水戸城跡の見どころは何ですか?
土塁・空堀が残り、三の丸・二の丸・本丸の構造を歩きながら理解できます。
弘道館はどんな場所ですか?
水戸藩の藩校で、日本遺産・国史跡に指定されています。水戸学の中心として文武両道の教育が行われました。
水戸徳川家との関係は?
水戸城は水戸徳川家の居城で、弘道館はその藩校です。両方を巡ることで藩の政治と教育の中心が理解できます。
水戸城跡と弘道館は徒歩で巡れますか?
はい、徒歩圏内にあり、土塁・空堀・門跡を辿りながら自然な流れで巡れます。
【はじめに】

偕楽園・水戸城(弘道館)・鹿島/香取神宮・佐原・國王神社・関宿城…:車で巡る「茨城・千葉の旅!」 ~茨城・千葉を巡る歴史旅 まとめ記事~
こちらのページでは、「徳川御三家の水戸徳川家の威光を感じる『水戸城址(弘道館含む)の大人散策情報』に付き、その縄張り・地形を意識した詳細ルートを多くの写真と共に紹介」させて頂きます。
📚本記事で得られる情報📚
✅「水戸城」・「弘道館」に関連する概要
✅「弘道館を含む水戸城址」に関連する大人散策情報を、縄張り・地形を意識した詳細マップ / ルート・多くの写真と共に紹介



本ブログ別記事では、「水戸関連の記事」として、①「日本三名園の1つ・偕楽園(計画バージョン & 大人散策実行バージョン)」、②「 別格官幣社・常磐神社(現別表神社)の大人散策情報」、③「小石川後楽園の大人散策情報」を記載させて頂きました。その中で、以下の様な連想ゲームもさせて頂いた次第です。
- 水戸城は「徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城」で、「戦国期の東国にあった城郭の特徴を色濃く残したお城」と言われる認識(とは言いつつ、参勤交代免除の水戸藩なので、藩主はほほ江戸にいた認識ですが…)
- 江戸期には、天守相当と言われる「御三階櫓」があり、明治の解体を免れたが、太平洋戦争時に焼失してしまった
- 戦災で焼失した天守相当の建築物のうち、復元されていないのは、現在は水戸城だけでらしい
- 日本100名城にも選定されているお城ではあるが、「水戸偕楽園」・「藩校・弘道館」の方が有名な印象
- 「水戸学」は幕末の「尊王攘夷運動」に大きな影響を与えた認識で、その代表が彦根藩の井伊直弼が暗殺された(墓所は世田谷の豪徳寺)「桜田門外の変」
- 「副将軍」事 & 「水戸黄門」事「水戸光圀」の代で完成したと言われる「小石川後楽園」は、お気に入りの大名庭園
- 水戸城の「本丸」があった場所も、「二の丸」があった場所も、現在の住所は「三ノ丸」になるらしい…
上記連想ゲームをさせて頂いた時点では、まだ、「偕楽園」・「水戸城」・「常磐神社」にはお邪魔した事が無かったものの、「偕楽園は、日本三名園の1つ」として、「常磐神社は、別格官幣社の1つ」として、「水戸城は、旧国宝24城に等しいとも認識する “戦前まで天守代用の櫓=実質的な天守があった城郭” の1つ」として 認識していた為、「水戸城の歴史・概要に加え、城郭のあった地形も含め情報収集」はしていた次第です。








