【はじめに】
こちらのページでは、「『古都・鎌倉』と言われる鎌倉の『地形 / 範囲』・『歴史』・『 見所 / 楽しみ方』を抑えた上で、大人散策プランの検討」をさせて頂こうと思います。
皆様は、「鎌倉」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、「『古都・鎌倉』と言いったワードそのもの」・「『鶴岡八幡宮』や『建長寺』、『鎌倉大仏の高徳院』、『あじさいが有名な長谷寺』、『鎌倉宮・永福寺跡』と言った神社仏閣」・「『鎌倉七口の切通』とともに、『三方を山に囲まれた要塞都市』」と言った感じなのですが…(「サザ●オール●ターズ」や「スラ●ダン●」と言うものありますが…)。ただ、共通している事は、「鎌倉は歴史があり、地形的にも、神社仏閣的にも魅力的で、日本を代表する文化的大人観光スポットがたくさんある!」という事でないかと勝手に認識して折ります。しかし、今少し踏み込んで「鎌倉」を理解しようとすると、「『古都・鎌倉』っていうけど、鎌倉の歴史って(特に鎌倉時代以外って)どんなもの?」・「鎌倉の地形 / 範囲って具体的にはどうなっているの?」・「鎌倉の具体的な大人的視点の見所 / 楽しみ方て何があるの?」と言った疑問も沸いて来てしまった次第ですが…。





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こちらのページでは、上記の疑問を解決すべく、「『鎌倉』ってどんな都市?」に付き記載いさせて頂きます。すなわち、「『古都・鎌倉』と言われる鎌倉の『地形 / 範囲』・『歴史』・『 見所 / 楽しみ方』を抑えた上で、大人散策プランの検討」をさせて頂こうと思います。
【「鎌倉」とは?】
まずは「鎌倉」と言う都市の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報集させて頂きますと「鎌倉市」・「鎌倉」の項目が、それぞれありますので、それぞれ以下に引用いたします(引用少々長く、引用後に簡単なサマリをまとめて折りますので、読まなくても大丈夫です)。まずは、「鎌倉市」の項目から引用いたします。
鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県の南部に位置する市。人口は約17万人。三浦半島西側の付け根にあり、歴史的都市鎌倉が市域の中心にある。古都保存法の「古都」に指定されている自治体の一つである。
概要
鎌倉市は横浜市の南西、藤沢市の東、逗子市の北西に位置し、南は相模湾に面している (略) 三方が低い山で囲まれ、海に面する地である。かつては自然の要塞を活かして鎌倉幕府が置かれ政権の要の地となり、日本史の時代区分でもある「鎌倉時代」の由来にもなった (略) 今日では旧腰越町や旧大船町など、いわゆる「三方を山に囲まれた鎌倉」の外側に位置する地域も市内に含まれる。鎌倉は地域内に多くの歴史遺跡を持つ「古都」であるが、後述の通り室町時代中期以降に衰退したため「都市・鎌倉」としての歴史は連続していない。ゆえに中世以来の建造物は限られる。
江戸時代後期になると、地域内の寺社が多くの参詣客を集めるようになるが、明治初期の段階でも鎌倉大仏(高徳院)や長谷寺を擁する長谷(はせ)地区に都市的な集落が分布するのみで、現在の鎌倉市の中心市街地は形成されていなかった (略)
明治中期以降、保養・別荘地として、昭和以降に観光地として改めて「都市・鎌倉」の発展を見たのである。横須賀線の開業により都内からのアクセスが向上し、戦前には多くの文学者が鎌倉に移住し、彼らは「鎌倉文士」と呼ばれた。市内の55%が都市計画法における風致地区に指定されており、(略) 古都保存法における指定都市でもあり、景観保護の点から土地利用に制限がかけられている。また、江ノ島電鉄線(江ノ電)沿線には由比ヶ浜や七里ヶ浜などの有名海水浴場が所在し、隣接する藤沢市などの湘南地区や逗子・葉山とともにマリンスポーツが盛んなエリアである (略)鎌倉市の範囲 大雑把な鎌倉市の地域 鎌倉市の範囲と鎌倉市内の大雑把な地域 (本当に大雑把ですいません…) 地域
鎌倉市内では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている (略)
■ 鎌倉地域
扇ガ谷、大町、御成町、極楽寺、小町、材木座、坂ノ下、笹目町、佐助、十二所、浄明寺、二階堂、西御門、長谷、由比ガ浜、雪ノ下、稲村ガ崎
■ 腰越地域
腰越、七里ヶ浜、七里ガ浜東、津、津西、西鎌倉
■ 深沢地域
梶原、鎌倉山、上町屋、手広、寺分、常盤、笛田、山崎
■ 大船地域
今泉、今泉台、岩瀬、大船、小袋谷、台(一丁目を除く)、高野、山ノ内
■ 玉縄地域
植木、岡本、城廻、台一丁目、玉縄、関谷 (略)
