【名古屋城からの連想ゲーム:基本情報】
数年前の夏休み(遅めの夏休みだったので、9月)、静岡(掛川・浜松)、彦根、長浜、名古屋(犬山・岐阜も)を回る旅を企画し、それぞれお邪魔させて頂きました(旅全体の日程は、別記事をご参照ください)。今回は、その中で参らせて頂きました、名古屋市にある名古屋城を紹介させて頂きます。
城をテーマにする時の下記出しでいつも通りですが、名古屋城と言うと皆さんは何を連想されますか? 私は、以下の感じです。
- 戦前まで天守は現存していたが、戦災により焼失してしまった (現在は外観復元の天守)
- 織田信長の生誕地とも言われる (当時の名称は「那古野城」で、現在の二の丸付近にあったらしい)
- 徳川家康が、豊臣を警戒して計画したお城
- 日本三城の1つ (あとは、大阪城・熊本城 or 姫路城)
- 「尾張名古屋は城で持つ」と言う言葉が有名
- 金の鯱 (金箔でなく、18金の金を88キロも使用しているそうで、この金鯱(一部でしょうが)盗むため、足場も組まず名古屋城の屋根まで登ったツワモノが昔からいたそうです…)
- 加藤清正が天下普請で築城の手伝いをしており、名前の付いた石や像もある (清正石、加藤清正石曳きの像) ~ 別ブログで、熊本城を紹介しています
- 本丸御殿が、ちょっと前に復元された(別記事で紹介しております)
といった感じでしょうか?
日本を代表する城郭である名古屋城。熊本城、姫路城、と並び、近世城郭の代表例と言われているようです。戦災で燃えてしまったのは、非常に残念ですが、今尚、城郭全体・天守の巨大さを感じる事が出来、実際に訪れてみると、「尾張名古屋は城で持つ」とは、うまい事をいった物だと思った次第です。計画当初は、豊臣家健在の為、総構の構想まであったらしいですが、大坂の陣を経て、その計画はなくなったそうです。
【名古屋城を大人散策】
名古屋城に実際に足を運んで見ると、城郭の大きさ、天守の大きさに圧倒されます。庭園好き、城好きの私達夫婦は、それなりにお城を回っているつもりですが、名古屋城の大きさには、ただただビックリです。天守の中は工事中で入れませんでしたし、城の規模を何で示すか良く解っていませんが(天守の高さ? 延べ床面積? 城郭の広さ(総構まで含む?)等)、今まで訪れたお城の中では、天守の大きさ、城郭の広さにおいては、最も大きなお城だと思いました。そんな巨大な名古屋城ですが、私達夫婦がポイントに置いたところは、3つ。
広いという前情報はあったので、このポイントだけは、落とさず行こうと決め、参った次第です。
Wikipedia の力を借りますと、名古屋城の「概要」のパートに以下の様に記載されています。
”(略) 名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏築城の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が天下普請によって築城した。以降明治維新まで徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城だった。大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭は「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠っている。大天守に上げられた金鯱(きんこ)は、城だけでなく名古屋の街の象徴である。本丸御殿は二条城の二の丸御殿と並ぶ武家風書院造の双璧と評価されていた。大小天守と櫓や門、御殿などの一部は昭和戦前期まで残存していたが1945年の名古屋大空襲で大部分を焼失した(西南隅櫓など6棟は焼失を免れて現存している)。戦後に天守などが鉄筋コンクリートで外観復元され、城跡は名城公園として整備されている。現在、名古屋城の全体整備計画があり、整備計画では史跡としての名古屋城の保存活用と価値を高めたいとしている。 (略)”
https://ja.wikipedia.org/wiki/名古屋城
私達夫婦の散策ルートは、まずは正門から入り、西の丸へ行きました。いきなり成形された美しい石垣の石組と漆喰の門が、貫録を示してくれます。その門をくぐり、中に入ると、櫓と天守が目に飛び込んできます。天守の大きさに圧倒されます。また、堀の深さ、広さも感じる事が出来、いかに巨大な城郭であるかを即座に実感します。
そのまま、本丸の周りに張り巡らされた堀を回るように進みました。本丸との境の堀には水がなく、石垣の高さを水がない分更に感じ、巨大な名古屋城を更に巨大に演出してくれいいる感じでした。そのまま御深井丸の方に進み、そこから更に外側の堀を眺めると、一段低い所に、更に大きな堀があり、「どれだけ巨大なんだ!」と思ってしまいます(一段低いと言っても数メートル低いのでなく、20m位低い様に見えました)。
その後、本丸入口の不明門から裏口入城致しました。まだ公開間もない本丸御殿には、見学のための人が多く並んでいました。並ぶのはあまり好みではありませんが、「名古屋城に来て、本丸御殿 に入らないのは、寿司屋で寿司を食べないのと一緒」と思いましたので、仕方なく並び、中を会見させて頂きました(本丸御殿は別記事で紹介中)。
その後、大満足の内に本丸御殿を失礼し、加藤清正石曳きの像を見つつ、二の丸庭園に向かいました。 二の丸庭園は、玄人好みの庭園の様で、まだ私達夫婦には、その良さを感じきる事が出来ませんでしたが、目的を達成する事が出来ました。ちなみにこの二の丸が、名古屋城の前の那古野城跡にあたるそうなので、ここが「織田信長生誕の地」と言う事になるそうです。そんな雑学を得ながら、名古屋城を東門から失礼いたしました。
【名古屋城の象徴・金鯱】
所で、なぜお城には鯱が飾られているか、ご存じでしょうか? お守りの様な物らしく、「火災の際に水を噴いて火を消してくれる」と言う言い伝えから、天守の屋根に飾られたそうです。しかし「お守り」なので、戦災時の火災を防ぐことが出来ず、天守は焼失してしまった訳です。
今の鯱は、上記に記載した通り、88㎏の18金が使われているらしいですが、江戸時代の初め、名古屋城の天守が完成した当時は、200㎏以上の金が使われていたと言う事で、今の倍以上だったそうです。それだけのお宝が目に見えるのであれば、盗みに登った人もいたようで、Wikipediaには、以下の様な記載があります。
”(略) 1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対(一つい)で慶長大判1940枚分、純金にして215.3キログラムの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。 (略) 江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説がある。明治以降では4回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されている (略)”
https://ja.wikipedia.org/wiki/名古屋城
凧に乗って盗もうとするなんて、遠目からは、ちょっと見てみた気もしましたが・・・。
【最後に】
日本を代表るする城郭の名古屋城。巨大さには、圧倒される事、間違えないと思います。また、織田信長や加藤清正、そして徳川家康と言った、歴史上の武将の痕跡を感じる事が出来るスポットでもあります。別記事での紹介ですが、本丸御殿も復元完成しましたし、玄人好みの二の丸庭園もあります。ホントに、見所も十分ですので、名古屋城に足を運び巨大さを痛感すると同時に、御殿や庭園の芸術性に触れてみては、いかがでしょうか?
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!