そんな中、少し前の秋、「偕楽園・常磐神社」の訪問と共に、「水戸城の訪問」がかなったので、こちらのページでは、「弘道館も含めた水戸城の大人散策情報」を共有いたします。すなわち、「徳川御三家の水戸徳川家の威光を感じる『水戸城址(弘道館含む)の大人散策情報』に付き、その縄張り・地形を意識した詳細ルートを多くの写真と共に紹介」させて頂きます。
【水戸城とは? 散策全体図】
「大人散策@水戸城の訪問」の実行にあたり、別記事で記載しておりますが、「水戸城の概要」、並びに「大人散策@水戸城の全体図」を改めて記載いたします。まず「水戸城の概要」ですが、詳細は別記事をご参照頂きたのですが、簡単に言ってしまうと以下の理解をしております。
江戸時代には「徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城」で(参勤交代免除のお家だったので、ほとんど水戸にいなかった理解ですが…)、北の「那珂川」と南の「千波湖」を天然の堀とし、丘陵に築城された「連郭式平山城」は「戦国期の東国における典型的な特徴を持つ城」とも言われ、現在では、三の丸にあった「藩校・弘道館」が国の特別史跡に指定されている。また日本100名城にも選定されているお城で、上記の通り、水戸徳川家は、江戸定府大名であった為、城内の建築物は質素であったと言われ、天守も存在しなかったと言われるが、「外見は三層、中は五階建ての御三階櫓と称す大型の櫓」があり、これが天守閣の代用と言われ(個人的には「旧国宝24城に等しい価値」と思ってます…)、明治の解体を免れたが、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失してしまったお城でもあり、空襲等太平洋戦争の戦災で焼失した天守相当の建築のうち復元されていないのは現在は水戸城だけと言われる
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更に簡単に言ってしまえば、『「水戸城は、徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城」で、太平洋戦争で、建造物の多くが焼失してしまったが、三の丸にあった「藩校・弘道館」が国の特別史跡に指定されている城郭』と言った理解になった次第です。
ただ地図上で拝見する限り、かつての水戸城のエリア(特に二の丸・本丸・下の丸辺り)は、ほとんどが学校になってしまって折り、拝見できるスポットも限定的な様子である為、「ちゃんと地形を抑えて、実際の大人散策時に『何処が本丸 or 二の丸 or 三ノ丸 or 堀切?』が分かる様に事前準備」した上で臨むべきと思ったと同時に、「水戸学の道」なる散策ルート設定もされるいる事も踏まえ、『まずは、「弘道館」に脚を運び、基本「水戸学の道」に沿って、そして「地形を意識」しながら、「大手門」・「二の丸角櫓」・「薬医門」と言った Key の建造物を巡るべき」と考えた次第です。
【水戸城(弘道館含む)を大人散策!】
まず最初に目指したのは「弘道館」。「水戸城」の前に、「偕楽園」・「常磐神社」に参らせて頂いておりましたので、そこから「冠木門」経由で、「弘道館」の目の前の駐車場に参り、そこに車を停め、「大人散策@水戸城」を開始しました。
■ 弘道館
国の特別史跡である「弘道館」。東京の『大名庭園のお手本としても有名な「小石川後楽園」』を紹介した記事でも名前の出てきた「水戸黄門」事、「第2代水戸藩主・徳川光圀」が編纂を始めた『大日本史』の影響を受け、尊王の気風を植え付けた「水戸学」の象徴とも認識する「弘道館」です。現在は、「正庁」・「至善堂」・「正門」が、国の重要文化財に指定されているとの事で、「『水戸学』が強い影響を与えたと言われる『幕末の尊皇攘夷運動』」の日本の歴史についても思いを馳せつつ、大人散策を遂行させて頂きたいと思いました。尚、以下画像の「弘道館内部の間取り」は、弘道館デジタルアーカイブプロジェクトのHP(https://www.tokiwa.ac.jp/~ccd/kodokan_web/index.htm)より引用させて頂きますので、大人散策@弘道館の参考になさってください!


ちなみに、「徳川幕府最後の将軍:徳川慶喜」の実父は、「常磐神社のご祭神の一柱で、偕楽園の造園・弘道館の設立も行った『徳川斉昭』」。弘道館で学問を治めたと言われる慶喜は、戊辰の鳥羽伏見の戦いの中、大坂城から江戸に退去し、上野・寛永寺にて謹慎し、その後、「水戸・弘道館の至善堂」⇒ 「駿府(静岡)・宝台院」に謹慎場所を移したとも言われる理解でもあります。つまり、『徳川光圀以来の「朝廷と幕府にもし争いが起きた場合、幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない」という旨の家訓があったという水戸藩」に源泉を持つ人物で、伊藤博文から「維新時に尊王の大義を重んじたのはなぜ?」の質問に、「水戸徳川家では義公以来代々尊王の大義に心を留めていた。父(斉昭)なる人も同様の志で、自分は家訓を守ったに過ぎない」と応えていると言われる理解です。そんな「日本の大転換期の歴史に思いを馳せつつ弘道館を拝見する」事こそ大人散策だと思いますので、是非この史実を心に留め置きつつ、弘道館には脚を運んで頂ければと思います!












































■ 水戸城 三ノ丸 ~ 大手門
「弘道館」を「尊王攘夷思想と共にあった幕末の日本の歴史」と共に満喫した後は、「三ノ丸空堀」を目指します。「弘道館」には、「正門」側にある出入口とは別に、北側に出口がありましたので(入ることはできない理解)、ここを出て、西(左)に進めば、直ぐに「茨城県庁舎の駐車場」になり、その先に「三ノ丸空堀」があります(途中「水戸市水道低区配水塔」も目を引く建造物でしたが…)。「三ノ丸空堀」は、中々大規模な空堀で、「水戸城の縄張り・地形図」が頭に入っていれば、「ここが水戸城の西の端…」とすぐに理解できます。その後「茨城県庁舎の立派な建物」も拝見しつつ、その中にお邪魔します。それは、ここで「水戸城の御城印」を頂戴できるからです…。正確には、「茨城県庁舎1階の水戸観光コンベンション協会」で頂戴出来ましたので、ご希望の際は、皆様も「茨城県庁舎」に脚を伸ばしてみてください。
その後、「弘道館鹿島神社」・「弘道館鹿島神社内の八卦堂」・「要石歌碑(「鹿島神社 & 要石」なので、地震を引き起こすと言われる大鯰を抑えた「鹿島神宮・香取神宮の要石」を連想してしまいましたが、全然違いました…:「神道を尊び、道徳を行く末まで伝える事が教育の “要”」という教えを残した石碑=要石という事らしいです…)」・「孔子廟(屋根の上に独特の風貌をした狛犬?がいらっしゃいました…)」・「大手門前の橋(=大手橋=弘道館正門の目の前)」と言った感じで歩を進めた感じです。
























