延暦寺

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【はじめに】

こちらのページでは、「日本神話にも関連しそうな長い歴史を持ち、その歴史は波乱万丈であったと推測できる『日本仏教の中心的聖地・比叡山延暦寺』の概要と大人散策情報の共有」をさせて頂こうと思います。

皆様は、滋賀県大津市にある「比叡山延暦寺」に脚を運ばれた事はありますでしょうか?、「比叡山延暦寺」に付きどの様な印象をお持ちでしょうか? 私の場合は、中学の時の修学旅行で、参らさせて頂いた事、またその際に味わった神聖な雰囲気であった事を記憶しておりますが、それ以外の事はよく覚えておらず、延暦寺に関する知識も「日本仏教の中心的存在」と言った程度にとどまっている状況でした。そんな中、本ブログ別記事にて紹介させて頂きました「国作り」の日本神話で、「大国主に代表される国津神系の一族は『出雲だけではなく、琵琶湖を含む諏訪湖等の淡水湖周辺に進出し、稲作ノウハウを武器に勢力を広げていった』と言う仮説(妄想?)」をさせて頂いた際、「日吉大社と言う神社があり、『山王信仰』の元、その神社と強いつながりがあるのが『比叡山延暦寺』」と言う情報を得た次第です。つまりであれば、「比叡山延暦寺」に付き、今少し「基本情報やその歴史を知りたい!」と好奇心を抱いてしまったという事です…。

こちらのページでは、上記の好奇心を満たすべく、「比叡山延暦寺」に付き記載いさせて頂きます。すなわち、「日本神話にも関連しそうな長い歴史を持ち、その歴史は波乱万丈であったと推測できる『日本仏教の中心的聖地・比叡山延暦寺』の概要と大人散策情報の共有」をさせて頂こうと思います

【「比叡山延暦寺」とは?】

まずは「比叡山延暦寺」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報集させて頂きますと以下の様にあります(引用長く、以下にポイントをまとめておりますので、読まなくても大丈夫です)。

延暦寺(えんりゃくじ、旧字体:延󠄂曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にある標高848mの比叡山全域を境内とする天台宗の総本山の寺院。山号は比叡山。本尊は薬師如来。正式には比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と号する
平安時代初期の僧・最澄(767年 – 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。横川中堂は新西国三十三箇所第18番札所で本尊は聖観音である。1994年(平成6年)には、古都京都の文化財の一部として、(1,200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝 (略)

概要
最澄の開創以来、高野山金剛峯寺と並んで平安仏教の中心寺院であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。

「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。「日本仏教の礎」(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を東塔北谷に建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった (略)
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている (略)
また、「十二年籠山行」「千日回峰行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である (略)

前史
比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている

最澄
(略) 延暦7年(788年)、最澄は大和国三輪山より大物主神の分霊を比叡山に勧請して「大比叡」とし、従来の地主神大山咋神を「小比叡」としたという。そして、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(823年)のことであった。そして、比叡山麓の坂本にある日吉社を鎮守社としている。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった (略)

比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
・良源(慈恵大師、元三大師 912年 – 985年)比叡山中興の祖。
・源信(恵心僧都、942年 – 1016年)『往生要集』の著者。
・良忍(聖応大師、1072年 – 1132年)融通念仏宗の開祖。
・法然(円光大師、1133年 – 1212年)日本の浄土宗の開祖。
・栄西(千光国師、1141年 – 1215年)日本の臨済宗の開祖。
・慈円(慈鎮和尚、1155年 – 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
・親鸞(見真大師、1173年 – 1262年)浄土真宗の開祖。
・道元(承陽大師、1200年 – 1253年)日本の曹洞宗の開祖。
・日蓮(立正大師、1222年 – 1282年)日蓮宗の開祖。

武装化
延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っている。山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。つまり、強大な権力をもってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが鎮守社の日吉社にある神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)を奉じ、強訴という手段で時の権力者に対し自らの主張を通していた (略)
延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによって財力も保有し、時の権力者をも無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった (略)