次に「鎌倉」の項目を引用いたします。ちなみに「鎌倉」の項目は『「歴史都市」「文化都市」「観光都市」としての「鎌倉」』に付き記載されているようです。
鎌倉(かまくら)は、三浦半島西岸の地名であり、同半島の基部にあたり、相模湾に面している。
平安時代に河内源氏のゆかりの地となり、源頼朝が1180年(治承4年)に当地に根拠地を置き、後年ここで鎌倉幕府を開いて、政治の中心地となった。しかし、室町時代末期には衰退した。
現在も長谷の大仏(高徳院)、鶴岡八幡宮、鎌倉五山など史跡や寺社が多く残っている (略)概要
奈良時代に相模国鎌倉郡の郡衙所在地となり、古代より地域の中心地だった。771年までは東海道が経由し上総国へ向った。
平安時代に桓武平氏当主の平直方が居館を構えたが、直方娘と河内源氏である源頼義との婚姻を契機として鎌倉を譲り渡したことで河内源氏のゆかりの地となった。源頼義は八幡宮を勧請した(後の鶴岡八幡宮)。治承・寿永の乱時に源頼朝が大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて政治の拠点とした。
鎌倉時代には日本の政治において、重要な位置を占めていた。12世紀末から14世紀半ばの1333年(元弘3年)まで幕府が置かれ、鎌倉文化が全国に広がるなど、大きな力を持つ場所となった。近代に入ってからの鎌倉には鎌倉文士と呼ばれる作家、美術家などの文化人が集まり住み、いくつかのドラマや小説などの舞台にもなるなど、古くから現代に至るまで重要な場所となっている。また、最近では小学校の修学旅行先となるなど、大いに賑わいを見せている。
現在の鎌倉は中世の鎌倉とは断絶した地割りであるが、古都保存法によって乱開発が規制され、古社寺や史跡、神奈川県唯一の国宝建築である円覚寺舎利殿を含めた文化財が比較的多く残る。また市が観光振興に力を入れていることもあり、観光を主な産業として今なお繁栄する (略)天然の要塞
鎌倉の市街地は東・北・西の三方を山で囲まれ、南は相模湾に面した地形をなすことから、天然の要害と形容される。東・北・西のいずれから鎌倉に入るとしても「鎌倉七口」と呼ばれる山の尾根筋を開削した道路(切通し)を通らねばならず (略) 「防御しやすい土地柄」と考えられるようになった。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝がここを拠点としたのは、父祖ゆかりの土地であったこととともに、こうした地理的条件による部分が大きかったとされる (略)
市街地周辺の山はいずれも標高100~150メートル程度だが、標高の低い割には急坂やアップダウンの激しい山道が多いとされ、市街地北方の尾根道には「鎌倉アルプス」の別称がある (略)鎌倉の範囲
現代の鎌倉市域は、南は相模湾に面し、北は横浜市、東は逗子市、西は藤沢市に隣接した区域で、面積は39.5平方キロメートルである。これは周辺の腰越町(1939年合併)、深沢村(1948年合併)、大船町(おおふなまち、1948年合併)が合併した後の市域である。古代の鎌倉はこれよりずっと狭い地域で、前述の東・北・西の三方を山で囲まれた地域に相当し、いわゆる「旧鎌倉」(=鎌倉七口の内側)に当る。これは鎌倉市内の市街地郊外に位置する諸地域にも「北鎌倉」、「鎌倉山」、「西鎌倉」、「鎌倉逗子ハイランド」等、「鎌倉」を名乗る地区があり、これらと区別する場合にも用いられる。なお、「旧鎌倉」の外側にある北鎌倉地区(旧大船町)は、鶴岡八幡宮のすぐ西「巨福呂坂」切通を越えた地域にあるが、最も鎌倉らしい風情を残す地区の一つであると言える。
鎌倉時代後期には、「鎌倉」の範囲は、東=六浦(横浜市金沢区)、西=片瀬川(藤沢市)、南=小坪(逗子市)、北=山内(現在は通称北鎌倉。鎌倉市)にまで拡がった。
なお、現在の横浜市南西部(概ね戸塚区、瀬谷区、栄区、泉区、港南区の旧永野村域)や藤沢市の一部(概ね境川より東側)を含めた地域は鎌倉郡と呼ばれた(1948年消滅)。鎌倉地形図をベースにした鎌倉七口(=鎌倉七切通)の位置関係 鎌倉地形Map(地理院より) 鎌倉の地形図 鎌倉幕府の都市計画:鎌倉六大路
現在の鎌倉市街地(「旧鎌倉」地域)の主要道路網は、鎌倉時代の都市計画に基づく「大路」の名残をかなりとどめている。即ち、鶴岡八幡宮から由比ガ浜に向かう都市計画上の中心線としての若宮大路がその代表といえる。このほか、東側を並行する小町大路(現在の通称:辻説法通り、三浦道等)、同じく西側の今大路(同:今小路)が、南北線の基幹大路を成していた。さらに東西線の基幹大路としては、北側(山側)から順に、三の鳥居前の横大路、下馬四つ角を通る大町大路(同:由比が浜通り、大町通り、名越道等)、さらにその南側(海側)には浜の大鳥居跡(旧一の鳥居)前で若宮大路と交差する車大路(同:琵琶小路、本興寺裏辻子等)があった。このため、かなり歪んだ形ではあるが、南北3本・東西3本の六大路により碁盤の目状の道路網が形成されていた。
