中山道 vs 東山道

【はじめに】

こちらのページでは、「岐阜・中津川から長野・塩尻(≒諏訪)区間における『東山道と中山道のルートが違う理由』につき考察(妄想?)」させて頂こうと思います

本ブログ読者の皆様であれば、「中山道」はご存じだと思いす。江戸時代に整備された五街道の一つで、京都江戸を結ぶ主要街道である為、本ブログでも、中山道その物について記載させて頂きましたし、諏訪大社の紹介における記事でもその付近を通る中山道(下諏訪宿)につき記載させて頂きました。更には、中山道の宿場町;信濃追分宿奈良井宿妻籠宿馬籠宿等についても記載させて頂きました。

では「東山道」はご存じでしょうか? ここでいう「東山道」は、五畿七道として整備された行政区分の意味ではなく「道としての『東山道』」と意味ですが…。こちらに関しても本ブログ読者の皆様であれば、ご存じだと思います。詳細は、以下に記載させて頂こうと思いますが、中山道の多くは、この東山道をベースに整備された道と言われているそうです

しかし先日、中山道(狭義の意味での木曽路;馬籠宿~奈良井宿)の大人散策情報の記事を記載している際、この中山道と東山道、岐阜・中津川~長野・塩尻(≒諏訪)の区間に関しては、全く異なるルートを辿っていると言う事を認識した次第です…。言い換えればなぜ、岐阜・中津川~長野・塩尻(≒諏訪)の区間、東山道と中山道のルートは違ったルートを選択したのか?」と言う疑問を持ってしまった次第です。

こちらのページでは、その疑問を(個人的主観が多く入りますが)解消すべく「岐阜・中津川から長野・塩尻(≒諏訪)区間における『東山道と中山道のルートが違う理由』につき考察(妄想?)」させて頂こうと思います

【中山道とは? 東山道とは?】

先ずは、そもそも「中山道とは?」、「東山道とは?」といった基本情報から抑えさせて頂きます。中山道」、「中山道の別名;木曽路(木曽街道)」、「東山道」、「日本の古代道路」を、それぞれWikipediaの力を借り、調べてみますと以下の様にあります(引用後にポイントを箇条書きにまとめますので、読まなくても大丈夫です)。

中山道(なかせんどう)は、江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。 (略) 南回り・太平洋沿岸経由の東海道に対して、中山道は北回り・内陸経由で江戸と京都を結ぶ。草津追分以西は東海道と道を共にする。江戸から草津までは129里10町余(約507.7 km)あり、67箇所の宿場が置かれた。また、江戸から京都までは135里34町余(約526.3 km)である。現在の都府県では、東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県・京都府に該当する地域を通過する” (略)

律令時代に東山道は畿内から東日本の各重要地が位置する内陸部を経由し、加えて効率良く陸奥国へ至る幹線路として整備された。 (略) 江戸時代に入り、江戸幕府は、1601年(慶長6年)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備した。それまでの東山道の街道を改良したものが多かったが、大井宿(岐阜県恵那市) – 御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)間や、加納宿(岐阜県岐阜市) – 赤坂宿(岐阜県大垣市)間など、新しく作られた街道筋もあった (略) 戦国時代迄は山道や東山道とも称された。江戸時代には中山道や中仙道とも表記されたが、1716年(享保元年)に、新井白石の意見を入れた江戸幕府の通達により中山道に統一された (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/中山道

木曽街道(きそかいどう)は、京と江戸を美濃国および信濃国を経て結んでいた山道の俗称である。

概要
古代から中世の吉蘇路、江戸時代の中山道(木曽路)のこと。当時は木曾街道と書いた。狭義には、中山道のうち、美濃国と信濃国の境界部に当たる木曽地方の一部区間を指した。贄川宿・奈良井宿・薮原宿・宮ノ越宿の上四宿、福島宿・上松宿・須原宿の中三宿、野尻宿・三留野宿・妻籠宿馬籠宿下四宿からなる11の宿場が設置された (略)