武家との確執
(略) 初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府第六代将軍の足利義教である (略)
永享7年(1435年)、度重なる比叡山制圧の機会にことごとく和議を諸大名から薦められ、制圧に失敗していた足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出して斬首した (略) 
義教は延暦寺の制圧に成功したが、義教が嘉吉の乱で殺害されると延暦寺は再び武装化し、数千人の僧兵軍団を強大化させ、以前のように独立国状態に戻った
戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と、それに呼応しようとした延暦寺を攻めて焼き討ちを行った。これによって根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍が焼かれた。
その後、復興した延暦寺であるが、戦国時代末期に織田信長が京都周辺を制圧し、浅井長政・朝倉義景らと対立すると延暦寺は浅井・朝倉連合軍を比叡山に匿うなど信長に敵対する行動をとった。元亀2年(1571年)、信長は自らに敵対する延暦寺とその僧兵4千人に対し、自らの味方になるか、それが嫌なら織田方、浅井・朝倉方どちらにも付かず中立の立場をとるように再三通達を行ったが、延暦寺は断固拒否した。それを受け、信長は自らに味方する園城寺に本陣を置いて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちを行った。これにより延暦寺や日吉社の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された (略)

復興
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が自害すると、早速青蓮院尊朝法親王が延暦寺の再興を朝廷や諸大名、民衆に働きかけて勧進活動を始めている。また、日吉社も生源寺行丸によって再興への動きが始められた (略)
東塔の根本中堂は仮堂ではあるが、天正13年(1585年)から再建が始められて天正17年(1589年)10月に完成した。そして、出羽国(現・山形県)の立石寺から灯明を移し、「不滅の法灯」も復活させている。横川の横川中堂は天正年間(1573年 – 1593年)に恵心院亮信によって再建され、慶長9年(1604年)に淀殿によって改築された。西塔の釈迦堂(転法輪堂)は、文禄4年(1595年)11月に園城寺が秀吉の怒りを買って闕所処分にされると、秀吉は園城寺の金堂(弥勒堂)を延暦寺に寄進することとし、移築されたものである。
また、秀吉によって延暦寺は1573石の寺領が寄進されている。後に徳川家康によって3427石が寄進され、延暦寺の寺領は合わせて5000石となっている。こうして延暦寺は江戸時代に入ってからは天海の働きによって再興が続けられ、各僧坊の再建も行われた。
しかし、寛永2年(1625年)に天海により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されると、天台宗の宗務の実権は寛永寺に移された。その一方で、寛永19年(1642年)には徳川家光によって本格的な根本中堂の再建がなされている
延宝9年(1681年)、神仏習合や山王神道(山王一実神道)を改めようとする動きが日吉社から出て延暦寺と争いになるが、貞享元年(1684年)に日吉社は論争に敗れた。翌貞享2年(1685年)に延暦寺は日吉社に山王神道を守るようにと厳命し、日吉社に受諾させている。

近代
1868年(明治元年)に神仏分離令が出されると、延暦寺の鎮守社であった日吉社は独立して日吉大社と名称を改めたばかりでなく、境内にあった仏像や仏具を全て処分して仏教色を排した。この日吉大社の過激な動きは廃仏毀釈が全国の寺社に波及していくきっかけとなった。
こうして延暦寺の威勢は衰えたかに見えたが、慶応4年(1868年)に江戸で行われた上野戦争によって寛永寺が大打撃を受けたこともあり、延暦寺が天台宗の宗務を行うこととなり、再び天台宗の総本山としての威厳を取り戻している (略)

現代
1956年(昭和31年)10月11日午前3時30分に重要文化財だった大講堂から出火、同じく重要文化財であった鐘台に類焼し、これら2棟とその他の堂舎が全焼。阿弥陀如来像など仏像21体も焼失した。原因は山上事務所受付係の男による放火 (略)
1994年(平成6年)、延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界遺産に登録されている。
2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される (略)

国宝
・根本中堂(附:須弥壇及び宮殿 3具)
・金銅経箱 1合 – 平安時代後期の金属工芸。横川から発掘された
・宝相華蒔絵経箱(ほうそうげまきえきょうばこ) 1合 – 平安時代後期の漆工芸品
・七条刺納袈裟 1領、刺納衣 1領 – 最澄が持ち帰った、唐時代の染織遺品
・伝教大師将来目録 1巻 – 貞元21年(805年)跋、唐の越州から最澄が将来した経典類の自筆目録
・羯磨金剛目録(かつまこんごうもくろく) 1巻 – 最澄自筆の将来品目録、弘仁2年(811年)
・天台法華宗年分縁起 1巻 – 最澄筆
・六祖恵能伝(ろくそえのうでん) 1巻 – 貞元19年(803年)奥書、最澄が持ち帰った、唐時代の写本。中国禅宗六祖恵能の伝記
・伝教大師入唐牒(でんぎょうだいしにっとうちょう) 1巻 – 最澄の唐での通行許可書、明州牒(貞元20年・804年)と台州牒(貞元21年・805年)からなる
・嵯峨天皇宸翰光定戒牒(さがてんのうしんかんこうじょうかいちょう) 1巻 – 「三筆」の一人嵯峨天皇の筆、弘仁14年(823年) (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/延暦寺

