久遠寺 五重塔

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【はじめに】

こちらのページでは、「日蓮宗の総本山・久遠寺とその開祖・日蓮の概要と現在の久遠寺における大人散策情報(プランニング版)の共有」をさせて頂こうと思います。

皆様は、「久遠寺」って、ご存じでしょうか? 個人的印象ですが、山梨にゆかりのある方であれば、ご存じの方も多いと思いますが、それ以外の方であれば、ご存じの方は限られるのでないかと思います。では、「日蓮宗」ってご存じでしょうか? これも個人的印象ですが、この質問であれば、多くの方がご存じなのではないかと思って折ります。つまり、「日蓮宗の総本山が久遠寺」という事なのですが…。本ブログで何度も記載して折りますが、私の出身地は、山梨県の北杜市同じ山梨にある「日蓮宗の総本山」という事で、また「枝垂桜が有名」な事もあり「久遠寺」の事は、存じ上げて折りますが、実は久遠寺にお邪魔した事があるのは、幼少の頃の1回のみ。その為、あまり記憶に残っていないのが現状です。その為、「山梨にゆかりがある者として、一度はしっかりとお参りする必要がある」と昨今思い立ち、大人散策のプランニングをさせて頂こうと思った次第です。

こちらのページでは、上記の状況である「久遠寺」に関し、記載いさせて頂きます。すなわち、「日蓮宗の総本山・久遠寺とその開祖・日蓮の概要と現在の久遠寺における大人散策情報(プランニング版)の共有」をさせて頂こうと思います

【「久遠寺」とは?・「日蓮」とは?】

まずは「久遠寺」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報集させて頂きますと以下の様にあります(以下にポイントをまとめておりますので、引用読まなくても大丈夫です)。

久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。山号は身延山。

歴史
文永11年(1274年)、甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。
弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同年10月13日に死去した。「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られた。当地では足かけ9ヵ年の生活であった
日蓮の身延山での生活は日蓮遺文に記されており、「人は無きときは四十人、ある時は六十人」とあるように、大人数で生活をしていたと考えられている。各地の信徒より生活必需品が多く届けられ、日蓮はこの身延山をインドの霊鷲山に見立て、信仰の山として位置づけている。遺文の3分の2は身延山での生活する中で執筆されており、日蓮真筆の曼荼羅もほとんどがここ身延山で手がけられている。身延山は日蓮教団における最高の聖地であると位置づけられており、日蓮の遺骨は歴代の法主(住職)により、日蓮の遺言通り今日まで護られている。
室町時代の文明7年(1475年)には、11世法主日朝により、手狭になった西谷から現在地に伽藍が移転された戦国時代には甲斐国守護武田氏や河内領主の穴山氏の庇護を受け、門前町が形成された。江戸時代には日蓮宗が徳川氏はじめ諸大名の帰依を受け発展し、宗門中興三師と賞される日重・日乾・日遠のころ、身池対論を経て対立する不受不施派を排斥して確固たる地位を確立した。その後、日脱、日省、日亨の三師以降壮大な伽藍を整えて正徳2年(1712年)山内に133坊と最盛期を迎えた (略)
久遠寺には数多くの経典や典籍・書籍、聖教や古文書類(身延山文書)が所蔵されており、「身延文庫」として一括され身延山宝物館に所蔵されている。身延文庫には「諸宗部」に分類されている他山・他衆により筆記・書写された典籍類も含まれている (略)

伽藍
(略) 明治8年の大火で焼失し、現在立ち並ぶ堂宇は再建されたものが多い
総門 – 久遠寺の最初の入り口(開会関)ここから聖域に入る。
三門 – 間口5間、奥行2間、高さ7丈。日本三大門の1つに数えられることもある。二王門ともいわれ金剛力士を祀り、上層には十六羅漢を祀る (略) 仁王像(身延町指定文化財)は伝運慶若しくは定朝作で鎌倉期の名作
菩提梯全287段の石段。菩提=覚り、梯=かけはし (略) 横の坂が男坂。その手前の坂が女坂。
本堂 1985年(昭和60年)落慶。本尊は日蓮聖人真筆大曼荼羅本尊を木造形式にしたいわゆる立体曼荼羅で、釈迦如来像・多宝如来像・四菩薩像・不動明王像・愛染明王像・四天王像・普賢菩薩像・文殊師利菩薩像・日蓮大聖人坐像などからなっている (略)
宝物館 – 本堂地下に久遠寺に残る数々の書物、掛け軸、法要道具等を展示している (略)
五重塔現在の五重塔は3代目で2008年竣工 (略) 初代の塔は元和5年(1619年)加賀前田利家の側室寿福院の建立による。寛文3年(1666年)移築、文政12年(1829年)焼失。2代目の塔は万延元年(1860年)起工、慶応元年(1865年)落慶、明治8年(1875年)焼失。
棲神閣祖師堂日蓮聖人像を安置 (略)
御真骨堂 – 日蓮の「御真骨」を安置
開基堂日蓮を身延に招いた波木井実長を祀っている。身延町指定文化財
水鳴楼歴代法主の住居 (略)
枝垂桜有名な久遠寺の枝垂れ桜は毎年3月下旬~4月上旬にかけ境内に樹齢400年ともいわれる枝垂桜と久遠寺周辺数百本の桜が咲き乱れる。見物客、カメラマンが相当数来て、門前町の道路も大変渋滞する
祖廟日蓮聖人の墓所と日蓮聖人が住んだ庵の跡がある (略)
奥之院思親閣久遠寺裏山身延山山頂にあるお堂。 (略) 日蓮聖人自らお手植えと呼ばれている四本の杉も今でも育っている場所でもある (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/久遠寺

