大宮氷川神社

【はじめに】

こちらのページでは、武蔵国一宮・大宮氷川神社を中心に、埼玉における水田開発の始まりの歴史に付き、勝手な考察(妄想?)をさせて頂きます言い換えますと、「出雲族系の神社である氷川神社は、埼玉の水田開発の歴史の礎を築いた拠点だったのではないか?」と思ってしまった次第です。

私達夫婦の住まう川越川越には、川越観光の顔とも言えるスポットがいくつかあります。蔵通りで有名な一番街現存4御殿があり、(勝手に…)江戸城の兄弟城と思っている川越城川越大師・喜多院昭和の趣を感じる事が出来る菓子屋横丁とい言った、主役級の観光スポットがありますが、縁結びの御利益で有名な川越氷川神社もその主役の1つだと思っております。別記事で紹介させて頂きましたが、川越氷川神社の祭神は、スサノオ夫婦と嫁両親、スサノオの子孫(大国主命)で、出雲族由来の神社の様です。川越氷川神社は、武蔵野台地のヘリの高台にあり、北~東にかけて水田に適した低地に面し、更に昔は水源(小川)もあった(現在も水神様と水辺があります)と言われており、水田開発の拠点としては、うってつけの場所だと思えます。そして氷川神社と言って忘れていけないのは、別記事でも紹介しております武蔵国一宮・氷川神社の総本社の「大宮氷川神社」こちらの祭神も、(同じ氷川神社なので当然ですが)スサノオ夫婦とその子孫の大国主命で、出雲族由来の神社地形的にも川越氷川神社と酷似しており、見沼の低地を眼前に、水を確保できる高台にございます

正直これまで、「氷川神社ってあちこちあるなー」位の印象でしか捉えていませんで、何系の(誰を祀る?)神社なのか?、地域性(範囲?)はあるのか?、歴史(創建はいつ?)は?、地形的な特徴はあるのか?といった観点では、全く考えもしませんでした。しかし、居住地にある川越氷川神社とその大本である大宮氷川神社の類似性に気が付いた時、「氷川神社って何者?」、「氷川神社の歴史は?」、「なぜ地形的が類似している?」と言った様な疑問がわいてきてしまいました。その為、上記を素人なりに調べてみた所、埼玉の水田開発の歴史における礎を築いたのは『氷川神社出雲族」と言った考えに至った次第です。

こちらのページでは、その考え(「埼玉の水田開発の歴史における礎を築いたのは『氷川神社出雲族』」)に至った内容を皆様に共有させて頂こうと思います。

【氷川神社とは?】

まずは、「氷川神社とは?」と言う、そもそもの疑問の解明から始めたいと思います。武蔵国一宮で、氷川神社総本社「大宮氷川神社」に関し、Wikipediaには、以下の様にあります(引用が少々長くなてしまい、情報量が多くなってしまったので、下記にサマリ的にまとめております)。

氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町にある神社。式内社(名神大社)、武蔵国一宮を称する(ないし三宮)勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される神社の1つ。東京都・埼玉県近辺に約280社ある氷川神社の総本社である。他の氷川神社と区別する際は「大宮氷川神社」とも呼ばれる。  

概要
埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして氷川信仰に基づく氷川神社が多数分布しており、当社はその中心である。「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来する普通名詞から転じたものである。埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数(警察調べ)は全国10位以内に数えられる。特に全国的に初詣客が増加した2008年(平成20年)以降は毎年200万人以上が訪れている。   

神社の境内は、見沼(江戸時代中期まで存在した広大な沼)の畔に位置し、もとは見沼の水神を祀っていたと考えられている神社の南側に広がる神池(かみいけ)は、神社の西側から涌き出た地下水が溜まったものであり、かつて見沼の一部であった。神社に隣接する埼玉県営大宮公園は、明治期に神社周辺の森を取得して整備したものであり、神社のある小山を見沼の入江が囲んでいた、という地形の特徴をよく保存している。  

大宮の氷川神社、見沼区中川の中氷川神社(現 中山神社)、緑区三室の氷川女体神社は、いずれも見沼の畔にあり、かつ一直線に並んでいる。この三氷川とかつて大宮の氷川神社境内にあった三社(男体社・女体社・簸王子社)がよく混同されるが、別のものである。   

