新潟

【はじめに】

こちらのページでは、「日本三大河川」の概要と特徴に付き情報をまとめ、考察を加えさせて頂こうと思います

河川の規模を考える際、(個人的ではありますが…)「流域面積」・「長さ」が一般的な指標ではないかと思います。「大きな川」と言うと「一級河川」の文字が頭に浮かびますが、その一級河川の中でも、「長く・広い流域面積を誇る川」が、日本三大河川と言って良いのでないかと思います。こちらのページでは、「そんな日本を代表する河川(長く・広い流域面積の川)」=「日本三大河川」の “概要” と(これまた個人的ですが…) “その川が見てきた or 辿ってきた歴史” に付き焦点を当て、記載させて頂きます。(「日本三大暴れ川」や「日本三大急流」の切り口でも、別記事にて考察を加えておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです)

【日本三大河川とは?】

まず最初に、そもそも「日本三大河川とは?」といった基本的な情報から抑えさせて頂きます。

皆様ご承知の通り、日本三大河川とは、「信濃川」・「利根川」・「石狩川」を指す言葉の様です。では、なぜ、信濃川・利根川・石狩川が日本三大河川なのでしょうか? Wkipediaの「信濃川」・「利根川」・「石狩川」の項目を調べてみますと、以下の様にあります。

■信濃川 

信濃川(しなのがわ)は、新潟県および長野県を流れる一級河川。信濃川水系の本流であり、新潟市で日本海に注ぐ。このうち信濃川と呼ばれているのは新潟県域で、長野県に遡ると千曲川(ちくまがわ)と呼称が変わる (略)   

全長367キロメートル (km)のうち、信濃川と呼ばれている部分が153 kmで、千曲川と呼ばれている部分は214 kmと、60 kmほど千曲川の方が長い。ただし、河川法上は千曲川を含めた信濃川水系の本流を信濃川と規定しているため、信濃川は日本で一番長い川となっている。日本三大河川のうちの1つである。流域面積11,900 km2は日本で第3位、新潟と長野の2県でほとんどを占めるが、信濃川水系の一次支川(いちじしせん)である中津川の源流部が群馬県の野反湖付近にあるため、信濃川水系の流域は群馬を含む3県に及ぶ (略)    

https://ja.wikipedia.org/wiki/信濃川

■利根川

利根川(とねがわ)は、大水上山を水源として関東地方を北から東へ流れ、太平洋に注ぐ一級河川。一級水系であり、利根川水系の本流である。河川の規模は日本最大級であり、日本三大河川の一つ。首都圏の水源として国内の経済活動上重要な役割を果たしている。坂東太郎(ばんどうたろう。“東国にある日本一の大河”)」の異名を持つ (略) 流路延長は約322 kmで信濃川に次いで日本第2位流域面積は約1万6840 km2で日本第1位であり、日本屈指の大河川といってよい。流域は神奈川県を除く関東地方一都五県のほか、烏川流域の一部が長野県佐久市にも架かっている  (略)    

https://ja.wikipedia.org/wiki/利根川

■石狩川

石狩川(いしかりがわ)は、北海道中西部を流れ日本海へ注ぐ石狩川水系本流の一級河川である流域面積は 14,330km2 で利根川に次いで全国2位長さ268km は信濃川、利根川に次いで3位で、日本三大河川のうちの1つに数えられている。北海道遺産に選定されている  (略)    

https://ja.wikipedia.org/wiki/石狩川

上記引用、並びにWikipediaより収集した一覧の通り、流路長さ/ 流域面積で、信濃川・利根川・石狩川で、Top3を独占しており、「正真正銘の日本三大河川」と言って良いと改めて思った次第です。

【日本三大河川のそれぞれの概要と特徴 / 歴史】

上記、信濃川・利根川・石狩川が日本三大河川である背景を抑えさせて頂きましたが、この段落では、それぞれの河川において、「それぞれの河川が見てきた or 辿ってきた歴史」に付き、(独断と偏見である事否めませんが…)記載させて頂きます。

■信濃川

まずは信濃川。本ブログ別記事でも紹介させて頂きました、中央分水嶺で有名な「甲武信ヶ岳」(「甲=甲州、武=武蔵、信=信州」から命名されたらしい…)の長野県側を水源に、千曲川として、北国街道小諸宿小諸城で有名な小諸市や真田氏の居城で有名な上田城がある上田市、善光寺で有名な長野市を抜け、新潟に入り信濃川と名前を変え、燕市で分水するも、本流は新潟平野を蛇行しつつ進み、新潟市で万世橋をくぐって日本海にそそぐ川です。