また、「日蓮」に関しても、Wikipedia にて情報集させて頂きますと以下の様にあります(以下にポイントをまとめておりますので、引用読まなくても大丈夫です)。

日蓮(にちれん、承久4年(1222年)2月16日- 弘安5年(1282年)10月13日)は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖

概要
文応元年(1260年)7月16日に「立正安国論」を鎌倉幕府に提出して国主諫暁を行う。立正安国論で自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅びると予言した。(但し、日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など日本の隣国を繰り返し侵略し、前年の正元元年(1259年)には高麗が降伏していた時期であり、日蓮も南宋出身の蘭渓道隆等の渡来僧と交流もあったこと、民間でも貿易船等の交流もあったこと等から、予言であったのか、見聞に基づいた予測であったのかは不明である。国内の内乱も多く発生していた時代である。)
他宗を激しく批判・口撃し「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行い、良観(数々の慈善事業を行い「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇され、幕府からの信頼も厚かった人物)により幕府に訴えられ、御成敗式目第12条「悪口(あっこう)の咎」の最高刑となる佐渡流罪となった。文永8年(1271年)に佐渡へ流罪となった後、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免され、一度、鎌倉に戻った後に山梨県の身延山に移った
弘安4年(1281年)の元寇に日本側が勝利したため、日本が滅びるという日蓮の予言は外れた弘安5年(1282年)10月13日に胃腸系の病により入滅。滅後の延文3年(1358年)、日蓮宗の僧である大覚が雨乞い祈祷によって雨を降らした功績により、後光厳天皇から日蓮大菩薩の位を授けられた。大正11年(1922年)には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された (略)

修学
日蓮は12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の当時は天台宗寺院であった清澄寺に登った (略) 少年時代の日蓮は、自身の誕生の前年に起きた承久の乱で真言密教の祈禱を用いた朝廷方が鎌倉幕府方に敗れたのはなぜか、との問題意識をもっていた。また、仏教の内部になぜ多くの宗派が分立し、争っているのか、との疑問もあった。清澄寺にはこれらの疑問に答えを示せる学匠がいなかったので、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せず、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた (略)

宗教体験と遊学
(略) 主体的な思索を重ねた結果、日蓮はある日、各宗派や一切経の勝劣を知るという重要な宗教体験を得た。
次に日蓮は、この宗教体験を経典に照らして確認し、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学することになった。
遊学の中心は延暦寺で、滞在したのは比叡山横川の寂光院と伝えられる (略)
十数年に及んだ遊学の結果、日蓮は、一切経の中で妙法蓮華経が最勝の経典であること、天台宗を除く諸宗が妙法蓮華経の最勝を否認する謗法(正法誹謗)を犯していること、時代が既に末法に入っていることを確認し、32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになった (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/日蓮

