出雲大社

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【はじめに】

こちらのページでは、『国譲り』で有名な『出雲大社』の概要を抑え、その『神話の意味』を改めて考えてみたいと思います。

皆様は、「出雲大社」と聞くと何を連想されますでしょうか? 私の場合は、『島根県にある、歴史ある、そして「日本神話」と関連深い、格式の高い神社で、一般的に「神無月」と呼ばれる期間(10月;少し期間ずれるでしょが…)は、出雲では「神在月」と言い、日本中の多くの神様が集まり、「ご縁」を検討するとも言われている事から、様々な縁結びに御利益のある神社』として認識しています。また、近くには現存12天守で、且つ国宝5城松江城があり、少し足を延ばせば、日本5大山城 & 山岳城月山富田城や庭園が有名な足立美術館がある「魅力的なエリア」とも認識しております。しかしながら、まだお伺いした事がない地域でもあり、「いつか必ず!」と思いつつ長い年月が経ってしまっている地域でもあります。

こちらのページでは、個人的にはそんなエリアにあり、そんなイメージの『「出雲大社」に付き、今後の訪問に備え、情報収集させて頂いた内容(=出雲大社の大人散策情報)と、出雲大社と言って忘れてはならない「国譲りの神話」についての考察(妄想?)』を以下に供させていただきます。

【出雲大社の概要】

まずは基本に忠実に、「出雲大社」をWikipedia の力を借り調べてみますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です)。

出雲大社(いずもたいしゃ / いずもおおやしろ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社。神社本庁の別表神社宗教法人出雲大社教の宗祠。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった

名称
古代より杵築大社(きずきたいしゃ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。出雲大社サイトには「いづもおおやしろ」、出雲大社東京分祠サイトには「いずもおおやしろ」とある(前者は現代仮名遣いと歴史的仮名遣いが混在、後者は現代仮名遣い)。歴史的仮名遣いでは「いづもおほやしろ」となる。
一般的には「いずもたいしゃ」と読まれており、複数の辞書・事典でも見出しの読みを「いずもたいしゃ」としている  (略)

歴史
出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された (略)

創建
出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。
大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』) (略)
共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる (略)

大国主大神
祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ) (略) 神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 – 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、全ての神が出雲に出向くわけではない。
そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神として現れるほどに、全国的な信仰を集めるようになった (略)

*本殿
玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られている。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。(なお、本殿瑞垣外ではあるが、本殿の真後ろには、八雲山との間に唯一鎮座する社として、須佐之男命を祀る出雲神社「素鵞社、そがのやしろ。式内社」がある。)  (略)
2000年(平成12年)、地下祭礼準備室の建設に伴う事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと騒がれ、16丈説があたかも確認された事実であるかのごとく報道されることもあった。結局、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも1248年(宝治2年)造営の本殿である可能性が高いと分析されている。ただし発見されたものが古代の本殿ではなくとも、16丈であったことの証明になる可能性があると書かれた教科書や書籍もある
2017年(平成29年)にリニューアルオープンした展示施設「神祜殿」では、出土した柱や、高い位置にある本殿と地上を長い階段でつないだ古代の姿の想像模型が展示されている (略)
出雲大社の遷宮は概ね60 – 70年毎に行われている。

*荒垣内摂社 (※「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、大社ではこの内側をいわゆる「境内」としている)
本殿瑞垣内
・大神大后神社(御向社、みむかいのやしろ) – 式内名神大社(同社坐大神大后神社)。大国主の正后・須勢理毘賣命を祀る
・伊能知比賣神社(天前社、あまさきのやしろ) – 式内社(同社坐伊能知比賣神社)。大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る
・神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ) – 式内社(同社坐神魂御子神社)。大国主の妻で宗像三女神の一柱、多紀理毘賣命を祀る
・門神社(もんじんのやしろ) – 廻廊八足門内の両側にあって本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀る。
本殿瑞垣外
・出雲神社(素鵞社、そがのやしろ) – 式内社。父(または祖先)の須佐之男命を祀る。本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座する社。
・釜社(かまのやしろ) – 素戔嗚尊の子の宇迦之魂神を祀る。
・氏社(うじのやしろ) – 2つあって、出雲国造家祖神の天穂日命(北)と17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)を祀る。御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてある。
・十九社(じゅうくしゃ) – 東西に2つあって八百万神(やおよろずのかみ)を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる (略)