そんな信濃川(=千曲川)から真っ先に連想してしまうのは、川中島合戦千曲川が、松本/安曇野方面から流れて来る、犀川との合流地点近くに第4次川中島合戦の古戦場があります。この時の武田信玄方の拠点は、海津城。つまり、この千曲川が犀川と合流する地点は、「上杉謙信・武田信玄と言った戦国の世における東国の英雄が覇権を争った地」と言う事になります。

更に、この海津城は、江戸時代は真田氏の領地となり、松代城になっています(真田氏の宝物館はここ松代にあります)し、真田氏の(戦国期の)居城として有名な上田城関ヶ原の戦いにて徳川秀忠が遅参した際、その秀忠が真田攻めで陣を引いた小諸城も千曲川沿いにあると言う事になります。つまり、日本の歴史に名を刻むお城や戦の痕跡が、千曲川流域にはあると思った次第です。

■利根川

次に記載するのは、利根川。こちらも別記事で記載させて頂きました多くの無料貸切露天風呂がある龍洞」の付近を源流域とし(少しずれますが…)、水上温泉を抜け、沼田城の西を流れ、前橋付近から埼玉・群馬の県境を古墳や忍城で有名な行田も含め流れたのち、河越夜戦における登場人物の一人・古河公方の居城・古河城付近で渡良瀬川と合流、関宿付近で江戸川と分流(東京湾へ)、守谷市付近で日光方面から流れて来る鬼怒川合流と、「合流/分流を繰り返し」銚子で太平洋に注ぐ川ですそんな利根川で、真っ先に連想するのは、「利根川東遷。Wikipediaには、以下の様にあります。

(略) 利根川水系における河川事業は関ヶ原の戦いで家康が覇権を握り、1603年(慶長8年)家康が将軍となり江戸幕府を開いた後は三河譜代である家臣・伊奈忠次を祖とする伊奈氏が中心的役割を果たしていく。忠次が手掛けた事業としては1604年(慶長9年)烏川を取水元とし利根川沿いに開削した総延長20 kmに及ぶ備前渠用水 や上野総社藩主・秋元長朝が開発した天狗岩用水下流に開削した代官堀などがある。忠次の系統は代官頭、後に関東郡代として12代伊奈忠尊までの間利根川水系の河川開発に携わるが、最大の事業として知られるのが利根川東遷事業である

利根川東遷事業は江戸湾を河口としていた利根川を東へ付け替え、現在の銚子市を新たな河口とする江戸時代最大級の治水事業であり、現在の利根川水系の基礎となった。事業の範囲または目的については東遷事業に関する明確な史料が存在せず、後世の研究者が様々な説や見解を挙げている。開始時期については1594年の会の川締切を挙げるものが多く栗原良輔、佐藤俊郎、本間清利が支持している。終了時期については本間の1698年(元禄11年)完了説が最も早く、根岸門蔵は1871年(明治4年)、河田羆は1890年(明治23年)の利根運河開通を以って完了としている。従って利根川東遷事業の明確な事業年数については不詳である。しかし目的についてはおおむね以下の見解でコンセンサスが得られている。

  1. 幕府本拠である江戸、および利根川流域の水害対策としての治水目的
  2. 利根川流域の新田開発促進
  3. 街道や水運整備による流通路確保
  4. 仙台藩伊達氏を仮想敵国として江戸城防衛のため大外堀に利根川を利用する軍事目的    

利根川東遷事業の主要な事業としてはまず1621年(元和7年)から1654年(承応3年)まで3回にわたる赤堀川開削がある。これは現在東北新幹線利根川橋梁が渡河する付近の茨城県古河市・五霞町間を開削し、1621年に伊奈忠治によって行われた利根川と渡良瀬川の連結事業である新川通開削と連携して利根川の河水を東へ付け替える事業である。続いて1629年(寛永6年)からはそれまで利根川の支流であった荒川がそれまでの入間川水系に付け替えられ(支川であった和田吉野川へ接続され)独立した荒川水系となり、これを「荒川の西遷」と呼ぶ。切り離された旧下流路は元荒川となって現在に至る。

1635年(寛永12年)から1644年(寛永21年/正保元年)に掛けては江戸川の開削が実施され、これにより関宿から分流する現在の江戸川の姿が形成された。さらに関宿より下流の鬼怒川・小貝川などの改修も行われ、1629年にそれまで鬼怒川に合流していた小貝川を独立した河川として分離翌1630年(寛永7年)には小貝川下流を付け替えている。そして1662年(寛文2年)から1666年(寛文6年)に掛けて利根川と霞ヶ浦を連結する新利根川が開削され江戸時代前半期における治水事業は一応の区切りが付いた  (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/利根川

