【はじめに】
こちらのページでは、日本三大怨霊の一人、平将門を祭神の一人として祀る神田明神に付き、その歴史を踏まえ考察を加えさせて頂きます。
神田明神は、「縁結び・商売繁盛・厄除けの神様を祀る神社」といった認識です。個人的には、長年営業職である事もあり、(最近は全然参拝できていませんが…)2010年位までは、毎年、年の初めには、同僚と共にお参りをさせて頂いていた、親近感のある神社です(参拝後の「同僚達との一杯」も含めて…)。コロナ以降の最近の様子は存じ上げませんが、当時はすごい人で、参拝するのに、大通りまで参拝者の列が出来ていて、かなりの活気のある神社の印象が強いですが、皆様の印象はいかがでしょうか?
一方、神田明神は、「日本三大怨霊の一人、平将門を祀る神社」としても有名な認識です(築土神社も将門を祀る神社として有名ですが…)。江戸の総鎮守とも言われるこちらの神社ですが、「日本三大怨霊と恐れられる平将門を祭る神社が、どうして商売の御利益があるのか?」とも考えてしまった事があります。こちらのページでは、そんな神田明神の概要も踏まえて情報を整理し、上記疑問の解明も含め、神田明神の祭神の歴史につき、考察を加えさせて頂きます。
【神田神社の概要】
本ブログ別記事で、誠に勝手ながら、神々(祭神)を分類し、神社をカテゴリ分けさせて頂きました。それらは、①天照大神に代表される「天津神系」、②スサノオやその子孫の大国主に代表される「国津神系」、③実在した天皇やその血筋の方を祀る「天皇/皇族系」、④徳川家康や武田武田信玄を祀る「英雄系」、⑤菅原道真や平将門を祀る「御霊神系」の神社に分けられる認識です。つまり、平将門を祀る神田明神は、③「御霊系の神社」になる理解をしておりますが、実は、オオクニヌシ・スクナビコナも祭っており、「天津神系」(スクナビコナ)、「国津神系」(オオクニヌシ)の神社の側面も併せ持つ神社でもある理解です。Wikipediaの「神田明神」の項目には、以下の様にあります。
神田明神(かんだみょうじん)は、東京都千代田区外神田二丁目にある神社。正式名称は神田神社(かんだじんじゃ)。
神田祭を行う神社として知られる。神田、日本橋(日本橋川以北)、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。旧社格は府社(明治3年(1870年)まで准勅祭社)。現在は神社本庁の別表神社となっている。また旧准勅祭社の東京十社の一社である。
祭神
3柱を祭神として祀る。
- 一ノ宮 – 大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様)。縁結びの神様。天平2年(730年)鎮座。
- 二ノ宮 – 少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびす様)。商売繁昌の神様。明治7年(1874年)に大洗磯前神社より奉祀。
- 三ノ宮 – 平将門命(タイラノマサカドノミコト、まさかど様)。除災厄除の神様。延慶2年(1309年)奉祀、明治7年(1874年)に構内の摂社である将門神社に遷座、昭和59年(1984年)に本殿に奉祀復帰。
歴史
社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/神田明神
今少し、私なりの理解も含め、神田明神に祀られる神々がどういった神様なのか記載しますと、以下の様になります。
- 大己貴命(オオクニヌシと理解)は、出雲大社でも祀られている、国造りの神(国津神)。
- 少彦名命(スクナビコナと理解)は、オオクニヌシと共に国造りを行った神(天津神)。
- 平将門は、東日本で勢力を持ち、ついには「新皇」(「新しい天皇」の意味で、「天照大神(天津神)とは異なる世界を創る大きな役割」と言う意味があるらしい)を自称したが、即座に朝敵となり討伐されてしまった武将。
上記、Wikipediaの引用と併せて整理すると、神仏習合の考え方でも入っている認識ですが、「大己貴命(オオクニヌシと理解)=だいこく様=縁結びの神様=国津神」、「 少彦名命(スクナビコナと理解)=えびす様=商売繁昌の神様=天津神」、「平将門=まさかど様=除災厄除の神様=新皇を自称し朝敵となった武将で、亡くなった後に怨霊 ⇒ 御霊神」と言う事になり、この3柱の祭神が鎮座されている理解をしました。言い換えると、商売の神様は、 「少彦名命(スクナビコナと理解)」と言う事なので、毎年お参りに行っていたのは、 少彦名命(スクナビコナと理解)様にお参りに行っていたと言う事になります…。
しかし、この3柱:オオクニヌシ(国津神系)・スクナビコナ(天津神)・平将門(御霊神)とそれぞれタイプが異なる神様で、その神々が一つの神社で共存している事、ちょっと不思議に思った次第です。
【神田明神と祭神の関係/歴史】
上記、それぞれタイプが異なる神様:オオクニヌシ(国津神系)・スクナビコナ(天津神)・平将門(御霊神)、がどんな歴史を辿って祭神となったのか見て行き、その理由を考えてみたいと思います。
・大己貴命(オオクニヌシと理解)
まずは、オオクニヌシ。上記Wikipediaの引用にもある通り、「天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる」とありますので、神田明神の始まりは、オオクニヌシを出雲出身の国津系出雲族によって祀られた事に始まった認識をさせて頂きました。本ブログ別記事の「埼玉の水田開発の歴史における礎は、大宮氷川神社から始まった?」でも記載いたしましたが、国津系出雲族は、関東における水田開発に功のあった種族と(個人的には)思っており、また、「神田」の名前からも推察できる通り、「この地は、神社の祭祀の為に作られた田んぼがあった地域」と言う理解している為、『信仰と水田開発をセットで、国津系出雲族がこの地に進出してきた事に始まり、その時の信仰の対象者が「オオクニヌシ」であった』と思った次第です。
・少彦名命(スクナビコナと理解)
