孫子 人を致して人に致されず

【はじめに:「人を致して人に致されず」のメッセージは?】

今回は、孫子の中に出てくる言葉で、人を致して人に致されずを、考えてみたいと思います。(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)

「人を致して人に致されず」って、もはや古典とういうより、人の永遠のテーマみたいなものですよね。とは、言いつつも、フレーズの意味から入ってみますと、私なりの理解は、「自身が主導権をもって、事を有利に進める事が重要なので、そうなるように、万事準備して、進める必要があると言ったところでしょうか?

でも、「主導権を握る」って、ここが難しいんですよね。昔、初めて孫子を読んでいる時に、この「人を致して人に致されず」のフレーズを読んで、思わず本に向かって、「その主導権を取るのが難しいんだよ!」っとツッコミを入れてしまった事を思い出します・・・。

”孫子”に関しては、Wikipedia の力を借りますと以下の様にあります。

”『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている”

https://ja.wikipedia.org/wiki/孫子_(書物)

2500年も前の兵法書で、古典の中の古典と言う事でしょうか? 勿論、現代版のものしか、私には読む事は出来ませんが、「端的でシンプルな文章は、読む側の状況に応じて、理解し、考えを巡らせる為のベースとなる、原理原則が書かれた書物」、言った認識を個人的に持っております。

【「主導権を握る」の意味する所は?】

しかし、「主導権を握る」とは、どう言う事なのでしょうか? 改めて考えてみたいと思います。コトバンクを調べてみますと、以下の様にあります。

”デジタル大辞泉の解説:主となって物事を動かし進めることができる力。イニシアチブ。「主導権を握る

大辞林 第三版の解説:中心となって物事を行う力。イニシアチブ。 「 -を握る」 「試合の-をとる」”

https://kotobank.jp/word/主導権-529116

良く解ります。自身が進めたい方向に向かって、自身が先手を打って、自身の都合の元、ストレスなく、事を進める必要がある事、重々理解できるのですが、では、マラソンや駅伝で、皆が主導権を取る為に、いきなり先頭を走るでしょうか? そういったケースもあるっでしょうが、多くのケースは、まずは主導権を他の選手に渡し、先頭集団の中で息を潜め、マラソンであれば、30-35㎞位から、一気に勝負に出て、主導権を争いが始まるケースがほとんどだと思いますし、事実最近のマラソンでは、”ペースメーカー”、なるものがいて、30㎞位までレースを引っ張っています。こう考えると、主導権を握る重要性は、理解できますが、それよりも、どこで主導権を握るか?」が重要なのではないかと思えてきます。

     

【「人を致して人に致されず」から連想する日本史の関連事項は?】

これを、日本史の中で考えてみたいと思い、すぐに出てきた言葉があります。それは、織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川小田原の北条氏と甲斐の武田氏が争った「三増峠の戦い」や、家康信玄が戦った「三方ヶ原の戦い」も、信玄の視点で見た際、正に「人を致して人に致されず」の実例と言える戦いだと思いますし、家康視点で見た関ヶ原の戦いもそうだと思っていますが、詳細を別記事で記載していますので、ここでは、織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川のフレーズを起点に記載させて頂きます。

まずは、織田信長が、戦国の世をまとめるだけの大勢力となり近畿を中心に、日本のかなりの部分を治めるが、本能寺の変で倒れる。その後、秀吉が、光秀を山崎の合戦(天王山に関して、別記事で紹介しています)で討ち、賤ケ岳、小牧・長久手等の戦い等を経て、最終的には小田原攻めで北条を滅ぼし、そこに最後の最後で援軍に来た伊達を従え、天下統一を果たした。しかし、秀吉亡き後の豊臣は、徳川に大阪の陣で滅亡に追い込まれ、徳川の世が260年続くことになる

これを踏まえ、「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」と言う言葉が生まれたと思うのですが、これって結構、徳川をばかにしているとは言いませんが、軽んじている様な印象を持ちます…。

正直今回の記事を書くにあたり、出典が分かたず調べてみると、さすがWikipedia 。以下の内容が、出てきました。

”(略) 天保8年または嘉永2年(1849年)閏4月に描いた錦絵「道外武者御代の若餅」では、家康の天下取りを揶揄した落首織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」に着想を得て、織田信長と明智光秀が搗き、豊臣秀吉がこねた餅を徳川家康が食うという絵を描く。当初この絵を検閲した係名主がその隠された意図に気づかなかったのでそのまま出版されたが、評判となって半日で没収、家康の天下取りを諷刺したとされ、芳虎は手鎖50日の処罰を受ける。芳虎の諷刺精神も国芳に倣うものであった(略)”

https://ja.wikipedia.org/wiki/歌川芳虎

上記の絵は、歌川芳虎が、家康の天下取りを揶揄した落首織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」に着想を得て、描いたとされる錦絵だそうで、「当初、この「家康の天下取りを諷刺した」と言われる絵を検閲した係名主がその隠された意図に気づかなかった」様ですが、徳川を揶揄しているのは間違いないと思す次第です…。

同時に、別記事で、川越のサツマイモをアピールするフレーズとして、”栗(九里)より(四里)うまい十三里(川越は、江戸から13里の場所にあるサツマイモのおいしい所の意味と、9+4=13の意味があるらしい)”、を紹介し、でも実際には、江戸から川越まで13里無いという記事を書かせてもらいましたが、江戸の人たちは、こういった、しゃれっ気に関しては、本当にセンスのある人たちだとも、改めて思った次第です

     

【徳川家康と関ケ原から何を思う?】

話を元に戻し、「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」家康は、本当に上記の言うように、ただ座って、天下餅を食べ、天下人になた訳ではありませんよね。

主導権を中々取れず織田の同盟相手、豊臣の家臣を経て、最後に関ケ原で、ようやく主導権を握り大坂の陣で天下を手中に治める仕上げをしたというのが、正しい認識と思われ、主導権を取ったのは、マラソンで言えば、40㎞手前位の絶妙のタイミングだったと思います。

では、家康は、「人を致して人に致されず」を実行できたのでしょうか? 恐らく、織田同盟時代、豊臣家臣時代は、中々実行できていなかったと思われます。私が勝手に思うのは、関ケ原が、正に「人を致して人に致されず」が実現できたタイミングではなかったのかと思います。

これは、私の勝手な思い込みの域で、別記事でも記載しましたが、『「小早川の裏切りがあったからこそ、勝った」様な言われ方をしている関ケ原ですが、家康はしっかりと勝算をもって、関ヶ原の地に向かっている』と思います。言い換えれば、『家康は、「人を致して人に致されず」関ケ原の戦の準備段階で遂行しており、万全の準備に基づき、勝算をもって戦に臨んでいる』と思っています(別記事:「彼を知り己を知れば百戦してあやうからず」のページもご参照ください)。

【最後に:「人を致して人に致されず」から思う事】

上記の様な、勝手な考察をさせて頂きましたが、皆さまはどう思われましたでしょうか? 人を致して人に致されず。分かってはいても、遂行するのは中々難しい教えだと思います。しかし、大切さを忘れず、主導権を握れる様にチャレンジして行く事の重要性と、そして主導権を取るタイミングも重要である事もまた、思い出した気がしました

歌川芳虎が「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」の錦絵を描いたのは、1849年。1869年が明治元年の認識なので、この絵が描かれたのは、本当に幕末です主導権が、徳川からまた移るタイミングで、上記の錦絵を描いたのも、何か「虫の知らせ」だったのでしょうか?

(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)

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