【基本情報:高知城から何を連想されますか?】
日本に「現存する12天守のうちの1つ」があり、かつ「現存する4つの”御殿”のうちも1つ」もある、高知城(天守 & 御殿)をメインにご紹介をいたします(桂浜に関しても別の記事で、紹介しております)。
いつも同じ書出しですが、皆さんは、高知城と言うと、何を連想れるでしょうか? 私は、以下の感じです。
- 現存する4つの御殿(=現存4御殿)のうちの1つがある(現存4御殿:川越城本丸御殿・掛川城二ノ丸御殿・二条城二ノ丸御殿・高知城本丸御殿)
- 現存する12天守(=現存12天守)のうちの1つがある (現存12天守:姫路城・犬山城、松本城、彦根城・高知城・松江城・宇和島城・備中松山城・松山城(伊予)・弘前城・丸亀城・丸岡城)
- 長宗我部氏の浦戸城に対し、山内氏の高知城 (所説あるようですが…)
- 大河ドラマの「功名が辻」 (山内一豊/ 千代の夫婦) や「龍馬伝」 (坂本龍馬)
- 幕末の頃の有名人がいっぱい (板垣退助、坂本龍馬、中岡慎太郎、岩崎弥太郎、ジョン万次郎、吉田東洋、武市半平太、後藤象二郎、山内容堂・・・)
- 日本100名城の1つであると同時に、旧国宝24城の1つでもあった
と、こんな感じでしょうか…。
特に龍馬伝は、非常に好きな大河ドラマの1つ。山内容堂の豪快な人物像も魅力的。有名な坂本龍馬は勿論、自由民権運動の板垣退助 (山梨出身者としては「戊辰戦争の際に、甲府城を旧幕府軍(甲陽鎮撫隊)より先に抑えるべく、その過程で事を有利に運ぶ為、武田信玄の重臣、板垣信方の流れをくむ血筋である事を地元民に知らしめるようと板垣性に改姓し、新選組を勝沼で撃破した」の話はよく聞きました) と、話題は、尽きない土地柄なんだと改めて認識した次第です。
そんな高知(城)、実際に脚を運んで見ると、城郭もしっかり残っており結構立派なお城である事、改めて実感して頂けると思います。最寄り駅は、「とさでん交通の高知城駅」となる様で、追手門まで、徒歩5分程度の認識ですが、「土讃線の入明駅」からでも10分強、「高知駅」からでも20分強でアクセスできる認識です。追手門につくと、追手門も立派ですが、付近から天守見る事が出来、中々のアングルで「高知城来た!」といった心持になるはずです。高知城のMapを、パンフレットと併せて記載(高知城のHP(https://kochipark.jp/kochijyo)より引用)致しますので、ご参照頂きつつ、追手門より、スタートする形で、以下に、「高知城の価値とその見所」に付き記載いたします。
【高知城ってどんなお城?】
「高知城の価値とその見所」を記載させて頂く前に、「高知城ってどんなお城?」かに付き、簡単に記載させて頂きます。Wikipediaを調べさせて頂きますと、以下の様にあります。
高知城(こうちじょう)は、高知県高知市にある日本の城。瓦や壁の色が鷹の羽の色に似ているとして、鷹城(たかじょう)とも呼ばれる。
江戸時代には土佐藩の藩庁が二の丸御殿に置かれた。江戸時代に築かれた天守が残る現存天守十二城の一つであるほか、本丸御殿や追手門等が現存する。城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。四国八十八景27番。概要
高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高45m)上に築かれた梯郭式平山城で、山の南を流れる鏡川、北の江ノ口川がそれぞれ外堀として利用されていた。
戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。最初の築造時期は南北朝時代。土佐の戦国大名として台頭した長宗我部元親は1588年(天正16年)、岡豊城(おこうじょう)からここへ本拠地を移そうとしたが低湿地の山麓は工事が難航し、代わりに港(浦戸湾)に臨む浦戸城を選んだ (略)
長宗我部氏は関ヶ原の戦いで敗れた西軍に与して改易され、代わりに翌1601年(慶長6年)、山内一豊が土佐国を与えられて土佐藩を立てた。一豊は大高坂山で築城に取り掛かり、1603年(慶長8年)に本丸や二の丸は完成したが、城全体の完工は1611年(慶長16年)、一豊の没後で二代目藩主の忠義の代になっていた。3層6階の天守は、一豊が加増・転封前に居城としていた掛川城(静岡県)を模したといわれる。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。
江戸時代初期の建物は1727年(享保12年)の大火でほとんどが焼失し、1753年(宝暦3年)まで四半世紀かけて再建され、現存天守は1749年(寛延2年)造と推測されている。