かつては今のように人馬の通行は殆ど無く、昔は山姥に遭遇するなど通行困難な路であり、善光寺を詣でるにも、木曾街道を行けば百里で済むところ、命の方が大事と二百里もある北陸道を経る場合も多かったことや、かの平家でさえ京より関東に出るのに北陸道を用いたことを書いており、木曽路がたいへんに険しい道であったことを述べている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/木曽街道

東山道(とうさんどう/とうせんどう)は、五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から東へ貫いて陸奥国・出羽国に至る行政区分である。また、古代から中世にかけてはその範囲の諸国を結ぶ幹線道路も指したが、江戸時代に江戸を起点として西側の中山道と東(北)側の奥州街道などに再編された (略)

道(みち)としての東山道
(略) 東山道の成立時期については、天武天皇の時代とする説がある (略)
律令時代の東山道は、畿内から陸奥国へ至る東山道諸国の国府を結ぶ駅路で、現在の東北地方へ至る政治面・軍事面で重要な最短ルートであった (略) 東山道には、駅伝制により30里(約16 km)ごとに駅馬(はゆま)10頭を備えた駅家(うまや)が置かれていた (略)
美濃国・信濃国(伊那盆地)間は神坂峠を通った。信濃国内では松本盆地と上田盆地との間の保福寺峠を通った。信濃国・上野国間は碓氷峠を通った。
武蔵国は奈良時代当初は東山道に属し、東山道の枝道として東山道武蔵路が設けられた。その経路は上野国新田より南下し武蔵国府(現・府中市)に至り、同じ路を戻って北上し下野国足利へ進むコース(またはこの逆)が東山道の旅程であった (略)

東山道の建設については誰が計画してそれを実行したかほとんどわかっていないが、断片的な記録として大宝2年(702年)12月10日『続日本紀』に、初めて「初めて美濃の国に岐蘇(きそ)の山道を開く」との記録があるこの記述が示す地域の経路は、美濃国の坂本駅(現・中津川市)から神坂峠を越え伊那谷に至るルートを取っている (略) 

近世
江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光例幣使街道・奥州街道などに再編された (略)

【参考】
東山道ルートでの、京都⇔多賀城の概算距離(810km)
京都 -(22km)- 草津 (滋賀県) -(57km)- 長浜 -(12km)- 不破関 -(36km)- 岐阜 -(26km)- 美濃加茂 -(56km)- 中津川 -(100km)- 塩尻 -(55km)- 上田 -(20km)- 小諸 -(22km)- 碓氷峠 -(41km)- 高崎 -(112km)- 宇都宮 -(75km)- 白河関 -(152km)- 岩沼 -(25km)- 多賀城

https://ja.wikipedia.org/wiki/東山道

日本の古代道路(にほんのこだいどうろ)は、古代日本の道路または道路網を指す。特に、中央政府・律令体制構築期の政府が、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代前期にかけて計画的に整備・建設した道路または道路網を指す (略)
駅路は、発掘により、地方では 6–12 m、都の周囲では 24–42 m に及ぶ広い幅員を持ち、また、路線形状が直線的である(時に直線が 30 km 以上)という特徴を持つ。当時の中国(隋・唐)における道路制度の強い影響が想定されている (略)