*拝殿
先代の建物は室町時代の1519年(永正16年)に尼子経久が造営。名工の坪井大隅守が華、青龍、松竹梅などで豪華絢爛に仕上げ、高く評価されていた。1953年(昭和28年)5月27日午前1時ごろ、本殿が72年ぶりの正遷宮奉祝期間中に鑽火殿(さんかでん)から出火、拝殿まで類焼し、姿は消えてしまった。原因は鑽火殿で餅をつき終わって酒を飲んでいたことから、残り火の不始末だった。
日本全国の崇敬者から寄付金1億円を集めて、復興事業が行われた。高松宮宣仁親王を総裁として、設計を担当したのは神社建築学の福山敏男博士(前述の古代本殿の研究を参照)で、1959年(昭和34年)に完成した (略)

*神楽殿
■神楽殿大注連縄
拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿(かぐらでん)は1879年(明治12年)の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。正面破風下に張られた大注連縄は隣町の飯南町で作られ、長さ約13メートル、重さ5.2トンにおよび、この大注連縄は数年に一度、新しい注連縄へクレーン車を使用し1日がかりで懸け替えられる。 (略)

国宝
出雲大社本殿(附 内殿1基、棟礼1枚)(建造物) – 江戸時代、1744年(延享元年)の造営。1900年(明治33年)4月7日に国の重要文化財(当時の特別保護建造物)に指定。1952年(昭和27年)3月29日に文化財保護法に基づく国宝に指定。
秋野鹿蒔絵手箱 1合(工芸品) – 鎌倉時代初期の作。1952年(昭和27年)3月29日指定。

重要文化財(国指定)
出雲大社 21棟1基(建造物) – 2004年(平成16年)7月6日指定。次の社殿21棟および鳥居1基を一括指定。
・楼門
・神饌所 2棟
・玉垣
・摂社大神大后(おおかみおおきさき)神社本殿
・摂社神魂御子(かみむすびみこ)神社本殿
・摂社神魂伊能知比売(かみむすびいのちひめ)神社本殿
・摂社門神社本殿 2棟
・八足門(やつあしもん) – 蛙股の「瑞獣」や流麗な「流水文」などの彫刻は左甚五郎の作と伝えられる。
・観祭楼および廻廊
・西廻廊
・瑞垣
・摂社素鵞(そが)社本殿
・摂社氏社本殿 2棟
・末社釜社本殿
・末社十九社本殿 2棟
・宝庫
・会所
・銅鳥居 -1666年(寛文6年)の長州藩第3代藩主毛利綱広の寄進  (略)   