このうち、現在では「車大路」のみ、一部が廃道となっている(六地蔵近くから鎌倉第一小学校前・浜の大鳥居跡・鎌倉女学院前を通り、閻魔橋を渡った約100メートル先で中絶) (略)歴史
・飛鳥・奈良時代以前
発掘調査など、主に考古学分野の研究成果を通じてその実像に迫る試みが行われている。
鎌倉市内には多くの遺跡(埋蔵文化財包蔵地)があり(特に鎌倉中心部はほぼ全域が遺跡のエリアとなっている)、旧石器時代や縄文時代・弥生時代・古墳時代の遺跡も発見されているが、旧石器~縄文時代の遺跡(東正院遺跡・玉縄城遺跡・粟船山遺跡など)は、主に関谷や玉縄、大船地区などの市域北西部に分布し、柏尾川流域の台地上を中心に人々が住み始めたことが解っている。
弥生時代に入ると、縄文時代に引き続き市域北西部の柏尾川水系の丘陵地や台地上に集落遺跡の分布が見られるが、弥生時代中期後半からは水稲耕作の場を求めて鎌倉中心部である滑川の沖積低地部にも人々が進出し、低地北側(滑川上流)の大倉幕府周辺遺跡群に竪穴建物群(集落跡)が現れ、弥生時代末頃には由比ヶ浜沿岸の海岸砂丘帯に位置する由比ヶ浜南遺跡や長谷小路周辺遺跡などでも弥生時代の集落が営まれるようになる。
古墳時代中頃後半(5世紀末)になると、この砂丘地帯に向原古墳群という古墳群も造られ、埴輪が出土している。
古墳時代末(6世紀頃)になると、鎌倉から三浦半島にかけては『古事記』に見える「鎌倉別(かまくらわけ)」という古代豪族の勢力圏であったと考えられており、横穴墓群が市内の丘陵地帯で多く形成された (略)
また海岸砂丘帯の長谷小路周辺遺跡では、横須賀市などの海辺でも見られる箱式石棺墓が発見されており、由比ヶ浜一帯で海洋民集団が活動していたと推定されている。
奈良時代の律令体制下では、鎌倉は相模国鎌倉郡の郡衙(郡役所)が置かれ、行政の中心となった。現在の御成小学校を中心とする今小路西遺跡では、整然と建ち並ぶ大型の掘立柱建物跡が検出され、納めた租税を書き付けた「天平5年(733年)」銘の木簡が出土したことから、鎌倉郡衙跡であることが判明した (略)
また、万葉集にも登場し、三浦半島(相模国)から海路を通じて房総半島(下総国)へ向かう古代の東海道が通っていた。由比ヶ浜の由比ガ浜中世集団墓地遺跡では、漁労具を伴う奈良・平安時代の集落遺跡や、祭祀に用いられた卜骨が出土しており、古墳時代に続き、古代においても沿岸部では海と関わる人々の生活が続けられていた。
なお、蘇我入鹿打倒を祈願するために常陸国の鹿島神宮を訪れた藤原鎌足が、帰途に霊夢によって鎌を埋めた土地であることから「鎌倉」と命名されたとする伝説がある (略)
鎌倉は、比較的古くから人々が居住して古代には郡衙が置かれ、古東海道の中間地点として伊豆半島~房総半島を繋ぐ海上交通と物流の要衝と考えられている。日本の年表(かなり大雑把ですが…) 日本の年表 ・平安時代
平安時代末期には平直方が居館を構え、平忠常の乱鎮圧を源頼信に委ねて以来、河内源氏ゆかりの地となった (略)>源氏と鎌倉
康平6年(1063年)に清和源氏の棟梁の源頼義は由比郷鶴岡(鎌倉市材木座)に「鶴岡若宮」として、河内源氏の氏神である河内国石川郡壷井の壷井八幡宮を勧請した (略) これが今も鎌倉の中心である鶴岡八幡宮の起源である。
それから1世紀以上経た治承4年(1180年)、頼義の玄孫である源頼朝が鎌倉入りした。頼朝の父・義朝は、頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、頼朝の異母兄・義平の大蔵合戦での活躍もあり関東に強い基盤を持っていたが、平治の乱(平治元年/1159年)で平清盛との戦いに敗れ、関東へ落ち延びる途中尾張国で殺害された。これが初陣であった若き頼朝も殺されるはずであったが、清盛の継母にあたる池禅尼の助命嘆願で許され、摂津源氏の源頼政一族の知行国でもある伊豆の蛭ヶ小島へ流された。それから20年後の治承4年(1180年)、以仁王が頼政の嫡子の「前伊豆守」源仲綱を通じて全国の源氏に発した令旨を奉じた頼朝は、流刑先の伊豆で平氏打倒の兵を挙げる。頼朝の軍は石橋山の戦い(神奈川県小田原市)では敗北して、いったん安房(千葉県南部)へ引き下がるが、ここで軍勢を整えて、続く富士川の戦いでは平維盛らの軍勢を圧倒する。関東を平定した頼朝は父祖ゆかりの地であり、天然の要害である鎌倉に入り、大倉(大蔵)という場所に館を設ける。現在の鶴岡八幡宮の東方、横国大附属鎌倉小学校校舎と校庭の境付近から清泉小学校あたりがその館跡で、ここは後に「大倉幕府(大倉御所)」と呼ばれるようになる。