直線的な道路が計画的に整備されたのは、7世紀からだとされている (略) 直線道路の出現の背景には、7世紀初頭に派遣された小野妹子らの遣隋使と関係があり、古代中国の隋との交流から大和朝廷に派遣された隋からの使節団を迎え入れるために、朝廷が道路整備に力を注いだのではないかと考えられている (略)
発掘調査などによれば、全国各地、とくに関東地方や九州北部で直線的な道路が多数発見されており、少なくとも大化の改新直後には畿内及び山陽道で直線的な駅路や駅家(うまや)の整備が行われ、680年頃までには九州(西海道)北部から関東地方(東海道)に至るまでの広範囲にわたって整備が進んだようである (略)
駅路は、重要な情報をいち早く中央-地方の間で伝達することを主目的としていたため、路線は直線的な形状を示し、旧来の集落・拠点とは無関係に路線が通り、道路幅も 9–12 m(場所によっては 20 m)と広く、中央と国府間を繋ぐ早馬を走らせる性格を色濃く持っていた
実際に、古代駅路と高速道路の設定ルートや、駅家とインターチェンジの設定位置が、ほぼ同一となっている事例も多く見られる (略)
広い幅員と長大な直線形状を示す古代道路は、特に飛鳥時代〜奈良時代に建設された駅路に多く、これを前期駅路という。前期駅路は、多くの場合 9–12 m、畿内に近い地域では 20m の道路幅をもち、平野部においては直線形状が 30 km 以上に及ぶこともあった。丘陵地帯においても、斜面を切削し、谷間を埋め立て、直線形状を保つよう設計されていた

駅路は、中央と地方間の情報伝達のためのハイウェイとして位置づけられていたが、その目的だけとしては、幅員が広すぎるという問題がある。広い幅員で直線的な道路には、いくつかの性格が与えられていたと見られている。
一つは、外国の賓客に見せるためのデモンストレーションだったとする見方である (略)
しかし、全ての駅路を外国使節が通過したわけではない。そこで地域の豪族・住民らへのデモンストレーションだったとする見方もある地域の経済力・技術力では建設し得ない規模の道路の存在が、中央政府の強大な権威を誇示する役割を担っていたとしている
また、軍用道路としての性格を唱える見方もある。世界各地の古代道路を見ると、軍事的な性格を持つものが多く、日本の古代道路もその例外ではないとする。また、律令において、駅伝制は兵部省の所管となっており、飛鳥時代から奈良時代にかけて行われた軍事活動のために駅路などが整備された可能性もある (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の古代道路
  • 東山道 / 日本の古代道路
    • 東山道は五畿七道の一つで「行政区分」の意味と「その東山道の諸国を結ぶ幹線道路」の意味があり、畿内から陸奥国へ至る東山道諸国の国府を結ぶ駅路で、現在の東北地方へ至る政治面・軍事面で重要な最短ルートであったらしく、駅伝制により30里(約16 km)ごとに駅家が置かれていたらしい
    • 東山道の成立時期については、天武天皇の時代(600年代後半?)とする説がある様子
    • 東山道の建設については誰が計画してそれを実行したかほとんどわかっていないが、断片的な記録として大宝2年(702年)12月10日『続日本紀』に、初めて「初めて美濃の国に岐蘇(きそ)の山道を開く」との記録があるらしいが、この記述が示す地域の経路は、美濃国の坂本駅(現・中津川市)から神坂峠を越え伊那谷に至るルートを取っていると言われる様子
    • また、武蔵国は奈良時代当初は東山道(行政区分の意味)に属し、東山道の枝道として東山道武蔵路が設けられ、その経路は上野国新田より南下し武蔵国府(東京の府中市)に至り、同じ路を戻って北上し下野国足利へ進むコースが東山道の旅程であったらしい
    • 東山道の総区間は「京都⇔多賀城」で、その概算距離は「810km程」になるらしい
    • 日本の古代道路は、中央政府・律令体制構築期の政府が、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代前期にかけて計画的に整備・建設した道路を指す様で、7世紀辺りからは「直線的で、道幅も広い物」だったらしい
    • 発掘調査などによれば、680年頃までには九州(西海道)北部から関東地方(東海道)に至るまでの全国各地の広範囲にわたって古代道路の整備が進んだらしい
    • 迅速な情報伝達することを主目的とし、中央と地方間の情報伝達のためのハイウェイとして位置づけられていたとも言われるが、外国の賓客に見せるためのデモンストレーション中央政府の強大な権威を誇示する為の地域の豪族・住民らへのデモンストレーションだったとする見方もあるらしく、軍用道路としての性格を唱える見方もあるらしい(日本神話の元になる古事記(712年)・日本書紀(720年)が編纂されたのもこの頃ですし…)

