【はじめに】
こちらのページでは、「時には『三大八幡』の1つにも数えられ、『源氏の守り神』として創建された『鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝』ゆかりの神社『鶴岡八幡宮』の概要と大人散策情報を共有」させて頂こうと思います。
皆様は、「三大八幡」ってご存じでしょうか? 本ブログ別記事でも紹介させて頂きましたので詳細はそちらを参照頂きたいのですが、『三大八幡と呼ばれる神社は、「宇佐神宮(大分県宇佐市) +石清水八幡宮(京都府八幡市)」+「”筥崎宮(福岡県福岡市東区)” or ”鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)”』と言われてる認識です。つまり、「宇佐神宮」と「石清水八幡宮」は、当確の三大八幡で、残りの1席は「筥崎宮」 or 「鶴岡八幡宮」と一般的には言われているようです。




言い換えると、『「鶴岡八幡宮」は「三大八幡」と、100%は言い切れない…』という事になりますが、正直個人的には「『三大八幡』でも『四大八幡』でも良い(むしろ四大八幡にすべき!)」と思ってます。つまり、明確に言える事は『「源氏の守り神」として創建された「鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝」ゆかりの神社である鶴岡八幡宮は「三大八幡」に相応しい神社』という事だと思って折ります。昨今、神社本庁と少しゴタゴタしている様で、別表神社ではなくなる(なくなった?)様ですが「鶴岡八幡宮の本来持つ格式に影響を与えるものでなく、今後も鎌倉を代表する神社仏閣の1つであり続ける」と思っている次第です。
こちらのページでは、そんな理解をしている「鶴岡八幡宮」に付き記載いさせて頂きます。すなわち、「時には『三大八幡』の1つにも数えられ、『源氏の守り神』として創建された『鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝』ゆかりの神社『鶴岡八幡宮』の概要と大人散策情報を共有」させて頂こうと思います。



【「鶴岡八幡宮」とは?】
まずは「鶴岡八幡宮」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報収集させて頂きますと以下の様にあります(引用少々長い為、以下にポイントをまとめておりますので、引用読まなくても大丈夫です)。
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある八幡宮。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。11世紀後半に、源氏の守り神として創建された。以後、鎌倉武士の守護神となる。現代では全国の八幡宮の中で、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝ゆかりの神社として関東方面で知名度が高い。境内は国の史跡に指定されている。旧社格は国幣中社で、神社本庁の別表神社であったが、2024年に神社本庁を離脱する手続きを進めている (略)
祭神
現在の祭神は以下の3柱。「八幡神」と総称される。
・応神天皇 (おうじんてんのう) 第15代天皇
・比売神 (ひめがみ)
・神功皇后 (じんぐうこうごう) 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母鶴岡八幡宮 現地説明看板 鶴岡八幡宮の御朱印 歴史 概史
(略) 1063年 8月に源頼義が、前九年の役に際して戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現・材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請した。1081年2月に河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。これが鶴岡八幡宮の始まりとなった。
