【はじめに】
こちらのページでは、「『関ヶ原の戦い』・『壬申の乱』の舞台として有名な『関ヶ原』エリアにおける大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂こうと思います。
皆様は、『関ヶ原の戦い』も『壬申の乱』もご存じですよね? 以下に詳細記載しますが、本当に簡単に言ってしまえば、「『関ヶ原の戦い』は、徳川家康が、江戸幕府を開く契機となった戦」で、「『壬申の乱』は、天武天皇が、天皇に即位する源になった戦」と理解しています。つまり、この「関ヶ原」の地は、『「日本と言う国の頂点を争う戦」が2度もあったエリア』と言う理解をしている次第です。そんなエリア、中々無い認識ですが、「関ヶ原」の地形を見てみると、「東山道」(江戸期以降は「中山道」)と言った主要街道が通され、東から畿内に入るポイントであり、且つ周囲の地形が「戦向き」であった事も影響していると思い、「必然と言えば必然…」とも思ってしまっている次第です。


本ブログ別記事で、『関ヶ原の戦い』に関しては、『孫子の「彼を知り己を知れば百戦してあやうからず」の記事』にて、「徳川家康の心持を孫子の観点から考察」させて頂きましたし、「大垣城の大人散策情報のプランニング」でも「関ヶ原合戦前の西軍の重要拠点」として記載申し上げた上、この地を通る「東山道」(江戸期以降は「中山道」)についても、少し場所がずれますが記載させて頂きました。つまり、この「関ヶ原」と言うエリアは、「日本の歴史(有名武将や戦)」・「街道」・「独特の地形」といった、私達夫婦の気になる Key Ward に関連するエリアであると長年思っている次第なのですが、この「関ヶ原」の地は、これまで新幹線で通り過ぎるのみ…。いつもここを通る度に、「あっ、関ヶ原だ…、いつかちゃんと大人散策したいな…」と思って、もう何年(何十年?)もたってしまっている状況です…。そして思いました、「ちゃんとプランニングしていないから、イメージが持てず、結果として、脚を運べていないのではないか…」、「いつ脚を運んでも良い様に『大人散策をプランニング』しておこう!」と…。
「と言う訳で…」ではありませんが、こちらのページでは、そんな個人的状況にある「関ヶ原」エリアに付き、記載させて頂きます。すなわち、「『関ヶ原の戦い』・『壬申の乱』の舞台として有名な『関ヶ原』エリアにおける大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂こうと思います。




【「関ヶ原」って、歴史上何があったところ?】
まずは、「『関ヶ原』の地を舞台にした『関ヶ原の戦い』・『壬申の乱』の概要」を抑えるべく、Wikipedia の力を借りたいと思います。まずは、「関ヶ原の戦い」から調べますと、以下の様にあります(引用の後に、サマリ的にポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です…)。
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた合戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦・関ヶ原合戦とも呼ばれる (略)
主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。概要
豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発したものであり、徳川家康を総大将とし福島正則・黒田長政らを中心に構成された東軍と、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍の両陣営が、関ヶ原での戦いを含め、各地で戦闘を繰り広げた。
この戦役の結果、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、秀吉没後の豊臣政権を構成していた五大老・五奉行体制は崩壊した。家康の権力掌握は徳川氏を中心とする江戸幕府の成立に繋がり、幕藩体制確立への道筋が開かれることになった (略)岐阜市歴史博物館蔵収蔵『関ヶ原合戦屏風(江戸時代後期) 関ケ原の戦い布陣図(Wikipedia より) Wikipediaより 決戦と抗争終結
https://ja.wikipedia.org/wiki/関ヶ原の戦い
・9月15日、関ヶ原にて東西主力の戦闘が行われ、東軍が勝利 (略)
・9月17日、佐和山城が落城。同日、毛利元康が大津城を退去 (略)
この頃より、毛利輝元と徳川家康との間で黒田長政・福島正則を介した交渉が始まり、現毛利領が安堵される条件で和睦が成立(ただし、10月になってこの約束は反故にされ、周防・長門2ヶ国に減封される)