少々引用が長くなってしまったので、以下にサマリとして、ポイントを列挙します。

  • 延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にある比叡山全域を境内とする天台宗の総本山で、山号は比叡山、本尊は薬師如来であり、正式には「比叡山延暦寺」と言う寺院で、現在、根本中堂や貴重な工芸品・経典を含む歴史的に貴重な書物等、多くの国宝を所有している
  • 尚、「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔、西塔、横川などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」)に所在する150ほどの堂塔の総称で、最盛期は三千を越える寺社で構成されていたとも言われるらしい
  • 比叡山は「古事記」にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、平安時代初期の僧・最澄により、788年(奈良時代)に大和国三輪山(大神神社?)より「大物主神(=大国主の和魂)」の分霊を比叡山に勧請して「大比叡」、従来の「地主神・大山咋神(スサノオの孫?)」は「小比叡」とし、「日吉社を鎮守社」として、現在の根本中堂の位置に薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を東塔北谷に建てた事に始まると言われているらしい
  • この開創以来、高野山金剛峯寺と並んで平安仏教の中心寺院となって、天台法華の教えのほか、密教・禅(止観)・念仏等も行なわれ、仏教の総合大学の様相を呈し、数々の名僧を輩出し(良源(比叡山中興の祖)、法然(浄土宗の開祖)、栄西(臨済宗の開祖)、親鸞(浄土真宗の開祖)、道元(曹洞宗の開祖)、日蓮(日蓮宗の開祖)、天海(喜多院の中興の祖)など)、新仏教の開祖や日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称され、現代でも「十二年籠山行」「千日回峰行」などの厳しい修行が続けられている「日本仏教の代表的な聖地」と言われる
  • 平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持つようになり、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになると同時に、その権威に伴う武力を持ち始め、また物資の流通を握ることによって財力も保有し、時の権力者をも無視できる一種の独立国のような状態になっていき、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言うほどになり、延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが鎮守社の日吉社にある神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一)を奉じ、「強訴」という手段で時の権力者に対し自らの主張を通していた
  • そんな延暦寺を初めて制圧しようとした権力者は、室町幕府第六代将軍の足利義教で、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出して斬首し、延暦寺の制圧に成功したが、義教が嘉吉の乱で殺害されると延暦寺は再び武装化し、数千人の僧兵軍団を強大化させ、以前のように独立国状態に戻った
  • 戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していたが、1499年、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と、それに呼応しようとした延暦寺を攻めて焼き討ちを行い、戦国時代末期には、織田信長が、浅井・朝倉連合軍を比叡山に匿うなど敵対する行動をとった為、「味方になるか、それが嫌なら中立の立場をとる様」再三通達を行うも、延暦寺は断固拒否した為、延暦寺を取り囲み焼き討ちを行った
  • その後1582年に本能寺の変織田信長が自害すると、延暦寺の再興が動き始め、建造物の再建、「不滅の法灯」の復活等が行われ、その後秀吉から1573石家康から3427石の寺領が寄進され、延暦寺の寺領は合わせて5000石となった

  • しかし江戸期になると、天海により江戸上野に東叡山寛永寺が建立され、天台宗の宗務の実権は寛永寺に移された事により、(徳川家光によって1642年に本格的な根本中堂の再建がなされるも)延暦寺の威勢は衰えいくが、幕末・1868年に江戸でおこった上野戦争により、寛永寺が大打撃を受けたことにより、延暦寺が天台宗の宗務を行うこととなり、再び天台宗の総本山としての威厳を取り戻した
  • 現代では、1956年に重要文化財だった大講堂から放火による出火で、同じく重要文化財であった鐘台に類焼し、多くの堂舎が全焼した上、阿弥陀如来像など仏像21体も焼失する悲劇が発生するが、1994年には「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界遺産に登録され、2015年には「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定された
  • また、元々の起源である日吉社(現日吉大社)との関連では、1681年、日吉社にて「神仏習合」や「山王神道」を改めようとする動きが出るが、「延暦寺は日吉社山王神道を守るようにと厳命」し、受諾させるも、明治に入ってすぐの1868年に神仏分離令が出されると、延暦寺の鎮守社であった日吉社は独立し、日吉大社と名称を改めたばかりでなく、境内にあった仏像や仏具を全て処分して仏教色を排する過激な動きを取ったと言われる