引用それなり長い引用になってしまったので、以下にサマリ的に、箇条書きでまとめさせて頂きます。

  • 久遠寺(くおんじ)は、山号は身延山と言い、1274年に佐渡での流刑を終え、鎌倉に戻った「日蓮」を招き、”西谷” の地に草庵を構えた事に始まる「日蓮宗の総本山(祖山)」の山梨県身延町にある寺院で、枝垂桜が有名な為、季節になると、樹齢400年ともいわれる枝垂桜と久遠寺周辺数百本の桜が咲き乱れ、多くの見物客で賑わう
  • 1475年には、手狭になった “西谷” から現在地に伽藍が移転され、戦国時代には甲斐国守護武田氏や河内領主の穴山氏の庇護を受け、門前町が形成され、江戸時代には日蓮宗が徳川氏はじめ諸大名の帰依を受け発展し、1712年には、この地域に133坊を構え、最盛期を迎えたと言われる
  • 明治8年の大火で多くの建造物が焼失した為、現在立ち並ぶ伽藍は、再建されたものが多い(現在みられる主な建造物は以下の通り)
    • 総門:久遠寺の聖域へのに入口
    • 三門:日本三大門の1つに数えられ、鎌倉期の名作と言われる仁王像もある
    • 菩提梯:全287段の石段(途中男坂・女坂に通じる)
    • 本堂:1985年の建造
    • 宝物館:本堂地下に久遠寺に残る数々の書物、掛け軸、法要道具等を展示
    • 五重塔 :現在の五重塔は3代目で2008年建造(初代:1619年に加賀前田利家の側室寿福院の建立・1666年に移築・1829年焼失、2代目1865年建立・1875年焼失)
    • 棲神閣祖師堂:日蓮聖人像を安置
    • 御真骨堂:日蓮の「御真骨」を安置
    • 開基堂:日蓮を身延に招いた波木井実長を祀る
    • 水鳴楼:歴代法主の住居
    • 祖廟:日蓮聖人の墓所と日蓮聖人が住んだ庵の跡
    • 奥之院思親閣:久遠寺裏山身延山山頂にあるお堂で、日蓮聖人自らお手植えと呼ばれている四本の杉が今でも育っている場所

  • 鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖である「日蓮(1222年~1282年)」は、身延山に整備したこの寺院を、「身延山妙法華院久遠寺」と、1281年に名付けたといわれ、1282年に湯治療養のため常陸の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中病状が悪化し他界していまい、遺骨は身延山に祀られ(身延山における生活は、9年程)、その遺骨は歴代の法主(住職)により、今日まで護られているらしい
  • 日蓮は12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の当時は天台宗寺院であった清澄寺に登り、比叡山延暦寺(横川の寂光院)・園城寺・高野山などへの遊学をし、その結果「一切経の中で妙法蓮華経が最勝の経典であること」、「天台宗を除く諸宗が妙法蓮華経の最勝を否認する謗法(正法誹謗)を犯していること」、「時代が既に末法に入っていること」を確認し、32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになったと言われるらしい
  • 1260年には「立正安国論」を鎌倉幕府に提出し、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅びると予言(予測?)した事でも有名で、他宗を激しく批判・口撃し「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」といった「過激な発言」を行った為、1271年に佐渡へ流罪となった後、1274年に佐渡流罪を赦免され、一度、鎌倉に戻った後に山梨県の身延山に移った経歴を持つらしい

安房国(現在の千葉南部)に生まれ、比叡山高野山で学び、鎌倉で他宗派(とりわけ浄土宗)の批判を過激な口撃と共に行った事で、佐渡へ流罪となった「日蓮」が、その後、身延山に開いた、現在では枝垂桜が有名なお寺が「久遠寺」』と理解させて頂いたいた次第です。(上記にも若干記載済みですが)同じ山梨県出身の私ですが、出身地である北杜は、山梨県の北側にあたり、身延は同じ山梨県でも中南部で、しかも甲府を超えた場所。中々お邪魔する機会に恵まれず、通り過ぎる事は幾度かありましたが、久遠寺にお伺いした事はあるのは、幼少の頃に両親に連れられた参った一度のみ。それも枝垂桜を拝見しに行ったタイミングでしたので「すさまじい渋滞」で、枝垂桜と言うより、「久遠寺ってこんなに混む所なんだ…」といった印象の強い寺院でしたが、改めて上記の概要を拝見すると「枝垂桜の季節はすごい混むだろうから、その季節をずらして歴史ある地ゆったりと大人散策してみたい」と思った次第です…。

【久遠寺の大人散策をプランニング!】

上記、久遠寺の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、その「久遠寺における大人散策情報」を記載させて頂きます。尚前提と致しまして、「枝垂桜の季節以外の大人散策」を想定させて頂きます。理由はこの時期は、物凄い混むと思うので、もしこの季節に参るのであれば、久遠寺付近の宿坊に宿泊する事を前提にした方が良いと思い、宿泊するのであれば、今回想定する大人散策コースも問題く遂行できると思った為です。また、最下部の地図は、そのスポットをGoogle My Map でポイントアウトしていますので(枝垂桜の施設以外を想定しますが、気になった枝垂桜スポットもポイントアウトしております)、併せてご参照頂ければと思います(実際の大人散策においては、自身の位置を確認しつつ移動にご活用いただければ幸いと存じます(但し、歩きスマホはNGで…))。

■総門から大人散策をスタート!

