東海道

【はじめに:東海道は「五街道の代表」の道?】

今回は、「同じ五街道であり、その代表とも認識できる『東海道と中山道の比較』を行いつつ、その情報や歴史を抑えた上で、『東海道が五街道の代表格である理由』に付き考察を加えてみよう」と思います。

皆さん、五街道」は、ご存じだと思いますが…。東海道・中山道甲州街道日光街道奥州街道の5つの街道の事ですよね…。「江戸時代に、江戸を中心に整備された道で、日本橋を起点に、(重複する区間もありますが)日本各地に伸びる『幹線道路』」が五街道ですよね。その中の『代表的存在の街道と言えば「東海道」』と言って良いと思いますでしょうか? 個人的な意見としてですが、「現在の五街道の代表は『東海道』と言って、間違えない」と思います。国道でも、1号線の座を与えられているわけですから…。

では、『なぜ「東海道が代表的存在」なのか?』…、この辺りを、今少し掘り下げて考察してみたいと思います。すなわち、「同じ五街道であり、その代表とも認識できる『東海道と中山道の比較』を行いつつ、その情報や歴史を抑えた上で、『東海道が五街道の代表格である理由』に付き考察を加えてみよう」と思います。

【東海道と中山道の歴史:その昔「五街道の代表道」は「東海道」でなく「中山道(≒東山道)」だった!】

Wikipedia の東海道の項目に、”道(みち)としての東海道”、という段落があり、ここには、以下の様にあります。

(略) 大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、揖斐川・長良川・木曽川・大井川・安倍川・富士川・多摩川・利根川(当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された10世紀以降のことと考えられている (略)

東海道は、江戸の日本橋から小田原宿、駿府宿、浜松宿、宮宿(熱田宿)を経て、七里の渡しで伊勢湾を渡り、桑名宿、草津宿を経て京都の三条大橋まで五十三次ある。距離は約490 kmあり、山間部の経路をとる中山道よりも約40 kmほど短いが、東海道には行く手を阻む大きな河川が何本もあり、六郷川(多摩川)、馬入川、富士川、天竜川は船渡しによる渡河が行われたが、大井川をはじめ、安倍川、酒匂川では江戸幕府により渡し船が許されず、川越人足(歩行渡し)による渡河をする必要があった  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/東海道

ここで言う「東山道」とは、中山道の前身の道のことと理解して間違いえないと思いますが(東山道は、中山道日光例幣使街道奥州街道に再編された認識)10世紀までは、現在で言う東海道よりも中山道の方が代表格の道」であったと言う事の様です。しかし、「渡河の仕組が、時代と共に整備され、川を渡れるようになり『東海道が代表格の座を奪うように』なってきた」と理解できますが、現在「東海道が五街道の代表格」である理由はそれだけでしょうか?

【東海道と中山道の比較】

そもそも ”東海道” とは、と言うところから入ると、上記と同じ、Wikipedia の項目の一番初めに、以下の様にあります。

東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/東海道

つまり、東海道の語源は、「五畿七道」から来ていると言う事の様です。言い換えると、この名称は「街道の名称の中でも一番古く、長年親しまれてきた名称」と言って良いと思った次第です。

そして、皆さんご承知の通り、「東海道」は、現在の「首都・東京」とその前の「1000年の都・京都」を結ぶ道で、「東海道53次」なんて言いますよね…。中山道も同様に、東京と京都結ぶ街道」なので、先の引用も踏まえ少々比較してみますと、「東海道:約490㎞」に対し、「中山道:約530㎞」なので、東海道の方が「40㎞程短い」と言う事の様です。

