白峯寺 頓証寺殿

【更新中/準備中】

【はじめに】

こちらのページでは、「『崇徳上皇』が、『三大怨霊』の一人と言われるようになってしまった震源地にある『白峯寺・白峯陵』の概要を抑えた上で、大人散策情報を共有」させて頂こうと思います

📚本記事で得られる情報📚

白峯寺の概要(歴史/崇徳院との関係性・アクセス等)
白峯寺の詳細散策マップ/コース・見所/楽しみ方
白峯寺を、多くの写真と共に、その雰囲気を理解

本ブログ別記事にて「三大怨霊」に付き、取り上げさせて頂きました。一般的には、『「三大怨霊」=「平将門・菅原道真・崇徳院」』と言われている認識ですが、皆様は、「平将門を祭る神田明神や築戸神社」「菅原道真を祭る天満宮・菅原神社」・「崇徳院祭る白峯神宮・白峯寺」をどの程度ご存じでしょうか? 私自身の事で恐縮ですが、「学問の神様」として「菅原道真」は有名だと思いますし、全国各所にある「天満宮」には、「幾度もお参り」させて頂いた事があります。また、「平将門を祭る神田明神」に関しても、東京都内勤務だった事もあり、かつては「毎年、商売繁盛を祈願すべく新年のお参り」をさせて頂いておりました。しかし、崇徳院を祭る白峯神宮・白峯寺」は、「一度もお参りさせて頂いた事が無かった」のです…。恐らくその理由は、白峯神宮京都「白峯寺は香川」である為、山梨の北杜市出身、埼玉の川越居住の私には、「お参りの機会に恵まれなかった…」という事が、最大の理由であると認識していますが、本ブログ別記事で「三大怨霊」に付き記載させて頂き、崇徳上皇」が「三大怨霊」になってしまった起源の場所と認識する「白峯寺」には、いつか必ずお参りし、「白峯陵」崇徳上皇「心持」に思いを馳せつつ「大人散策をさせて頂きたい」と思う様になっていた次第です。

そんな中、2025年の春、「香川・愛媛を巡る6泊7日の旅(旅全体のMapはこちら)を実行した際、遂に「白峯寺」と「白峯陵」のお参りがかなった次第です。言い換えますと、今後皆様が、「大人散策@白峯寺・白峯陵」を実施する際、情報面でそのサポートを遂行できるよう、「白峯寺」と「白峯陵」の情報共有をさせて頂こうと思い、本記事の作成を行った次第です。つまりこちらのページでは、『崇徳上皇』が、『三大怨霊』の一人と言われるようになってしまった震源地にある『白峯寺・白峯陵』の概要を抑えた上で、大人散策情報を共有」させて頂こうと思います。

ちなみに、この日の行程は、JRクレメントホテル高松」 ⇒ お宿の近くで「レンタカーを借り」 ⇒ 「屋島(屋島寺・屋嶋城址)」⇒「白峯寺(頓証寺殿・崇徳天皇 白峯陵)」 ⇒ 「中津万象園」 ⇒ 丸亀駅付近で「レンタカーを返却」 ⇒ 「丸亀城」 ⇒ 丸亀駅から電車で次の宿泊先で「金毘羅宮」近くの「琴平グランドホテル桜の抄に参った感じのスケジュールでした…

【「白峯寺・白峯陵」と「崇徳院」】

早速ですが、『「白峯寺・白峯陵」と「崇徳院」』の関連性」から抑えさせて頂きます。Wikipedia 力を借り調べてみますと、以下の様にあります(引用長く、引用後にサマリをまとめておりますので、読まなくても大丈夫です)。

白峯寺(しろみねじ)は、香川県坂出市の五色台の白峯中腹の標高280 m付近にある真言宗御室派の寺院。綾松山(りょうしょうざん)、 洞林院(どうりんいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所第八十一番札所 (略)