久遠寺の最寄り駅は、身延駅になる認識ですが、枝垂桜季節以外は、さほど渋滞を気にする必要もないと思うので、車で「総門(久遠寺の聖域へのに入口)」近くの駐車場に車を停め、大人散策スタートです。「総門」をくぐり、それなりの長さがある認識の「門内商店街」を楽しみつつ進むと、「三門(日本三大門の1つに数えられ、鎌倉期の名作と言われる仁王像もある)」が出てくる様です。そしてそれを抜けると、目の前に「菩提梯(全287段の石段)」がある様なので、そちらから「本堂」等のある中心エリアを目指したいと思います。尚、「菩提悌」の途中から「男坂・女坂」がある様ですが、それらは「菩提悌」を進む際の下から & 登った後の上から、それぞれ拝見させて頂こうと思います。

■本堂のある久遠寺中心エリア

菩提悌」を登りきると、左手に「五重塔 (現在の五重塔は3代目で2008年建造)」、正面に「本堂(1985年の建造)」が見えてくる認識です。それぞれ拝見し、「宝物館(本堂地下に久遠寺に残る数々の書物、掛け軸、法要道具等を展示)」も拝見させて頂き、何処まで拝見できるか不明ですが、「棲神閣祖師堂(日蓮聖人像を安置)」、「拝殿」からになると思いますが「御真骨堂(日蓮の『御真骨』を安置)」、「開基堂(日蓮を身延に招いた波木井実長を祀る)」、「仏殿」、「水鳴楼(歴代法主の住居)とその庭園」を出来る限り(遠目からでも)拝見させて頂ければと思ております。それぞれ拝見した後は、ロープウェイで「奥之院思親閣」を目指します。

■ロープウェイで「奥之院思親閣」へ

ロープウェイで久遠寺駅から奥之院駅まで参った後、まずは、折角ロープウェイで高い所まで行くので、すぐ脇にある「南側展望台」でその高低差を実感し、今回はスコープアウトした「七面山」を眺望し、「山門」経由で「東側展望台」からの景色も楽しみたいと思います。その後、「日蓮聖人お手植杉」を拝見し、「仁王門」経由で「奥之院思親閣(久遠寺裏山身延山山頂にあるお堂)」を目指したいと思います。日蓮も幾度となく登ったと言われる身延山山頂で、「日蓮は何を思っていたのか…」に付き思いを馳せてみようと思います。

■「奥之院思親閣」の後は「祖廟」へ

奥之院思親閣」で日蓮に思いを馳せた後は、ロープウェイで麓に戻り、「祖廟(日蓮聖人の墓所と日蓮聖人が住んだ庵の跡)」を目指したいと思います。途中、枝垂桜や大銀杏等もある様ですが、同時に山々の眺め・川のせせらぎ等を楽しみつつ「日蓮宗発祥地」と言われるエリアを目指し「西谷参道」進み、西に進路を取ると、「祖廟拝殿」越しになるのか、近くまで脚を運べるのか不明ですが、「祖廟:日蓮大聖人 御廟所」・「久遠寺歴代上人墓所」がある認識です。「日蓮宗発祥の地」になる認識ですので、日蓮宗の信者ではありませんが、しっかりと手を合わせ、日蓮と日蓮宗の歴史に思いを馳せつつ、ご挨拶申し上げたいと思った次第です。

祖廟:日蓮大聖人 御廟所」・「久遠寺歴代上人墓所」の日蓮宗発祥地で、日蓮と日蓮宗の歴史に思いを馳せた後は、なるべく来た道は避けつつも、「門内商店街」を抜け、「総門」近くの駐車場まで戻って、久遠寺における大人散策は終了となります。

【最後に】

以上が、「日蓮宗の総本山・久遠寺とその開祖・日蓮の概要と現在の久遠寺における大人散策情報(プランニング版)の共有」をさせて頂いた内容になります。

上記の中では、ほぼ触れませんでしたが、久遠寺の西、には「七面山」と呼ばれる山があります。この山は、久遠寺と縁が深く、修験道の山として知られ、登山口は身延の隣にあたる早川町になりますが、山頂一帯は身延町飛地になっている認識です。実は、久遠寺には、幼少の頃に一度だけ参った事があるのみですが、この七面山には、高校時代・野球部のトレーニングという事で、3回ほど登った(登らさせられた)事があります…。信仰心を持って登ったと言うより、トレーニング的に登ったので、道中の事はほとんど記憶が無く、覚えているのは「ほとんど走って登ったので、2.5時間くらいで行けた」という事のみ…。今であれば、倍(5時間くらい)はかかると思いますが、久遠寺に付き記載させて頂くにあたり、思い出した次第ですので、共有させて頂いたまでですが、久遠寺にお邪魔するなら、機会をみて七面山にも改めて挑戦してみても良いかと思った次第です。

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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