東大寺

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【はじめに】

こちらのページでは、「日本の中心であった痕跡を十二分に感じ、誰もが知っている『東大寺』の概要を抑えた上で、大人散策をプランニング」をさせて頂こうと思います。

本ブログ別記事で紹介させて頂きました「興福寺」。その記事では「興福寺は、国宝・重要文化財の密集地」と紹介させて頂きましたが、今回紹介の隣接する「東大寺」(「春日大社」も隣接していますが…)も「国宝・重要文化財の密集地」で、興福寺以上の国宝・重要文化財を所有していると認識しています。取り分け、日本史を勉強した事がある方であれば、国宝の「大仏殿(金堂;江戸期再建)」、ご本尊の「大仏(盧舎那仏像;最後の再建は江戸期)」、そして同じく国宝の「南大門」とそこに安置される「金剛力士立像(鎌倉期)」は耳にした事があるのでないかと思って折ります。「東大寺」と言うと『「興福寺」・「春日大社」同様、鹿さん達が闊歩するエリアにある神社仏閣』と言うイメージが強いかもしれませんが、「東大寺」につき少しだけ深堀すると『興福寺」・「春日大社」も含めたこの「東大寺」のあるエリアは、まさにかつての日本の中心』と実感できるのではないかと思っている次第です。

こちらのページでは、そんな「東大寺」に付き記載いさせて頂きます。すなわち、「日本の中心であった痕跡を十二分に感じ、誰もが知っている『東大寺』の概要を抑えた上で、大人散策をプランニング」をさせて頂こうと思います。

【「東大寺」とは?】

まずは「東大寺」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報収集させて頂きますと以下の様にあります(以下にポイントをまとめておりますので、引用読まなくても大丈夫です)。

東大寺(とうだいじ、英: Todaiji Temple)は、奈良県奈良市雑司町にある、華厳宗大本山である日本の仏教寺院。山号はなし。本尊は奈良大仏として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)開山(初代別当)は良弁である。
正式には金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。現在の別当(第224世)は橋村公英。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、度々修復を受けており、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代中期の宝永6年(1709年)に規模を縮小して再建されたものである。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。
聖武天皇による東大寺大仏造立後に、国内では鎌倉大仏(現存)、雲居寺大仏(現存せず)、東福寺大仏(現存せず)、方広寺の京の大仏(現存せず)などの大仏も造立され、先発した東大寺大仏・大仏殿の造形、建築意匠・構造は、それらの大仏・大仏殿に対し多かれ少なかれ影響を与えた。ただし江戸時代の東大寺大仏殿再建の際には、上記とは逆に、同時代に京都に存在していた方広寺大仏殿を手本として、東大寺大仏殿の設計がなされた (略)
東大寺は1998年(平成10年)12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界文化遺産に登録されている。

■歴史
・創建と大仏造立
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていたことが分かっている。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子・基王の菩提を弔うため、若草山の麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られる、これが金鐘寺の前身と見られる (略) 天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国(現在の奈良県)の国分寺兼総国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる (略)
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)10月15日である (略) 聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった (略)
大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)であった (略)

・奈良時代 
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している (略)

・平安時代
平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受けた (略) また、講堂と三面僧房が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田荘に代表される多数の荘園を寄進されたり、自ら開発を行ったりし、伽藍の復興に力を入れた。やがて南都の有力権門として内外に知られるようになると、多数の僧兵を抱え、興福寺などと共に度々朝廷に強訴を行っている。

・中世以降
東大寺は近隣の興福寺と共に治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡による南都焼討の兵火で壊滅的な打撃を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この後、東大寺は本格的に復興が行われることとなり、後白河法皇は当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)を大勧進職に任命し、大仏や諸堂の再興に当たらせた。重源の精力的な活動及び平家に代わり政権を握った源頼朝の援助により再建は着々と進み、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席の下、大仏開眼法要が、次いで建久元年(1190年)には上棟式が行われた建久6年(1195年)には再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席の下、落慶法要が営まれた。