同じ治承4年(1180年)、頼朝は八幡宮(鶴岡若宮・由比若宮)を由比郷鶴岡から小林郷へ移す。小林郷は現在の鶴岡八幡宮の所在地であり、「鶴岡」は地名ごと移動してきたことになる(なお、由比若宮の旧地には、今も「元八幡」という小社が残る)。以後、鶴岡八幡宮は鎌倉の象徴となり、都市計画は八幡宮を中心に行われた。寿永元年(1182年)には八幡宮の表参道が整備された。現在も鎌倉のメインストリートである若宮大路がそれである。当時、水田の中の道だった若宮大路は、石を積んで周囲の地面よりかさ上げする工事が行われた。現在「段葛」(だんかずら)と呼ばれている、両脇の車道より一段高くなった歩道はその名残である。源 頼義 由比若宮(元八幡) 源頼朝(近年否定説もある様ですが…) 河内源氏系図 Wikipediaより 鎌倉時代
「鎌倉時代」あるいは「鎌倉幕府」の始まりをどこに置くかは、研究者によって見解が分かれている。
・頼朝が鎌倉入りした治承4年(1180年)とする。
・後白河法皇から守護地頭の設置を許可され、平家(平氏の中の伊勢平氏庶流の平清盛一族のこと)が壇ノ浦で滅亡した文治元年(1185年)とする。
・頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3年(1192年)とする。
どの年を「鎌倉時代」の最初の年とするかについては、上に挙げた以外にも2、3の説があるが、武士の街としての鎌倉の始まりは頼朝が鎌倉に館を構えた1180年とみて大過ないであろう。この時点から日本の政治体制は変化し、明治維新まで700年近く続く、武家社会、封建社会が始まったのである。
河内源氏の源頼朝の家の正系の将軍は3代で途絶え、3代将軍実朝が甥(実朝の兄である2代将軍頼家の子)の公暁に殺害されてからは、北条氏が実権を握ることになる。 (略) 承久3年(1221年)の承久の乱における幕府軍の勝利以後、鎌倉側の政治的優位は決定的となり、鎌倉は名実共に、日本の行政府所在地となったといえる。
3代執権・北条泰時の代には、幕政の中心となる将軍御所の所在地が大倉幕府から北条義時大倉亭内の二階堂大路仮御所を経て、宇都宮辻子幕府・若宮大路幕府へと移転している。
鎌倉幕府は13世紀中頃以降は元寇という大事件があったものの、政治体制は一応安定していた。13世紀後半には建長寺、円覚寺をはじめとする禅寺が建てられ、鎌倉大仏が造立され、鎌倉五山の成立や、日蓮が活躍するなど、仏教文化が大いに栄えた。
その後、元寇をきっかけに幕府財政は逼迫し、内管領の長崎氏の専横などで、地方では悪党が活動する。こうした中で後醍醐天皇は倒幕を企てる。元弘3年(1333年)、天皇の意を受けた新田義貞軍は鎌倉を陥落させ、北条高時ら一族と家臣は東勝寺合戦において自決し、鎌倉幕府は滅亡した。室町・戦国時代
建武の新政においては関東統治のため鎌倉将軍府が置かれ、足利尊氏の弟である直義が成良親王を奉じて派遣される。35年に北条氏の残党勢力による中先代の乱が起こり鎌倉が奪還されると、討伐のために赴いた尊氏が戦後に鎌倉を拠点に建武政権から離反する。足利軍は36年に京都を奪還し、京都に武家政権を成立させ、南北朝時代の貞和5年(正平4年、1349年)には、鎌倉へ尊氏の子の基氏が派遣され、東国支配のための出先機関として鎌倉府が設置される(その長官が鎌倉公方)。
室町時代には鎌倉府は京都の幕府と対立し、永享の乱などが起こる。康正元年(1455年)に5代目鎌倉公方の足利成氏は室町幕府側と対立し、下総国古河(茨城県古河市)に逃れて、以後「古河公方」と称する(享徳の乱)。享徳の乱以降、相模国は扇ガ谷に邸宅を持っていた扇谷上杉家の勢力圏となるが、その家宰が江戸城を築いたことで知られる太田道灌である。英勝寺付近に扇谷上杉家や太田道灌の屋敷があったとする伝承がある。
なおこの時期(14世紀~15世紀)には、由比ヶ浜の海岸砂丘が大規模な集団墓地として使用されており、現在の由比ヶ浜南遺跡と由比ヶ浜中世集団墓地遺跡からは数千体分の人骨や獣骨が出土している。
明応7年8月25日(1498年9月20日)に発生した明応地震で、鎌倉は津波に襲われた。高徳院の大仏殿は津波で倒壊して、鎌倉の大仏が露坐となったとする説がある (略)後醍醐天皇御像 分倍河原駅前の新田義貞像 足利尊氏 太田道灌の像@川越市役所前 一部Wikipediaより 江戸時代以降
近世に入ると、江戸に武家政権が成立し、鶴岡八幡宮は徳川家康・秀忠の保護を受け社殿の修理も行われたが、太田道灌を輩出した鎌倉が、以降の政治の表舞台に立つことはもはやなかった。
江戸時代中期、貞享2年(1685年)に徳川光圀が自身の鎌倉紀行を基に編纂させた『新編鎌倉志』が刊行されると鎌倉の名所・史跡の数々が世に知られるようになり、鎌倉は江戸近郊の遊楽地となった。「鎌倉七口」「鎌倉十橋」「鎌倉十井(じっせい)」などのいわゆる「名数」もこの書に基づいている (略)
近代になると、鎌倉は、海水浴場や観光地として栄えるようになる。また、鎌倉文士と呼ばれる多くの文人らが誕生した。現代の鎌倉は、多くの史跡、観光地、そして良好な自然環境を残す住宅地を有するエリアとして発展している (略)金沢文庫
