懐古園(=小諸城址)

【基本情報:小諸城から何を連想しますか?】

歴史好きなら必ず知ってる真田氏。その本拠地は、上田市ですが、その隣の隣、約20Km南東に、小諸市はあります。上田と比べると、陰に隠れていよう様にも見える小諸ですが、真田氏を語る上で、小諸は欠かせない地なのです(別ブログで、上田城紹介しています)。別記事で、小諸城の歴史や地形に付き、少し考察させて頂きましたが今回はその小諸城(=懐古園)の内部に付き、詳細な大人散策情報をご紹介していきたいと思います

参考までに… :小諸城は、「穴城」と言われますが、そもそも「穴城」とは、Wikipediaの「小諸城」の項目の中に、以下の様にあります

城郭は城下町である市街地よりも低地に縄張りされ、市街地から城内を見渡すことができ、このため穴城とも鍋蓋城ともいう別称がある”

https://ja.wikipedia.org/wiki/小諸城

【小諸城の歴史と懐古園の見所】

・小諸城の歴史

そもそも小諸城は、平安時代に木曽義仲の家臣が、館を構えたのが、始まりと言われているようです。その後、戦国時代に武田信玄の家臣、山本勘助を中心に、縄張りが行われ、築城されたそうです。(別ブログで、武田神社と甲府城址紹介してます江戸時代の初代藩主は、仙石氏ですが、その前に有名なのが、第2次の上田合戦の際に徳川秀忠が陣を敷いた事。ご承知の通り、「この合戦で、秀忠は上田氏を滅ぼす事が出来ず、足止めされた上、3万の軍勢が関ケ原の合戦に間に合わなかった」と言う話は、あまりにも有名ですが、秀忠が小諸に陣を敷いた事は、ご存じない方もいらっしゃると思います。

小諸から上田は約20km。結構近くで、陣を構えていたと言う事です(関連情報として、東海道中山道に関しても、別記事で考察を加えております)。そんな歴史を持った小諸城址を順を追ってご紹介します。最下部に自身の位置を確認しつつ大人散策可能なGoogle マイプレイスで作成した地図と共に、ご参照ください。

小諸駅から懐古園(=小諸城址)入口へ・途中の憩石

小諸駅の改札を出て駅を出るには、東に行く必要がありますが、懐古園は、線路の西側にあります。しかし、改札を出て左に進むと線路を超える陸橋の様な物があり、それを渡り切るとすぐに懐古園の入口が見えてきます。すぐに懐古園の三ノ門をくぐり、城内に入りたい所ですが、入口の左側、一段高い小さな公園の様な場所に、「秀忠の憩石」があります。第2次上田合戦の際、秀忠が腰を下ろしたと言われる石です。

三ノ門・料金所

憩石を過ぎるとすぐに三ノ門が見えてきます。重要文化財とあり、見応え十分の門です。何度かお伺いしている懐古園ですが、2022年9月にお邪魔した際は、修復工事をしておりました。修復工事中と言うと、ちょっと残念な気持ちになってしまいますが、修復工事中ならでは情報もあり(写真参照)、お得感がある事もあります。重要文化財であるこちらの三ノ門、後世にしっかり残していくべきだとも思った次第です。

また、三ノ門の入り口に立つと、この城が穴城だと言われる事、良く理解できると思います。小諸駅の方面から三ノ門にかけて、確かに下り坂になっており、門をくぐった先の料金所までが平。その北側には高い石垣があり、その石垣の先(北)は、二の丸になっています。以下に二の丸に関しても記載しておりますが、二の丸から三ノ門をくぐった平らな面(料金所近辺)までの高さはそれなりの物があり、敵を迎え撃つには圧倒的有利な状況を作り出しており、穴城であっても防備がしっかりできている事、実感してみて下さい

若山牧水歌碑・二ノ門跡

料金所を過ぎ、右側の通路を石垣に沿って進むと、若山牧水歌碑が、目に飛び込んできます。そこは正に二ノ門跡で、桝形の様になっております。その二ノ門跡を過ぎたすぐ右に、階段がありその階段を上った先が、上記若干触れました二の丸です。

二の丸

この二の丸は、上田合戦の際、徳川軍の本陣跡として利用されたそうです。さほど広い訳ではありませんが、しっかりと高所に陣を構えられる場所です。しかし上田城を紹介した別の記事でも触れさせて頂きましたが、この2つの合戦で徳川は真田を打ち破る事が出来ませんでした。徳川にとっては、「二度と来たくない場所」と言って良いのでないかと思います。

