方広寺, 「国家安康」の梵鐘(重要文化財)とその銘文 

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【はじめに】

こちらのページでは、『日本三大梵鐘』の概要を抑えた上で、『具体的に三大梵鐘のある寺院て、どんな寺院なのか?』につき情報共有をさせて頂こうと思います。

いきなりですが、皆様が思い浮かべる「日本三(大)〇〇」って何ございますでしょうか? 本ブログでは、様々な「日本三(大)〇〇」を取り上げさせて頂きました。城郭系では「三大山城」・「三大平山城」・「三大水城(海城)」等、神社仏閣に関連する切り口では、「三大東照宮」・「三大八幡」・「三大怨霊」等、更には「日本三大奇襲」・「日本三大河川」・「日本三大急流」・「日本三名園」・「日本三名城」・「三大曳山祭 / 山車祭 / 美祭」と言った内容でも記載させて頂きました。これらを調べ感じた個人的感想は、『「日本三(大)〇〇」の定義って “結構あいまい” で、誰が言い始めたかも不明なケースが多いものの、それなりに納得できるチョイスをしている!』と言ったもので、『であれば、個人的に、そして勝手に「日本三(大)〇〇」として、 “うまいチョイス” が出来れば、独自の「日本三(大)〇〇」を言ったもん勝ちのスタンスで、提唱できるのではないか?』とも思ってしまった次第です…。

そんな、勝手なイメージを持ている「日本三(大)〇〇」ですが、今回こちらのページでは、本ブログ別記事の「東大寺」・「知恩院」・「方広寺」等を記載している際に出会ってしまった「日本三大梵鐘」に付き記載させて頂きます。すなわち『日本三大梵鐘』の概要を抑えた上で、『具体的に三大梵鐘のある寺院て、どんな寺院なのか?』につき情報共有させて頂きます。

【「梵鐘」・「日本三大梵鐘」とは?】

まずは、「梵鐘」・「日本三大梵鐘」に関し、Wikipedia を調べてみますと、以下の様にあります。最初に「梵鐘」の項目から引用いたします(引用後にまとめて折りますので、引用読まなくても大丈夫です…)。

梵鐘(ぼんしょう)は、東アジアの寺院などで使用される仏教法具としての釣鐘(つりがね)。撞木(しゅもく)で撞(つ)き鳴らし、重く余韻のある響きが特徴。一般には除夜の鐘で知られる (略)
法要など仏事の予鈴として撞(つ)くという、仏教の重要な役割を果たす。朝夕の時報(暁鐘 – ぎょうしょう、昏鐘 – こんしょう)にも用いられる。ただし、梵鐘は単に時報として撞かれたものではなく、その響きを聴く者は一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされる。こうした梵鐘の功徳については多くの鐘の銘に記されている (略)

歴史
仏教はインドに起源を持ち、アジア各地に広まった宗教であるが、梵鐘に関してはその祖形をインドに求めることは困難であり、中国古代の青銅器にその源流が求められる (略)
梵鐘の日本への渡来については、日本書紀に大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が562年、高句麗から日本に持ち帰ったとの記録が残っているが、現存遺品でこの時代にまでさかのぼるものはない。京都・妙心寺の梵鐘(国宝)は、内面に戊戌年(698年)筑前糟屋評(現在の福岡市東区か)造云々の銘があり、製作年代と制作地の明らかな日本製の梵鐘としては最古のものとされている (略)
日本では第二次世界大戦時に出された金属類回収令により、文化財に指定されているものなど一部の例外を除き、数多くの梵鐘が供出され、鋳潰された。これにより、近代や近世以前に鋳造された鐘の多くが溶解され、日本の鐘の9割以上が第二次世界大戦時に失われたという。
最近では特に都市部で梵鐘の音を騒音と捉えた人から寺や警察に梵鐘を撞くことをやめるよう苦情が来ることが増え、撞き手がいない寺が増えていることもあって、除夜の鐘も含めて梵鐘を撞く寺が減ってきている。また、指定された時間に無人で梵鐘を撞く装置を導入する寺もある (略)