祭神
現在の主祭神は次の3柱。  

  • 須佐之男命(すさのおのみこと)
  • 稲田姫命(いなだひめのみこと)
  • 大己貴命(おおなむちのみこと)   

現在の祭神は、1833年(天保4年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠る  (略)

歴史・前史  
社伝によれば、孝昭天皇3年4月の創建という。「国造本紀」によると、初代无邪志国造の兄多毛比命は成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神として、当社を奉崇したという。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲の簸川(ひかわ)に由来するという説がある。   

一方、氷川神社の摂社に「門客人神社」がある(現在も氷川神社社殿の東隣に鎮座)。元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。このアラハバキ社は氷川神社の地主神である。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので、先住の神がアラハバキとみられる。このほか、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「足立」と称するようになったとされる。 (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/氷川神社

上記、少々長い引用になってしまいましたので、まとめたいですが、その前にいくつか、気になるワードがございます。「氷川信仰」、「出雲族」、「中氷川神社(現 中山神社) / 氷川女体神社」です。まとめる前に、それぞれ再度Wikipediaの力を借りますと、以下の様にあります。

氷川信仰(ひかわしんこう)とは、スサノオに対する神道の信仰の一つである。  

概要  
『日本三代実録』や『延喜式神名帳』に「氷川神(ひかわのかみ)」と記載され、正四位上まで昇った。これが現在、氷川信仰の総本社とされる埼玉県さいたま市大宮区にある氷川神社の前身である。  農業用水として役割が大きい半面氾濫を起こす暴れ川・荒川の本支流域に多く、ヤマトタケルの東征経路や、8世紀に出雲族出身の无邪志国造が開拓したと伝えられる地域と一致した分布を示しており、氷川という名も出雲国の簸川(ひかわ、現在の斐伊川)に由来するとされる。  

中世以降、源頼朝を始めとする坂東武者の信仰の対象にもなり、各地へ勧請された。氷川神社より勧請を受けた神社は、関東地方を中心におよそ1,000社ある。かつては「氷川明神」と称し、江戸時代には江戸市中の7社を特に「江戸七氷川」と称したこともあった。現在、スサノオ以外にもクシナダヒメ・大国主の妻子(孫)を配祀する社が多い。 (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/氷川信仰

出雲族(いずもぞく)は、古代の出雲地方に存在したという説のある種族。出雲神話の担い手として想定されている。出雲地域からは大量の銅鐸や銅剣などが出土した遺跡もあり、実際に古代に何らかの勢力が存在したとされている。  

概要  
出雲族と呼称される著名な家系としては、須佐之男命の子孫(十七世神)で地祇系に属する一族と、天之菩卑能命の子孫で天神系・天孫族に属する一族の2つがある。前者は出雲の国譲りを行った一族で、後者は熊野大社と杵築大社の祭祀をつかさどった出雲国造の家系とする。  

地祇系・概要  
『古事記』によれば、高天原より追放(神逐)されて出雲に降りた(『日本書紀』では朝鮮半島の新羅の曽尸茂梨に降臨して、土船で出雲国に渡ったとする説がある。)須佐之男命(素戔嗚尊)は、八俣遠呂智(八岐大蛇)に食べられそうになっていた櫛名田比売命(奇稲田姫)を助け、結婚して子の八島士奴美神(八嶋篠、八嶋手)を生んだ(『日本書紀』には八嶋篠を生んだとする説と、大己貴神を生んだとする説がある)。その子孫(または御子神)の大国主神は少名毘古那神や大物主神と共に葦原中国の国造り・平定を(大国主の国づくり)したが、のちに高天原の天津神達(天照大御神)に国を譲って(出雲の国譲り)隠れたとされる。 なお『古事記』には童話などで有名な因幡の白兎や、須佐之男命の試練(大国主神の神話)などの物語が収録されているが、『日本書紀』にこれらの物語は収録されていない  (略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/出雲族

中山神社(なかやまじんじゃ)は、埼玉県さいたま市見沼区中川にある神社。旧社格は村社。別称として中氷川神社とも呼ばれる。氷川神社(大宮区)・氷川女体神社(緑区)とともに一体の氷川神社を形成していたという説がある。  

祭神 大己貴命 (おおなむちのみこと) – 大国主の別名。  

歴史崇神天皇2年(紀元前96年)創建と伝えられ、氷川女体神社と同年代の創建となる  (略)