概要
すべての干支の守り本尊が各堂に祀られており、四国で唯一の御陵である白峯陵が隣接する (略)
古来より本尊千手観世音菩薩は身代わり観音として、鎮守白峯大権現(相模坊大権現とも云い日本八天狗の一狗である)は開運招福、商売繁盛、勝負事の神として、崇徳天皇は悪縁断ち、芸能成就、学業成就の神として信仰されている。

白峯寺 各堂に配置された干支の石像

歴史
寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)この地に訪れ、白峯山頂(標高357 m)に如意宝珠を埋めて、仏に供える水を汲む閼伽井を掘り、衆生救済の請願をした。また、円珍(智証大師)が貞観2年(860年)、山頂に輝く瑞光を見て登頂、そのとき地主神である白髪の老翁よりご神託を受け、瀬戸内海に現れた光明に輝き、芳香薫ずる可思議な光を放つ霊木で千手観世音菩薩を刻み、当寺本尊として安置し、仏堂を創建したと伝えられている。
後に、長寛2年(1164年)旧暦8月26日崇徳上皇が讃岐流刑地で崩御し、遺詔により当寺上の稚児嶽上で荼毘に付され陵墓が造られた。その3年後には西行法師が詣で慰霊のために法楽を行った。その後、建久2年(1191年)後鳥羽天皇により、慰霊のため陵墓近くに、崩御までの6年間を過ごした鼓岡の御所である木の丸殿を移築し法華堂を建て、上皇が仁和寺で軟禁されているとき描かれた自画像を奉安し頓証菩提を弔った (略) 応永22年(1415年)に後小松天皇は上皇の成仏を願い自筆の「頓證寺」と書かれた勅額を奉納し頓証寺殿となった。そして、延宝8年(1680年)には高松藩主松平頼重・頼常により頓証寺殿と勅額門が再建された。

江戸の幕末の動乱を憂う孝明天皇は崇徳上皇の霊を慰めるため上皇の神霊を京都に移すよう命じたが実現しないまま慶応2年(1866年)旧暦12月25日崩御した。その遺志を継いだ子の明治天皇は慶応4年(1868年)旧暦8月26日に当寺に勅使を送り御陵の前で祝詞「保元年間に起きた一連の忌々しい事は、本当に哀しみの極みでした。孝明天皇の遺志を継ぎ、京都御所の近くに新しい宮を造りましたのでどうぞ都にお戻りいただき、天皇と朝廷を末永くお守りください。」と読みあげさせ、また、その勅使は当寺の上皇の自画像と愛用の笙(しょう)を持ち帰り、旧暦9月6日に京都に到着した。そして、その翌日、明治天皇が参拝し、さらに翌日の旧暦9月8日に慶応から明治に改元された。
明治維新になると白峯御陵は当寺から宮内省の管轄に移り、明治3年には上知令が出され寺領は境内を残し没収されて、収入が失われ、本坊になっていた当寺である洞林院以外の塔頭の一乗坊・宝積院・円福院は廃寺となり、当寺住職は明治6年に転身してしまい無住寺となった (略)
明治11年(1878年)時の宮司の願書により当寺の一部である勅額門と頓証寺殿を白峰神社とし、金刀比羅宮(以下は同宮と表現)の摂社とするという決定が内務郷より出て、所有権が当寺から同宮に移ることとなる。その際に数々の寺宝が同宮に移管された。その後、それを不服とした当寺の住職と信徒は訴訟を起こし、明治17年に当寺の勝訴となるが、白峰神社が頓証寺殿として返還されたのは明治31年のことである。また、同時に一度同宮に移管された寺宝のごく一部のみが当寺に再移管された (略)