つまり、『利根川は元々東京湾に流れていたが、「江戸の水害対策」、「利根川流域の新田開発促進」、「水運整備」、「仙台・伊達氏を仮想敵国としての江戸城防衛」と言った辺りを目的に、流路を東に向けた(江戸 ⇒ 銚子に流れを変えた)』と言う事と理解しました。言い換えると、「現在の東京は、利根川は流れていませんが、利根川の流域」と言う事になるとも理解した次第です。人は水がないと生きていけませんが、水が災害をもたらす事も事実で、武田信玄の信玄堤も含め、昔から創意工夫を持って人は水と付き合ってきた訳ですが、これだけ大規模な「治水」(軍事的な側面もある様ですが…)を、これだけ長い期間(様々説がある様ですが、最も長い期間であれば江戸幕府開府前後から明治の中頃までの約300年)をかけて先人たちが行ってくれたこと、感謝しなければいけなと思った次第です。

■石狩川

最後に記載するのは、石狩川。本ブログ別記事の「先人たちが河川と戦ってきた痕跡・三日月湖」でも記載いたしましたが、『「石狩川と言えば、ショートカット」⇒「ショートカットと言えば、捷水路工事」⇒「捷水路工事と言えば、三日月湖」⇒「三日月湖と言えば、石狩川」と言った感じで連想』してしまい、今尚、石狩川の流域では、多くの三日月湖を見る事が出来ます。Wikipediaには、以下の様にあります。

(略) 1922年(大正11年)従前は千歳川に合流していた夕張川を石狩川に直接合流させる「夕張川新水路工事」が始まり、1936年(昭和11年)に完成した。これにより蛇行していた夕張川は直線化され、従来の河道は旧夕張川となった。石狩川本川では石狩川河口から江別までの区間における捷水路工事を実施し、下流部の直線化を図ったまた札幌市内を細かく蛇行しながら貫流していた豊平川も捷水路を設置して直線化した。続いて1934年(昭和9年)より実施された『石狩川第二期治水工事事業』においては幌向川に合流していた幾春別川を、夕張川と同様に直接石狩川に合流させる「幾春別川新水路工事」を開始。1921年(大正10年)より実施した「美唄川新水路工事」と共に三笠市・岩見沢市の治水を図った。石狩川本川の捷水路工事は江別から月形、さらに上流へ向けて堤防整備と共に実施されたが太平洋戦争によって中断された (略)  

捷水路工事主体の河川改修により、石狩川本川は改修前には364km(信濃川とほぼ同延長)あった流路延長が100kmも短くなり、蛇行部分は大幅に減少した。これによって洪水の流下が促進され、洪水による湛水被害は大幅に軽減。泥炭地の湛水が解消されたことで、その後の大規模開拓に繋がる農地開発が次第に手掛けられていった  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/石狩川

つまり、石狩川の治水は、捷水路工事に代表される「河川の直線化」であり、この直線化により、流路延長は100㎞程短くなり、流れも速くなった事から、泥炭地の解消も進み、川底の低下も進んだ事で、洪水の被害が激減した』と言う事と理解しました。事実、現在観光地化されている、札幌周辺の当時の河川の痕跡・三日月湖(=人が水と戦ってきた痕跡)に脚を運んで見ると、現在の河川の方が低い位置を流れている事、実感できると思います。治水の基本は、「水を早く流す ⇒ 川底を低くする」と何かの本で読んだ事がありますが、その代表例が石狩川と言う事であり、日本各地の治水の源の1つが、石狩川である事を改めて認識した次第です。

【最後に】

以上が、「日本を代表する河川(長く・広い流域面積の川)」=「日本三大河川」の “概要” と(個人的ですが…) “その川が見てきた or 辿ってきた歴史” に付き焦点を当て記載させて頂いた内容になります。

繰り返しになりますが、人は水がないと生きていけないので、東京の玉川上水の様に水の確保に奔走しますが、災害をもたらす事も事実なので、石狩川や利根川の様に大規模な治水工事も行い、河川とうまく付き合っていけるよう戦ってきた歴史があります。同時に、河川は領土の境目のケースもあれば、防衛手段の側面もあるので、防衛の前線にもなれば、軍事的な衝突の場所ともなり、歴史の中でお城に利用されたり、軍事衝突の場所にもなるのが河川であるケースが多いはずです。言い換えると、河川は、人の営みにおける最重要ポイントの一つであると言う事だと改めて感じてしまった次第で、今回は、日本を代表する「日本三大河川」に焦点を置いて記載しましたが、今後、小さい河川でもその川沿いを大人散策する際は「どんな歴史的事象があったんだろうか?」と言った視点も忘れず、大人散策させて頂こうと思った次第です。

(「日本三大暴れ川」や「日本三大急流」の切り口でも、別記事にて考察を加えておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです)

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