1180年10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。1191年に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。1208年には神宮寺が創建される。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源頼義・義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退する。戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうものの(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂などを建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また、境内には方五間の多宝大塔や、東照宮も存在した。
江戸幕府崩壊後 (略) 鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈の動きが始まった。同年中に多宝大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草の社僧が中心となって行った。また、一部残存していた仏堂も、その後真が残されている。
明治の近代社格制度では県社に列し、1882年に国幣中社に昇格。戦後は神社本庁の別表神社に列している。近年は全国一の宮会に加盟しており、相模国の一宮と扱われることもある(ただし歴史的には一宮は寒川神社である) (略)
2024年(令和6年)3月5日、神社本庁に対し、離脱する通知を内容証明郵便で送付し、7日に受理された。離脱には県知事の認証などが必要で、手続き終了まで数カ月かかるとみられていたが、同年6月4日に宗教法人法に基づき神奈川県の認証を受け、今後は法人規則変更の登記手続きを進めることとなった。また同時期に、鶴岡八幡宮の宮司が兼務する近隣の鎌倉市西御門の白旗神社と荏柄天神社も追従し、神社本庁から離脱する通告を出している。Wikipediaより: 鶴岡八幡宮 末社武内社(左の小殿)と上宮本殿(右) Wikipediaより: 鶴岡八幡宮 本宮(上宮) Wikipediaより:由比若宮(元八幡) Wikipediaより 境内
本宮(上宮)は文政11年(1828年)に徳川家斉が再建した流権現造で、国の重要文化財に指定されている。本宮は大石段上にある。大石段は61段あり、登りきると桜門、その奥に拝殿とつながった本宮がある。石段下にある舞殿は、「下拝殿」ともいう。前面にある建築物は21世紀に入ってから増築されたもので、当初は朱塗りではなく白木造りであった。
また、境内入口には源頼朝が臨時別当の専光房良暹と大庭景義に命じて掘らせた「源平池」と称する、左右2つに分かれた池がある。源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産(三)と死(四)を表すという。池には鯉やすっぽんが生息し、水鳥も多い。夏期には蓮の花が一面を覆う。源氏池の島には旗上弁天社がある。源氏池と平家池を繋ぐ水路には石造の橋が架けられ「太鼓橋」と称される (略)
境内東側には1928年(昭和3年)に開館した鎌倉市立博物館の鎌倉国宝館があり、市内の社寺などから寄託されている国宝や重要文化財を多数収蔵している。鎌倉国宝館の本館は登録有形文化財でもある。 (略)参道
鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれる。由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、京の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた。二の鳥居からは段葛(だんかずら)と呼ばれる車道より一段高い歩道がある。そこを抜けると三の鳥居があり、境内へと到る。
この段葛は、二の鳥居の辺りでは幅4メートルほどだが、三の鳥居では幅が約3メートル程度となっており、先に進むほど徐々に細くなっている。人間の目の錯覚を利用し、参道を実際より長く見せ、奥の本殿を厳かに見せるための設計との説がある。段葛は鶴岡八幡宮境内の敷地とみなされており、扱いとしては神社の私道である (略)鎌倉 鶴岡八幡宮 一の鳥居 鎌倉 鶴岡八幡宮の二の鳥居と段葛 鎌倉 段葛と三の鳥居 Wikipediaより:鶴岡八幡宮拝殿前石段から見た、三の鳥居(手前)、二の鳥居(中)、一の鳥居(奥) 鶴岡八幡宮の鳥居