サマリ的にまとめたつもりではありますが、その長く、波乱万丈の歴史の為か、サマリでさえ、かなりの情報量になってしまった次第です…。故に、もう一段階、「サマリのサマリ」でまとめると、以下の様になると思います。

比叡山延暦寺は、元々は最澄により、奈良時代に「日本神話・国作りの完遂の象徴と認識する大和国三輪山(大神神社?)」より「大物主神(=大国主の和魂)の分霊を比叡山に勧請」し、「日吉社を鎮守社」にした事に始まる事からわかる様に、「日吉大社に由来を持つ寺院」で、現在では、「東塔、西塔、横川といった区域の比叡山全域」にわたり、「根本中堂等の多くの建造物」を有し、「薬師如来を本尊とする天台宗・総本山」で、「日本仏教の中心的聖地」の寺院
またかつては、「仏教の総合大学」の様相を呈し、多くのKeyとなる僧を輩出した事から、高野山金剛峯寺と並ぶ平安仏教の中心寺院であり、平安期には「強訴」により後白河法皇にも恐れられ、戦国期には細川氏や織田氏による「焼き討ち」にもあい、「秀吉家康から寄進」を受け、「家光による根本中堂の再建」といった支援も受けたが、多くの期間で「貴族や武家と対立をしてきた歴史」も持つ寺院である。
同時に、天海江戸に建立した寛永寺」により江戸期には、その力が弱まった期間もあるが、江戸時代の終焉(戊辰戦争の1つ・上野戦争にて寛永寺が衰退)と共に再び「天台宗の総本山としての威厳」を取り戻し、現在ではユネスコの世界遺産に登録」され、「日本遺産の一角に認定」されている寺院である一方、「神仏習合思想・山王信仰のもと一つの信仰の内であったはずで、元々の由来である日吉社(現日吉大社)」との「確執の歴史(「明治初めの神仏分離令」により、日吉社は独立し「日吉大社」に)」もある寺院とも言え、時の政権に振り回され、内部のドタバタもあった歴史」を併せ持つ寺院ともいえる認識』

「日本国」と言う長い歴史を持つ国だからこそ、「延暦寺の様な長い歴史を持った寺院」が存在し続けられたんだろう…』と思うと同時に「日本神話・国作りに陰で関連する」と思っている「日吉大社」との「確執」は、「結構エグいな…」とも思ってしまった次第で、「元々は、日吉社に由来する延暦寺」が、時代ともに力をつけ、「神仏習合思想の元、同じ山王信仰日吉社とタックを組む」が、江戸期に入ると「日吉社がそれを嫌がり始め、明治の神仏分離令で袂を分けた」と理解してしまうと、「現在の関係性は同なんだろう…」と考えてしまった次第でもあります…。

【比叡山延暦寺の大人散策をプランニング!】

上記、比叡山延暦寺の概要をその歴史も含め抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、その「延暦寺における大人散策情報」を記載させて頂きます。尚、中学の時の修学旅行で一度言ったっ事があると記載しましたが、物理的な記憶はほとんどないので、延暦寺のHP(https://www.hieizan.or.jp)に紹介しているスポットをベースに、記載させて頂きます。最下部の地図は、そのスポットをGoogle My Map でポイントアウトしていますので、併せてご参照頂ければと思い、実際の大人散策においては、自身の位置を確認しつつ移動にご活用いただければ幸いと存じます(但し、歩きスマホはNGで…)。

