です。

Wikipediaより:法住寺・豊国神社/阿弥陀ヶ峰山頂の豊国廟・妙法院

【方広寺と言えば、三大梵鐘の1つ「『国』の梵鐘」】

上記「方広寺」の概要を、複雑な「歴史」・「登場人物」・「神社仏閣間のつながり」と共に抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、「方広寺鐘銘事件」でも有名な、「三大梵鐘の1つ『』の梵鐘」に付き』抑えさせて頂きます(「三大梵鐘(知恩院東大寺方広寺)」についての詳細は、別記事をご参照ください)。

まずは、Wikipedia の「梵鐘」の項目を調べてみますと、日本各地の多くの梵鐘が記載されておりますが、「三大梵鐘(知恩院東大寺方広寺)」を抜粋しますと、以下の様にあります。

(略) 日本の著名な梵鐘
・奈良時代の梵鐘 (略)
 >奈良・東大寺鐘(国宝) (略)

・その他の著名な梵鐘 (略)
 >京都・方広寺鐘重さは 82.7 t で日本一の重さと言われる。銘文中の「国家安康」の句が徳川家康の豊臣への怒りを買ったとされる
 >京都・知恩院鐘日本一の大きさと言われる (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/梵鐘

上記、Wikipedia から引用した「梵鐘」の項目には、「知恩院京都」、「方広寺@京都」、「東大寺@奈良」の「三大梵鐘」に加え、興福寺」・「薬師寺」・「法隆寺」・「建長寺」・「浅草寺」と言った「有名寺院の梵鐘」も列挙されています。つまり、知恩院京都」、「方広寺@京都」、「東大寺@奈良」が「三大梵鐘」ですが、「日本各地に、それなりの数の貴重な梵鐘がある」とも思った次第です…。同時に、その中でも、知恩院京都」、「方広寺@京都」、「東大寺@奈良」は、『「三大梵鐘」に挙げられるだけの梵鐘』とも思った次第で、特に「方広寺の梵鐘」は、「大坂の陣」の発端になった「方広寺鐘銘事件」の物的証拠である『康」の梵鐘』として、最も有名」で、梵鐘その物も『「日本一の重さ」を誇る立派な梵鐘』といった理解になった次第です。

また、大坂の陣」の発端になった、「方広寺鐘銘事件」に関しても、一歩踏み込むべく、以下に引用いたします(引用後にサマライズして折りますので、読まなくても大丈夫です)。

方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)は、豊臣秀頼による方広寺大仏(京の大仏)・大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた、大坂の陣の契機の一つとなった事件である。徳川家康が鐘の銘に難癖をつけ、秀頼を開戦に追い込んだ (略)

方広寺鐘銘事件の発生
家康は五山の僧や林羅山に、豊臣方の選定した梵鐘の銘文を解読させた特に問題になったのは、鐘銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の2句で、前者には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないかとし、後者には豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないかとされた (略)

大坂の陣の開戦まで
慶長19年(1614年)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のため、片桐且元を駿府へ派遣した。且元は大坂城の外交・財政を取り仕切る宿老であるとともに、慶長18年(1613年)に秀頼から一万石を加増された際に徳川家を憚りこれを辞退したが、家康の命により拝領するなど、江戸幕府からも知行を受ける存在であった (略)
家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、以心崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという (略)
且元は大坂へ戻り、3案の一つを採用するように進言した (略)
・淀殿を人質として江戸に置く
・秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する

この案は豊臣方にとって受け入れられるものではなく、且元は大野治房・渡辺糺・織田頼長・青木一重ら他の重臣からも家康との内通を疑われるようになった。9月23日、織田信雄から暗殺計画の存在を知らされた且元は、屋敷に籠もり防備を固めた秀頼は両者の調停を行うとともに且元に武装解除を命じたが、織田長益など近隣の屋敷での武装が開始されていたため、且元は応じなかった
秀頼や木村重成からの調停があり、9月27日に秀頼は且元に寺に入って隠居するよう命じて執政の任を解き、28日に高野山に入るとして大坂城を出ることを決め、10月1日に且元は蔵の米や金などの勘定の引き継ぎを済ませ、300程の雑兵を率き連れ、貞隆と共に大坂城を退去した (略)
秀頼による且元殺害の企ての報を10月1日に受けた家康は、同日諸大名に出兵を命じた豊臣方は且元退去は家康に敵対する意図ではないと弁明した書状を家康や諸大名に送ったが、家康はこれを長益や治長の策謀であるとして受け入れなかったこうして大坂の陣の開戦の運びとなった (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/方広寺鐘銘事件