中仕切門跡・北の丸・懐古園稲荷神社

二の丸の階段を再び下り、そのまま真っすぐ西に向かって進むと、中仕切門跡が出てきます。ここにも門があったとの事で、その手前の通路南側は高石垣で仕切られており、防備を意識している事理解できます。そしてその中仕切門跡を超えた右手が北の丸で、現在は弓道場となっており、その先の右手に懐古園稲荷神社(小さいですが)があります。

紅葉谷・黒門跡

懐古園稲荷神社のすぐ先は、紅葉谷と言う谷になっており、「黒門橋」と言う橋が架かっております戦国の時代であれば、この橋を落としてしまえば、深い堀になるので、防備の側面が強くなりますが、現在では名前の通り、谷には多くのモミジが植えられており、秋の季節はさぞかし美だろうと思える景色を見る事が出来ます。そしてさらに歩を進めると、この橋のすぐ先は本丸になるので、やはりここにも門があった様です。黒門跡との看板と本丸を囲うように高い石垣が出てきます。夏の苔むした石垣は美しく、目を奪われてしまいます。美しさとお城の防御の両面を楽しめるポイントだと思います

懐古神社・小諸領境界石標・鏡石

現在は、黒門はありませんので、左にカーブすると、目の前に懐古神社の鳥居と、「小諸領境界石標」が出てきます。小諸領境界石標は1806年に建立されたとの事で歴史を感じる石柱です。そのまま脚を進めると、懐古神社の社殿が出てきます。唐破風の社殿は威風堂々と言った感じですが、現地の説明文によると明治時代の創建との事で、比較的新しい神社の様です。社殿の傍らには、小諸城の縄張りをした山本勘助が常に愛用したとされる「鏡石」もあります。美しい石である事は間違えありませんが、個人的には、「「常に愛用」は、持ち運びが大変なので、ホント?」と思ってしまいました…。

天守台・本丸を囲う石垣の上部を散策

懐古神社の右側(北側)の脇を抜けると「天守台跡があります。現在は木々に覆われているので眺望は限定的ですが、小ぶりながらも「お城の中心」を思わせるには十分な立地です。また、その天守台からそのまま南に向かって、石垣の上を散策出来ますので、是非歩いてみて下さい。10m程の高さだととは思いますが、防御の徹底さを感じる事が出来る石垣ですし、柵もない石垣の真上を歩ける場所はあまりないと思うので…。(ただし、お気を付けて大人散策ください)

社務所・池

天守台から石垣の上を歩き、南の端までくると、再び本丸の中に降りる石段が出てきます。この石段を下りた所に社務所があり、ここで懐古園の御朱印と小諸城の御城印を購入する事が出来ます。目の前は、池がありその先に、前にお参りした社殿があります。池には小さな噴水があり、池越しの社殿は、本当に美しいです。

荒神井戸・欅の大木

社務所からは、改めて鳥居を出て、黒門跡を過ぎそのまま北へ進んだ後、すぐに本丸の石垣に沿って西に進みます。そうすると、左側に井戸があり、その目の前(北側)には、欅の大木があります。井戸に関しては、あまり情報がありませんが、城内唯一の井戸との事です。また、目の前のケヤキは樹齢500年との事で正に大木。500年と言う事は、勘助が縄張りをした時、秀忠が上田征伐で本陣を小諸に置いた時にはもう既にその地あった木と言う事です。そう考えるとこの地の歴史に思いを馳せざるおえないと思います。

藤村記念館

上記欅の大木の北側には、藤村記念館と言う事で、島崎藤村の銅像と彼にかかわる展示をした記念館があります。島崎藤村は、小説家になる前の数年間、先生として小諸にお住まいだったとの事。別記事で紹介している温泉宿の中棚荘との縁も深いようで、小諸にも、島崎藤村にも、それぞれが、それぞれに影響を与えた地である事、間違えない様です。私自身は小説と言うより、歴史や地形と言った事実に基づいた話が好きな派なので、そこまでの思い入れはありませんが、日本の歴史に名を刻む島崎藤村の足跡を追うには、必要な施設であると思った次第です。