■事前情報

「比叡山延暦寺」への訪問にあたり、比叡山全域を回る事は、旅行者にとっては難しい事だと思いますので、延暦寺に関しては「東塔・西塔・横川」の3つのエリアに焦点を絞って大人散策させて頂き、その上で、可能であれば「日吉大社等をプラスα」で参らせて頂くプランを想定しました。またアクセスは、「車」 or 「ケーブルカー」でのアクセスが可能なようですが、私達夫婦の様に、公共交通機関(新幹線)で滋賀県まで参る事を前提にすると、現地では「レンタカーを借りる」 or 「比叡山内でも公共交通を利用する」必要がある認識です。その為「比叡山内って徒歩で移動できるの?」、「そもそも公共交通機関ってあるの?」と思ってしまい調べてみると、以下の情報を得る事が出来ました

  • ケーブル延暦寺駅から、今回大人散策のスコープ内の端・横川付近までは、6-7㎞ほどの距離なので、徒歩で回る事も可能な様に思えたが、「東塔・西塔・横川」をつなぐ道は、それなりの勾配もありそうで、且つ歩道もあまり無い様で、それぞれのエリア内でもなりに歩く必要がありそうだから「全て徒歩」は厳しそう…
  • しかし比叡山内には、シャトルバスがそれなりの本数で走っている様(右図:シャトルバスの情報参照(延暦寺のHP(https://www.hieizan.or.jp)より))
  • であれば、「歩けそうな区間は歩きつつ、少なくとも『西塔 ~ 横川区間はバス利用』とする『徒歩 & バスのミックス移動』」で行けると認識

上記であれば、公共交通機関の利用のみで移動する事が可能に思えましたので、基本『徒歩 & バスのミックス移動』を想定し、後は「東塔・西塔・横川」で、「何処を抑えてれば良いか?」を踏まえれば、延暦寺における大人散策のプランニングが完成すると思った次第で、「ケーブル坂本駅」(ケーブルカー移動) ⇒「ケーブル延暦寺駅」⇒「東塔エリア」⇒「西塔エリア」⇒「バス停:峰道」(バス移動) ⇒「バス停:横川」⇒「横川エリア」⇒「バス停:横川」(バス移動) ⇒「バス停:東塔」⇒「ケーブル延暦寺駅」』と移動すれば、理想的かなと思った次第です。

■東塔エリア

・阿弥陀堂

檀信徒の先祖回向の道場の様ですが、一般の方々の回向法要もしているらしいです。また、前にある鐘楼は国の重要文化財に指定されている様です。

・法華総持院東塔

昭和55年の再興された様で、最澄が日本全国に6か所の宝塔を建てたとの事ですが、その中心の役割をするのがこの東塔という事らしいです。

・大講堂

1964年(最初の東京オリンピックの年?)に山麓坂本にあった讃仏堂を移築した建造物らしく、国重要文化財にも指定されている様です。

萬拝堂と一隅会館

根本中堂大坂を登ったところに、萬拝堂がある様です。また、参拝者のための無料休憩所として一隅会館はもある様で、お食事処(蕎麦屋さん?)もある様です。

・大黒堂

一隅会館前の広場に面して、大国堂が有るようで、日本の大黒天信仰の発祥の地と言われているようです。

・正覚院不動(延暦寺会館前)

元は、天台密教における重要な儀式を行う道場だった場所の様で、現在はその跡地に延暦寺会館が建てられており、その前に正覚院に祀られていた不動尊を安置している様です。

・文殊楼(もんじゅろう)

根本中堂の東側に、高い石段を隔て文殊楼はあるようです。延暦寺の山門にあたる様で、重要文化財に指定されている様です。

根本中堂

東塔における中心となる仏堂になる様で、延暦寺の総本堂でもあるようです。最澄が、788年の創建時に「一乗止観院」を置いた場所であり、現在の建造物は、徳川家光の命(1642年)によるものらしく、国宝に指定されている様です。

・国宝殿

延暦寺に伝来する数多くの仏像・仏画・書跡等の文化財を保管するための施設で、国宝や重要文化財に指定されているものも多くあるようです。

■西塔エリア

・浄土院

浄土院は、最澄の御廟との事で、重要文化財に指定されているそうです。東塔エリアと西塔エリアの境目に位置し、所属は東塔地域になる様です。

・常行堂・法華堂(にない堂)

同じ形をしたお堂が廊下によって繋がり、左が阿弥陀如来を本尊とする「常行堂」、右が普賢菩薩を本尊とする「法華堂」との事の様で、重要文化財に指定されている様です。
※にない堂は内部非公開です。

釈迦堂(転法輪堂)