https://ja.wikipedia.org/wiki/出雲大社

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 出雲大社は、大国主大神を祭神とする式内社(名神大)で、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社で、神社本庁の別表神社で、明治維新に伴う近代社格制度下において唯一大社」を名乗る神社であったらしい
  • 名称としては、古代より杵築大社(きずきたいしゃ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称したらしい
  • 出雲大社はいわゆる「国譲り」の事情のもとで創建された神社と言われ、その創建については、日本神話(日本書紀/古事記)などにその伝承が語られているが、共通して言えることは、「天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということ」であり「その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたもの」であることがうかがえる
  • 神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われると言われ、そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神として現れるほどに、全国的な信仰を集めるようになったと言われる
  • 国宝、並びに多くの重要文化財が荒垣内(=境内)にある(「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、出雲大社ではこの内側をいわゆる「境内」としている)
  • 本殿 (国宝)
    • 玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されており、本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られていて、大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いているらしい
  • 本殿瑞垣内 (以下全て重要文化財)
    • 大神大后神社(御向社);大国主の正后・須勢理毘賣命を祀る
    • 伊能知比賣神社(天前社);大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る
    • 神魂御子神社(筑紫社);大国主の妻で宗像三女神の一柱、多紀理毘賣命を祀る
    • 門神社;本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀る
  • 本殿瑞垣外 (下記は重要文化財で他もあり)
    • 釜社; 素戔嗚尊の子の宇迦之魂神を祀る
    • 氏社(2つ);出雲国造家祖神の天穂日命(北) / 17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)を祀っており、西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてある
    • 十九社; 東西に2つあり、八百万神を祀っており、神在祭の際の神々の宿舎
    • 出雲神社(素鵞社); 須佐之男命を祀っており、本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座
    • 拝殿
      • 先代の建物は室町時代の1519年に尼子経久が造営したと言われるが、1953年5月27日に火災で焼失してしまった為、日本全国の崇敬者から寄付金1億円を集めて、復興事業が行われ、高松宮宣仁親王を総裁として、神社建築学の福山敏男博士が設計を担当し、1959年に再建されたらしい
  • 神楽殿
    • 拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿は1879年の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来しており、正面破風下に張られた大注連縄は、長さ約13メートル、重さ5.2トンにおよぶもので、数年に一度、新しい注連縄へ1日がかりで懸け替えられるらしい
  • 2000年、境内から勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘され、「出雲大社・古代の本殿の16丈(48m)説(32丈(96m)説もあるらしいですが…)」が、あたかも確認された事実であるかのごとく報道されることもあったが、柱の分析や出土品からも1248年造営の本殿である可能性が高いと分析されている一方、「古代の本殿ではなくとも、16丈(48m)であったことの証明になる可能性がある」と書かれた教科書や書籍もあるらしく、2017年にリニューアルオープンした展示施設「神祜殿」では、出土した柱や、高い位置にある本殿と地上を長い階段でつないだ古代の姿の想像模型が展示されている

多くの神様が祭られている様で、また多くの摂社もあり、何処にどの神様が祭られているのか、かなり解りにくいですが、国津神の代表(発祥?)と言える神社ですので、「祭神の大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている事」、「大国主の祖先(父?)である須佐之男(スサノオ)は、本殿の真後ろの八雲山との間の素鵞社に鎮座している事」は、少なくとも抑えるべきと思いました。同時に、国宝や重要文化財の建造物も拝見できるようですので、上記の境内図と合わせて、それぞれの位置とそこに祭られる神々をできる限り認識し、「2礼4拍手1礼」で参拝申し上げるべきと思った次第です。また、その他の見所として、神楽殿の大注連縄や、神祜殿では出土した柱・古代本殿の想像模型は、外してはいけないスポットだとも思った次第です。

出雲大社のHP(https://izumooyashiro.or.jp/)の「よくあるご質問」より
Q:御本殿周辺にもいろいろ御社殿がありますが、どのようにお参りすれば良いですか?
A:まず、御本殿前の八足門(やつあしもん)にて御本殿をお参りいただき、御本殿周辺の垣(瑞垣―みずがき)を左回り(時計と反対回り)に進んでいただき、各御社殿をお参り下さい。拝礼作法は、すべて「2礼4拍手1礼」です。

【「国譲り」の神話をどう理解するか?】

上記、出雲大社の概要を抑えさせて頂きましたが、やはり出雲大社と言えば「国譲り」の神話。古事記と日本書紀で少し内容が違う様ですし、登場する神様も違う上、それぞれの読み方によって理解も分かれるようですが、まずは「私個人の理解」を以下に記載します。