高知城は本丸の建造物が完全に残る唯一の城として知られていて、又天守と本丸御殿が両方現存する唯一の城である。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、太平洋戦争による戦災を免れて天守、本丸御殿、追手門など15棟の建造物が現存し、全て国の重要文化財に指定されている (略)文化財
*重要文化財
重要文化財指定は以下の15棟。
・天守
・本丸御殿・懐徳館[かいとくかん]
・納戸蔵
・黒鉄門
・西多聞
・東多聞
・詰門
・廊下門
・追手門
・天守東南矢狭間塀
・天守西北矢狭間塀
・黒鉄門西北矢狭間塀
・黒鉄門東南矢狭間塀
・追手門西南矢狭間塀
・追手門東北矢狭間塀 (略)
高知城と桂浜(浦戸城含む)の様子 (一部写真Wikipedia)
つまり、、、
安土桃山時代、長宗我部元親が築城を試みたものの鏡川の治水の難しさから断念した大高坂山(現在の高知城が建つエリア)に、関ヶ原の戦いを経て土佐藩の藩主なった山内一豊が、築城を開始し、二代目の忠義の代で完成したお城で(元親は、桂浜の背後の山に浦戸城を築いて本拠とした)、江戸時代初期の建物は1727年の大火でほとんどが焼失してしまうが(天守は一豊の前任地・掛川城を模したと言われるらしい)、1753年まで四半世紀かけて再建されたと言われ、現在も現存するその天守は1749年造と推測されており、明治期の廃城令や太平洋戦争による戦災を免れて、天守・本丸御殿・追手門など15棟の建造物が現存する事から、全て国の重要文化財に指定されており、本丸の建造物が完全に残る唯一の城として知られ、また天守と本丸御殿が両方現存する唯一のお城と言われるお城が『高知城』
と理解した次第です。
【高知城の見所:天守と御殿の両方が現存!】
上記、高知城の歴史と概要を抑えさせて頂きましたので、こちらでは具体的な「高知城の価値とその見所」を記載いたします。
立派な追手門(=大手門)から登城を開始すると、整備はされていますがそれなりの急勾配です。しかし、途中「石垣」や「忍び返し」、「石樋」等をゆっくり見ながら登っても、天守と御殿のある本丸を目指すだけであれば15分位でたどり着ける認識です(周囲を回りつつだと、もう少しかかると思いますが…)。ポイントだけの記載になりますが、見所を以下にまとめます。
・追手門 (=大手門)
高麗門が無いので、桝形門とは言いにくいかもしれませんが、渡櫓門と塀 / 堀に囲われた戦闘要素を備えた門で、江戸時代から残る「城内で最も古い構造物」として貴重な門の認識です。一般的に城の正門=大手門の認識ですが、「大手門=追手門」と認識しております(追手門の語源は、正面からの敵を食止め、更に城外へ追い打ちをかけるべく打って出る門と言った感じの戦術的な意味があったらしく「“大手門” の源が、”追手門”」らしいです…)。
・石垣 + 石樋
追手門もそうですが、本丸を目指して斜面を登る途中で、野面積みの石垣(どちらかと言うと乱積に見え、所々布積的な部分も見えました:石垣の分類は、別記事で紹介しております)が見えます。尚、Wikipediaには、高知城築城にあたってのエピソードが、以下の様にございます。
(略) 一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた百々綱家(旧織田秀信家老)の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められた。一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わる。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねた (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/高知城
「穴太衆」、良く耳にする石垣のスペシャリスト集団ですよね。時代的に野面積が一般的だった気がしますが、様々情報収集すると『雨の多い高知において「水はけを重要視」する為、あえて野面積にしており、排水が石垣にあたらぬよう、石樋も設置した』と言った内容が多い様に見受けられました。いづれにしても、中々の石垣ですので、是非石垣も楽しみつつ本丸を目指してみて下さい。
・天守 (現存12天守の1つ) & 御殿 (現存4御殿の1つ)
天守・御殿のある山頂の本丸は、大きくはありませんが、非常に立派な天守と御殿を拝見させて頂く事が出来ます。1700年代中盤に再建されている認識ですので、ザっと250年前の建物です。建物もこれだけ時を重ねると、気品が出るんでしょうか? それとも、ようやく高知城にこれた感激なんでしょうか? 非常に気品と心地良い雰囲気があるエリアで、「目の前に現存天守と現存御殿が並んである風景は、歴史好きにはたまらない光景である」と思った事、良く記憶しております。