伽藍
・白峯寺
 >本堂【重要文化財】:慶長4年(1599年) 再建 (略)
 >大師堂【重要文化財】:文化8年 (1811) 再建 (略)
 >阿弥陀堂【重要文化財】:万治4年(1661年)建立 (略)
 >行者堂【重要文化財】:安永8年(1779年)再建 (略)
 >薬師堂【重要文化財】:19世紀前期建立 (略)
 >護摩堂:昭和61年(1986年 )建立 (略)
 >宝物館:平成15年(2003年)建立 (略)
 >勅使門【重要文化財】(附指定):19世紀前期の建立
 >御成門【重要文化財】:享保9年(1724年)建立
 >客殿【重要文化財】:延宝年間建立 (略)
 >山門(七棟門)【重要文化財】(附指定):18世紀後期の建立 (略)
 >石造十三重塔【重要文化財】:東塔と西塔がある (略)
・頓証寺殿
 >勅額門【重要文化財】:延宝8年(1680年)建立
。重要文化財の勅額は宝物館にあり、門にはレプリカが掛けられている (略)
 >頓証寺殿の拝殿と奥殿3棟【重要文化財】:延宝8年(1680年)建立。崇徳天皇の廟所である頓証寺殿の奥殿には、三つの社があり、中央に崇徳天皇が祀られ、向って左に鎮守白峯大権現相模坊、同右に念持仏十一面観世音菩薩が祀られている。拝殿に文殊菩薩を安置する (略)
 >崇徳天皇 白峯陵(すとくてんのう しらみねのみささぎ):白峯寺境内の玉章の木の後ろ入口から約百m、頓証寺殿の後方約20 mの所にあり、第75代崇徳天皇の陵墓で陵形は方丘 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/白峯寺

つまり、、、

白峯寺(しろみねじ)は、香川県坂出市にある、「本尊を千手観世音菩薩」とする、真言宗御室派の、四国八十八箇所第八十一番札所の「寺院」。寺伝によれば、空海(弘法大師)」が、815年にこの地に訪れ創建(?)した寺院の様で、「円珍(智証大師)」が、860年に「千手観世音菩薩」を刻み、当寺本尊として安置し、仏堂を建てた(開基?)と伝えられているらしい。
1164年には、「三大怨霊の一人と言われる崇徳上皇」が、讃岐の流刑地で崩御し、遺詔により白峯寺上の稚児嶽上で荼毘に付され「陵墓(=白峯陵」が造られたエリアでもある様で、1415年に「後小松天皇」は、「崇徳上皇の成仏」を願い、自筆の「頓證寺」と書かれた「勅額」を奉納し「頓証寺殿」となった歴史があり、1680年には、「高松藩主・松平頼重・頼常」により現在みられる「頓証寺殿」と「勅額門」が再建された歴史があるとの事。
また「江戸の幕末の動乱期」には、孝明天皇」が、「三大怨霊の一人と言われる崇徳上皇の霊を慰めるため “上皇の神霊” を京都に移す」よう命じ、その遺志を継いだ「明治天皇」は、1868年に「勅使」を送り、「崇徳上皇の白峯陵」の前で「祝詞(のりと)」を読みあげさせ、またその「勅使」は、白峯寺にあった崇徳上皇の「自画像」と「愛用の笙(しょう)」を持ち帰り、これらが京都に到着したその翌日、「明治天皇」が参拝し、さらに翌日に元号が「慶応」から「明治」に改元された歴史もあるらしい(現在の「白峯神宮@京都」の創建に繋がる認識)
現在、「白峯寺」の境内には、本堂・大師堂・阿弥陀堂・行者堂・薬師堂・勅使門・御成門・客殿・山門(七棟門)・石造十三重塔」と言った「重要文化財」があり、「頓証寺殿」の「勅額門・拝殿 / 奥殿 3 棟」も「重要文化財」との事で、「崇徳天皇 白峯陵(すとくてんのう しらみねのみささぎ)」も「頓証寺殿」の後方にある