■「国譲り神話」の個人的理解の概要

高天原(天上の国?)に住む天照大御神は、建御雷神(鹿島神宮の祭神)と天鳥船神 or 経津主神(香取神宮の祭神)を葦原中国(地上の国?)に遣わし、大国主神(出雲大社の祭神)に「この国は天照大御神の子孫が治めるべき」と『国譲り』を迫った。
大国主神は、先に自身の息子2人に訊ねるよう言った。1人の息子・事代主神(美保神社(松江)の祭神)は、承諾したが、もう1人の息子・建御名方神(諏訪大社の祭神)は、「力競べをしようではないか」と喧嘩を吹っかけてきたので、建御雷神(鹿島神宮の祭神)は、手をつらら、そして剣に変化させ、更に建御名方神(諏訪大社の祭神)の手を掴み、若い葦を摘むように握りつぶして放り投げた(相撲の起源とも…)。たまらず、建御名方神(諏訪大社の祭神)は、逃げ出したが、建御雷神(鹿島神宮の祭神)は、諏訪まで追い詰めた。すると、建御名方神(諏訪大社の祭神)は「この諏訪の地から出ない事」を条件に許しを請い、建御雷神(鹿島神宮の祭神)に降参した。
その後、
建御雷神(鹿島神宮の祭神)は、出雲に戻り、大国主神に再度尋ねると「二人の息子が天津神(天照大御神)に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私も、私の家臣も従いましょう」と承諾したので、大国主神のために宮殿(16丈(48m)説の古代本殿(32丈(96m)説もあるらしいですが…))を建て大国主を祭った。

簡単に私の理解を言ってしまうと、大国主(国津神)は、天照大御神(天津神)に、自身が治める国を差し出す様に迫られ、自身の回答は先送りした上で息子たちに先に聞くよう依頼し、結果、息子1人は承諾し、もう1人の息子は屈服させられたので、自身の住まいと権威を保証する事を条件に、国を譲った」という事と理解しています。なんとも日本人らしい姿にも見えますし、もうちょっと頑張ってもいいんじゃないか…、とも思いますが、これは神話の世界の話。実際の状況を勝手に妄想すると以下の様になると思っております。

■「国譲り神話」の個人的妄想

  • 大国主(オオクニヌシ)が治めていた国:
  • 建御雷神(鹿島神宮の祭神)と天鳥船神 or 経津主神(香取神宮の祭神)と言う使者:
    • 「元々は大陸からの侵略者で九州(高千穂付近?)を拠点にしていた」と見た方が適切と思え、オオクニヌシの本拠地:出雲」をまずは抑えた上で、そのままオオクニヌシを討って国盗りをする事も出来たが、未来の統治(統治者変更後の民衆の反応)も踏まえ、また、かなりの広範囲に広がるオオクニヌシの家臣達の攻撃も踏まえ、「『人質』の意味も含めて討つ事はせず、『国を譲れ!』と迫った(脅した)」
  • 事代主神(美保神社(松江)の祭神)の考え:
    • オオクニヌシの息子の一人・事代主神は、「親方である『オオクニヌシ』が捕縛されている以上、これ以上の戦は不要と戦闘はせず、国譲りを容認」し、軍門に下った
  • 建御名方神(諏訪大社の祭神)の行動:
    • もう1人のオオクニヌシの息子・建御名方神は、怪力と言う話が伝えられている以上「武闘派」と認識できる事から、オオクニヌシの国における国土開発の最前線である諏訪を治めていたと推察。そんな中、建御雷神(天上国からの使者=大陸からの侵攻者の一人)が諏訪まで攻めてきた為、それに応戦した上で、出雲でオオクニヌシが捕らわれてい事を知って、軍門に下ったまた戦力的にも、「建御名方神方=力自慢は揃っていたが、武器は製鉄が盛んな出雲から離れていたため、現地調達した黒曜石(諏訪は黒曜石の産地)を利用した旧来の物」vs「建御雷神方=神話に剣が登場する事から「剣」等の鉄製の最新の武器を利用した物」と言った構図に思え、純粋な力比べではなく、武器の性能からも見て、建御雷神方圧倒的有利だったと推察
  • オオクニヌシ(国津神方)の決断:
    • 自身は捕らわれ、家臣団(息子たち)も軍門に下ったので、「これ以上の戦いは意味もなく不要」と理解し、自身と家臣の命、それぞれ権威、地域の安定性(=地域を戦に巻き込まない)を守る戦略で交渉した(「私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私も、私の家臣も従いましょう」につながる)。
  • 天照大御神(天津神方)の決断:
    • 侵略者である天津神方としては、いきなりの侵略で国を治めようとしても、民衆が納得しない可能性もあるので、これまで国を治めてきたオオクニヌシ方を神として祭り(国津神)、『「奪ったのでなく、譲られたのです!」と大義名分を作った』方が今後の統治において得策と考え、自信達は「天から来た『天津神』」、オオクニヌシ達は「元々国を治めていた『国津神』」という事にして、天津神国津神の境を作りつつ、和合のポリシーで、日本と言う国を作っていく道を選んだ

