【はじめに:岐阜城の街基本情報】
数年前の夏休み(遅めの夏休みだったので、9月)、静岡(掛川・浜松)、彦根、長浜、名古屋(犬山・岐阜も)を回る旅を企画し、それぞれお邪魔させて頂きました(旅全体の日程は、別記事をご参照ください)。今回は、その中で岐阜県岐阜市にある、岐阜城をご紹介致します。
城をテーマにする時の下記出しでいつも通りですが、岐阜城と言うと皆さんは何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 山の上(金華山)にそびえ立ち、眺めがものすごく良いお城
- 別名、稲葉山城
- 斎藤道三、織田信長と言った有名武将が居城とし、信長が「天下布武」を標榜したお城
- 岐阜は、地名も含め信長のよるものと言われている(諸説ある様ですが…)
- 難攻不落と思いきや、何度も落城している…
といったところでしょうか?
【岐阜城を大人散策】
前日まで長浜におり(別記事にて、長浜旧市街の散策、竹生島への琵琶湖クルーズ、国宝彦根城、玄宮楽々園等を紹介しています)、長浜から名古屋への移動の際に(別記事にて、名古屋城/本丸御殿/二の丸庭園、熱田神宮、白鳥庭園、徳川庭園等を紹介しています)、途中下車の様な感じで、岐阜駅にて電車を降り、岐阜城へは麓までタクシーで参らせて頂いた後、ロープウェイで参らせて頂きました。
岐阜駅で降り、コインロッカーに荷物を預け、北側の出口に行くと、まず金ピカの織田信長像が目に付きます。そしてその先に、金華山が見え、そのいただきに岐阜城の雄姿を見る事が出来ます。織田信長が本能寺の変で討たれてから、400年以上たっている訳ですが、依然この地においては、「織田信長は影響を与え続けている存在なんだ…」と改めて実感しました。(織田信長に関しては、孫子の切り口で考察を加えさせていただいております)
岐阜駅から岐阜城のある金華山の麓までは、タクシーで参ったのですが、4㎞位だと思うので、2000円しなかった認識です。そこからロープウェイで、岐阜城を目指しました。ロープウェイを降り、天守まで若干歩きますが、時より見える眺めは素晴らしいもので、本当に山の上に城が築かれている事、改めて認識した次第です。しばらく歩くと、岐阜城の雄姿が目に飛び込んできます。
現在の天守は、昭和30年代に建てられた模擬天守との事ですが、遠い斎藤道三・織田信長の時代に、現在と違う形だっとしても、この場所に建物を建てた事には驚きを隠せません。早々に、天守にお邪魔し、天守内を見学した後、天守閣からの眺望を楽しみました。圧巻の一言です。眼下には、長良川と街並みが見え、その先に濃尾平野が一望できます。伊吹山は勿論、名古屋の中心部も見渡す事が出来ます。これなら敵の動きもさぞかし見えただろと思うと同時に、この場所にいると、天下を取った気になるだろと思った次第です。テレビ等で「難攻不落のお城」として紹介されるケースをよく目にしますが、この場に立つと納得せざる負えないと思った次第です。
【岐阜城は難攻不落?】
そんな難攻不落の名城として名高い岐阜城ですが、実は何回も落城している事実があります。Wikipediaによると、以下の様にあります。
”(略) 京都に対して東の要所に位置し、急峻な山容の金華山からして難攻不落の名城として知られているが、内部からの裏切り(竹中重治)や籠城時点で兵力が少なかった(賤ヶ岳、関ケ原の時)などの理由で歴史上5回の落城にあっている。山頂部は痩せ尾根を切り開いたり石垣で郭を造成してはあるが、基本的に平坦面は少ない構造となっている。またチャートの堅い岩盤であるが故に井戸を掘っても水は出ず、雨水を貯める物となっている。狭い曲輪の上、水の確保が難しい為、籠城には不向きである。織田信長時代には、山頂部には信長の家族や人質が暮らしていたことが、1569年(永禄12年)来岐した宣教師ルイス・フロイスの書簡から伺える。その構造は斎藤道三時代に遡るだろう。岐阜城は小牧城、安土城と同じく、城下町を見下ろす景観に優れる。道三時代までは戦国期の典型的な詰城であったが、信長入城からは戦いの為の城でなく、基本的に城主の居住空間であり、見せる城であったといわれている。(略)”
https://ja.wikipedia.org/wiki/岐阜城
確かにお邪魔した際の事を思い出してみると、自軍の兵を置いておくだけのスペースはほとんどないと思いましたし、援軍が駆けつけるのも、急峻な山なのでかなり難しいのでは、と思いました。「遠目では見ての通り、難攻不落のお城で間違えないが、それが故に、攻める側は正攻法でなく、奇襲的に攻める必要があり、そのケースにおいては、落とされてしまうお城なので、戦闘と言うより、山頂にそびえ立つ『見せる城』として理解した方が良い」と理解した次第です。
【最後に】
そんな岐阜城だからなのか、徳川家康は、岐阜城を廃城にしてしまったのでしょうか? 言い換えれば、江戸時代は、使われなかったお城なの訳ですが、現代では有名なお城の1つである事、間違えない事実です。また、お伺いした時には、金華山麓の千畳敷遺跡で発掘調査が行われておりました。織田信長居館跡とも言われているようですが、まだまだ見えていな部分もある様です。
今尚その調査をすると言う事は、江戸の時代に一度途切れてしまった歴史なので、良く見えていないと言う事だともいますし、それだけ魅力あるお城(山全体を含め)と言う理解をすべきだと思います。(家康、信長に関しては、孫子に関連して考察を加えております)
岐阜城見学後、ロープウェイで麓まで下り、川原町の古い町並みを見学し、岐阜城を仰ぎ見て、そこでタクシーを拾い(運よくつかまりました)、岐阜駅に戻りました。麓から岐阜城を眺め思ったのは、今回は時間の都合もあり、ロープウェイで山頂まで行ってしまいましたが、次回は、「麓から天守を徒歩で目指してみたい」と言うものでした。
いくつかの道(登山道?)が存在し、その道々には、歴史の遺構を残す場所もある様です。今尚人々の興味をそそる、魅力的なこのお城をもっと知るには、徒歩での登頂が望ましいと思った次第です。そんな岐阜城、まだ訪れた事の無い方は、是非天守閣からの眺望を実際に見て頂き、天下人の気持ちを少しでも感じてみては、いかがでしょうか?
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。