六義園

【はじめに】

こちらのページでは、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の側用人である「柳沢吉保」が、万葉集・古今和歌集等より各地の名勝を選定し、庭園に写し取ったと言われる、六義園を紹介致します

柳沢吉保には、個人的に非常に親近感を感じています。その理由は、簡単に以下の通りです。

  1. 柳沢氏は、我が故郷の山梨県北杜市に由来する「甲斐源氏の一族」で、甲斐武田家の家臣の一族である事 (柳澤氏発祥之地碑Mpa:https://maps.app.goo.gl/9TYbYj1AsxDcZjHR8)
  2. 現在私達夫婦は、埼玉県の川越に居住していますが、柳沢吉保は、川越藩の藩主でもあった経歴がある事。
  3. 川越藩主を務めた後、やはり私の故郷、甲斐甲府藩の藩主も務めた事。
  4. 現在墓所は、武田家旧臣の家の出と言う事の為か、武田信玄と同じ山梨の恵林寺に墓所がある事。
  5. 私達夫婦のお気に入りの庭園「六義園を築庭した事

上記の通り、正直大した繋がりがある訳ではありませんが、「同郷の縁があり、居住先も同じだったことがある、歴史に名を刻む人」と言う事で、肩入れしたくなってしまう人です。

こちらのページでは、そんな柳沢吉保が築庭した「六義園」の概要と歴史(柳沢吉保の歴史も含めつつ)、そしてその楽しみ方をご紹介致します

【六義園の概要と歴史(柳沢吉保の歴史も含めつつ)】

六義園は、東京の文京区にあり、山手線/南北線・駒込駅から、徒歩10分もせずアクセスでき、山手線の巣鴨駅/三田線の千石駅からも徒歩10分程度でアクセスできる、立地のよい場所にある大名庭園です。概要を抑えるべく、Wikipediaを調べてみますと、以下の様にあります(引用少々長いので以下にポイントを箇条書きにまとめております)。

六義園(りくぎえん)は、東京都文京区本駒込六丁目にある都立庭園で、「回遊式築山泉水庭園」の日本庭園(大名庭園である。国の特別名勝に指定されている (略)    

六義園の土地は、当時は武蔵野に繋がる広々とした「原野(原っぱ)」地帯で、樹林と豊富な水量に恵まれた、作庭には適した所だった。 『本郷区史』には、寛永5年(1628年)、将軍家の鷹狩りの場として、江戸近郊に52カ村が指定され、雑司ヶ谷、本郷、小石川村などが鷹狩場となっていたと記されている (略)    

五代将軍綱吉の家臣柳沢出羽守保明(後の柳沢吉保)は、元禄8年(1695年)4月22日、松平加賀守の上屋敷であった染井村の約45,862坪四万五千八百六十二坪の土地を幕府より拝領した。元禄文化のさなかにあって吉保は、「別荘庭園」として活用することを考えた。これまでの平安時代の「寝殿造の庭」、室町時代の「書院造の庭」、また禅宗の「枯山水の庭」とは違った江戸時代の「廻遊式築山泉水庭園」であった

それは、保明の文芸趣向に基づいた、本郷台地の広大な平坦な土地に、山を築き、池を掘り、流れを引き、紀州の和歌の浦の景勝を写し、また、『万葉集』や『古今和歌集』より名勝を取り出し、八十八境を写しだすことだったその庭園の名を「六義園」と名付け、「むくさのその」と呼び、館を「六義館」、「むくさのたち」と称した。六義とは詩道の基本とする六つの体で、「賦(ふ) 感想を述べたもの」「比(ひ) 例をとり感想を述べたもの」「興(こう) 外物にふれ感想を述べたもの」「風(ふう) 民間で行われる歌謡」「雅(が) 朝廷でうたわれる雅正の詞藻」「頌(しょう) 宗廟頌徳の詞藻」をいう (略) 