また、「最大標高差」ですが、「東海道は、箱根の 800m 強」に対し、「中山道は、和田峠の 1600m 程」。東海道には、この他目立つ峠は、鈴鹿峠の、400m程の峠があるだけですが、中山道は、碓氷峠や鳥居峠等の1000mを超える峠があります(参考にさせて頂いたサイト:https://gcy.jp/kkd/)。そして更に、「東海道には、中山道とは違う、面白い区間」があります。それは、『熱田神宮から桑名間の「七里の渡し」と呼ばれる「海の道」』です。勿論、海に道は作れないので、船で渡った訳ですが、その区間の北側の陸地を見ると、「揖斐川・長良川・木曽川」といった大河が「濃尾平野」を流れています。つまり、『「揖斐川・長良川・木曽川」といった大河が流れる「濃尾平野」の陸上を進む』よりも、『「海」を渡った方が理にかなっている』と、「東海道を整備した江戸幕府は考えていた」と想像してしまった次第です。言い換えると、一番最初の段落で記載した通り、「東海道の歴史は『川(水)との闘い』だったんだろう…」と思ってしまったと言う事です(別記事で、熱田神宮名古屋城その近辺の大人観光情報を紹介しております)。

Map:七里の渡し

そしてもう一つ、東海道の中山道との決定的な違いは、五街道の生みの親である、徳川家のゆかりの地を通る道であるか否か」と言う事です家康誕生の地である『岡崎』」や、家康が領土拡大を狙って出てきた『浜松』」家康が育ち、晩年を送った『駿河(静岡)』」…。つまり、「東海道には、『徳川家ゆかりの場所(=家康ゆかりのエリア)』が多数ある」認識です。

しかし一方、中山道は、徳川としては、あまり思い出したくない地であろうと推察する、「小諸上田」近辺を通る「因縁の道」になるのでないかと思います。別記事で紹介しておりますが、「2度にわたる上田合戦において、徳川方は『苦い思い…』」をしており、特に、第2次の上田合戦では、真意の程はいくつか見方がある様ですが、よく言われるのは秀忠軍、真田討伐失敗関ヶ原に遅参!」と言われてしまっております(小諸城址には「第2次上田合戦の痕跡」を見る事が出来ます)。また、その因縁の相手、真田氏には、(真田丸で有名な)大阪の陣でも「あわや!」の所まで追い込まれておりますので、『「2度と行きたくない方面」ではないか…』と想像してしまう次第です(上田城も別記事で紹介しております)。

【最後に:東海道が代表たる理由の勝手な考察】

上記の通り、『「東海道」と「中山道」を、その地形・歴史の観点で比較』してみると、以下の考察が、頭の中に沸いて出てきた次第です…。

  • 「東海道」は、五街道の中で「最も長く親しまれてきた名称」である 
  • 「東海道」は、江戸京都を「最短で結ぶ街道」で「標高差も中山道に比べ少ない」 
  • 「東海道」は、徳川にとっては「イメージも良い」

この様に理由を並べてみると、「東海道が五街道代表格の座にある理由」が、(個人的な感覚かもしれませんが…)腑に落ち、明らかになってくるような気がしてしまいました…。そして「そんな背景の元、最大の障壁であった『河川との闘い』にも、時代が進むにつれ、ケリがつき始め、更にその座を確固たるものにして行き、現在では五街道代表 = 東海道』になった」と言うのが、私の理解(勝手な考察? 妄想?)となった次第です…。

以上、「同じ五街道であり、その代表とも認識できる『東海道と中山道の比較』を行いつつ、その情報や歴史を抑えた上で、『東海道が五街道の代表格である理由』に付き考察を加えてみた」内容になりますが、皆様はどの様に感じましたでしょうか?

「歴史的にも長く親しまれ、旅の効率も良く、イメージも良い東海道が五街道のであるのは当然」と言う理解(妄想?)をさせて頂いたのですが、そんな東海道、山梨県北杜市出身埼玉県川越市在住の私には、お正月の箱根駅伝以外、接点があまりありませんので、再度機会を見つけ、桶狭間(別記事で紹介しています)七里の渡し(別記事で紹介しています)草津追分と言った、観光スポットに脚を運んで、改めてその歴史に思いを馳せてみたいと思った次第です…。

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