日本の著名な梵鐘
・奈良時代の梵鐘 (略)
梵鐘研究家の坪井良平は、以下の16口を奈良時代鐘としている。
 >千葉・成田市出土鐘(国立歴史民俗博物館蔵、重要文化財) 宝亀5年(774年)在銘
 >福井・劔神社鐘(国宝 – 神護景雲4年(770年)在銘。制作年が明らかなものとしては日本で3番目に古い
 >岐阜・真禅院鐘(重要文化財)
 >滋賀・園城寺鐘(重要文化財) – 「弁慶の引き摺り鐘」の別称がある。
 >滋賀・竜王寺鐘(重要文化財)
 >京都・妙心寺鐘(国宝) – 戊戌年(698年)在銘。製作年が明らかなものとしては日本最古。国宝。徒然草にも登場する。
 >京都・東福寺鐘(重要文化財)
 >奈良・東大寺鐘国宝
 >奈良・興福寺鐘(国宝 – 神亀4年(727年)在銘。製作年が明らかなものとしては日本で2番目に古い。国宝。現在は仮講堂に移されている。
 >奈良・薬師寺鐘(重要文化財)
 >奈良・新薬師寺鐘(重要文化財)
 >奈良・法隆寺西院鐘(重要文化財)
 >奈良・法隆寺東院鐘 旧・中宮寺鐘(重要文化財)
 >奈良・當麻寺鐘(国宝 – 妙心寺鐘と並ぶ日本最古級の鐘(非公開)。
 >奈良・大峯山寺鐘(重要文化財)
 >福岡・観世音寺鐘(国宝 – 妙心寺鐘と同じ木型から造られた兄弟鐘。菅原道真が「都府楼は 纔かに瓦 色を看る 観音寺は唯鐘声を聴く」と歌ったことで知られる。

・平安時代以降の国宝梵鐘
 >神奈川・円覚寺鐘 – 正安3年(1301年)在銘
 >神奈川・建長寺鐘 – 建長7年(1255年)在銘
 >滋賀・佐川美術館鐘 – 天安2年(858年)在銘
 >京都・平等院鐘 – 三大名鐘の一つ「形」(所在:鳳翔館、現在鐘楼に吊られている鐘は複製)
 >京都・神護寺鐘 – 貞観17年(875年)在銘。三大名鐘の一つ「銘」。非公開。
 >奈良・栄山寺鐘 – 延喜17年(917年)在銘
 >福岡・西光寺鐘 – 承和6年(839年)在銘

・その他の著名な梵鐘
 >東京・浅草寺鐘(弁天山) – 「花の雲 鐘は上野か浅草か」(松尾芭蕉)の句で有名。
 >東京・品川寺鐘 – 四代将軍徳川家綱寄進。幕末に万博出品されるも行方不明となり、昭和5年に返還された。
 >愛知・久国寺鐘(天長山) – 芸術家・岡本太郎が製作。
 >大阪・大坂町中時報鐘(大阪市中央区釣鐘町):寛永11年(1634)、徳川3代将軍家光が来坂した折、人心掌握と大坂振興のため、大坂三郷の地子銀(固定資産税)を永代免除する沙汰を出した。この厚遇に感激した惣年寄たちが評議し、家光の善政を顕彰するために鋳造。高さ1.9m、口径1.1m、重さ約3t。なお、鋳造を手掛けたのは藤原家次(釜屋宗左衛門)とされる。
 >京都・方広寺鐘 – 重さは 82.7 t で日本一の重さと言われる。銘文中の「国家安康」の句が徳川家康の豊臣への怒りを買ったとされる
 >京都・知恩院鐘日本一の大きさと言われる。
 >熊本・蓮華院誕生寺鐘 – 大きさ、重量ともに世界一の大梵鐘がある。口径九尺五寸、高さ十五尺、重量一万貫。昭和五十二年鋳造。鋳造元は 岩澤の梵鐘
 >和歌山県日高郡日高川町道成寺:梵鐘がないことで有名、安珍・清姫伝説に基づく。
 >静岡・袋井市出土鐘 – 1983年に茶畑から出土した。平治2年(1160年)の銘があり、製作年が明らかな梵鐘としては日本で12番目の古さ
 >沖縄・万国津梁の鐘(重要文化財):1458年に琉球王国第一尚氏王統の尚泰久王が鋳造させた梵鐘 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/梵鐘

次に、「日本三大梵鐘」も抑えさせて頂きまと、Wikipedia には以下の様にあります。

(略) 三大梵鐘
知恩院(京都市)、方広寺(京都市)、東大寺(奈良市)
 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本三大一覧

併せて理解すると以下の感じになった次第です。

上記、Wikipedia から引用した「梵鐘」の項目には、「知恩院京都」、「方広寺京都」、「東大寺@奈良」の「三大梵鐘」に加え、興福寺」・「薬師寺」・「法隆寺」・「建長寺」・「浅草寺」と言った「有名寺院の梵鐘」も列挙されています。つまり、知恩院京都」、「方広寺京都」、「東大寺@奈良」が「三大梵鐘」ですが、「日本各地に、それなりの数の貴重な梵鐘がある」とも思った次第です…。同時に、その中でも、知恩院京都」、「方広寺京都」、「東大寺@奈良」は、『「三大梵鐘」に挙げられるだけの梵鐘』とも思った次第で、特に「方広寺の梵鐘」は、「大坂の陣」の発端になった「方広寺鐘銘事件」の物的証拠である『康」の梵鐘』として、最も有名」で、梵鐘その物も『「日本一の重さ」を誇る立派な梵鐘』といった理解になった次第です。