上記の通りですし、本ブログ別記事でも記載させて頂きましたが、「中山道」は、律令国家時代には「東山道」と言われた道を、中山道日光例幣使街道奥州街道などに再編されたとも言われる道の様ですので、大雑把に行ってしまえば「旧東山道の一部(結構な部分?)が中山道になった」と言う理解です。しかし同時に、正確には、東山道は中津川から神坂峠(現恵那山トンネル付近)を越え、諏訪湖から流れる天竜川に沿って広がる盆地の伊那谷に入り、これを北上し諏訪方面に向かった一方、中山道は中津川から木曽谷に沿って北上し塩尻(≒諏訪)地方に至ったルートと言われている様ですので一致しません(ちなみに東山道武蔵路は別記事で紹介しております…)。

また中山道は、広義の意味では「木曽路」とも言われる道(狭義の意味では、美濃と信濃の境付近の木曽地方の区間を指した道ですが…)です。つまり、江戸から京都に伸びる全長500㎞以上の中山道が、100㎞程通る木曽地方の全体の名称として認知されたと言う事です。言い換えると「全区間の五分の一(1 / 5)に満たない区間が、全体の名称として認知される程のインパクトを持った区間だったのではないか」と想像してしまった次第で、現在でも、中山道(狭義の意味の木曽路)沿いには、当時の面影を残すスポットとして、奈良井宿妻籠宿馬籠宿もあり、海外からも多くの観光客が訪れる人気観光スポットと認識しております。

別の意味では、「中山道は、東山道の多くを踏襲しているようだが『東山道のルートではなく、全体の1 / 5(=五分の一ほどの狭義の意味の)木曽路』が、『中山道全体を示す意味でも認識』された事は『中山道と東山道は違う道です!』と言っている」様にも思えてしまった次第です。つまり「東山道と中山道は、整備された時代も、目的も、そのルートも違う道なんだよ!」と言っている様に感じに思えてしまったと言う事です。

【東山道と中山道のルートの違いを深堀】

上記、中山道と東山道の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、中山道と東山道のルートの違いにつき、事実関係を抑え、その違いにおける疑問を少し深堀してみようと思いますまずは、中山道と東山道のルートの違いを以下の地図(Google Map の画面キャプチャにポイントと思われるスポットを自身で追記)を通してご確認頂ければと思います。

上記画面キャプチャの通りですが、南西(京都/機内)方面から来た東山道/中山道は、中津川付近で分かれている様です。東山道は、そのまま東に向かい、神坂峠を越えて、諏訪湖から流れる天竜川流域の伊那谷に出た後、北上して諏訪・塩尻方面に向かった一方、中山道は、中津川付近から北上して、馬籠峠・鳥越峠等を越える木曽谷に沿って北上し、諏訪・塩尻方面に向かった様です。この時点で「なぜ違うルート?」と思ってしまいますが、先ずは今少し、私自身が持っている情報と併せて事実関係を整理致します。

  • 東山道のルートである畿内方面から伊那谷に出るには、神坂峠(1600m弱)のかなり過酷な峠越えをする必要があるが、伊那谷に出た後は、比較的広い土地を通行する事が出来る
  • 木曽谷ルートは、700年代初めに開かれた道と言われている(=東山道が整備された頃の中央政府も木曽谷ルートの方が、距離が短い事を知っていた?)が、長い間「辺境の道」と言った感じであったらしく、江戸期になって中山道として整備された(主要街道になった)
  • 中山道は、神坂峠が過酷な事から、鳥居峠等があるものの比較的通行しやすく、距離も短い木曽谷ルートを選択したと言われている