つまり、『「方広寺鐘銘事件」は、家康が、梵鐘の銘文のうち「国家安康」・「君臣豊楽」の2句の「揚げ足」を取って、中途半端な立ち位置の「片桐且元」を利用しつつ、「秀頼との戦」=「大坂の陣の開戦の契機に持って行った事件』と言う理解をした次第です。言い換えると、勿論方広寺鐘銘事件」だけが理由ではないと思いますが、ここに付け込んだ「家康の “らしさ”」が生きた事件とも思えた次第です…。そして、そんな事件の中心にあった「方広寺の梵鐘」=『康」の梵鐘は、「正に歴史の生き証人的な梵鐘」であるとも思えた次第で、是非ともこの目で拝見し、その時の家康」・「秀頼」・「且元の心持を想像してみたいと思ってしまいました…。

【方広寺と言えば、長く「日本三大仏」とされてきた「京の大仏」】

上記、大坂の陣」の発端になった「方広寺鐘銘事件」の物的証拠である『康」の梵鐘に付き記載いたしましたが、「方広寺」と言って忘れていけない、江戸期に「日本三大仏」とされれ、残念ながら、現在は存在しない「京の大仏」についても抑えさせて頂きます(日本三大仏(奈良大仏@東大寺鎌倉大仏@高徳院・京大仏@方広寺)」に関しては、別記事をご参照ください)。

まずは、Wikipedia にて「京の大仏」を、概要・歴史の視点で調べてみますと以下の様にあります(引用後にサマライズして折りますので、読まなくても大丈夫です)。

(略) 豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、それらは文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。そのため江戸時代には、3代目大仏が寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、日本三大仏の一つに数えられた (略)
4代目大仏は、1973年(昭和48年)まで存続していたが、失火により焼失し、方広寺から大仏は姿を消した (略)

■かつて存在した大仏についての概略
・種類:毘盧遮那仏(びるしゃな-ぶつ)
・形式:木製漆塗金張坐像(初代)、銅製金張坐像(2代目)、木製金張坐像(3代目)、木製胸像(4代目)
・高さ:6丈3尺 約19m(初代~3代目)、4丈7尺 約14m(4代目) (略)
像の存続期間:誤差を考慮しても、少なくとも、延べ300年以上は存在していた。創建以来、昭和後期の焼失までの間で、存在しなかったのは、50年より若干長い程度の期間でしかない(ただし、天保年間に造立の4代目大仏は上半身のみの大仏で高さが低い)。
・初代:1595年 – 1596年(約1年間):慶長伏見地震で損壊
・( – ):完成前に鋳造工事中の事故で焼失 膝部分まで鋳造が完了していた
・2代目:1612年 – 1662年(約50年間):寛文近江・若狭地震で損壊?[注釈 1]
・3代目:1667年 – 1798年(約131年間):落雷で焼失
・4代目:1843年 – 1973年(約130年間) :失火で焼失  (略)

■秀吉による大仏造立の発願
(略) 小田原征伐を挟んで天正19年(1591年)5月から大仏殿の立柱工事が開始され、文禄2年(1593年)9月に上棟、文禄4年(1595年)に完成をみた。秀吉によって造立された初代大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという (略)
初代大仏殿は南北45間(約88m)、東西27間(約55m)の規模であろうと考えられている。これは大仏殿跡の発掘調査の結果、後述の秀頼再建の2代目大仏殿は創建時の礎石をそのまま使用しているとみられ柱位置は同じと思われる (略) なお秀吉は大仏殿造立にあたり、諸大名に大仏殿の建材に適した材木(巨木材)を提供するよう命じた徳川家康は富士山麓の巨木を黄金千両もはたいて方広寺へ運搬したとされ、島津義弘は屋久島の屋久杉を伐採して、秀吉に提供したという 。現在屋久島にはウィルソン株という、巨大な杉の切り株が残されているが、これは大仏殿造立のため伐採された屋久杉の切り株であるという (略)