その後、戦国時代の永禄10年(1567年)10月10日、三好三人衆と松永久秀による東大寺大仏殿の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。天正元年(1573年)9月、織田信長は東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。
信長亡き後に天下人になった豊臣秀吉は、天正14年(1586年)に、焼損した東大寺大仏に代わる新たな大仏の造立を発願し、京都に方広寺大仏(京の大仏)が造立されたが秀吉は東大寺大仏再建への着手は行わなかった (略)
東大寺は破損した大仏に応急処置として、溶けた大仏の頭部に新たに銅板で仮の頭を作成して付け、仮の大仏殿もなんとか建てていたが、慶長15年(1610年)に暴風で仮大仏殿は倒壊した。以降、大仏は露座のまま放置されることになった。
豊臣氏が滅亡し、江戸幕府の全国支配が確立してからも、幕府による東大寺大仏再建の企図は直ぐにはなされなかった一方で方広寺の大仏(京の大仏)・大仏殿の修繕工事には積極的に江戸幕府が関与している (略)

平家の南都焼討による東大寺大仏・大仏殿の焼失の際は早急に再建がなされたが、永禄10年(1567年)の東大寺大仏・大仏殿の焼失後はその再建が遅々として進まなかった (略) しかし1600年代後半に、東大寺の僧公慶が立ち上がり、東大寺大仏の修理と大仏殿の復興を行おうと勧進を始めると、多くの人々からの喜捨を受けて、まず大仏の修理から行われることになった。修理は元禄4年(1691年)に完成し、翌年には大仏開眼供養が行われた。公慶は続いて大仏殿の再建に着手しようと江戸幕府第5代将軍徳川綱吉やその母の桂昌院に謁見し、多額の寄進を受けた。こうしたこともあって大仏殿は宝永6年(1709年)に遂に完成した (略)
宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、奈良(東大寺)と京都(方広寺)に、大仏・大仏殿が双立していた。江戸期においては方広寺大仏の方が、規模(大仏の高さ、大仏殿の高さ・面積)で上回っていた (略)
方広寺の3代目大仏は寛政10年(1798年)まで存続していたが、落雷で焼失した。 

■大仏殿(金堂)
国宝。当初の大仏・盧舎那仏および大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたものであったが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代の作である (略)
大仏の左右には脇侍として木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像を安置する。いずれも江戸時代復興期の像である。四天王のうち残りの2体(持国天、増長天)は未完成に終わり、両像の頭部のみが大仏殿内に置かれている (略)
・大仏(盧舎那仏像)
国宝。指定名称は「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」。像高は14.7メートルである。大仏は『華厳経』に説く盧舎那仏という名の仏である。盧舎那仏は「蓮華蔵世界」(『華厳経』の説く世界観)の中心に位置し、大宇宙の存在そのものを象徴する仏である。
木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重要文化財)
大仏の左右に脇侍として安置される (略) 如意輪観音像は元文3年(1738年)ごろの完成、虚空蔵菩薩像は遅れて宝暦2年(1752年)の完成。
・金銅八角燈籠(国宝)
大仏殿の正面に立つ燈籠。総高464センチ。たびたび修理されているが、基本的には奈良時代創建時のものである (略)

■南大門
国宝。平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの (略) 門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重要文化財)を安置する (略)
・木造金剛力士立像(国宝)
高さ8.4メートルの巨大な木像建仁3年(1203年)にわずか69日で造られた。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である (略)
・石造獅子像(重要文化財)
南大門北面の東西の間に安置されている。建久7年(1196年)に宋人の字六郎が作製 (略)

■二月堂
国宝。旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名がある。二月堂は治承4年(1181年)、永禄10年(1567年)の2回の大火にも焼け残ったとされているが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である (略)