ちなみにですが、現存する御殿は、上記の通り4つですが、現存する”本丸御殿”と言うと、こちらの高知城と私達夫婦の居住地、川越にある川越本丸御殿の2つだけの様です。また、天守と御殿の両方が現存するのは、高知城のみなんです! 「これほど歴史的価値のあるお城は、他にはない」と認識しており、その雄姿を直接自身の目で見る事が出来るのが「高知城」と理解しています。
・参考情報
ここからは参考情報ですが、本丸までくると、高知の街並みが一望できます。中々の眺めですので、その眺望を味わうと同時に、その歴史にも思いを馳せてみてはいかがかと存じます。
「そもそも高知は、長宗我部氏が治めていた土地で、織田氏の時代から光秀も含め色々あり、最終的には関ヶ原で西軍に着いたため、改易され、山内氏が入った土地」と認識しております。その後、上記にも記載しましたが、幕末における話題性はピカイチで、歴史上かなりの頻度で話題にのぼるのは、皆様もご承知の事と思います。この高知と言う土地から名をあげ、全国区となった「坂本龍馬・板垣退助・岩崎弥太郎」等の偉人たちの歴史にも思いを馳せつつ見学する事で、更に高知城での時間が、味わい大人散策になるのでないかと思う次第です。
ちなみに、高知城内に「国宝 高知城」の石柱があります。高知城は非常に立派で、「重要文化財」ですが「国宝」ではない事、皆様ご存じのはずと思います(最初に「旧国宝24城の1つ」と記載しましたが…)。この経緯については、以下のWikipediaの引用が、参考になるのでないかと思います。
(略) 「国宝」という語の指す意味は文化財保護法施行(1950年)以前と以後とでは異なっている。文化財保護法施行以前の旧法では「国宝」と「重要文化財」の区別はなく、国指定の有形文化財(美術工芸品および建造物)はすべて「国宝」と称されていた。
(略) 法令上、「国宝」の語が初めて使用されたのは1897年(明治30年)の古社寺保存法制定時である。同法の規定に基づき、同年12月28日付けで初の国宝指定が行われた。その後1929年(昭和4年)には古社寺保存法に代わって国宝保存法が制定され、同法は文化財保護法が施行される1950年(昭和25年)まで存続した。古社寺保存法および国宝保存法の下で指定された「国宝」は1950年時点で宝物類(美術工芸品)5,824件、建造物1,059件に及んだ。これらの指定物件(いわゆる「旧国宝」)は文化財保護法施行の日である同年8月29日付けをもってすべて「重要文化財」に指定されたものと見なされ、その「重要文化財」の中から「世界文化の見地から価値の高いもの」で「たぐいない国民の宝」たるものがあらためて「国宝」に指定されることとなった
(略) 「旧国宝」「新国宝」「重要文化財」の関係が錯綜しているため、「第二次世界大戦以前には国宝だったものが、戦後は重要文化財に格下げされた」と誤って理解されることが多い。旧法(古社寺保存法、国宝保存法)における「国宝」(旧国宝)と新法(文化財保護法)における「重要文化財」は国が指定した有形文化財という点で同等のものであり、「格下げ」されたのではない。また、文化財保護法によって国宝(新国宝)に指定された物件のうち、重要文化財に「格下げ」された例は1件もない (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/国宝
つまり、法律の関係で、『「旧法にて国宝」、「現行法で重要文化財」なので、旧法時代の石柱がそのまま残っている』と言う理解になる認識です。しかし個人的には「高知城は、『日本でここでしか見られない、現存12天守と現存4御殿があり』今尚歴史を刻んでいるのであれば、『国宝と言い張って良い!』と思い、同時にその場に立つと、『このお城(天守と御殿)は、末永く残していかなければならない!』と思ってしまいました」が、皆様はどの様に、思われましたでしょうか?
詰門
【最後に:高知城と掛川城の関係は?】
上記、高知城の概要と見所を記載させて頂きましたが、やっぱり思ってしまう事は「掛川城の天守とよく似ている」という事です。上記の通り「高知城は、山内一豊が高知の地に築城する際、自身の前任地である、掛川城を模して造られた」と言われるのは、本当だと実感しました(今の天守は、一豊の時代の物ではありませんが…)。そして、今の再建された掛川城は、高知城をまねして作られたそうですし、歴史がつながっている事に、改めて思いをはせてしまいます。
天守と御殿が現存する高知城(しつこいですが、天守と御殿の両方が現存するのは、高知城のみなんです!)。是非皆様も脚を運んで見てください。そして、その価値を是非感じてみて下さい! 更に、掛川城に行かれた事がある方は、そのフォルムを、比べてみて下さい! 歴史の流れを実感できると思いますので!
掛川城に関しては、別ブログで記載しています。また別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。