白峯寺の七福神

と言った理解をさせて頂いた次第です。つまり、更に簡単に言ってしまえば、『政変に敗れ、「讃岐の地に流された崇徳上皇が、「この地で崩御」し、その後、「白峯寺」上の「稚児嶽上」で荼毘に付され、埋葬された場所が「白峯寺」に隣接する「白峯陵」で、その後「現世においては、三大怨霊の一人として恐れられ、これを沈める為に「頓証寺殿」が作られ、「江戸の幕末の動乱期」には、孝明天皇」が、「崇徳上皇の霊を慰めるため “上皇の神霊” を京都に移す」よう命じ、その遺志を継いだ「明治天皇」は、「崇徳上皇」の「自画像」と「愛用の笙」を「勅使」に持ち帰らせて、これらが京都に到着したその翌日に参拝し、これを持って元号が「慶応」から「明治」に改元された歴史があり、現在「崇徳上皇」の「神霊」は、京都の白峯神宮」にも祭られている』と言った理解になった次第です。

【白峯寺を大人散策】

上記、『「白峯寺・白峯陵」と「崇徳院」』の関連性に付き抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では「大人散策情報@白峯寺」に付き記載いたします。尚、今回の私達夫婦の「大人散策@白峯寺」は、上記記載の通り、『JRクレメントホテル高松」 ⇒ お宿の近くで「レンタカーを借り」 ⇒ 「屋島(屋島寺・屋嶋城址)」⇒「白峯寺(頓証寺殿・崇徳天皇 白峯陵)」』と言った感じで参らせて頂きましたので、『「白峯寺の駐車場」からスタートし、「頓証寺殿」・「本堂」・「白峯陵」と巡って、「スター地点の駐車場」に戻って来るコース』を想定致します。最下部の Google My Map で作成した地図中、「白峯寺」は『青色の星印:★』」で、そのコースをポイントアウトして折り、以下各スポットをその順番で記載申し上げます為、Google My Map で作成した地図と併せてご参照頂けますと幸いです(「香川・愛媛を巡る6泊7日の旅」の2日目に参った感じで、旅全体のMapはこちらよりご確認ください)。

■「駐車場」から「頓証寺殿」へ

スタートは、「七棟門」前の「白峯寺の駐車場」から「七棟門前の駐車場」は、さほど大きくない駐車場ですので、込み合うタイミングでは「少し離れた駐車場(「石造十三重塔」付近)」を利用する必要があるかもしれませんが、それでも、さほど離れた場所ではないので、迷う事は無いと思う次第です。七棟門」前の「白峯寺の駐車場」から、その雰囲気を感じつつ、「七棟門」からお邪魔し、「御成門」・「勅使門」を拝見しつつ「護摩堂(干支の石像?もあります)へ向かいます(「客殿」は、「御成門」・「勅使門」の奥にあるようですが、この参道からはほとんど見えませんでした…)。ここで、本来のルールではないかもしれませんが、今後のルートを踏まえた上で「御朱印」を頂戴し、西側に歩を進め七福神弁財天」でお参りし「勅額門」を潜って「頓証寺殿」に向かいます。「勅額門」は、中々の風格を備えた門で、「頓証寺殿」と併せ「建造物としての価値」を感じつつ、お参りする事が出来ます。また、「頓証寺殿」は、「中央に、崇徳天皇「向って左に、鎮守白峯大権現相模坊(日本八天狗の一狗で、讃岐三天狗の一狗でもあり、相模坊大権現ともいうらしい)「向かって右に、念持仏十一面観世音菩薩が、それぞれ祭られており、それぞれ扉がございますので、それぞれご挨拶させて頂きました。そして、「頓証寺殿」の目の前には「狛兎?(干支の石像?)」・「白峯大権現の像」・「七福神:恵比寿天」もいらっしゃいますので、それぞれ見学させて頂いた上で、「頓証寺殿拝殿」を南に回り込んで、「頓証寺殿奥殿」も、ほんのわずかですが見えるので、併せて拝見させて頂いた次第です。

