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【はじめに】
こちらのページでは、「旧大和国(現・奈良)にあった100万国のお城『郡山城』の概要を抑え、大人散策をプランニング」を共有させて頂こうと思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「大和郡山城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 豊臣政権期には、秀吉の異父弟(同父弟説もある様ですが)で、大和・紀伊・和泉を治めた「豊臣秀長の100万石の居城」
- その前の時代には、筒井順慶が居城とし、明智光秀や藤堂高虎と言った有名所が築城に関係したお城でもある
- 現在では、逆さになったお地蔵様や墓石、更には京都・羅城門の礎石とも言われる石が石垣に組み込まれた様子を見られる、独特の特色を持ったお城
- 山梨の北杜出身で、埼玉川越居住の自身としては「川越城主、そして甲府城主であった江戸幕府5代将軍・綱吉の側用人で、六義園の築庭を行い、元々は甲斐源氏の流れを汲み(柳沢氏発祥の地は山梨県北杜市武川)、武田信玄同様山梨の恵林寺に墓所がある『柳沢吉保』」の子供・柳沢吉里が郡山柳沢氏初代として城主を務めたお城という事で、勝手に親近感を持ってしまうお城
- 近くには、薬師寺や法隆寺、更には東大寺・興福寺・春日大社と言った見所満載の神社仏閣がある
現在、奈良の郡山市にある郡山城は、上記の感じの個人的な心象で、勝手に親近感を覚えていたお城ではありますが、まだお邪魔した事が無い事もあり、「あまり土地勘のない地域にあるお城だけど、ちゃんと調べていつかはお邪魔したいお城」といった感じでした。しかし本ブログにて、薬師寺・法隆寺・東大寺・興福寺・春日大社と言った奈良盆地北側の神社仏閣を、今後の訪問先として大人散策を遂行できるよう調査し、記載している際「ここに郡山城ってあったんだ!」と偶然見つけてしまい、半分興奮状態に陥ってしまった次第です。日本三大山城の1つ・高取城や(個人の見解ですが)日本と言う国の発祥地の象徴とも言ってよい大神神社・橿原神宮等がある奈良盆地南側も魅力的ですが、上記の通り、奈良盆地の北側も勿論魅力的。日程的に1回の旅行で、奈良盆地の北・南にある上記各スポットを回る事は難しいかもしれませんが、2回に分けて北側と南側を巡る事はできるかもしれないと思い、であれば大和郡山城に関しても大人散策のプランニングをしておかなければならないと思った次第です。
こちらのページでは、個人的にそんな思い入れのあるものの、まだお邪魔したことがない「郡山城」に付き、記載いたします。すなわち、「旧大和国(現・奈良)にあった100万国のお城『郡山城』の概要を抑え、大人散策をプランニング」させて頂こうと思います。
【大和郡山城の概要】
まずは、大和郡山城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です… まとめも結構長いので…)。
郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあった日本の城。中心部は国の史跡に指定されている。豊臣政権の中初期には秀吉の異父弟(同父弟説もある)羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。
概要
10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。奈良時代には薬園が営まれていた。郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。奈良は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。
17世紀初頭、増田長盛が改易された後一時廃城となるが、水野勝成入封時に徳川幕府によって改修を受けた。その後は譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里の入封後は柳沢氏が明治維新まで居城とした。
桜の名所として、日本さくら名所100選に選定されている。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(165番)に選定された。柳沢神社創立時に植えられた桜は日本さくら名所100選にも選ばれ、毎年4月1日から行われる「お城まつり」には多くの花見客でにぎわう。
2022年11月に国の史跡に指定された。 (略)筒井順慶時代
筒井城の戦いで筒井城が松永久秀軍に属すると、郡山城は福住中定城と共に筒井順慶軍の拠点となっており、元亀元年(1570年)3月から元亀2年(1571年)8月まで松永久秀、松永久通親子の攻撃をうけていた (略)
天正11年(1583年)4月に「天守」が完成する(『多聞院日記』)。織田信長は天正8年(1580年)8月に破城令を出し大和国では一城とし、筒井城もこの時に破却して郡山城の一城のみとなった。「織田信長は大和に争乱の時代が終わったことを示そうとしていた」と指摘されている。天正9年(1581年)から明智光秀が普請目付として着手し、大規模な近世城郭として工事が開始され、奈良の大工衆を集めたことが記録されている。しかし、その筒井順慶も天正12年(1584年)に死去すると、養子の筒井定次は豊臣秀吉の命により伊賀上野城へ転封となった。豊臣時代初中期