要害である事が確認できる橋

藤村記念館を過ぎ、西に向かうと右側(北)に橋が見えます。この橋は、小諸城址と北側の入口・懐古園酔月料金所をつなぐ橋なのですが、ここの橋は小諸城を語る上で外してはいけないスポットです。この橋は、正に小諸城が要害である事を心から感じられる場所で、小諸城がいかに谷に囲まれた地形である事を痛切に思い知る事が出来ます。この橋から東に目を向けると、右側が北の丸になっており断崖。東側に目を向けると、小諸城の北西の端・水の手展望台を望む事が出来、こちらも断崖になっており、かなりの高低差がある事、認識頂けると思います。是非ただの橋と思わず、脚を運んでみて下さい。

水の手展望台・水の手不明御門跡

上記の橋を小諸城に戻り、更に西に歩を進めると、先程上記で触れた橋(=小諸城址と北側の入口・懐古園酔月料金所をつなぐ橋)から見えた、水の手展望台が見えてきます。以下写真にございます通り、水の手展望台へは橋がつながっており、東に目を向けると、上記に記載した橋が見え、西に目を向けると千曲川を望む断崖が見えます。更に足元に目を向けると、水の手不明御門跡を見る事が出来ます。写真の現地説明看板によると、見張りがいた曲輪あったた様ですが、これだけの断崖、見張り役も暇を持て余していたのではないでしょうか? しかし現代では絶景ポイント。是非小諸城から千曲川の雄大な流れをご確認ください。

草笛のきこえる・想像の森への道、本丸を囲う石垣を下から見上げる

水の手展望台・水の手不明御門跡を後にして、南に進むと、この断崖を降りられそうな山道に出てきます。ちょっと勇気がなくまだこちらの領域に脚を踏み入れていませんが、写真にある通り、現地の看板には、散策可能な様に見えます。次の機会には大人散策を遂行し、改めて本ブログでご紹介させて頂こうと思います。

また、上記看板から東屋・馬場跡を挟んだ東側が、上記で触れました本丸を囲う石垣の下側になります。上から眺めた石垣。是非下からも見上げて石垣の高さを実感してみて下さい

富士見展望台

本丸を囲う石垣を更に南に進むと、富士見展望台が出てきます。こちらの眺めも最高で、条件さえ整えば、富士山まで見えるとの事です。こういったスポットでは、普段の行いが悪いのか、必ずと言って良いほど富士山を拝めたことありませんが、「富士山が望める」=「それだけの眺望が確保されている」と言う事で、ここからの眺めは、上記に記載した水の手展望台に勝るとも劣らない眺望が広がっています。近くに売店もありましたので、飲み物でも購入し、東屋でイップクしつつ、絶景を眺めてみてはいかがでしょうか?

風林火山の看板

富士見展望台から北東方面に戻り様に進むと、改めて本丸跡に入る事が出来ますが、その入り口の階段付近に、「風林火山」の文字が書かれた看板を目にする事が出来ます。恐らく大河ドラマ「風林火山」の頃に設置された看板でしょうが、小諸城の歴史、特に武田信玄が山本勘助に縄張りを命じて築城した事などが記載されています。2022年9月にお邪魔した際、社務所には真田丸のポスターがまだ張ってありました。改めてですが、小諸城は歴史の舞台に何度も登場する、日本史には欠かせない城である事、実感させられる場所です。

【最後に】

以上が、懐古園(=小諸城址)内部の詳細な大人散策情報になります。

穴城と言われる小諸城で、城下町よりも低い場所にあり、”穴”と言われると、イメージ的に『「水攻め」で城の中が水で浸かってしまうのではないか?』と思う方が多いのでないかと推察されてしまいますが、上記ご覧いただきました通り、防御には、縄張りも含め、様々な工夫があり、別記事に記載しておりますが、地形的にも強固なお城である事、ご理解いただけると思います。是非ご自身で場内を散策いただき、小諸城の強固さとその地が持つ歴史を肌で感じて頂き、大人散策を満喫頂ければと思う次第です。

所で、「お城といえば?」で思い出す大手門。こちらは、現在線路の反対側にあります。昔のお城の場内を突切って、線路が引かれたと言う事の様です。懐古園(=小諸城址)にいらしたのであれば、大手門にも足を運んで頂きたいですし、更に周辺の小諸の町中を大人散策して見ては如何でしょうか? こちらも別記事、旧北国街道・小諸宿の大人散策情報も記載しておりますので、こちらも併せてご参照頂ければ幸いです。

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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