■慶長伏見地震による初代大仏の損壊
文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により、開眼前の初代大仏は損壊した (略) 震源に近い伏見では被害状況から震度7と考えられるが、京都では震度5強程度ではなかったかとしている。醍醐寺座主の義演が著した『義演准后日記』によると、胸が崩れ、左手が落ち (略) 全身に所々ひび割れが入ったという。ただし大仏の光背は無傷で残ったという (略)
秀吉は大仏が損壊したことに大変憤り、一説には大仏の眉間に矢を放ったとされる (略) なお損壊した大仏とは対照的に、初代大仏殿は地震による損壊を免れた (略) 
初代大仏は損壊したとは言え全壊ではなかったので、その後しばらくそのまま残されていた (略) 最終的に秀吉の命令で、初代大仏は解体されることが決まった (略) 秀吉が大仏の解体を命じたのは事実だが、「自身の身すら守れない大仏が人びとを救えるはずもない」の部分は、実際に秀吉がそのような発言をしたかは不明である (略) ただ秀吉が損壊した大仏を目前に、大仏を取り壊すよう命じた事実は、当時かなりの衝撃をもって一般大衆に受け取られたようで (略) 「秀吉が怒りのあまり大仏の眉間に矢を放った」とする真偽不明の逸話のように、さまざまな風説が流布していたようである (略)
秀吉は、夢のお告げと称して、損壊した大仏に代わり、新たに由緒ある信濃善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)を移座して本尊に迎え、落慶法要を行うことを計画する。善光寺如来は武田信玄が上杉氏による戦災からの保護を口実として、寺ごと甲斐国に移転させていたので、当時善光寺如来は甲斐善光寺に安置されていた(一時期武田氏を滅ぼした織田氏によって善光寺如来は外部へ持ち出されるが、本能寺の変で織田氏が衰亡すると、如来を譲り受けた徳川家康によって甲斐へ返還された) (略) 慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された。善光寺如来は、大仏を取り壊した台座の上に宝塔(厨子のようなものか?)が造られ、そこに安置されたという。先述の同年5月23日の秀吉による初代大仏の解体の命令は、善光寺如来を安置するため、初代大仏を取り除け、その台座上に空いた空間を作ることが目的であったと考えられている (略) これ以後大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった (略)
秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥した。これは善光寺如来の祟りではないかという風説が京都民衆の間で広まったことで、同年8月17日、善光寺如来は信濃国の善光寺へ戻されることになった。しかし秀吉は8月18日に死去した (略)
秀吉が善光寺如来を無理矢理方広寺に移座させたことについて、宗教を軽視した彼の傲慢とされることもあるが、秀吉が甲斐国(山梨県)から善光寺如来を持ち出さなければ、今日まで如来は甲斐国(山梨県)に留め置かれていた可能性もあったので、如来が信濃国(長野県)に返還されたのは、(本来の思惑は別として)結果的には秀吉の功績とも言える (略)

■2代目大仏の再建と豊臣家滅亡の原因になった方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)
秀吉没後の豊臣政権では、今度は耐震性のある銅製で大仏を再建することが企図され (略) 大仏の鋳造工事が行われていたが、慶長7年12月4日(新暦では1603年1月15日)に、鋳物師(いもじ)の過失により大仏の膝部分の鋳造を行っている際に出火し、大仏殿に引火して大火となる。これにより先に損壊した初代大仏のみならず初代大仏殿も滅失し、大仏・大仏殿の造立は振り出しに戻った (略)
慶長12年(1607年)には、豊臣秀頼により、豊臣家家臣の片桐且元を奉行として、再び銅製大仏および大仏殿の再建が企図されるようになった (略)
慶長17年(1612年)中に2代目大仏殿はほぼ完成し、工事着工から2年足らずという異例の速さで大仏殿の再建が完了した (略) 
慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、片桐且元は、南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ、梵鐘に銘文を入れた (略) 鐘銘文については、長々と文を書き連ねてあること、さらに自身の諱(家康)を銘文に書き入れたことを家康は問題視し (略) こうして方広寺鐘銘事件発生の運びとなり、大坂の陣へと繋がっていく (略)