■ 水戸城 大手門 ~ 二中見晴し台
「大手門前の橋(=大手橋=弘道館正門の目の前)」まで来たら、早々に目の前の「大手門」を楽しみたいですが、その前に「三ノ丸と二の丸を分ける堀切」も「大手橋」の上から確認します。眼下には、現状232号線(道路)があり、車が走っていますが、「水戸城の縄張り・地形図」をイメージしつつ「その深さ」を拝見すると中々堅固な城郭である事、想像できると思います。
そして「大手門」。2020年頃に復元されたと理解する建造物ですので、真新しさを感じますが、「木造復元」で、その両サイドは「瓦塀」の装飾があり、中々貫録を感じる建造物。現水戸城の顔の1つだと思いますので、じっくり拝見しつつくぐると、その先は「水戸城二の丸」。いくつかの説明看板と共に、「二の丸展示館」内部も拝見し、「二の丸角櫓」へ歩を進めます。尚、「二の丸角櫓」へは、学校の間(小学校・高校の間?)を縫って進んでいくのですが、途中、「この辺りが『三階櫓』があった場所かな?」なんて夫婦で会話をしながら歩を進めました。「二の丸角櫓」も、「大手門」同様、真新しい建造物ですが、「木造復元」ですので、「水戸城南側の高低差」も含め、その建造物をじっくり拝見させて頂きました。
その後、来た道を戻る感じで、次に目指したのは、「二中見晴し台」。「二中見晴し台」は、「二の丸角櫓入口」からすぐ近くで、「シイの巨木」のすぐ先にあります。「二の丸角櫓への通路」同様、「二中見晴し台」へも「中学校の脇にある通路」を進みます。すると「二中見晴し台」から、「水戸城北側の高低差」も含め「水戸城の建つ地形」を実感できると思います。




















































■ 水戸城 二中見晴し台 ~ 弘道館
「二中見晴し台」の後は、いよいよ「水戸城の本丸」を目指します。「二中見晴し台」への通路の出入口を出て、東(左)に進み、「二の丸御殿跡」・「杉山坂」・「杉山門」を越えると、「水戸城の二の丸と本丸を分ける堀切」が見えてきます。「水戸城の二の丸と本丸を分ける堀切」は、広さも深さもある堀切で、現在はその底を水戸線が走っているようです。そして、その高さを実感しつつ橋を渡ると、その先は「水戸城の本丸」=「学校の敷地」。故に「薬医門」までは見学できましたが(ちなみに、「薬医門」は、現存する水戸城の建物で最古のものと言われる理解です)、それ以上は拝見できず、来た橋を戻り、「二の丸の東縁を南下」する形で、「本丸の西面」を眺めつつ歩を進め、「柵町坂下門」を拝見。その後更に進んで、広い道(51号線)まででたら「下の丸」まで行こうと思いましたが、時間的制限もあったので、「水戸城の本丸南面の高低差確認」にとどめ、「水戸黄門誕生の地(水戸光圀・三階櫓の像がありました)」・「水戸黄門神社」を巡って、「二の丸角櫓」を台地の下から見上げて、「水戸城二の丸と三ノ丸の間の堀切底(=232号線)」に沿って進み、「大手橋」の下付近から階段で「弘道館前」に出て、車を停めた駐車場に戻り、「大人散策@水戸城(弘道館含む)」をコンプリートした感じでした。
































【最後に】
以上が、「徳川御三家の水戸徳川家の威光を感じる『水戸城址(弘道館含む)の大人散策情報』に付き、その縄張り・地形を意識した詳細ルートを多くの写真と共に紹介」申し上げた内容になります。
「弘道館を含む水戸城址の大人散策情報」を「水戸徳川家の威光」や「縄張り・地形」を意識しつつ巡るポリシーで共有させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか? 「弘道館と薬医門」が現存する建造物で、かつての水戸城内部は文教地区になっており、見学できる往時の遺構は限定的かもしれませんが、その『「尊王」の思想に基づいた水戸藩の歴史』に思いを馳せつつ、縄張り・地形の事前情報を持って散策すれば、ただの散策ではなく「大人散策@水戸城」を完遂できると思った次第です。故に皆様も、「大人散策@水戸城」を計画される際は、『「尊王」の思想に基づいた水戸藩の歴史』・『縄張り・地形』を心に留め置き、「日本三名園の1つ・偕楽園」・「 別格官幣社・常磐神社(現別表神社)」の大人散策と併せて計画されてみてはいかがかと思う次第です!
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