六義園の作庭が何時始められたかの記録はないが、幕府から拝領された頃と言われている。そして、完成したのは元禄15年(1702年)10月21日とされている。保明は、7年の歳月をかけ江戸屈指の大庭園を造った。 (略)  保明は政務多忙の日々を過ごし、作庭工事の報告をうけ、図面を広げて指図して、造園の材料や奇岩や珍樹の寄付を受けたりなど、全て連絡係を使って工事を進めた。元禄14年(1701年)、保明は、綱吉から松平の姓と綱吉の「吉」の一字を与えられ、松平美濃守吉保と改名した。(略)     

正徳4年(1714年)11月2日、吉保が57歳で六義園において亡くなった。吉保夫妻は、甲府の永慶寺に葬られたが、吉里により、現在の山梨県塩山市にある武田家の墓所であり、柳沢家の菩提所とした乾徳山恵林寺に改葬した。 (略)     

4代当主保光は、文化6年(1809年)、家臣に命じて六義園の復旧工事を計画し、1年間をかけて園内の整備工事を行った、要した費用は多大であっという。この工事において、名勝の碑文柱である八十八境を復旧したが、大方が消失しており、53カ所の石柱が復旧された。 (略)  

明治11年(1874年)に、土佐藩浪士の子である岩崎弥太郎が、六義園を買収し岩崎家の別邸として、昭和13年(1938年)、東京市に寄贈するまでの60年間を過ごした。 (略)    

当時の六義園は、次第に荒廃が進む一方だった。弥太郎は明治11年(1878年)、清澄庭園を手に入れ、さらに、隣接する藤堂家・安藤家・前田家などの邸地を併せて12万坪の広大な土地を手に入れた。その後の六義園は、弥太郎が亡くなり、弥之助(弥太郎の弟)が明治19年(1886年)に、庭園の復旧工事を進め、下総の山林から樹木を移植し、各地から庭石を集め、池には千川上水から水を注ぎ、完成時の景観を復元した。その後は長男久弥の代となり、本邸になっていた時期があったが、庭園部分だけを残し売却された。現在の六義園の東側一帯を東洋文庫と理研などに、西側一帯を大和郷住宅地に、北側一帯は国電山手線と駒込駅にである。山手線の布設のために約3万坪を売却した (略)

東京市に寄付当主岩崎久弥は昭和13年(1938年)4月27日、東京市公園課の井上清の考えである都市の緑の重要性に感銘し、六義園を永久保存することと、一般市民に公開することを決意し東京市に寄贈した。昭和15年(1940年)、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき名勝に指定され、 法制度に基づく保存管理が始まった。その後、戦争により被災したが復旧された (略)    

創設時との比較元禄末年頃、狩野派が描いたと伝わる古図「柳沢候六義園全図」と現在の庭園の状況を細部を除いて比較すると、最も著しい違いは池が東と西の二カ所存在したが、現在は東の一カ所だけである。この事から、現在の六義園は創設時代の庭園規模の約三分の一が縮小されているが、現在の主要部分は保存されている  (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/六義園