元々は大陸からの侵略者で九州(高千穂付近?)を拠点にしていた(天津神)方は、それまでの日本の統治者・オオクニヌシ(国津神)方を抑える事で、その家臣団も抑え込むが、オオクニヌシ方も神(国津神)として祭る事で、以降の統治を盤石なものにしていった」と理解した次第です。言い換えると、オオクニヌシの祖先(父?)の素戔嗚宇(スサノオ)は、天津神国津神になった神(すなわち、元々は天津神)として有名ですが、それも怪しいと思われ(後に、『実はスサノオが天津神だった事にした?』)、「元々大国主の祖先(スサノオ)は、天津神でなのだから、現在国津神のオオクニヌシに代わって、天津神が日本を治めても問題ないよね!」、「それに大国主が作った国だって天津神の多大な援助でなしえたものでしょ!」といったメッセージが隠れていると思ってしまった次第で、オオクニヌシ(国津神)の子孫は、天照大御神(天津神)の子孫で、初代天皇の神武天皇と婚姻関係にある事まで踏まえると、天津神方は、相手を殲滅する完全征服を狙っていたのではなく、『できる限り平和的な侵略』を望んでいたのでないか」とも思ってしまった次第です。

【最後に】

以上が、『「出雲大社」に付き、今後の訪問に備え情報収集させて頂いた内容(=出雲大社の大人散策情報)と、出雲大社と言って忘れてはならない「国譲りの神話」について考察(妄想?)』させて頂いた内容になります。

上記、かなり勝手な妄想をしてしまいましたが、皆様はどの様に思われましただでしょうか? 少し話それますが、本ブログ別記事で記載させて頂きましたが、諏訪大社の祭神は、建御名方神。「大国主の息子で、建御雷神に出雲で負けて、諏訪まで逃げ、降伏した」と神話上は理解できますが、それなら諏訪大社の「神」に、しかも「軍神」として、祭られる事はないと思うのです…。つまり、建御名方神は、元々諏訪を治めていて、そこに建御雷神が攻めてきて、兵力(武器の水準;黒曜石 vs 鉄剣)には大きな差があったが、武力ではなく「大国主が捕らわれているという状況」によって軍門に下った為、後の世(平安期)でも「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」と言われたのでないかと思った次第です。更に言ってしまうと、征服者・天津神が、征服された側を国津神として優遇した事も踏まえて理解すると、「戦いのみでなく、話し合いにより結論を出そうとする日本人の根源が表れている」と思ってしまうのは、私だけではないと思った次第です。

日本以外の国に目を向けると、「征服する側」と「征服される側」が、戦後はっきりと、明確に分けられ、「支配 or 滅亡」のどちらかになってしまう様な単純な世界観が広がっているように見えますが、上記の神話であったり、明治維新における日本の政治の在り方を見ると、日本には、それとは違った独自のポリシー(征服側は、完全征服せず、征服された側も一緒に協力しあうことでお互いを受け入れる様な文化)が見える気がするという事で、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルの攻撃を見ていると、上記の「日本人的ポリシー」が、今後の世界にとって必要なのでないかと思ってしまった次第ですが、皆様は、どの様に感じましたでしょうか?

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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