以下「東山道の神坂峠中山道の難所と言われる和田峠(狭義の意味の)木曽路における難所と言われる鳥居峠の比較」と併せてご参照頂きたいのですが、東山道が整備された際の中央政府(東山道整備の主体者)も、『純粋な道路の建設であれば「木曽谷ルートの方が、距離的にも、通行のしやすさの観点でも適切」と理解していた節があるにもかかわらず伊那谷ルートを選択』した一方、江戸幕府は、『物理的な状況から適切と思われる木曽谷ルートを素直に選択した』事から考えると、東山道は物理的な判断(距離的にも通行のしやすさの観点でも適切といった判断)で通されたルートではない」と思た次第です。

【東山道と中山道のルートの違いにつき考察(妄想?)】

上記「東山道は物理的な判断(距離的にも通行のしやすさの観点でも適切と思われる判断)で通されたルートではない」と記載しましたが、ではどんな判断の元、東山道は伊那谷を通るルートを選択したのでしょうか? その考察(妄想?)を記載しますと「政治的パフォーマンス」です。「ん???」って感じだと思いますので、今少し記載しますと、上記引用に「東山道は、直線的な道で、道幅も広く、中央政府の強大な権威を誇示する役割を担っていた」と言われる様ですので、簡単に行ってしまえば、

それぞれの地域に住まう人々に対し、中央政府の権威を示す為、必要以上に直線的で道幅の広い道を作って行ったが、木曽谷ルートは、人口も少なく土地も狭い為、権威を示す相手もいなければ、道幅が広く直線的な道路を建設する事が厳しく意味もなかった。しかし、神坂峠を越えて伊那谷まででれば、比較的広い土地に、比較的多くの人が住んでいたので、道幅の広い直線的な道を作る事で、権威を示す事が出来た故に、かなり厳しいと言われる神坂峠越えのルート(伊那谷ルート)をあえて選択した。一方徳川幕府は、その権威を示すのに、道路ではなく武力を示す事で実現していたので、物理的な判断(距離的にも通行のしやすさの観点でも適切と思われる判断)で適切と思われる(狭義の意味の)木曽路を整備し、中山道としてのルートを確保した

と言う考察(妄想?)になった次第です。正直、かなりの妄想が入っていますので、何処まで正しいか全く持って不明ですが、改めて伊那谷と木曽谷の航空写真を拝見すると、「伊那谷と比べ木曽谷には広い土地が見当たらないので(多くの人口が見込める土地でもないので)、広い道を通す事も、それによる権威を示す事も難しい」と思った次第です。同時に、東山道が通されたと言われる前の時代の象徴「古墳」につき、Google Map で検索をかけてみると、以下画面キャプチャの感じです。ご覧の通りですが(マップの縮尺で表示される古墳の数に多少の違いはあるでしょうが)、伊那谷には多くの古墳が見られますが、木曽谷にはほぼ皆無です。つまり、東山道を通す頃、伊那谷には古墳が作られるほどの勢力基盤を持った領主がおり、人口もあったが、木曽谷はその状況になかった」と言えると思った次第です。そして、この考え方は、同時期に編指された日本神話のベースともなる「古事記(712年)の目的(=天皇が日本を統治する事の正当性を示す:詳細別記事参照)と同じ考え方になり、整合性はとれるとも思った次第です。

【最後に】

以上が、「岐阜・中津川から長野・塩尻(≒諏訪)区間における『東山道と中山道のルートが違う理由』につき考察(妄想?)」させて頂いた内容になります

律令国家時代の中央政府は「政治的パフォーマンス」を重視して東山道を整備し、徳川幕府は「物理的な判断(距離的にも通行のしやすさの観点でも適切と思われる判断)」で木曽路=中山道を整備したという勝手な結論ですが、皆様はどの様にお感じになられましたでしょうか? 個人的にも、勝手な考察(妄想?)だと思いますが「もしかしたら意外とそうかも…」と思ってしまった次第です…。そして、こんな妄想をしていると、神坂峠を自身の足で越える体力も、度胸も無いですが、出来る限りででも車で神坂峠の遺構を拝見しに参りたいと思ったと同時に、狭義の意味の木曽路を出来る限り自身の足で歩いてみたいと思ってしまいました…。

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