■法華堂(三月堂)
国宝。境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の一つであり、天平仏の宝庫として知られる。創建当時は羂索堂(けんさくどう)と呼ばれ、東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の堂として建てられたもので、創建時期は天平12年(740年)から同20年(748年)頃と推定されている (略) 堂内には本尊の不空羂索観音(ふくうけんさく/ふくうけんじゃくかんのん)立像、梵天・帝釈天立像、金剛力士・密迹力士(みっしゃくりきし)立像、四天王立像の計9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、塑造の執金剛神(しつこんごうしん/しゅこんごうしん)立像を安置する(いずれも奈良時代) (略)
(追記:乾漆不空羂索観音立像、塑造執金剛神立像、乾漆梵天・帝釈天立像、乾漆金剛力士立像 2躯、
乾漆四天王立像は、国宝)
 (略)

■文化財
国宝(建造物)
・金堂(大仏殿)(附:棟札1枚)
・南大門
・本坊経庫
・開山堂(附:須弥壇及び厨子)
・鐘楼
・法華堂(三月堂)(附:棟札1枚)
・二月堂
・転害門
国宝(美術工芸品)
・絹本著色倶舎曼荼羅図
・紙本著色華厳五十五所絵巻
・銅造盧舎那仏坐像(大仏・金堂安置)
・乾漆不空羂索観音立像(法華堂安置)
・乾漆梵天・帝釈天立像(法華堂安置)
・乾漆金剛力士立像 2躯(法華堂安置)
・乾漆四天王立像(法華堂安置)
・塑造日光菩薩・月光菩薩立像(所在東大寺ミュージアム、もと法華堂安置)
・塑造執金剛神立像(法華堂安置)
・塑造四天王立像(所在戒壇堂)
・銅造誕生釈迦仏立像・銅造灌仏盤
・木造金剛力士立像 2躯 附 像内納入品(所在南大門)(像内納入品の明細は後出)
・木造俊乗上人坐像(俊乗堂安置)
・木造僧形八幡神坐像 快慶作(八幡殿安置)
・木造良弁僧正坐像(開山堂安置)
・木造弥勒仏坐像
・花鳥彩絵油色箱(ゆしょくばこ)
・金銅八角燈籠(大仏殿前所在)
・葡萄唐草文染韋(そめかわ)
・梵鐘
・賢愚経 巻第十五(四百六十七行)
・東大寺文書100巻(979通)、8,516通
・東大寺金堂鎮壇具 一括  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/東大寺

それなり長い引用になってしまったので、以下にサマリ的に、箇条書きでまとめさせて頂きます。

  • 東大寺は、良弁により開山(初代別当)され、奈良大仏として知られる「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」を本尊とする「華厳宗大本山」の寺院で、正式には「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した事に始まり、現在では古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界文化遺産に登録されている
  • 奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(推定高さ約70メートル以上)が回廊に囲まれて建っていたらしいが、中世以降の2度の兵火で多くの建物を焼失した為、現存する大仏は、度々修復を受けており、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみで、また現存する大仏殿は江戸時代中期の1709年に規模を縮小して再建されたものらしい

  • ちなみに、聖武天皇による東大寺大仏造立後に、国内では鎌倉大仏(現存)、雲居寺大仏(現存せず)、東福寺大仏(現存せず)、方広寺の京の大仏(現存せず)などの大仏も造立され、先発した東大寺大仏・大仏殿の造形、建築意匠・構造は、それらの大仏・大仏殿に対し多かれ少なかれ影響を与えたと言われる
  • 東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、733年に若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる一方、正史『続日本紀』によれば、728年に聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子・基王の菩提を弔うため、若草山の麓に「山房」を設けた事が知られており、これが金鐘寺の前身とも言われるらしい
  • 741年に、聖武天皇が日本の60余か国に建立させた国分寺の元になる「国分寺建立の詔」が発せられ、これを受けて742年に金鐘寺は「大和国(現奈良県)の国分寺」兼「(国分寺の中心をなす)総国分寺」と定められたタイミングで寺名を「金光明寺」と改め、747年に大仏の鋳造が始まり、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったらしく、「大仏開眼会(かいげんえ)」が挙行されたのは752年で、その後「大仏殿」の建設工事が始められ、竣工したのは758年と言われる
  • 平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により圧迫を受け講堂と三面僧房が失火で、西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こるが、皇族・貴族の寄進や自ら努力で伽藍の復興に力を入れ、南都の有力権門として内外に知られるようになると、多数の僧兵を抱え、興福寺などと共に度々朝廷に強訴等も行うようになった
  • 中世以降東大寺は近隣の興福寺と共に1181年1月15南都焼討の兵火で壊滅的な打撃を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失うが、重源(ちょうげん)の精力的な活動及び平家に代わり政権を握った鎌倉幕府(源頼朝)の援助により再建は着々と進み、1185年には後白河法皇らの列席の下大仏開眼法要が、次いで1190年には上棟式が行われ、1195年には再建大仏殿が完成し、源頼朝らの列席の下、落慶法要が営まれたらしい