「駐車場」から「頓証寺殿」の様子

■「頓証寺殿」から「本堂」へ

「頓証寺殿」で、崇徳天皇白峯大権現相模坊十一面観世音菩薩とご挨拶申し上げた後は、「本堂」目指して、階段を登っていきます「勅額門」の前の階段を登り、「鐘楼堂」・「薬師堂(七福神:福禄寿)」・「行者堂(七福神:寿老人)」とお参りしつつ、最上段まで登って、「阿弥陀堂(七福神:布袋尊)」・「大師堂(七福神:大黒天)」もお参りし、「仏足石」も拝見しつつ、「本堂(七福神:毘沙門天)」まで歩を進めます。お気づきの通り、上記の「各お堂」を回って、「本堂」までくると、自然と「七福神巡り」を完遂する事が出来、「護摩堂」・「頓証寺殿」でも拝見した「干支の石像」も拝見する事が出来るので、若干急な階段ですが、楽しみながら歩を進める事が出来ます。距離的には、たいした距離ではありませんが、「階段は、それなりに急な階段」ですので、慌てず・ゆっくり、そして楽しみながらお参りして頂くのが良いのでないかと思う次第です。

「頓証寺殿」から「本堂」の様子

■「本堂」から「崇徳天皇 白峯陵」を経由し「駐車場」にもどる

「本堂」まで「七福神巡り」も兼ねて、お参りを遂行した後は、「崇徳天皇 白峯陵」を目指します。折角登った「本堂までの階段」ですが、今度はその階段を「勅額門」付近まで下って頂き、「西行法師石像」を目指します。と申しますのも、「西行法師石像」付近から、「山道の様な道」を抜けると、「崇徳天皇 白峯陵」に、標高を落とさずアクセスする事が可能になるからです。その「山道の様な道」を進むと、「崇徳天皇 白峯陵」に出る事が出来ますので、ここで、現世の人が勝手にした話ですが、三大怨霊の一人とされてしまった崇徳上皇」の「生涯に思いを馳せ」、「日本の歴史与えた影響」を考えつつ、お参りさせて頂くべきだと思う次第です…。そして「崇徳天皇 白峯陵」で、崇徳上皇に思いを馳せた後は、「来た道を戻る」のも一つの選択肢ですが、違う道を進む意味でも「崇徳天皇 白峯陵」から続く「下りの階段」を進んで頂いても良いのでないかと思います。階段を下り、しばらく進んで、突き当りを左(東)方面に行き、坂を登っていくと、七棟門」前の「白峯寺の駐車場」に出る事が出来ますので、これをもって「大人散策@白峯寺(頓証寺殿・崇徳天皇 白峯陵)」をコンプリートとさせて頂き、次の目的地である中津万象園(日本庭園)を目指した次第です。

「本堂」から「崇徳天皇 白峯陵」を経由し「駐車場」

【最後に】

以上が、『崇徳上皇』が、『三大怨霊』の一人と言われるようになってしまった震源地にある『白峯寺・白峯陵』の概要を抑えた上で、大人散策情報を共有」させて頂いた内容になります。

上記、「『白峯寺・白峯陵』と『崇徳院』の関連性」と、あくまでも「個人的に想定したルート」で、「大人散策@白峯寺(頓証寺殿・崇徳天皇 白峯陵)」に付き記載させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか? 尚、今回の白峯寺(頓証寺殿・崇徳天皇 白峯陵)は、(「香川・愛媛を巡る6泊7日の旅(旅全体のMapはこちらより)」の中の2日目に参らせて頂いた次第です。つまり、大人散策@白峯寺(頓証寺殿・崇徳天皇 白峯陵)」の後は「大人散策@中津万象園(日本庭園)に向かったのですが、全体的な行程として、以下の記事も別記事で記載して折りますので、併せてご参照頂けますと幸いです(具体的な旅のスケジュールは「香川・愛媛を巡る6泊7日の旅」をご参照ください)。

(現在各記事作成中で、随時更新していく予定ですので少々お待ちください…)

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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