・9月25日、毛利輝元が大坂城から退去した。徳川家康と徳川秀忠は、福島正則・黒田長政ら5名の大坂入城を確認した
・9月27日、徳川家康が大坂城に入城し、豊臣秀頼と「和睦」
・10月1日、安国寺恵瓊・小西行長・石田三成の3名が京都・六条河原にて斬首された (略)
つまり、、、
『「関ヶ原の戦い」は、1600年に「徳川家康を総大将とした東軍」と「毛利輝元を総大将とし反徳川の石田三成を中心とする西軍」が、現在の「不破郡関ケ原町」を主戦場として、各地で戦闘を繰り広げられた合戦であったが、「主戦場である関ヶ原で合戦は1日で決着」し、結果、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、徳川氏を中心とする江戸幕府の成立に繋がり、幕藩体制確立への道筋が開かれることになった戦いでもあり、その主戦場となった「関ヶ原古戦場跡」は、現在「国指定の史跡」となっている』
と言った理解をした次第です。


また、『関ヶ原の戦い』と並んで、この地を舞台にした有名な戦である『壬申の乱』、並びに、大海人皇子(後の天武天皇)が抑え、大友皇子が自決したエリアである『不破関』に関しても、Wikipedia の力を借り、調べてみますと、以下の様にあります(こちらも、引用の後に、サマリ的にポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です…)。
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 – 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 – 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった (略)天武帝御影(大和国矢田山金剛寺蔵)、天武天皇像 弘文天皇(大友皇子)の御影 天智天皇 天皇家系図(抜粋) Wikipediaより 乱の経過
https://ja.wikipedia.org/wiki/壬申の乱
660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子に立てていたが、天智天皇10年10月17日(671年11月23日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた (略)
12月3日(672年1月7日)、近江宮の近隣山科において天智天皇が46歳で崩御した。大友皇子が後継者としてその跡を継ぐが、年齢はまだ24歳に過ぎなかった。大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月24日)に吉野を出立した。まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得ることに成功した。続いて伊賀に入り、ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦した。そして積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で長男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある) (略) さらに伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日(7月31日)に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。
近江朝廷の大友皇子側は (略) 東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった (略) 瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると (略) 大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した (略) 天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった (略)
不破関(ふわのせき)は、古代東山道の関所の一つ。現在の岐阜県不破郡関ケ原町にあり、史跡としては不破関跡(美濃不破関跡)と呼ばれる。
歴史
・創設
『日本書紀』巻第28壬申紀(天武天皇元年(672)6月壬午(22)条)によれば、壬申の乱(672年)において大海人皇子(後の天武天皇)が美濃国出身の舎人である村国連男依らに命じ、安八麿郡(安八郡)湯沐令の多臣品治(多品治)が郡で兵の徴発を行って「不破道」を塞ぎ、これが大きな勝因となった。