つまり、自身の持っている情報と併せて理解すると、以下の様になった次第です。
鶴岡八幡宮は、「八幡神」と総称される「応神天皇」や「神功皇后 」らをご祭神とする、11世紀後半に「源氏の守り神」として創建された「鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝」ゆかりの神社で、時には「三大八幡」の1つにも数えられる神社。境内は国の史跡に指定され、旧社格は国幣中社で、神社本庁の別表神社であったが、2024年時点で神社本庁を離脱する方向で動いているらしい。
その歴史は、平安時代の中頃「源頼義」が、京都の石清水八幡宮(or 河内源氏氏神の壺井八幡宮)から、現在とは少し違う場所に「鶴岡若宮」として勧請し、その後「源義家(八幡太郎義家)」が修復を加えた事に始まり、鎌倉時代の直前に、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った後裔の「源頼朝」が、あらためて石清水八幡宮から勧請し、1208年には神宮寺が創建されたと言われるらしい。
源頼義・義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めたが、鎌倉幕府衰退後は一時衰退。戦国時代には里見氏により焼き討ちにあったりしてしまうが(鶴岡八幡宮の戦い)、その後北条氏綱が再建を果たし、江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け、大規模化が進んだと言われる。
境内は、入口に源頼朝が掘らせた「源平池(源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産(三)と死(四)を表すと言われるらしい)」と称する「左右2つに分かれた池」があり、源氏池(旗上弁天社がある)と平家池を繋ぐ水路には「太鼓橋」と呼ばれる石造の橋が架けられ、その先に「参道」が続き、「舞殿(下拝殿)」・「大石段(61段)」・「楼門」、そして「拝殿」とつながった「本宮(=上宮;1828年に徳川家斉が再建した流権現造で国の重要文化財)」となっている。また、鶴岡八幡宮の参道は「若宮大路」と呼ばれ、由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、二の鳥居からは「段葛(だんかずら)」と呼ばれる車道より一段高い歩道になっている。



上記まとめさせて頂きましたが、それなりの長さになってしまったのでもう一段まとめ、「サマリのサマリ」として記載すると『鶴岡八幡宮は、「八幡神」と総称される「応神天皇」や「神功皇后 」らをご祭神とする、11世紀後半に「源氏の守り神」として創建された「鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝」だけではなく「源頼義・義家」にもゆかりのある神社で、時には「三大八幡」の1つにも数えられる神社でもあり、「源平池」・「太鼓橋」・「舞殿(下拝殿)」・「大石段(61段)」・「楼門」、そして「拝殿」とつながった「本宮(=上宮)」といった見所に加え、鶴岡八幡宮の参道「若宮大路」にある「段葛」と呼ばれる「車道より一段高い歩道(参道)」も有名な神社』となった次第です。






【鶴岡八幡宮の大人散策をプランニング!】
上記、鶴岡八幡宮の概要を、その歴史も含め抑えさせて頂きましたので、こちらでは「鶴岡八幡宮の大人散策情報」を記載させて頂きます。尚、前提と致しまして「今回記載させて頂く内容は別記事で紹介中の『鎌倉を満喫する2泊3派の旅(プラスα)』の中でお邪魔させて頂いた際の情報」と言うものです。つまり、『初日に、鶴岡八幡宮を東西に横断する形で「東鳥居」からお邪魔し「本殿」でご挨拶申し上げ「西鳥居」から失礼し「小町通り」経由で宿泊先の「KKR鎌倉わかみや」に参って1泊。翌日改めて、今度は鶴岡八幡宮を南北に縦断する形で「由比ヶ浜」から「鶴岡八幡宮」に参らせて頂き、その後「建長寺」に参らせて頂いた』と言ったスケジュールの中の参拝という事になります旨、予めご了承頂けますと幸いです(つまり、写真が混在して折り、最下部Google My Mapで作成した地図は「黄色の星印:★」をご参照頂きたいという事です…)。