次に、スクナビコナ。こちらは、上記Wikipediaの引用によると、「明治7年(1874年)に大洗磯前神社より奉祀」とありますので、比較的新しい祭神の様です。言い換えると、ここには、「江戸から明治にかけて、つまり江戸の統治が、将軍から天皇に移った事が、関係している様」です。同じくWikipediaの「神田明神」の項目には、以下の様にあります。
(略) 明治に入って神社が国家の管理下に入ると、明治元年(1868年)に准勅祭社に指定された。その後、府社に列せられ、明治4年(1872年)に正式の社号が「神田神社」に改められた。1874年(明治7年)、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷された (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/神田明神
つまり、「天皇に逆らった経緯のある平将門は、隅に追いやられ、更に、オオクニヌシは、国津系の神であった為、天皇の直系にあたる天津系の神であるスクナビコナを新たな祭神として勧請した」と言う理解をしました(神話では、オオクニヌシと共に国造りを実行した神様でもあり、「西国から新たな江戸(東京)の統治者・天皇が来て、関東の国づくりをする」という考え方のもと、そりも良さそうに思えた次第です…)。
・平将門
では最後に、平将門は、祭神として、どんな歴史を辿ってきたのでしょうか? 同様に、上記Wikipediaの引用を見ますと、「延慶2年(1309年)奉祀、明治7年(1874年)に構内の摂社である将門神社に遷座、昭和59年(1984年)に本殿に奉祀復帰」とあります。また、同様にWikipediaの「神田明神」の項目内に以下の様にあります。
(略) 承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。江戸時代、江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年(1616年)に現在地へ遷座した。江戸総鎮守として尊崇された。神田祭は江戸三大祭りの一つである。山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、「天下祭」と言われた (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/神田明神
情報を整理すると以下の様な変遷をたどってきた認識です。
- 葬られたのは、940年くらいだが(現在の東京大手町付近の認識)、その後かなりたった1309年、祟りを恐れられ「御霊神」として祀られた
- 江戸時代には、江戸の総鎮守となり、庶民の崇拝を集めた
- 明治になって(1874年)、天皇の行幸を発端に、祭神から外れ、摂社になった
- 1984年、(三ノ宮ですが)祭神に復帰した
私なりの理解を、自身の思いも込めて記載させて頂きますと、以下の様になります。
「埋葬後、かなりの時間をおいて「御霊神」になったと言う事は、東国の独立を目指した平将門がこの地では、素地として崇拝を集めていたと思われ、江戸時代になって朝廷側の人間ではない為か、家康も大切にした事から、江戸の総鎮守となった。しかし、時代が変わり天皇中心の世になると、摂社となってしまう。ただこの際、明治天皇は、江戸の庶民の将門に対する信仰心を無視せず、祭神には出来ずとも、摂社に残す選択をした。これは、朝廷系の考え方が基本にある西国では罪人でも、東国では、『独立を目指した英雄』と言う地域の思いに寄り添った意思決定だと思われ、約100年後には将門が、祭神に復活した事からも想像できる内容で、明治天皇の国内をまとめる “強い意志” (「かつては逆臣でも、長く江戸を守り崇拝を集めた実績は評価する」と言った感じ?)と “懐の深さ” を感じる物と思えた」
皆様は、どの様に感じましたでしょうか?
【最後に】
以上が、日本三大怨霊の一人、平将門を祭神の一人として祀る神田明神に付き、その歴史を踏まえ考察を加えさせて頂きました内容になります。商売繁盛の神様のイメージが最も強かった神田明神ですが、こうしてみてみるとその商売繁盛の御利益の歴史は浅く、『平将門による「江戸の総鎮守」』のイメージが最もしっくりくる神社だと思った次第です。
別記事の「神宮・宮・大社・神社」の違いを考察させて頂きました記事や、「祭神の違いによる神社のカテゴリ分け」の記事でもでも感じましたが、神社は日本と言う国家の礎を築いてきた信仰(時には政治的手段)の象徴で、2000年近い(神話の世界をまともに考えれば、2500年以上の)歴史を誇る、日本人の心の拠り所だと思っています。無宗教の民族とも言われる日本人ですが、人生の節目で神社へお参りもしますし、初詣にも出かけます。と思えば、学業成就で神社(天満宮)にも参拝し、時には、日光の二社一寺の様に、神社とお寺をセットでお参りする民族です。言い換えれば、神仏習合の考え方のもと、神道の神様も仏教の神様も包括して、八百万の神々として崇拝を普段の生活の中で無理なく(無意識に?)信仰心を持った民族が、日本人だと思っています。恐らく、多くの外国の方には理解しにくい宗教感だと思いますが、個人的には、この特異で日本人の本質とも言えるこの宗教観は大切にすべきものだと信じている次第です。
一方では、気楽に様々な神社やお寺における上記の様な情報を、知的欲求のもと整理させて頂くと、ただの神社仏閣巡りが、大人散策(「有意義な時間を過ごせ、且つレクレーション的な側面も持っている散策」のような感じ)と思っていますので、今後も少しづつ様々な神社や寺院の情報を収集・整理しつつ、実際のフィールドワークも行って、大人散策を楽しんで行きたいと改めて思った次第です。
尚本ブログでは、諏訪大社や熱田神宮、大宮氷川神社、川越氷川神社、川越喜多院、日光の二社一寺、久能山東照宮、浅草寺、深大寺、神田明神、大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。