1585年(天正13年)豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入る。秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、城郭作りや城下町の整備を急いだため根来寺の大門を移築したり、当時大和は石材に乏しかったために、天守台の石垣には墓石や石仏(地蔵)までも用いられている (略)
1591年(天正19年)豊臣秀長が没し、その養子豊臣秀保も文禄4年(1595年)に死去すると、大和大納言家は断絶し100万石城の時代は終了する。豊臣時代後期
五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城する。このとき約48町13間(後に50町に拡張)に及ぶ堀と土塁で城下町を囲む壮大な惣構えが構築され郡山は城郭都市の様相を呈するに至った。関ヶ原の戦い後に増田長盛は高野山に追放となり、郡山城の建築物のほとんどは徳川家康により伏見城に移築された。しかし、天守は二条城に移されたという (略)羽柴秀長 筒井順慶 Wikipediaより 柳沢氏時代
享保9年(1724年)に柳沢吉里が甲斐甲府藩から15万石で移封され、城下町の整備に努めた。この頃の城下町の様子が『郡山町鑑』にみえる。 (略)
柳沢氏が入封して以降、郡山城は安定した時期を迎えていたが、天明7年(1787年)に大飢饉が発生、城下町の民家を群衆が打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎが起こる。安政5年(1858年)12月1日、郡山城二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群は全て焼失する大火にみまわれた。文久元年(1861年)に再建に着手するが、明治維新を迎え、明治3年(1870年)に藩は今後城の修理を行わないことを出願し、これが明治新政府に聴許された。のち明治6年(1873年)郡山城は破却された (略)近代以降
1873年(明治6年):廃城令によって廃城の扱いとなった (略)
2022年(令和4年):国の史跡に指定 (略)天守台
(略) 2013年(平成25年)から2017年(平成29年)にかけて調査・整備事業が行われ、礎石が確認された。この調査で、豊臣秀長時代あるいは増田長盛時代には天守が確実に存在し、後に二条城更に淀城へ移築された話も事実と確定された (略)転用石
天守台の裏手、北側の石垣には、付近から徴用されて築城に使われた数多くの石地蔵が、石垣に組み込まれたまま城下の人々により祀られている。石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは逆さ地蔵と呼ばれている。これらの地蔵のために、北側の石垣沿いにはさらに多くの石地蔵が奉納されている。また地蔵以外にも由来の変わった石は多く、市内東部の平城京羅城門跡から運ばれた礎石と伝わるものなどもある (略)https://ja.wikipedia.org/wiki/郡山城_(大和国) 天守台転用石(逆さ地蔵) 天守台転用石 逆さ地蔵(奥が顔 下を向いている) 天守台転用石(伝羅城門礎石) Wikipediaより
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます。
- 郡山城は、平山城または平城として明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修されたお城で、豊臣政権期の羽柴秀長が居城とした頃は、大和・紀伊・和泉100万石の中心だったお城で、現在は、続日本100名城に選定され、日本さくら名所100選にも選ばれ、国の史跡に指定されている奈良県大和郡山市にあるお城
- 現在、天守は残っていないが、いくつかの櫓・門等の復元されており、平成期に調査・整備事業が行われた際には礎石が確認され、豊臣秀長時代あるいは増田長盛時代には天守が確実に存在し、後に二条城、更に淀城へ移築された話も事実と確定されたらしいく、また、天守台の北側を中心に「転用石」と言われる、珍しい石を使った石垣がある事でも有名で、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用され、中には平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」の石仏が郡山城の石垣の中から見つかったりしているらしい
- 城主としての有名なのは、上記記載の豊臣政権期の羽柴秀長に加え、その前の時代の筒井順慶、江戸中期以降から明治維新までの柳沢氏(藩主・柳沢氏の初代は、柳沢吉保の子供でる吉里)の認識
つまり大和郡山城とは、
『現在拝見できる当時の遺構は「転用石」等で有名な独特な石垣の部分が語られ、復元の構造物はあるが天守が存在していない為か、限定的の様な感じがするものの、筒井順慶も居城とし、明智光秀や藤堂高虎が普請にも携わったお城で、豊臣秀吉政権期に豊臣秀長が居城とした頃は、100万石のお城として栄えたお城でもあり、東京にある庭園・六義園の築庭者で、江戸幕府5代将軍・綱吉の側用人でもあり、川越城主・甲府城主であった為、個人的に親近感を覚える柳沢吉保の子供・吉里が、江戸中期に城主になってから明治維新まで柳沢氏の居城となった、続日本100名城・国指定史跡に選定されたお城』