  • しかし戦国期の1567年には、三好三人衆と松永久秀による東大寺大仏殿の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失し、その後、信長は、東大寺保護の姿勢をとるが、その後に天下人になった秀吉は、東大寺大仏に代わる新たな大仏の造立を発願し、京都に「方広寺大仏(京の大仏)」が造立された(=秀吉は東大寺大仏再建への着手は行わなかった)
  • つまり、1567年の東大寺大仏・大仏殿の焼失後はその再建が遅々として進まず、大仏は露座のまま放置の状態が続いたが、1600年代後半に、東大寺の僧・公慶が立ち上がり、東大寺大仏の修理と大仏殿の復興を行おうと勧進を始めると、多くの人々からの喜捨を受けて、まず大仏の修理から行われることになり、修理は1691年に完成し、翌年には大仏開眼供養が行われ、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉等からの多額の寄進もあり、大仏殿は1709年に遂に完成した
  • 東大寺には、多くの国宝・重要文化財が存在しており、その総数は、(正確ではないかもしれませんが、Wikipedhia に記載のあったものをカウントすると)国宝=建物系:8・美術工芸品系:23」、「重要文化財=建物系:14・美術工芸品系:127」にのぼるらしい(代表的と思われる物を以下に抜粋)
    • 大仏殿(金堂)国宝で、当初の大仏・盧舎那仏および大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたものであったが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建の物
      • 大仏(盧舎那仏像)国宝で、盧舎那仏という名の仏大宇宙の存在その物を象徴する仏(度々修復を受けており、奈良期からの遺構は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみ)
      • 木造如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像:重要文化財で、大仏の左右に脇侍として安置され、如意輪観音像は1738年頃の完成、虚空蔵菩薩像は1752年の完成
      • 金銅八角燈籠国宝の大仏殿の正面に立つ燈籠で、基本的には奈良時代創建時のもの
    • 南大門国宝で、平安時代・962年に台風で倒壊後、鎌倉時代・1199年に復興されたもの 
      • 木造金剛力士立像国宝で、1203年にわずか69日で造られた高さ8.4メートルの巨大な木像(一般的な仁王像の安置方法とは左右逆)
      • 石造獅子像:重要文化財で、1196年に宋人の字六郎が作製したもので、南大門北面の東西の間に安置

  • 二月堂国宝で、旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名と言われ、1667年のお水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物で、本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像であるが、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏
  • 法華堂(三月堂)国宝で、境内の東方、若草山麓にある東大寺に残る数少ない奈良時代建築の一つで、東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の堂として建てられたものと言われ、創建時期は、740年から748年頃と推定され、堂内には本尊の不空羂索観音(ふくうけんさく/ふくうけんじゃくかんのん)立像、梵天・帝釈天立像、金剛力士・密迹力士(みっしゃくりきし)立像、四天王立像の計9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、塑造の執金剛神(しつこんごうしん/しゅこんごうしん)立像といった、いずれも奈良時代製作の国宝が安置されている