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントを自身が持っている情報も加えて記載します。

  1. 六義園は、東京都文京区本駒込にある都立庭園で回遊式築山泉水庭園」の大名庭園
  2. 六義園がある土地は、元々当時は武蔵野に繋がる広々とした「原野(原っぱ)」地帯で、樹林と玉川上水 & 千川上水が通ったこともあり、豊富な水量に恵まれた作庭には適した所
  3. 柳沢吉保は、五代将軍綱吉の家臣
  4. 柳沢吉保が、1695年に現在六義園がある地一帯(現在よりも広範囲)を幕府より拝領し、六義園の作庭を開始し、自身で指示を出しつつ、7年かけて、1702年10月に完成  
    • 1694年:武蔵国川越藩主になる  
    • 1704年:甲斐国甲府藩主になる  
    • 柳沢吉保が六義園を作庭したのは、川越藩主であった期間と言う事になる  
    • 綱吉の側用人で、松平の姓と綱吉の「吉」の一字を与えられ、松平美濃守吉保と改名した(元々は「柳沢保明」)事からふまえると、綱吉と吉保の間柄は、かなり近しいものと推察
  5. 柳沢吉保は、文芸趣向に基づき、紀州の和歌の浦の景勝地 / 万葉集や古今和歌集より名勝を取り出し、八十八境を写した庭園づくりを行った
  6. 「六義園」の由来は、、中国の詩の分類法(詩の六義:以下6つ)にならった古今集の序にある和歌の分類 の六体に由来 (兼六園の親戚?)  
    • 「賦(ふ) 感想を述べたもの」  
    • 「比(ひ) 例をとり感想を述べたもの」  
    • 「興(こう) 外物にふれ感想を述べたもの」  
    • 「風(ふう) 民間で行われる歌謡」  
    • 「雅(が) 朝廷でうたわれる雅正の詞藻」  
    • 「頌(しょう) 宗廟頌徳の詞藻」
  1. 1874年に、岩崎弥太郎が、六義園を買収し(ほぼ同時期に、別記事紹介の清澄庭園も買収している)、岩崎家の別邸とし、1938年に東京市に寄贈するまでの60年間を過ごした  
    • 岩崎家の所有であった期間、土地は切り売りされた様子(大正期の初めにかけてと推察)
    • 特に、江戸時代には、池が東と西の二カ所存在したが、現在は東の一カ所だけである事から、現在の六義園は創設時代の庭園規模の約三分の二に縮小されていると思われる一方、現在の主要部分は、復元もありしっかり保存されている  
  2. 1938年、六義園を永久保存することと、一般市民に公開することを決意し、岩崎家より東京市に寄贈され、更に1940年には、名勝に指定された

こうしてみてみると、「六義園は、5代将軍綱吉と関係の深い柳沢吉保が、川越藩主であった期間の1700年位に、自身の文芸趣味に基づいて作庭した「回遊式築山泉水庭園」の大名庭園で、明治期には、岩崎弥太郎により清澄庭園と同時期に買収され、その期間(恐らく大正期)に切り売りされ、三分の二程度に小さくなったが、現在みられる主要部分は、江戸時代の面影も残しており、名勝として現在も吉保の文芸趣味を楽しむ事が出来る庭園」と理解させて頂きました。

そして1点、思ってしまいました。それは、「六義園のある地形を見てみると、武蔵野台地の上のヘリにあり、ここでは、自然の環境下では、水の確保が難しいが、1696年に開通したと言われる「千川上水(分水元の玉川上水を別記事にて記載中)」の水を、綱吉に近い立場を利用し、「我田引水」ならぬ「我池引水」で、吉保は、六義園に水を引き入れたのでないか」と…。

【六義園の楽しみ方】

上記、六義園の概要とその歴史を作庭者の柳沢吉保の若干の歴史を含め、抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、「六義園の楽しみ方」に付き、個人的な視点ではありますが、記載させて頂きます。

・季節の花々や紅葉を楽しむ

六義園と言えば、やはり「ツツジ」が有名だと思いますが、南側の正門を入ったすぐの場所にある「枝垂桜」も中々の物です。同時にそれぞれの季節で、それぞれの花々を楽しむ事は、六義園における楽しみ方の1つだと思っています。Wikipediaにも、以下の様にあります。

(略) 六義園の見どころは、庭園入口近くにある3月末に満開を迎える大きなしだれ桜春から夏頃にかけ園内は華が咲き誇り色彩豊かな景色を楽しめる。この枝垂桜の満開期と紅葉の最盛期にはライトアップがされる。秋は紅葉、春は桜と、四季折々の変化を楽しめ、冬場は雪に備えた雪吊りと変化を楽しめる躑躅の花が有名で、地元では「駒込と言えばツツジの花の咲く街」と謳われる象徴的な存在となっている (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/六義園