北条実時が邸宅内に造ったとされる武家の文庫。鎌倉の東の結界である六浦・称名寺(横浜市金沢区)よって長らく護られてきた。吾妻鏡の主要編纂地でもある金沢文庫は、現在の行政区分では鎌倉市ではなく横浜市に属するが、鎌倉文化を語る上で欠くことができない。
伊藤博文らによる復興を経て、現在は鎌倉時代を中心とした所蔵品を展示公開する、神奈川県立の歴史博物館となっている。称名寺からの寄託品を中心とする、国宝・重要文化財を含む古書籍等の文化財を保管し、調査研究、展示するための施設である (略)鎌倉にあるおもな寺社
■山ノ内、扇ヶ谷、源氏山
>山ノ内
禅宗を保護した北条氏の所領であったため、多くの禅寺が往時の名残を伝える。建長寺、円覚寺など、鎌倉五山に列せられる格式高い大寺が建ち並ぶ古都の表玄関。現在では北鎌倉と呼ばれるこの一帯は、精進料理の店や茶屋が建ち並び、一休みする観光客で賑わいを見せている。数々の名刹を巡り、鎌倉まで足をのばすのが、観光の定番コース。
・円覚寺 – 鎌倉五山第2位。臨済宗円覚寺派大本山。山号は瑞鹿山、開基は北条時宗、開山は無学祖元 (略)
・浄智寺 – 鎌倉五山第4位 (略)
・明月院 – 臨済宗。山号は福源山、開基は上杉憲方 (略) 「あじさい寺」として知られる (略)
・建長寺 – 鎌倉五山第1位。臨済宗建長寺派大本山。山号は巨福山(こふくさん)、開基は北条時頼、>扇ヶ谷(おうぎがやつ)、源氏山
扇ガ谷から 化粧坂、そして 源氏山までは趣のある散策路が続いている。現在の鎌倉駅西側一帯である。鎌倉駅西側はノスタルジックな雰囲気の小売店や銭湯などの残る御成通りが続き、古き良き時代の面影をよく残している。
・寿福寺 – 鎌倉五山第3位。臨済宗。山号は亀谷山、開基は北条政子、開山は栄西。寺内は特別公開時を除き非公開 (略)
・葛原ヶ岡神社(くずはらがおか) – 祭神は日野俊基。1887年(明治20年)頃の創建。
・銭洗弁財天宇賀福神社 – 祭神は宇賀神(弁才天と同一視される)。源頼朝の創建という (略)■鶴岡八幡宮周辺
・鶴岡八幡宮 – 源頼義が河内源氏本拠地の壺井水八幡宮を勧請したもので、もと由比郷(鎌倉市材木座)にあり、源頼朝が現在地に移す。河内源氏の守護神であり、鎌倉の象徴的存在である (略)鎌倉 鶴岡八幡宮 一の鳥居 鎌倉 鶴岡八幡宮の二の鳥居と段葛 鶴岡八幡宮 三の鳥居(北から) 鶴岡八幡宮 南北に延びる参道から楼門を望む 鶴岡八幡宮 ■二階堂、金沢街道方面
観光客の多い鶴岡八幡宮周辺から東に延び、六浦(横浜市金沢区)へと続く道が、古に六浦路と呼ばれた金沢街道。幕府の交易港であった六浦湊の商人達が、塩や海産物を運ぶ〝塩の道〟として栄えていた。 鎌倉で最も古い歴史を誇る杉本寺など、風情の深い寺が多い。周辺は山深く、入り組んだ谷戸の中にひっそりと古刹が佇む。
・荏柄天神社(えがらてんじんしゃ) – 祭神は菅原道真。長治元年(1104年)の建立と伝える。
・鎌倉宮 – 祭神は護良親王。明治天皇の命で1869年(明治2年)創建 (略)
・杉本寺 – 天台宗。山号は大蔵山、開基は行基と伝える。鎌倉最古の寺と伝え、本尊は3体の十一面観音である。
・報国寺 (略) 「竹の寺」として知られる。
・浄妙寺 – 鎌倉五山の第5位 (略)■小町、大町 ― 材木座
>小町、大町
鎌倉の中心・鶴岡八幡宮から材木座海岸まで伸びる参道が、メインストリートでもある若宮大路。通りの左右には脇道が無数にあり、一歩踏み込むと教会や古い洋館などが点在し、歴史を感じさせるエキゾッチクな佇まいが垣間見られる。メインストリートと並列して八幡宮から鎌倉駅までを繋ぐのが小町通り。レストランやブティック、土産物屋が軒を連ね、観光客やショッピングをする若者で賑わう (略)
・妙法寺 – 日蓮宗。山号は楞厳山(りょうごんさん) (略) 「苔寺」の別称がある。
・安国論寺 – 日蓮宗。山号は妙法華経山、開山は日蓮。境内の岩窟は日蓮が『立正安国論』を執筆したところという (略)>材木座
大町から材木座にかけては、かつて日蓮が庵を結んだ庶民信仰の色濃い土地だが、近年では湘南のマリンスポーツのメッカ。マリンショップが軒を並べ、静かな古寺の前をサーファーたちが行き交っている。
・元八幡 – 鶴岡八幡宮の旧地。源頼義が石清水八幡宮を勧請して建立した (略)■長谷、腰越、深沢、大船
>長谷
鎌倉のシンボルともいえる大仏があるエリア。江ノ電長谷駅から大仏のある高徳院までは土産物屋が並ぶ。名物のレトロバスがゆったりと行き交う由比ガ浜通りには長谷寺があり、老舗が軒を連ねている。
・長谷寺 – 単立(無宗派)の仏教寺院。山号は海光山、開山は徳道。高さ9メートルの十一面観音を本尊とし、「長谷観音」として知られる (略)
・高徳院(鎌倉大仏) – 浄土宗。開基、開山は未詳。鎌倉大仏を本尊とする (略)