■宿泊先の「KKR鎌倉わかみや」から「三の鳥居」へ
上記記載の通り、宿泊先は「由比ヶ浜」近くの「KKR鎌倉わかみや」。朝一でお宿を出発し「由比ヶ浜」の美しい景色を楽しみつつ「魚藍観世音の石碑」へ向かいました。




Wikipedia によると ”魚籃観音(ぎょらんかんのん)は、三十三観音に数えられる観音菩薩の一つ (略) 羅刹・毒龍・悪鬼の害を除くことを得るとされ、日本では中世以降に厚く信仰された(https://ja.wikipedia.org/wiki/魚籃観音)” とあります。正直、「鶴岡八幡宮の参道が明確にどこから始まるのか?」は不明ですが「海から続く鶴岡八幡宮の参道の入口」と認識して良いのでないかと思い「羅刹・毒龍・悪鬼の害を除く『魚籃観音』」は、「理にかなった配置の石碑」だと思った次第です。その後「魚藍観世音の石碑」から北上を開始すると、直ぐに「一の鳥居」が見えてきます。「一の鳥居」は、「江戸の初め頃に作られたが、関東大震災で崩壊し置てしまい、その後再建された鳥居」との事で「重要文化財」。「石造りの貫録の鳥居」を拝見する事が出来ます。






また「一の鳥居」は少し高い場所にありますので、「日本の道100選」・「日本の桜名所100選」に選出された「若宮大路」を遠くまで見通す事が出来ます。そして線路(湘南新宿ライン?)を潜り、更に北上すると「二の鳥居」が見え、そこから「京都の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた『段葛』」が始まります。遠近法を駆使して、参道がより長く見えるようにし、奥の本殿を厳かに見せるための設計されたとも言われる「段葛」。写真の通りですが、周囲から一段高く「鶴岡八幡宮の参道に相応しい歴史と風格」を感じつつ、道の両脇に「鎌倉を感じる雰囲気を醸し出す建物」も拝見しつつ進んで行くと「三の鳥居」が見えてきます。
一の鳥居から若宮大路の段葛を通って三の鳥居へ
■「三の鳥居」から「舞殿・若宮(下宮)」へ
「三の鳥居」から先は「鶴岡八幡宮の境内」。まずは「太鼓橋」をじっくり見学し、そしてその先の「舞殿」と「楼門」を遠目に拝見しつつも、まずは「源平池」で『「平家池」の島が4つで「源氏池」の島が3つ』である事を確認(源氏池:産(三)と、平氏池:死(四)を表すと言われるらしい)。その後「倉文華館 鶴岡ミュージアム(鶴岡八幡宮の歴史を中心に鎌倉の魅力を紹介)」・「旗上弁財天社」も拝見し、「鎌倉国宝館(鎌倉市に関係する鎌倉時代から室町時代を中心とする様々な文化財を保管・展示)」にもお邪魔した後、再び「参道」に戻って、「御朱印授与所」で御朱印を頂戴しつつ「舞殿」に向かいます(初日の訪問時に、入らせて頂いた東鳥居もすぐ近く)。
三の鳥居・太鼓橋・源平池・倉文華館 鶴岡ミュージアム・旗上弁財天社・鎌倉国宝館・東鳥居・東西/南北の参道
「下拝殿」とも言うらしい「舞殿」は、最近の建造物の様ですが、「鶴岡八幡宮の本殿」を「上宮」とも言う事に対し、「下宮」とも呼ばれ、「舞殿」の傍らにある『「若宮」の社殿』は「重要文化財」。それぞれの建造物を拝見し、『静御前が源義経を慕う歌を詠み、舞ったとされるのが「若宮社殿の回廊」(当時はまだ「舞殿」は建立されていなかったと言われるらしい…)』と言われている認識ですので、その歴史に思いを馳せつつ大人散策を遂行して参りました。
手水舎・舞殿(下拝殿)・若宮(下宮)/御朱印授与所
■「舞殿・若宮(下宮)」から「鶴岡八幡宮(拝殿・本宮(上宮)本殿)」へ
「舞殿・若宮(下宮)」で、「静御前と義経」の歴史に思いを馳せた後は、「鶴岡八幡宮(拝殿・本宮(上宮)本殿)」に向かいます。「舞殿」の背後から「大石段」が続きますが、その傍らには「自祓い所(自分で自分を清める所?)」・「親銀杏と子銀杏(「樹齢800年とも1000年余ともいわれ、鎌倉時代に八幡宮・別当を務めていた公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せし、大石段の13段目で源実朝を暗殺したという伝説もある『銀杏の大木』であったが、2011年に強風により倒れてしまうも、倒木後に若芽が確認された)」もあるので、「61段の大石段」を数えながら登ると、立派な「楼門」の目の前に着きます。