当社は氷川神社と氷川女体神社の直線上にあり、広大な見沼を挟んでちょうど中間に位置する。太陽は夏至に西北西の氷川神社に沈み、冬至には東南東の氷川女体神社から昇るという、稲作で重要な暦を正確に把握するための意図的な配置となっている  (略)   

https://ja.wikipedia.org/wiki/中山神社_(さいたま市)

氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)は、埼玉県さいたま市緑区にある神社。登記上の宗教法人名称は旧字体の氷川女體神社である (略)   

主祭神奇稲田姫命 – 須佐之男命の妻。大宮(さいたま市大宮区)の氷川神社(主祭神:須佐之男命)を「男体社」とし、それに対し当社は「女体社」にあたる  (略)  

歴史:氷川女体神社、拝殿氷川女体神社、鳥居社伝では、崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと伝える  (略)  

当社と氷川神社、中山神社は直線上にある。太陽は夏至に西北西の氷川神社に沈み、冬至には東南東の氷川女体神社から昇るという、稲作で重要な暦を正確に把握するための意図的な配置となっている。また、三社の関係は右表のようになる   (略)   

https://ja.wikipedia.org/wiki/氷川女体神社

少々情報量が多くなってしまいましたので、Key と思われるポイントをまとめますと、以下の様になる認識です。

  • 氷川神社は、出雲系の神社
  • 出雲族とは、高天原より追放され出雲に来たスサノオ系(国津神系)と、スサノオの子孫・大国主命より、出雲の国を譲り受けた(出雲の国譲り)天照大御神系(天津神系)の2つがある
  • 氷川信仰は、スサノオに対する神道の信仰の一つ
  • 大宮氷川神社の祭神は、スサノオ夫婦とその子孫の大国主命で、スサノオ系(国津神系)の出雲系の神社
  • 氷川神社には、地主神と言われるアラハバキを祀る「門客人神社」と言う摂社がある
  • 現在でも、大宮氷川神社本殿の南には「神池」があり、水と関連深い(北には、舟遊池・西には蛇池、西には江戸時代中期まで存在した見沼の西の端にあたる)
  • 大宮氷川神社 / 中氷川神社 / 氷川女体神社は、一直線に並び、稲作で重要な暦を正確に把握するための意図的な配置となっている

上記のポイントから、勝手な推察(妄想?)をさせて頂くと「大宮氷川神社は、進出してきた出雲族が、元々住んでいた人を従え(軍門に下らせ?)、水を確保/コントロールし、稲作に適した低地を見下ろす水田開発に適したこの地を拠点とし、その象徴として神格化した一族の始祖(スサノオ)をまつり、同時に元々の支配者の祟りを恐れ、かつての支配者を客人として祭った場所」といった理解になった訳です(かなり妄想の域を出ませんが…)。

【氷川神社がある地形?】

上記、勝手な推察(妄想?)をさせて頂きましたが、「各氷川神社(三氷川)がある場所の地形はどうなっているのか」を地形図で見てみたいと思います。以下地図は、地理院の地図を自身で高低差を設定し作成した地図です。見て頂いた通りですが、以下に自身が感じたポイントをまとめさせて頂きます。

  • 大宮氷川神社は、江戸時代中期位まであったとされる、見沼の最上流部付近の高い台に位置する(縄文時代は、縄文海進により海?)
  • 大宮氷川神社と併せて、三氷川と言われる、中氷川神社 / 氷川女体神社も、非常に良い土地である見沼に面した高台に陣取っている
  • 上記、Wikipediaからの引用の通り、大宮氷川神社 / 中氷川神社 / 氷川女体神社は、確かに一直線に並んでいる

この地形図を、前の項目で触れた情報と併せ見ていると、「出雲族(国津神系)は、この一帯の低地で、水田開発を推し進めるために、大宮氷川神社 / 中氷川神社 / 氷川女体神社といった拠点を確保すると同時に、稲作における “タイミング” を知る観点で築いていった」と思ってしまいました。皆様はどの様に思われますでしょうか?