・極楽寺 – 真言律宗。山号は霊鷲山、開基は北条重時、開山は忍性。本尊釈迦如来立像をはじめ、鎌倉時代の仏像が多数ある。
・成就院 – 真言宗大覚寺派。山号は普明山、開基は北条泰時。鎌倉・長谷寺 山門 鎌倉・長谷寺 観音堂付近からの様子 Wikipediaより:鎌倉・長谷寺 木造十一面観音立像(本尊) 鎌倉・長谷寺 境内からの眺望 高徳院・鎌倉大仏 高徳院・鎌倉大仏 高徳院・鎌倉大仏 御朱印 長谷寺(長谷観音)・高徳院の鎌倉大仏 >腰越、深沢
・満福寺 – 真言宗。山号は龍護山、開基は奈良時代の僧行基と伝える。源義経が滞在し、「腰越状」を書いたところとして知られる (略)>大船(おおふな)
江の島まで湘南モノレールが続く。途中の丘陵地には高級住宅地の鎌倉山がある。鎌倉山は住宅分譲地として昭和の初期に開発された。
大船観音寺 – 曹洞宗の寺院。巨大な観音像で知られる (略)行楽、レジャー
北・東・西の三方を山で南を海で囲まれた鎌倉らしい行楽やレジャーがある。
・鎌倉のハイキングコース
北・東・西の三方を山で囲まれた鎌倉には豊かな自然を楽しむことができるハイキングコースがある。鎌倉の山は標高100メートル程度と比較的手軽に楽しめることもあり、特に休日は多くのハイカーでにぎわっている。
・海水浴など
鎌倉の海岸(由比ヶ浜および材木座海岸)は有名な海水浴場であり、夏季には多くの海水浴客で賑わい、大型の海の家が出店する (略)
・鎌倉花火大会
海沿いの地区(由比ヶ浜および材木座海岸)を会場として行われる花火大会。1949年(昭和24年)から続いており、打ち上げ数は数千発で、例年13万人や15万人ほどの人出があり、7月に行われる(日付は変動) (略)鎌倉 由比ヶ浜 鎌倉 朝夷奈切通 鎌倉 化粧坂切通 化粧坂切通(源氏山)~大仏切通し(高徳院・鎌倉大仏)間のハイキングコース(途中海も見えます!) 鎌倉 大仏切通 鎌倉 名越切通・第1切通付近 由比ヶ浜・鎌倉の切通
かなりのボリュームの引用になってしまいましたので、(今少しこの後の段落で記載する事を前提に)ここでは大雑把なサマリを、『地形 / 範囲』・『歴史』の切口でまとめますと、以下の様になります。
■ 鎌倉の地形 / 範囲
現在の鎌倉市は、いわゆる「三方を山に囲まれた鎌倉」の外側に位置する地域も「鎌倉市内」になっており、「鎌倉地域」・「腰越地域」・「深沢地域」・「大船地域」・「玉縄地域」に分けられるらしい。同時に、「鎌倉時代初期の鎌倉」は、「三方を山で囲まれた地域」に相当していたと言われるが、時代と共にその範囲は広がり、現在「上記地域も含めた鎌倉市」となっている様子。しかし、(個人的な主観がかなり入りますが…)いわゆるイメージする「鎌倉」の範囲を、あえて考えるのであれば『「鶴岡八幡宮」を中心に据えた「鎌倉七口」から内側に入る「三方を山に囲まれたエリア」』=『鎌倉地域』と『「建長寺」・「円覚寺」など、鎌倉五山に列せられる格式高い大寺が建ち並び、多くの禅寺が往時の名残を伝える古都の表玄関と言われる「北鎌倉」の一帯 』=『山ノ内エリア』ではないかと思った次第です…(繰り返しですが、あくまでも個人的主観です…)。







■ 鎌倉の歴史
「鎌倉」と言うと、「鎌倉時代」に起源があると思ってしまうが、現・鎌倉市の北西・大船駅近辺に、縄文時代に人が住み始めた事に始まり、弥生時代には稲作の発展と共に、「鎌倉七口」内側の「滑川上流の大倉幕府周辺遺跡群」に「竪穴建物群(集落跡)」が現れはじめ、弥生時代末頃には「由比ヶ浜沿岸」の海岸砂丘帯に位置する「由比ヶ浜南遺跡」や「長谷小路周辺遺跡」などでも集落が営まれるようになったと言われるとの事。
律令国家の頃は、三浦半島から海路を通じて房総半島へ向かう「古代の東海道」が通っていたと言われ、その頃「蘇我入鹿」打倒を祈願するために「鹿島神宮」を訪れた「藤原鎌足」が「帰途に霊夢によって『 “鎌” を埋めた土地であることから “鎌倉”』と命名されたとする伝説」があるともいられるらしい。
つまり、鎌倉は、比較的古くから人々が居住していた様で、古代には「郡衙」が置かれ、「古代の東海道」の中間地点として「伊豆半島~房総半島を繋ぐ海上交通と物流の要衝」であったとも考えられているという事になる認識。





前面に石の間・幣殿が接続
その後、平安時代末期には「平直方」が居館を構え、「平忠常の乱」の鎮圧を「源頼信」に委ねて以来、鎌倉は「河内源氏ゆかりの地」となったと言われている様で、2代目河内源氏・棟梁の「源頼義」は、「鶴岡若宮(現・由比若宮(元八幡))」に「河内源氏の氏神」である「壷井八幡宮」を勧請(鶴岡八幡宮の起源)したと言われる。その後、「頼義」の末裔である「源頼朝」は、初陣の平治の乱(1159年)で平清盛に敗れ、父「義朝」は殺害されるも、子供だった本人は許され伊豆の蛭ヶ小島へ流されたが、流刑先の伊豆で兵を挙げ、初戦は敗戦するも、関東を平定し「河内源氏ゆかりの地」であり、「天然の要害である鎌倉」に入り、「大倉(大蔵)に館」を設け、鎌倉幕府を開いて行く事になる。