上記、東大寺の概要を抑えさせて頂きました。ただ、少々長くなってしまいましたので、更にサマライズすると、、、

『東大寺は、若草山麓に創建された金鐘寺に起源を持ち、奈良時代に、聖武天皇が「国分寺建立の詔」が発せられた事を受け、「大和国(現奈良県)の国分寺」兼「(国分寺の中心をなす)総国分寺」と定められたタイミングで寺名を「金光明寺」と改め、大仏の鋳造が始まり、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと言われる寺院
平安期には、桓武天皇の南都仏教抑圧策や南都焼討の兵火で打撃を受けたが、多数の僧兵を抱え力を持つ寺院になっていき、鎌倉期初めには、大仏開眼・再建大仏殿の完成と再建は着々と進むが、戦国期には、再び兵火で焼失し、信長は、東大寺保護の姿勢をとるが、その後に天下人になった秀吉は、東大寺大仏に代わる新たな大仏(京都・方広寺大仏(=京の大仏))の造立を発願しすも、東大寺大仏再建への着手は行わず、1567年の東大寺大仏・大仏殿の焼失後、その再建が遅々として進まず、大仏は露座のまま放置の状態が続いた
しかし、江戸期に入って1600年代後半、東大寺大仏の修理と大仏殿の復興を行おうと勧進を始めると、徳川綱吉を始め、多くの人々からの寄進・喜捨を受けて、大仏開眼・再々建大仏殿の完成が実現し、現在東大寺には、その時の大仏殿(金堂)・大仏(盧舎那仏像)や南大門(鎌倉期)・金剛力士立像(鎌倉期)・二月堂(江戸期)・法華堂(三月堂;奈良期)と言った国宝をはじめとする、多くの国宝・重要文化財が存在しており、その総数は、(正確ではないかもしれませんが、Wikipedhia に記載のあったものをカウントすると)国宝=建物系:8・美術工芸品系:23」、「重要文化財=建物系:14・美術工芸品系:127」にのぼり、古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界文化遺産に登録されている寺院となった

と理解させて頂いた次第ですが、皆様は、どの様にお感じになられましたでしょうか? 個人的に思った事は「これだけの国宝・重要文化財の建造物・美術工芸品を所有する東大寺は、日本の中心がまさにこの場所にあった痕跡であり、エビデンスである」と思ってしまった次第です。

【東大寺の大人散策をプランニング!】

上記、東大寺の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では「東大寺における大人散策を検討」させて頂こうと思います以下に「東大寺の境内マップ」も併せて記載いたしますが、上記にも記載いたしました通り、東大寺は、別記事紹介の興福寺同様、多くの国宝・重要文化財の建造物・彫刻 / 美術工芸品等が存在」するエリアなので、「何処まで入れる(接近できる)か不明ですが、濃密な大人散策が期待できそう」にも思えた次第です。そんな東大寺における大人散策を検討するにあたって想定したのは、「①南大門から入り西側から攻め」、「②中央の中心伽藍を巡って北側に回り込んだ後」、「③東側の東大寺始まりの地を目指す」と言った感じのコース設定を想定致しました。それぞれ以下に記載いたします。

■①南大門から入り西側から攻める

東大寺の大人散策において、まずお邪魔するのは「南大門」鎌倉時代の建造物と言われる「南大門(国宝)」と、同じく鎌倉時代の製作と言われ、そこに安置される「木造金剛力士立像(国宝)」・「石造獅子像(重要文化財)」を、何処までじっくり拝見できるか不明ですが、拝見する事からスタートしたいと思います。その後、「本坊経庫(国宝;奈良時代の建造物)」を拝見し、「東大寺ミュージアム」でできる限り多くの国宝・重要文化財を見学して、「東・西塔院跡」経由で、「戒壇堂(奈良県指定有形文化財;江戸期の建造物)」・「勧進所」・「指図堂(江戸期)」と進み、(何処まで見学 / 接近可能か不明ですが)出来る限り国宝・重要文化財を感じつつ、東大寺の中枢への入口「中門」に向かいたいと思います。