壬申の乱後、律令体制のもとで都の警護のため、東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに東山道に不破関が「三関(さんげん)」として整備された。この関より東側の地方を指して、古くは「関東」と呼ばれていた。
不破関の創設時期については、遺跡からの出土遺物のほとんどが8世紀初頭以降のもので、史料上「三関」の初見が『続日本紀』和銅元年(708) 3月乙卯(22)条であることなどから8世紀初頭と考えられている (略)不破関のおよその位置を示した地図 五畿七道のマップ(Wikipedia より) Wikipediaより ・廃止
https://ja.wikipedia.org/wiki/不破関
789年(延暦8年)、突如として三関停廃の詔が出され、兵器や粮糒(ろうび、食料のこと)は国府(美濃国府)に運収され、館舎は郡衙等へ移建された。ただし、三関停廃の詔以降も、灰釉陶器や山茶碗などの出土品がみられ、何らかの施設があったと想定されている (略)
引用続けさせて頂きましたが、『壬申の乱』・『不破関』を併せて理解すると以下の様になった次第です。
『「壬申の乱」は、672年に「天智天皇の太子・大友皇子(=弘文天皇)」に対し、「天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)」が兵を挙げて勃発し、反乱者である「大海人皇子(後の天武天皇)が勝利」するという「日本では例を見ない内乱」。この時「大海人皇子(後の天武天皇)」は、「不破の道」を封鎖する事で、(エリアとしての)東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになり、「『瀬田橋の戦い』で大友皇子(弘文天皇)側の軍が大敗」すると、「大友皇子(弘文天皇)」は「不破関付近で自決」し、乱は収束し、「大海人皇子(後の天武天皇)」の治世に繋がって行った戦』
といった理解をした次第です。



『「関ケ原」という地名の由来』を安直に発想してしまうと、『「関所(=不破関)」付近の「野っ原」』と思ってしまいますが、一方で、『元々「関東」は「不破関」の東側と言う意味』だったとも言われている認識です。つまり、この「関ヶ原」の地は、その地形から「東山道」(江戸期以降は「中山道」)と言う主要な幹線街道が必然的に通され、そして、東から畿内への入口として「不破関」が置かれ、軍事・経済を含めた交通の視点からも重要視されると同時に、それが故に「日本を分ける地」と言った意味をもっていったのでないかと思ってしまった次第で、そんな「関ヶ原」で、『「日本と言う国の頂点を争う戦」が、2度も起こった事』もまた「”必然” かもしれない…」と思ってしまった次第です…。
【「大人散策@関ヶ原」をプランニング】
上記、「『関ヶ原の戦い』・『壬申の乱』、並びに『不破関』の概要」を抑えさせて頂きましたので、こちらのパートでは、その見所を、大人散策ルートのプランニングと共に抑えて行きたいと思います。言い換えますと、「『大人散策@関ヶ原』のポイントは、『関ヶ原の戦い』・『壬申の乱』・『不破関』」といった感じで、「『関ヶ原の戦い』に関しては、東軍・西軍・寝返り系の軍の痕跡を、地形を感じつつ、そして、それぞれの武将の心持に思いを馳せつつ大人散策」を遂行し、「『壬申の乱』・『不破関』に関しては、その遺構を『東山道 / 中山道の散策』と共に」巡り、更にはプラスαで「道々の『神社仏閣』・『博物館 / 資料館 / 歴史館等』も巡って、この関ヶ原と言う地域を感じていきたい」と思った次第です。
しかし同時に、「それぞれのスポット」を地図上で拝見すると、かなり入り組んでおり、しかもそれなりの広範囲になる様で、1日で回りきる事は難しい様子。故に、図の感じで「日程と各スポットのカテゴリ」をマトリックス的にまとめ、「3日かけて、『関ヶ原の戦い』・『壬申の乱』・『不破関』のポイントを巡るプラン」を想定した次第です。以下に、1日目・2日目・3日目のそれぞれのスポットを、そのルートと共に記載いたしますので、最下部のGoogle My Map で作成した地図と共に、ご参照頂けますと幸いです。

・1日目 (「徳川家康 最初陣跡 (桃配山)」・「南宮山」・「南宮大社」方面)
初日は、「関ケ原駅」をスタートし、まずは情報をインプットすべく、いくつかの「資料館等」を巡り、「徳川家康 最初陣跡 (桃配山)」・「毛利軍の陣跡である南宮山」付近を巡って、「垂井駅」をゴールとするコースです。