・写し取った景勝地を探しつつ、庭園のカラーを楽しむ

上記の段落でも触れさせて頂きました通り、「元々六義園は、柳沢吉保の『文学趣味』に基づいて、作庭された庭園」と言われています。六義園のパンフレットによると、現在では、32か所のみしか残っていない様ですが、吉保により、紀州の和歌の浦の景勝地 / 万葉集や古今和歌集の名勝から選出したスポットは、元々88か所あったと言われており、この88か所を選んだ理由も『「八雲の道=和歌の道」に通じるから』と言う事で、これまた吉保の文学趣味が現れたもの。残念ながら現在は、32か所のみとの事ですが、吉保が選定した理由を想像しつつ、その残った32か所を探しながら、園内を散策するのは、正に大人散策だと思います。ちなみに、Wikipediaには、吉保が選定した、88のスポットに付き、以下の様にあります。

(略) 六義園八十八境  

柳沢保明が八十八に拘ったのは、八が八雲に通じ、八雲の道すなわち和歌の道を表し、八十八の数が未来永劫を意味する。  

1.遊芸門、2.見山石、3.詩源石、4.心泉、5.心橋、6.玉藻礒、7.風雅松、8.心種松、9.古風松、10.詩林松、11.掛名松、12.夕日岡、13.出汐湊14.妹山、15.背山、16.玉笹、17.常盤、18.堅盤、19.鶺鴒石、20.詩花石、21.浮宝石、22.臥龍石、23.裾野梅、24.紀川、25.詠和歌石、26.片男波、27.仙离橋、28.芦葉、29.名古山、30.新玉松、31.兼言道、32.藐姑射山、33.事問松、34.過勝峯、35.藤浪橋、36.宿月湾、37.渡月橋、38.和歌松原、39.老ヶ峯、40.千年坂、41.朧の岡、42.紀川上、43.朝陽岩、44.水分石、45.枕流洞、46.拾玉渚、47.紀路遠山、48.白鳥関、49.下折峯、50.尋芳径、51.吟花亭、52.峯花園、53.衣手岡、54.掛雲峯、55.指南岡、56.千鳥橋、57.時雨岡、58.覧古石、59.妹松、60.背松、61.亀浮橋、62.霞入江、63.吹上浜、64.吹上松、65.吹上小野、66.吹上峯、67.木枯峯、68.霞渟坂、69.雲香梅、70.桜波石、71.浪花石、72.白鷗橋、73.藻塩木道、74.藤代峠、75.擲筆松、76.能見石、77.布引松、78.不知汐路、79.座禅石、80.万世岡、81.水香江、82.花垣山、83.篠下道、84.芙蓉橋、85.山陰橋、86.剡渓流、87.蛛道、88.藤里(2023年4月現在、残存未確認)   (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/六義園

また、(個人的な感覚で恐縮ですが)六義園は、他の大名庭園と比べ、雰囲気が明るいと思っています。広い池泉の為か、芝と植栽のバランスがいいのか、植栽が周囲の現在の建物を上手く隠している(勿論すべては隠れませんが…)事に寄り空が広く見える為か、良く解りませんが、出汐湊を対岸から望む景色や藤代峠からの景色は、視界も抜け明るい雰囲気を醸し出している印象です。そういった意味では、江戸期のそれに近い景観が残っている大名庭園とも思い吉保選定の88か所のスポット(現在は、32か所との事ですが…)同様、この六義園のカラーだと個人的には思っています。そんな庭園独自のカラーを感じつつ、庭園内を大人散策するのも、一つの楽しみ方ではないかと思った次第です。

・歴史に思いを馳せる

300年以上の歴史を持つこの庭園と、この庭園にかかわった人達の歴史に思いを馳せつつ、庭園を散策するのも、良いのでないかと思います。個人的思考(事実無根の妄想?)で恐縮ですが、いくつか例を挙げますと以下の様になります。