と理解させて頂いた次第です。
【大和郡山城の周囲も含めた見所】
上記、大和郡山城の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。尚、大和郡山城の最寄り駅は、近鉄橿原線の「近鉄郡山駅」の様ですので、こちらからのスタートとさせて頂き、徒歩で以下のコースをめぐる事を想定させて頂きます。
・近鉄郡山駅~郡山城情報館
地図を拝見する限り、近鉄郡山駅から郡山城へのアクセスは、「南御門跡付近」or「鉃御門跡付近」が適切と認識をさせて頂きました。であれば、「南御門跡付近」から入って、城内を拝見し、「鉃御門跡付近」から失礼するするルートが良いと思った次第です。しかし、その前に近鉄郡山駅の北東側にある「大手橋跡」・「百寿橋」・「五軒屋敷堀跡」・「頰當門跡」・「柳御門跡」といった遺構もある様なので、まずはこれらを拝見させて頂きつつ、ここから西に進んで、現在二の丸跡は郡山高校で恐らく入る事が出来ないと思われますが「巽隅櫓跡」・「土橋跡」等の遺構を出来る限り(遠目でも)拝見しつつ、「鷲池」の南側の道を更に西に進みたいと思います。そしてここで、「(郡山城から移築されたと言われる南御門の)永慶寺 山門」を拝見すべく一度南下した後、その後北に進路を取って「南御門跡」・「舟入跡」・「薪曲輪跡」・「松陰堀跡」等を拝見しつつ「麒麟曲輪跡」まで北上し、ここで戻る形で「松蔭門跡」から「郡山城情報館」を目指したいと思います。
・郡山城情報館~極楽橋
「郡山城情報館」で、郡山城の情報を出来る限りインプットし、再度大人散策を開始。東側の本丸のを守る石垣や「御厩向櫓趾」を堀越に拝見しつつ北上し、「厩跡」・「左京堀」・「馬場先門跡」・「玄武曲輪跡」・「法印曲輪」・「追手東隅櫓」・「久護門跡」と城郭北側を西から東に回り込んで、復元された認識「追手門」・「多聞櫓」・「追手向櫓」をじっくり拝見させて頂こうと思います。その後南下し「毘沙門曲輪跡」で「弓櫓跡」をまず拝見してから「柳澤文庫(旧柳澤伯爵家郡山別邸)」にお邪魔したと考えて折ります。お邪魔した事はないので何とも言えませんが、「柳澤文庫(旧柳澤伯爵家郡山別邸)」と言う名前ですから、「甲斐源氏としての柳沢氏」、「武田信玄との関連」と言った展示がある事を期待しつつ、郡山城の歴史も含めた情報を得て、「柳沢氏の歴史」に思いを馳せてみたいと思って折ります。その後、「極楽橋」から「本丸」に参らせて頂こうと思います。
・極楽橋~天守台
「極楽橋」から「白沢門櫓跡」を拝見しつつ「本丸」にお邪魔したら、まずは自身が勝手に親近感を持ってしまっている由来である柳沢吉保を祭神としておるはずの「柳澤神社」でお参り申し上げ、「月見櫓趾」を見つつ「天守台」に向かって進み、「(伝)平城京羅城門礎石」・「逆さ地蔵」といった「転用石」を拝見して、「天守台」に参らせて頂こうと思います。現在の大和郡山城における一番の見所と認識する「転用石」を利用した「天守台」ですので、その石垣をじっくり拝見し、そして天守はなくとも展望台の様に「天守台」は整備されているようなので、恐らく城郭の全体図だけではなく郡山の街並みも楽しめるのでないかと期待して折ります。
・天守台~弁慶定形石 (桜門跡)
「天守台」の石垣で「転用石」を拝見し、「天守台」から城郭の全体図を拝見した後は、「本丸坤櫓趾」・「竹林門跡」・「二重多聞櫓跡」・「竹林門櫓跡」等を拝見し、「竹林門跡」から「竹林橋址」/「鳥居」をくぐって本丸を失礼します。その後、「内堀」を横目に少し西にある「中仕切門跡」も拝見し、その後進路を東にとって、現在は郡山高校の敷地でほとんど見れないと思われる「二ノ丸裏門跡(御殿)」・「二ノ丸表門跡」・「菊畑跡」等を出来る限り拝見しつつ「鉃御門跡」から現在の城郭エリアを失礼しようと思って折ります。その後、更に東にある「中堀跡」、その北にある「五軒屋敷郭跡(柳曲輪跡)」、そして更に北にある「弁慶定形石 (桜門跡)」を拝見し、郡山城における大人散策をコンプリートとさせて頂く計画をした次第です。
「弁慶定形石 (桜門跡)」で、郡山城における大人散策はコンプリートの予定ですが、郡山城の大人散策は、それなりの時間が必要そうですが、1日はかからないと思い、折角、埼玉の川越からこの地に参らせて頂くのであれば、併せて「薬師寺」にも脚を伸ばしたいと思って折ります。
【最後に】
以上が、「旧大和国(現・奈良)にあった100万国のお城『郡山城』の概要を抑え、大人散策をプランニング」につき共有させて頂いた内容になります。
現在では、100万石のお城として金沢城が有名ですが、大和郡山城も100万石のお城であった時代がある城郭。江戸期を挟んでしまった為、その認識が薄れてしまっている印象がありますが、その時代は確実にあり、その歴史に思いを馳せるべきお城だと思った次第です。そして、周辺に目を向けると、有名な神社仏閣もあり、1日使ってしまうと思いますが、大和郡山城とセットで薬師寺も楽しめると思うと同時に、折角埼玉の川越から参るのであれば、更にもう1日かけて、東大寺・興福寺・春日大社と言った神社仏閣にも脚を伸ばしたいと思った次第です(更に日数日数伸ばして、大神神社・橿原神宮等にも参りたいですが…)。実行できた暁には、本ブログで報告申し上げようと思って折ります!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。