■大坂の陣の後から3代目大仏の焼失まで
大坂の陣の後も方広寺は残されたが、方広寺境内に組み込まれていた三十三間堂共々、妙法院の管理下に置かれた。妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和元年(1615年)からで、これは大坂の陣で豊臣氏が江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰である (略) なお「国家安康」の鐘について、江戸時代においては懲罰的措置として、鐘楼を撤去の上、地面に置かれ鳴らないようにされていたとの俗説があるが、それは誤りである。方広寺大仏殿は四方を回廊に囲まれていたが、鐘楼は南側の回廊外(現在の京都国立博物館 の噴水の近辺)にあった (略) 「国家安康」の鐘が地面に置かれていたのは、明治時代の前半期のみで、これは明治新政府の廃仏毀釈の政策(恭明宮造立の為とも)により方広寺寺領の大半が没収され 、没収地にあった鐘楼が取り壊され、残った方広寺寺領に鐘が移設された為である。その後しばらくは地面に置かれ、雨ざらしとなっていたが、明治17年(1884年)に鐘楼が再建され、今日に至っている (略)
寛文2年(1662年)に地震(寛文近江・若狭地震)が方広寺を襲う。5月1日(新暦では6月16日)に寛文近江・若狭地震が発生し、京都全域に大きな被害をもたらしたが、この地震で2代目大仏が損壊したとするのが通説である (略) 2代目大仏から3代目大仏への建て替えの経緯については、何があったのかの記録史料が非常に混乱、錯綜しており、不明確な点が多いが (略) 2代目大仏は取り壊され、寛文7年(1667年)に木造で3代目大仏が再興された (略)
元禄5年(1692年)に大仏の開眼供養が行われ、宝永6年(1709年)東大寺大仏殿が落慶した。方広寺2代目大仏殿の設計図は今日現存しているが、それと現存する東大寺大仏殿を見比べると、間口(建物の横幅)が減じられていること以外はほぼ建物の外観が瓜二つであることが分かる。このことから現存の東大寺大仏殿は方広寺2代目大仏殿を手本に設計されたとするのが通説である (略)
宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に、大仏と大仏殿が双立していた (略)
寛文年間に再興された木像の方広寺3代目大仏は、従前の大仏よりも長命であったが、寛政10年(1798年)の旧暦7月1日 (新暦では8月12日)の深夜に大仏殿に落雷があり (略) それにより火災が発生し、翌2日まで燃え続け、2代目大仏殿と3代目大仏は灰燼(かいじん)に帰した (略) 火災現場に集まった僧侶・火消・京都民衆達は、恐らく大仏殿外部から扉・観相窓越しに、焼け落ちゆく大仏を目撃して、涙を流し、合掌をし、「南無(毘盧遮那)仏」と何度も唱えながら、3代目大仏の最期を見届けた (略)