  • 綱吉が、「鷹狩場であったこの地を、仲良しの吉保に与えた」と言う事は、「鷹狩の時にはよるのでよろしく!」と言っている意味?
  • 吉保は、「将軍がおいでになるのであれば!」と気合を入れて築庭を行い、大名庭園と言えば大池泉!」と思い、ちょっとエスカレートして大きな池泉を作り始めるが、水が無い事に気付いたので、六義園の池泉の水を千川上水から得る為、綱吉にどの様におねだりしたのだろうか?
  • 上記の通り、吉保と仲良しだったはずの綱吉は、「鷹狩」と称して、この六義園に、結局どの程度通ったのだろうか? (58回としている情報をいくつか見かけましたが…)
  • 六義園の作庭時、吉保は川越藩主であったわけだが、その時の川越の治世をどの程度の割合で考えていたんだろうか?川越市民としては気になる…
  • 六義園が完成した2年後には、甲斐甲府藩主になっているが、これは、前任の甲府藩主が、吉保と関係深い5代・綱吉の後の将軍になった為(6代将軍・家宣は、甲府藩主⇒6代将軍)現浜離宮(当時は「浜御殿」)は、家宣の庭園として「徳川将軍家の庭園」になるので、政治的な立ち位置でも、庭園の比較においても、吉保はどの様に感じていたのか?
  • 隠居後、吉保は六義園に移り住み、墓所は甲斐武田家旧臣の一族と言う事からか、山梨の恵林寺にあるが、政治の一線を退き時間の出来た吉保は、この六義園で自身の甲斐源氏としてのルーツや一族発祥の地である現山梨県北杜市に対し、どんな思いを持って過ごしたんだろうか?
  • 岩崎弥太郎が、同時期に購入した清澄庭園と比べ、岩崎カラーが六義園には少ない印象があるが、弥太郎は、清澄庭園と六義園の位置づけをどのように想定していたのであろうか?

かなり、個人的な思考で妄想してしまいましたが、単なる現在の庭園散策だけではなく、歴史ある庭園だからこそ、そこを舞台に生きてきた人達の思いも詰まっているのが、大名庭園だと思い、その思いを想像しつつ散策するのは、単なる散策を大人散策として「深みを与えてくれる楽しみ方」だと思いましたので、上記勝手な妄想を共有させて頂きました。

【最後に】

以上が、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の側用人である、柳沢吉保が、万葉集・古今和歌集等より各地の名勝を選定し、庭園に写し取ったと言われる、六義園を紹介させて頂いた内容になります。

上記、個人的な独断と偏見で、庭園や築庭主である柳沢吉保に関し想像(妄想)してみましたが、そんな想像(妄想)をせずとも、庭園その物を十分に楽しめるのが、六義園だと思っております。繰り返しの記載になりますが、特に、「出汐湊を対岸から望む景色」や「藤代峠からの景色」は、視界も抜け明るい雰囲気を醸し出している六義園を代表する景観だと思いますので、景観その物を楽しみ、花々も楽しみ、出来れば、六義園が歩んできた歴史に思いを馳せつつ(想像/妄想しつつ)、六義園での大人散策を楽しんでみてはいかがかと存じます!

尚本ブログでは、東京旧古河庭園東京椿山荘神戸相楽園京都無鄰菴高松栗林公園熊本水前寺成就園山梨恵林寺庭園甲府常磐ホテルの庭園平泉毛越寺庭園名古屋徳川園二条城二の丸庭園川越喜多院の紅葉山庭園/中院の庭園熱海の起雲閣旧芝離宮恩賜庭園小石川後楽園清澄庭園浜離宮六義園新宿御苑日本三名園金沢兼六園岡山後楽園偕楽園等、全国各地の庭園も紹介しており、「日本庭園のカテゴリ分け(庭園分類)」に関しても記載しております(更新中あり)ので、下記一覧表をご活用いただき、ご参照頂けますと幸いです。

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