「関ヶ原駅」をスタートし、そこから北上して「関ヶ原戦国甲冑館 」・「関ケ原町歴史民俗学習館」・「岐阜関ケ原古戦場記念館」・「関ヶ原駅前観光交流館」等を巡って、まずは、情報をインプット。その後「本多忠勝陣跡」・「徳川家康 最初陣跡 (桃配山)」・(掛川城・高知城を連想してしまう)「山内一豊陣跡」を、「中山道関ケ原宿・六部地蔵」も拝見しつつ進み、「朝倉山 真禅院」・「関ケ原古戦場史跡案内図」を経由して、「吉川広家陣跡」・「安国寺恵瓊陣跡」・「毛利秀元陣跡」に向かいます。その後、「南宮大社」で参拝させて頂き、「南宮大社の参道」経由で「垂井駅」でゴールとしたいと思って折ります。
※ 参考
南宮大社:10代・崇神天皇の頃に創建されたと言われ、主祭神:金山彦命 (かなやまひこのみこと)・配神:彦火火出見命(ひこほほでみのみこと=山幸彦)とする、美濃国一宮で、天津神系 & 天皇・皇族系と認識する神社
Wikipediaより
・2日目 (「小早川秀秋陣跡(松尾山)」方面)
2日目も「関ケ原駅」をスタートしますが、関ヶ原合戦の Key Person となった「岡山城を連想してしまう『小早川秀秋』」の「陣跡(松尾山)」を目指すコースです。「小早川秀秋陣跡」に参るには、それなりの高低差があるようですので、巡るスポットを最小限にして臨みたいと思います。
「関ヶ原駅」をスタートし、この日は南西に側に進路を取って「関ヶ原古戦場 西首塚 」・「京極高知・藤堂高虎陣跡」・「福島正則陣跡」等の東軍側の痕跡をまずは巡ります。その後、「美濃不破関 南限の土塁跡」・「井上神社(天武天皇を祭神)」等の「壬申の乱・不破関」の痕跡を拝見しつつ、「脇坂安治陣跡」経由で「小早川秀秋陣跡(松尾山)」を目指します。このエリアは、関ヶ原合戦の勝敗を大きく左右した認識の『「寝返り系」の武将が陣取っていたエリア』と認識していますので、「小早川秀秋陣跡」まで、「松尾山」と言うくらいですから、結構な山道になりそうですが、「寝返り」したと言われる武将達の心持を想像しながら、歩を進めたいと思て折ります。
Wikipediaより
・3日目 (「不破関」・「西軍武将陣地の痕跡」・「関ヶ原合戦の開戦地/決戦地」方面)
3日目も「関ケ原駅」を同様にスタートしますが、「壬申の乱・不破関の痕跡」・「西軍武将達の陣跡」・「関ヶ原合戦における中心の中心:関ヶ原古戦場 開戦地・決戦地」・「東軍武将達の陣跡」を巡るコースで、「最も濃密なコース」だと想像して折ります。
「関ヶ原駅」をスタートし、この日は「旧中山道(中山道の前は東山道)」を西に向かいます。そして「東山道と東城門跡 」・「不破関の庁舎跡」・「兜掛石・沓脱石」・「不破関跡」・「不破関守址」・「中山道の道標」・「不破関資料館」・「不破関西城門跡」・「関の藤川(藤古川)」・「自害峰の三本杉」と言った「壬申の乱・不破関の痕跡」等を巡っていきたいと思います。
Wikipediaより
その後、「大谷吉勝・木下頼継陣跡」・「大谷吉継陣跡」・「大谷吉継の墓・湯淺五助の墓」・「宇喜多秀家陣跡」と西軍武将達の痕跡を「若宮八幡神社」を含め周り、「不破の関北限土塁跡」・「関ヶ原古戦場 開戦地」を挟んで、再び「北天満山・小西行長陣跡」・「島津義弘陣跡」・「島左近陣跡」・「石田三成陣地(笹尾山)」と西軍武将達の痕跡を巡りたいと思います。そして「関ケ原 笹尾山交流館」・「関ケ原古戦場 決戦地」・「エコフィールド関ケ原」等で、「関ヶ原合戦その物」に思いを馳せつつ進み、「岡山(丸山)烽火場/黒田·竹中陣跡」・「細川忠興陣跡」・「徳川家康最後陣跡」・「田中吉政陣跡」・「松平忠吉・井伊直政陣跡」と東軍武将の痕跡を回って、「東首塚」経由で、「関ヶ原駅」に戻り、「大人散策@関ヶ原」をコンプリートさせて頂こうと思っている次第です。
Wikipediaより
【最後に】
以上が、「『関ヶ原の戦い』・『壬申の乱』の舞台として有名な『関ヶ原』エリアにおける大人散策情報(プランニング版)を共有」させて頂いた内容になります。
プランニングしてみて思った事は「結構タフだな…」と言うもので、1泊ではやはり厳しく、「3日ほどかけて巡らないと『関ヶ原で気になるスポット』を回り切れない…」と言うものでした。同時に、「関ヶ原駅周辺」は、お宿も少ない様で、もしかしたら「大垣駅周辺に宿をとる必要があるかも…」と思ってしまった次第です。であれば、別記事紹介の「大垣城の大人散策」と併せて実施しても良いかと思ってしまいましたが、皆様はどの様に感じましたでしょうか? 「関ヶ原」までは、問題なく行けそうですが、「関ヶ原」到着後の大人散策は「ちょっとタフ…」に思えましたので、元気に歩けるうちに訪問し、大人散策を実行できた暁には、本ブログで、改めて報告申し上げようと思います!



尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5天守、現存12天守、現存4御殿、(勝手なネーミングですが…)旧国宝24城等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。