【氷川神社の歴史】

ここまで、大宮氷川神社を中心とした概要、地形を見てきましたので、次にその歴史を見て行きたいと思います。以下、Wikipediaの情報をもとに、以下に大宮氷川神社 / 中氷川神社 / 氷川女体神社の創建のタイミングを、一覧にまとめてみました

但し、これらの神社は非常に歴史のある神社で、創建された時代の天皇の名前はWikipediaに記載があっても、いわゆる「欠史八代」の天皇の時代で、ほぼ神話の世界の話になってしまいます為、西暦との突合せが基本不可能な時代だと認識しています。故に、恐らく大丈夫そうな、26代継体天皇の即位したと言われる507年から一人の天皇の在位期間を10年と仮置きし、西暦を自動計算した内容になっています(とは言っても、10年の根拠は特になく、9世紀くらいまでの天皇の在位期間よりおおよその平均値を計算し推察しました)。正確なタイミングは分からずとも、おおよそのタイミングを出す苦肉の策である事を予めご承知おき頂き、ご参照頂けますと幸いです。(その他、埼玉/東京にある「この神社は歴史が長いはず!」と思った神社(川越氷川神社も含みましたが…)も比較のために一覧にしましたので、参考までにご参照頂けますと幸いです)

他の神社との比較

上記、仮置きの西暦から推察するに、大宮氷川神社の創建は、西暦300年前後、中氷川神社 / 氷川女体神社の創建は、西暦350年前後と推察されます言い換えると、古墳時代の初め、もしくは、仮置きした一人の天皇の在位期間がもう少し長いのであれば、弥生時代の最終盤に創建された神社であると想像できると思った次第です。つまり、出雲族が、『弥生時代から古墳時代のはざま』辺りで、大宮氷川神社に隣接していたと言われる見沼周辺に進出し、この地域の水田開発が本格的に始まった」と言う理解(妄想?)になった次第です。

【川越氷川神社との関連性】

上記、大宮氷川神社の概要理解における、Wikipediaからの引用にもありますが、氷川神社は荒川流域を中心に多く存在しております。すべてを検証している訳ではありませんが、水の湧きそうな低地と高台の境目や川の合流付近といった、水に関連し、水田の開発に適した場所に多くある印象です。勿論、勧請された時代もかなりの差があり、現在の地形との違いや神社そのものが移動したケースもあると思うので、一概には言えませんが、創建の年代の近い川越氷川神社の地形を見ていると、上記、大宮氷川神社に対し考察(妄想)したストーリーと同じストーリーが見えてきます

以下、川越氷川神社の地形図を見て頂きたいのですが、大宮氷川神社と同じく、眼前(北から東の広い範囲で)低地が広がっており、境内には水が確保できる小川が流れていたそうです。また、同じ氷川神社なので当然ですが、祭神は出雲系(スサノオ夫婦と嫁両親、スサノオの子孫(大国主命))で、創建は、541年

こうなると、大宮氷川神社一帯に進出し、水田開発を進めた出雲族は、数百年の後、同じポリシーで、周辺地域の勢力拡大を目指し、大宮氷川神社一帯と類似する川越氷川神社周辺の地を見つけ、ここでも(元々の住民を武力で従え?)水田開発を進めていった」と思って(妄想して)しまった訳です。今では、縁結びが売りで、川越観光の主役の1つでもある川越氷川神社ですが、元々は水田開発のための拠点(ある意味軍事拠点であった可能性も…)であったかと思うと、妄想であっても、川越市民としてはちょっと複雑な心境になってしまいました…。

【最後に】

以上が、武蔵国一宮大宮氷川神社を中心に、埼玉における水田開発の始まりの歴史に付き、勝手な妄想をさせて頂きました内容になります。

正直上記は、確証はなく、あくまでも個人的妄想です…。しかし同時に、個人的には、かなり現実味のある妄想だとも思っております。出雲族系の神社である氷川神社が、埼玉の水田開発の歴史の礎を築いた拠点だった」、皆様はどの様に思われましたでしょうか? 個人的には、川越市民ですので、川越観光の主役の1つである「川越氷川神社」には、よく脚を運んでおりますので、改めて上記視点で、周囲も含め大人散策させて頂き、更に上記の妄想を続けてみたいと思いますし、まだ数回しかお邪魔していない「大宮氷川神社」にも、改めて脚を運び、更には中氷川神社 / 氷川女体神社も併せて大人散策し、この地域の本格的な水田開発の歴史に思いを馳せてみようと思った次第です。

本ブログ別記事で、大宮氷川神社川越氷川神社の見所も含めた大人散策情報も記載しておりますので、併せてご参照頂き、皆様もこの地に赴いて、この地域の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越喜多院と言った有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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