この釈迦堂(転法輪堂)が、西塔の本堂にあたる様で、延暦寺に現存する建築中最古のもになるらしく、三井寺の園城寺の金堂を、秀吉が1595年に移築したものになる様で、西塔・鐘楼と共に国重要文化財に指定されているそうです。

・瑠璃堂

瑠璃堂は内部非公開の様ですが、薬師瑠璃光如来を本尊とし、信長の焼き討ちを逃れた唯一の建物と言われ、室町後期の建築と言われているようで、重要文化財との事です。

■横川エリア

・横川中堂

横川中堂は、横川の本堂にあたる様で、現在の建物は昭和46年に再興された建物は、船が浮かんでいる姿に見えるらしいです。また、境内の鐘楼は重要文化財に指定されているらしいです。

・四季講堂(元三大師堂)

967年、村上天皇の勅命により、四季に法華経をはじめとする大乗経典の講経論義を行う道塲に定められたことから、四季講堂と言う名前の様です。おみくじ発祥の地とも言われているそうで、現在のお堂は1652年に、後水尾天皇の勅願によるものらしく、元三大師御廟と共に重要文化財に指定されているそうです。

・恵心堂

恵心堂は内部非公開の様ですが、念仏三昧の道場との事で、浄土宗や浄土真宗などの源となる日本浄土教の基礎となった場所になるらしいです。

■その他のスポット

上記、比叡山延暦寺における大人散策「東塔・西塔・横川」のそれぞれのエリアに付き記載いたしましたが、この付近は歴史的にも魅力的なエリア。『比叡山延暦寺と「山王信仰」で、一体化していた歴史を持ち「日本神話・国作り」にも関連すると勝手に妄想する「日吉大社』、『延暦寺創建前、本の一時の様ですが、天智天皇が日本の都としてかまえた「近江大津宮」の痕跡と天智天皇を祭る「近江神宮」』、『江戸期には、延暦寺の力が衰える原因を作った天海と同一人物説が有る明智光秀の居城であった「坂本城」』と、日本の歴史に思いを馳せつつ、そして妄想しつつめぐる事が出来るスポットが他にもある認識です。延暦寺に脚を運んだ際は、これらの歴史的スポットに脚を運びつつ、この地域を満喫したいと考えています(お城の側面では、三大湖城の1つ・膳所城も付近にありますし…)

【最後に】

以上が、「日本神話にも関連しそうな長い歴史を持ち、その歴史は波乱万丈であったと推測できる『日本仏教の中心的聖地・比叡山延暦寺』の概要と大人散策情報の共有」をさせて頂いた内容になります。

比叡山延暦寺に付き記載させて頂き、改めて思った事は「比叡山延暦寺は、長く波乱万丈の歴史を持つ日本仏教の中心的聖地である事は、疑う余地がない」と言う事です。中学生の時に一度参らせて頂いた事はある物の、まだまだ比叡山延暦寺が存在してきたその歴史や意味を理解できなかった事もあり、あまり印象に残らなかったのですが、それからウン十年たった今なら、今少し比叡山延暦寺の魅力を実感できるのでないかと思いましたので、どこかでタイミングを見つけ、改めて訪問し、その感想を本ブログで改めて報告させて頂こうと思った次第です。

また別ページにて、①日本書記 vs 古事記 (日本書紀とは? 古事記とは? 日本神話とは?長い歴史を地開闢の神々の分類と国生み (別天津神・造化三神・神世七代・天津神・国津神とは?)③天照大御神 vs 須佐之男命 (黄泉国神話と天照大御神 vs 須佐之男命の誕生・誓約の神話とは?)④アマテラスが岩屋れる「天岩屋神話」とは? (天孫降臨神話への序章?)⑤「スサノオによるヤマタノオロチ退治の神話」とは?⑥大国主関連の神話 (因幡の白兎& その後(スサノオの住む根国訪問)・国作り神話とは?)⑦大国主関連の神話 (国譲り神話とは?)⑧天孫降臨とは?⑨ニニギと息子2人(海幸彦・山幸彦)ってどんな人?⑩神武東征とは?⑪ヤマトタケル(日本武尊)っどんな人?⑫日本神話の全体図を勝手に理解⑬日本神話の全体図から “メッセージ” と “リアリティの程度” を妄想⑭天皇家の「欠史八代」って何?⑮神話の時代から天皇家の家系を三種の神器って何?、と言った内容でそれぞれ記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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