鎌倉の街は、「北条氏の執権政治」と共に発展していくが、1333年「新田義貞」により「鎌倉陥落 ⇒ 鎌倉幕府滅亡」の歴史を辿る。つづく「建武の新政」においては、関東統治のため「鎌倉将軍府」が置かれ、(アニメ「逃げ上手●若君」で主役の「時行」を中心にした)「中先代の乱」が起こるが、「足利尊氏」がこれ抑え、戦後、鎌倉を拠点に建武政権から離反し、京都に武家政権を成立させ、鎌倉には「尊氏」の子の「基氏」が派遣され、東国支配のための出先機関として「鎌倉府」が設置された(その長官が「鎌倉公方」で、「享徳の乱」で「鎌倉公方」が、下総国古河(現・茨城県古河市)に逃れて、以後「古河公方」になった)。ちなみに「享徳の乱」の主要人物の一人・「扇谷上杉氏」は「鎌倉地域」の「扇ヶ谷」ゆかりの一族と言われ、その家宰が「江戸城」・「川越城」を築いたことで知られる「太田道灌」である事も歴史を楽しむ上での一つの情報と思われる。






「江戸期」になると、鶴岡八幡宮は、徳川家康・秀忠の保護を受け社殿の修理も行われたが、鎌倉が政治の表舞台に出てくることは無くなり、「江戸近郊の遊楽地」となって行ったようで、徳川光圀が自身の鎌倉紀行を基に編纂させた『新編鎌倉志』では、「鎌倉七口」等が紹介されているらしい。
そして、「明治期」に入ると、海水浴場や観光地として栄えるようになり、「鎌倉文士」と呼ばれる多くの文人らが誕生し、現代の鎌倉は、多くの史跡、観光地、そして良好な自然環境を残す「古都・鎌倉」として、多くの人々に愛されれる地域になっていった。
いかがでしょうか? 「大雑把なサマリ」と思いつつも、これだけの情報量。「鎌倉の歴史」は、本当に長く、厚みのあるものである事、改めて認識でき、個人的には「古都・鎌倉」と言われる由縁を実感した次第ですが、皆様はどの様に思われましたでしょうか? ちなみに、「鎌倉の人口は、約17万」で、「私達夫婦の居住地である川越の35万程」と比較し、少し小さ目の街とも思いましたが、「出身地の山梨・甲府が18万位」と認識していますので「鎌倉は、小さな県庁所在地の都市と同じくらいの街」とも思った次第ですが…。
【「鎌倉」での大人散策をプランニング!】
上記、大雑把ではありますが、「鎌倉の概要(範囲/歴史がメイン?)」を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、得た情報をベースに『「鎌倉」での大人散策をプランニング』させて頂こうと思います!
■ 鎌倉の地形 / 範囲 ⇒ 「大人散策@鎌倉のスコープエリアは?」
上記、『(個人的な主観がかなり入りますが…)いわゆるイメージする「鎌倉」の範囲』を、あえて考えるのであれば『「鶴岡八幡宮」を中心に据えた「鎌倉七口」から内側に入る「三方を山に囲まれたエリア」=鎌倉地域』と『「建長寺」・「円覚寺」など、鎌倉五山に列せられる格式高い大寺が建ち並び、多くの禅寺が往時の名残を伝える古都の表玄関と言われる「北鎌倉」の一帯 =山ノ内エリア』と記載させて頂きました。つまり、『「鎌倉七口」を巡りつつも、「鎌倉地域」の「鶴岡八幡宮」・「高徳院の鎌倉大仏」、山ノ内エリアの「建長寺」等の神社仏閣も巡り、鎌倉の歴史に思いを馳せる大人散策』を遂行すべきでないかと思った次第です。
鎌倉市の範囲と鎌倉市内の大雑把な地域 (本当に大雑把ですいません…)、鎌倉七口・鎌倉の神社仏閣の位置関係
■ 「古都・鎌倉」の歴史を踏まえた大人散策スポットは?
上記記載の『「鎌倉七口」を巡りつつも、「鎌倉地域」の「鶴岡八幡宮」・「高徳院の鎌倉大仏」、山ノ内エリアの「建長寺」等の神社仏閣も巡り、鎌倉の歴史に思いを馳せる大人散策』を考える上で、「Key としてリストアップさせて頂いた大人観光スポット」は、以下の様になりました。言い換えると、『以下に列挙する主要な大人観光スポットを巡りつつ、その他のスポットも巡る事で「鎌倉を満喫」したい!』という感じになった次第です。
- 鎌倉七口:三方を山に囲まれた鎌倉とその歴史そのものを感じる
- 鶴岡八幡宮:鎌倉の象徴で、その歴史が詰まったスポット
- 建長寺:鎌倉が日本の中心であった痕跡の1つで「鎌倉五山第一位」の寺院
- 高徳院の鎌倉大仏:「鎌倉と言えば!」の鎌倉を代表するスポット
- 永福寺跡・鎌倉宮:「鎌倉時代初期」と「建武の新政期」・「明治期」の鎌倉に思いを馳せる事が出来るスポット
- 長谷寺(長谷観音):日本を代表する大きな観音様と鎌倉の絶景を楽しむ
- 上記に加え、「鎌倉の温泉」と「美味しい食事@鎌倉」も楽しめれば最高かな…
そして、『上記にリストアップした「主要な大人観光スポット」を巡る鎌倉の旅』を具体的なスケジュールに落とし込んだら、以下の様になった次第です。
■ 鎌倉の具体的な大人散策の行程は?