■②中央の中心伽藍を巡って北側に回り込む

中門」から東大寺の中枢に入った後は、「東・西楽門(重要文化財;江戸期再建)」・「東西回廊(重要文化財;江戸期再建)」を見学し、「金銅八角燈籠(国宝;基本的に奈良時代の物)」も拝見した後、メインイベントと言って良い「大仏殿(金堂・国宝;江戸期再建)」、ご本尊の「大仏(盧舎那仏像・国宝;大部分が再建だが、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残す(最後の再建は江戸期))」を心行くまま、じっくり & じっくり拝見させて頂きたく思って折ります。

そして、「大仏殿」・「大仏(盧舎那仏像)」を心行くまま、 じっくり拝見した後は、この中枢を北側に回り込んで「講堂跡」を経由し、(少し外れますが、また)何処まで拝見できるか不明ですが「正倉院」で、日本の歴史を感じ、更に西の転害門(国宝;奈良期の建造物)」まで脚を伸ばしたいと思って折ります。

■③東側の東大寺始まりの地を目指す

転害門」まで脚を伸ばしたら、東に進路変更をします。「食堂跡」・「大湯屋(重要文化財;鎌倉期)」を経由して、「二月堂の裏参道」から二月堂の敷地に入りたいと思いますが、このエリアは、「東大寺発祥の地」と言って良いエリアだと思って折り、奈良期~江戸期の多くの国宝・重要文化財を拝見できる認識です。まずは、「参籠所(重要文化財;鎌倉期)」・「仏餉屋(御供所・重要文化財;鎌倉期)」・「良弁杉」と回って、「二月堂(国宝;江戸期再建)」を参拝。その後、「開山堂(良弁堂・国宝;鎌倉期)」・「四月堂(三昧堂;重要文化財;江戸期)」を巡り、「法華堂(三月堂・国宝;奈良期)」・「法華堂手水屋(重要文化財;室町期)」・「不動堂」・「法華堂経庫(重要文化財;平安期)」・「念仏堂(重要文化財;鎌倉期)」・「俊乗堂(江戸期)」・「鐘楼(国宝;鎌倉期)」と回っていきたいと思って折ります。これだけ歴史ある建造物が立ち並ぶスポットは、中々ないと思い、「まさにこの一帯が、かつて日本の中心であった痕跡・エビデンス」だと思いますので、じっくり & じっくり拝見させて頂きたく思って折ります!

「鐘楼」まで巡って、東大寺における大人散策は終了となりますが、その周囲は別記事で記載しました、興福寺春日大社と隣接するエリア春日大社神使である多くの鹿さん達も闊歩するエリアの認識ですので、興福寺春日大社も、鹿さん達と戯れつつ、併せて大人散策を楽しみたいと思っている所存です。

【最後に】

以上が、「日本の中心であった痕跡を十二分に感じ、誰もが知っている『東大寺』の概要を抑えた上で、大人散策をプランニング」させて頂いた内容になります。

多くの国宝・重要文化財を拝見でき、日本の中心地であった痕跡・エビデンスを感じる事が出来る「東大寺」の概要と大人散策情報(プランニング版)』を記載させて頂きましたが、皆様はどの様に感じられましたでしょうか? 個人的に思った事は、『「東大寺」はすごいし、隣接する「興福寺」すごいし、更に言えば、関東の鹿島神宮香取神宮から勧請された同じく隣接する「春日大社」もすごいと思い、この3つの神社仏閣は、表裏一体で長い日本の歴史を見てきた、日本の歴史を語る上で非常に & 非常に重要な神社仏閣』と思ってしまった次第です。故にこの地に、脚を運ぶ機会に恵まれた際には、「東大寺」・「興福寺」「春日大社」を、(鹿さん達と戯れる事も踏まえ)セットで巡るべき』と強く心に思った次第です。中学校時代の修学旅行以来となるはずですが、訪問の暁には、本ブログで報告させて頂こうと思います!

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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