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「楼門の扁額」には、「八幡宮の ”八” が鳩 🕊 をかたどっている」事で有名ですが「随身像」も立派ですし「楼門」自体も立派な建造物ですので、じっくり拝見しつつくぐると「拝殿・本宮(上宮)本殿」になります。お伺いした際、エリア不明ですが「撮影禁止」の看板が目に入ってきたので、以下写真はWikipediaより引用いたしますが(撮影しても良かったか不明です…ちょっと残念…)、中々の貫録の建造物。「拝殿」とつながった「本宮(上宮)」の本殿は、1828年に徳川家斉が再建した流権現造と言われ「国の重要文化財」に指定されている様で、「時として ”『三大八幡』に数えられる神社” である事を納得する雰囲気をまとった建造物」と思った次第です。
楼門と随身像・拝殿・本宮(上宮)本殿
■「鶴岡八幡宮(拝殿・本宮(上宮)本殿)」の後は「建長寺」へ
「国の重要文化財」指定の「本宮(上宮)」の本殿を「拝殿」と併せ拝見し『「八幡神」と総称される「応神天皇」や「神功皇后 」らのご祭神』にご挨拶申し上げた後は、「授与所」でお守りを頂戴し「丸山稲荷社」へ。「丸山稲荷社」の本殿も「重要文化財」の認識ですので、ご挨拶と共にその社殿を拝見し、「本宮(上宮)」の本殿(本殿周囲の回廊?)を西側面から拝見しつつ、西側の階段を下りて、鶴岡八幡宮を失礼した次第です。つまり、「由比ヶ浜」から「鶴岡八幡宮の本宮(上宮)」まで南北に縦断した事になる訳ですが、何故こちらから失礼したかと言うと、次の目的地である「鎌倉五山筆頭の『建長寺』」に最もアクセスしやすいルートだからです(「建長寺」に関しては、別記事で紹介して折ります)。また、鶴岡八幡宮の駐車場を利用される際も、このルートが最も良いと思いますので参考までに…(駐車場は、有料で利用出来る様ですが、私達夫婦の場合は利用して折りませんので、利用にあたっては、鶴岡八幡宮のHP(https://www.hachimangu.or.jp/)をご参照ください)。









以上が、「鶴岡八幡宮における大人散策情報の共有」になりますが、最下部に上記記載のスポットを Google My Map で作成した地図(スマホ片手に自身の位置を確認しつつ大人散策を楽しめますが、歩きスマホはNGで!)にてポイントアウトして折りますので、併せてご参照頂ければと思います。
【最後に】
以上が、「時には『三大八幡』の1つにも数えられ、『源氏の守り神』として創建された『鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝』ゆかりの神社『鶴岡八幡宮』の概要と大人散策情報を共有」をさせて頂いた内容になります。
何度か参らせて頂いている鶴岡八幡宮。これまでは、基本日帰りの旅であった為か、あまりしっかりしたプランを持たず「とりあえずは『鶴岡八幡宮!』」といった感じで参らせて頂き、ドタバタと参って、ドタバタと帰ってくると言った感じでした…。しかし今回は、「鎌倉を満喫する2泊3派の旅(プラスα)」の中で参らせて頂きました為、しっかりとプランを練り、若干の事前学習して臨んだ為か、これまで拝見してきた鶴岡八幡宮とは違った印象を持てた次第で、「やっと鶴岡八幡宮の大人散策を遂行できた!」と思えた次第です。
また、別ページにて、①「鎌倉」ってどんな都市?その歴史は?、②鎌倉を満喫する2泊3派の旅(プラスα)、③鶴岡八幡宮の大人散策情報、④鎌倉五山筆頭・建長寺の大人散策情報、⑤鎌倉大仏で有名な高徳院の大人散策情報、⑥長谷観音・あじさいで有名な長谷寺の大人散策情報、⑦鎌倉宮/永福寺跡の大人散策、⑧鎌倉七口・鎌倉の切通しを大人散策、⑨大人の宿:「KKR鎌倉わかみや」の宿泊情報、⑩大人レストラン:松原庵で美味しいお蕎麦のコースを満喫、と言った内容でそれぞれ記載しておりますので、併せてご参照頂き、「皆様の大人散策@鎌倉」に少しでも貢献出来たら幸いと存じて折ります!
尚本ブログでは、諏訪大社や熱田神宮、大宮氷川神社、川越氷川神社、川越喜多院、日光の二社一寺、久能山東照宮、浅草寺、深大寺、神田明神、大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。