■3代目大仏の焼失後から現在に至るまで
(略) 文化元年(1804年)には現在の方広寺本尊である、往時の大仏の1/10サイズの模像とされる盧舎那仏坐像(座高約2m)の、開眼供養が行われた (略)
文政13年(1830年)は3代目大仏の三十三回忌に当たるので、遠忌供養が行われた。しかし何の因果か、同年の3代目大仏の命日(焼失日)にあたる旧暦7月2日に文政京都地震が発生した (略)
江戸時代後期には方広寺を管理していた妙法院により大仏・大仏殿の再建が企図され、宝物の開帳を行い資金集めを行うなどするものの、往時と同様の規模のものが再建されることはなかった。こうした事態を憂い、尾張国(現在の愛知県西部)の商人を中心とする有志が、上半身のみの木造の仮大仏像(4代目大仏)を造り、寄進した。落慶は天保14年(1843年)とされる (略)
落慶した4代目大仏の像容(容姿)について、従前の大仏と異なり、民衆の手で造立され、著名な仏師が造立に参加しなかったためか、お世辞にも容姿端麗な美仏とは言い難く、拝観者におどろおどろしいとの印象を持たれることが多かった。郷土史家の田中緑紅は「グロテスクな木像半身像」と評している。なお4代目大仏は高さが4丈7尺(約14m)あり、東大寺大仏に比肩する高さを有していた (略)
4代目大仏の造立と時同じくして、大仏を安置する仮大仏殿(3代目大仏殿)も造立された。上述の天保造立の大仏・大仏殿は、将来大仏・大仏殿を再建するまでの仮のものという扱いである。造立された場所も従前のものとは異なり、現在の方広寺大黒天堂の東側の駐車場になっている場所に造立されていた (略)
明治時代になると、新政府の廃仏毀釈の政策から、1870年(明治3年)方広寺境内の大部分は収公され、現在の敷地規模となった。「国家安康」の梵鐘を安置する鐘楼は取り壊され(後に再建)、方広寺西門は東寺へ移築された (略) 収公された方広寺旧境内には、歴代天皇や皇族の位牌等を安置する恭明宮(数年で廃絶)や、豊国神社の社殿が建てられた。
経緯は明らかでないが、明治期に方広寺は妙法院の管理下から脱し、独立したとされている。
昭和期に入り、太平洋戦争での戦災を方広寺は免れた。「国家安康」の梵鐘も金属類回収令による供出を免れた。
1973年(昭和48年)の火災により、上述の天保再興の4代目大仏・3代目大仏殿は焼失した (略)
前述の「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/方広寺

かなりのボリュームの引用になってしまいましたので、出来るだけ簡単にまとめますと、(かなりサマライズしましたが)以下の様になった次第です。

『江戸期に(3代目までは)日本三大仏」の1つと言われた「京の大仏」@方広寺は、豊臣秀吉により、小田原征伐を挟んで1591年から工事が開始され、1595年に完成した、19m にも及ぶ「日本最大の大仏様」を初代として、少なくとも、「4代・延べ300年以上は存在していた大仏様」』と理解した次第で、その経過をまとめると、以下の様になります。

  • 初代:1595年 – 1596年(約1年間):慶長伏見地震で損壊 
  • 2代目:1612年 – 1662年(約50年間):寛文近江・若狭地震で損壊?
  • 3代目:1667年 – 1798年(約131年間):落雷で焼失
  • 4代目:1843年 – 1973年(約130年間) :失火で焼失 

つまり、『戦国期から、秀吉によって始まる、4代・300年以上存在した大仏様で、江戸期には「日本三大仏」の1つ(もしかしたらその筆頭?)として存在したが、現在は存在しない大仏様』と理解したと同時に、『地震や落雷』と言った自然災害を乗り越えて、その存在がつながれてきたが、最終的には失火で焼失してしまった事も踏まえると「非常に残念で、今一度再興しても良いのでは?」と思てしまった次第です。 まあこれも、「日本と言う災害の多い国の宿命」かもしれないとませんが、皆様はどの様に感じましたでしょうか? (秀吉による「初代の京の大仏」が、地震で損壊した後、「信濃善光寺如来」を安置した事は、「なんとも合理的で、利己主義的な秀吉らしい発想」にも思えた次第ですが…)

【最後に】

以上が、江戸期に『日本三大仏』の1つと言われる『京の大仏』があり、現在『大阪の陣』の契機になった事で有名で、『日本三大梵鐘』に1つとされる『”国家安康” の梵鐘』が見られる『方広寺』の概要と歴史を抑えた上で考察をさせて頂いた内容になります。

実際に、少し深堀して調査させて頂き思った事は、『江戸期に日本三大仏」の1つと言われた「京の大仏」を見てみたかったが、無いものは仕方ないので、日本三大梵」に1つとされる「”国家安康” の梵鐘」は必ず拝見させて頂き、この「方広寺」にかかわりある「後白河天皇」豊臣秀吉・秀頼徳川家康「明治天皇」、そして最大の被害者かもしれない「片桐且元」に思いを馳せつつ、「豊国神社(豊国廟含め)」「法住寺」「妙法院」(併せて三十三間堂も)を大人散策してみたい』と言うものです。何度かお伺いし、近くまで脚を運んでいる「方広寺とその一帯」ですので、機会を見つけ訪問し、本ブログでいつの日か報告できればと思って折ります!

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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