上記に『リストアップした「主要な大人観光スポット」を巡る鎌倉の旅』の具体的な内容は、以下の感じです。尚詳細は、もう既に実行済みですので「鎌倉を満喫する2泊3派の旅(プラスα)」をご参照頂ければと思いますので、こちらでは、ポイントのみの記載と致します。
■初日
初日は、「居住地の川越」から電車で「金沢八景駅」まで行き(乗り換えは1回@横浜)、そこからスタートして、「朝夷奈切通」を抜け「一条恵観山荘」で庭園を拝見しつつ一休み。その後「浄妙寺(鎌倉五山 第五位)」・「報国寺(竹の寺)」・「杉本寺(鎌倉最古の寺?)」・「鎌倉宮」/「永福寺跡」・「荏柄天神社(1104年の建立?)」・「大蔵幕府の痕跡(東御門旧跡碑/西御門旧跡碑)」・「法華堂跡(源頼朝墓)」・「小町通り」と巡って、鎌倉の旅における拠点「KKR鎌倉わかみや(熱海の温泉が運ばれている)」に1泊。
■2日目
2日目は、「KKR鎌倉わかみや」を出発し、「由比ヶ浜」から、「鶴岡八幡宮の参道で段葛・一~三の鳥居」を拝見しつつ「鶴岡八幡宮」でお参り。その後「巨福呂坂切通し」・「建長寺(鎌倉五山 第一位)」・「亀ケ谷坂切通」・「仮粧坂切通」・「源氏山」・「山道のハイキング」・「大仏切通」・「高徳院の鎌倉大仏」・「長谷寺(長谷観音)」・「極楽寺切通」と巡って、「松原庵(大人レストラン)」で食事をして「KKR鎌倉わかみや」に戻り2泊目。
鶴岡八幡宮・巨福呂坂切通・建長寺・亀ケ谷坂切通・仮粧坂切通・山道ハイキング・大仏切通・高徳院鎌倉大仏・長谷寺(長谷観音)・極楽寺切通
■3日目
3日目は、「KKR鎌倉わかみや」をチェックアウトし、「由比若宮(元八幡)」・「安国論寺」・「名越切通」と巡って、「逗子・葉山駅」まで行き、「金沢文庫」で途中下車して「神奈川県立金沢文庫」を拝見し(実際は、雨の為諦めましたが…)、再度電車で「石川町(元町・中華街)駅(途中、杉田駅 ⇒ 新杉田駅と乗り継ぎ)」まで行き、「横浜中華街で遅めの昼食」を取って、「元町・中華街駅」から1本で「居住地の川越」に帰宅。
いかがでしょうか? 『鎌倉を「歴史好きな大人目線」で満喫できる中々のコース設定』ではないかと自画自賛している次第ですが…。
【最後に】
以上が、「『古都・鎌倉』と言われる鎌倉の『地形 / 範囲』・『歴史』・『 見所 / 楽しみ方』を抑えた上で、大人散策プランの検討」をさせて頂いた内容になります。
尚、上記の大人散策プランですが、もう既に記載の通り、「既に実行済み」で「鎌倉を満喫する2泊3派の旅(プラスα)」にて詳細を記載して折ります。正直、「金沢文庫」を雨の為に諦めた事、「円覚寺(鎌倉五山第2位の臨済宗円覚寺派大本山)」・「満福寺(源義経が滞在し “腰越状” を書いたと伝わる)」に脚を伸ばせなかった事は、残念でしたが、「十分鎌倉を満喫できた!」と思えたと同時に、「まだまだ鎌倉は奥が深く、更に楽しめそう…」とも思ってしまった感じです…。故に、改めて「鎌倉の旅第2弾」をプランニングし、今回訪問できなかった「金沢文庫」・「円覚寺」・「満福寺」と言ったスポットを含んで、改めて鎌倉に参らせて頂こうと思っている次第です。つまり「鎌倉の歴史は “本当に長く、厚みのあるもの” で、『古都・鎌倉』 は、伊達ではない!」と思ってしまったという事ですので、「鎌倉の旅第2弾」を実行の暁には、本ブログで報告できれば幸いと思って折ります。
また、別ページにて、①「鎌倉」ってどんな都市?その歴史は?、②鎌倉を満喫する2泊3派の旅(プラスα)、③鶴岡八幡宮の大人散策情報、④鎌倉五山筆頭・建長寺の大人散策情報、⑤鎌倉大仏で有名な高徳院の大人散策情報、⑥長谷観音・あじさいで有名な長谷寺の大人散策情報、⑦鎌倉宮/永福寺跡の大人散策、⑧鎌倉七口・鎌倉の切通しを大人散策、⑨大人の宿:「KKR鎌倉わかみや」の宿泊情報、⑩大人レストラン:松原庵で美味しいお蕎麦のコースを満喫、と言った内容でそれぞれ記載しておりますので、併せてご参照頂き、「皆様の大人散策@鎌倉」に少しでも貢献出来たら幸いと存じて折ります!
更に、本ブログでは、諏訪大社や熱田神宮、大宮氷川神社、川越氷川神社、川越喜多院、日光の二社一寺、久能山東照宮、浅草寺、深大寺、神田明神、大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。