【三大梵鐘のある寺院て、どんな寺院?】

上記、「 三大梵鐘」と言ったワードを抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では具体的に三大梵鐘のある寺院て、どんな寺院なのか?に付き、記載いたします。

知恩院京都

知恩院は「浄土宗の宗祖・法然によって、法然ゆかりの地に建てられた浄土宗の総本山の寺院」で、江戸期には徳川将軍家により(政治的背景があったと言われるが)大切にされ、現在でも「江戸初期に建造された “三門”・”御影堂(本堂)” と言った国宝」を拝見できる上「国の名勝に指定された “方丈庭園”」と言ったいくつかの庭園も楽しめる寺院』と理解している次第です。

知恩院の境内は、「三門や塔頭寺院のある “下段”」「御影堂(本堂)など中心伽藍のある “中段”」、「勢至堂、法然廟(御廟)などのある “上段”」“3つに” 分かれており、この中で “上段” が開創当初の寺域であり、”中段・下段” の大伽藍は江戸時代になって江戸幕府の全面的な援助で新たに造営されたと言われているようです。また建造物としては、「国宝の “御影堂(本堂)”・”三門”」を初め、「多くの重要文化財;経蔵・大鐘楼・集会堂・新玄関・大方丈・小方丈・唐門・勢至堂(知恩院発祥の地に、1350年に建てられた知恩院最古の建築物)等」があり、更に「国の名勝に指定された “方丈庭園”」、「二十五菩薩の庭」・「山亭庭園」・「友禅苑」と言った庭園も楽しむ事も出来る寺院と理解している次第ですので、「日本三大梵鐘」の「梵鐘」は勿論、「日本三大三門」の「三門」・「御影堂(本堂)」方丈庭園」等も含め大人散策を遂行し、「法然の思い」を感じてみてはいかがでしょうか?

Wikipediaより:知恩院の様子

東大寺@奈良】

東大寺は、若草山麓に創建された金鐘寺に起源を持ち、奈良時代に、聖武天皇が「国分寺建立の詔」が発せられた事を受け、「大和国(現奈良県)の国分寺」兼「(国分寺の中心をなす)総国分寺」と定められたタイミングで寺名を「金光明寺」と改め、大仏の鋳造が始まり、この頃から「東大寺の寺号が用いられるようになったと言われる寺院
平安期には、桓武天皇の南都仏教抑圧策や南都焼討の兵火で打撃を受けたが、多数の僧兵を抱える力を持つ寺院になっていき、鎌倉期初めには、大仏開眼・再建大仏殿の完成と再建は着々と進むが、戦国期には、再び兵火で焼失し、信長は、東大寺保護の姿勢をとるが、その後に天下人になった秀吉は、東大寺大仏に代わる新たな大仏(京都方広寺大仏(=京の大仏))の造立を発願し、東大寺大仏再建への着手は行わなかった為、1567年の東大寺大仏・大仏殿の焼失後、その再建が遅々として進まず、大仏は露座のまま放置の状態が続いた
しかし、江戸期に入って1600年代後半、東大寺大仏の修理と大仏殿の復興を行おうと勧進を始めると、徳川綱吉を始め、多くの人々からの寄進・喜捨を受けて、大仏開眼・再々建大仏殿の完成が実現し、現在東大寺には、その時の大仏殿(金堂)・大仏(盧舎那仏像)や南大門(鎌倉期)・金剛力士立像(鎌倉期)・二月堂(江戸期)・法華堂(三月堂;奈良期)・梵鐘(「日本三大梵鐘」の1つ)と言った国宝をはじめとする、多くの国宝・重要文化財が存在しており、その総数は、(正確ではないかもしれませんが、Wikipedhia に記載のあったものをカウントすると)国宝=建物系:8・美術工芸品系:23」、「重要文化財=建物系:14・美術工芸品系:127」にのぼり、古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界文化遺産に登録されている寺院となった

上記の様な理解をさせて頂いますが、皆様は、どの様にお感じになられましたでしょうか? 個人的に思った事は「これだけの国宝・重要文化財の建造物・美術工芸品を所有する東大寺は、日本の中心がまさにこの場所にあった痕跡であり、エビデンスである」と思ってしまった次第です。

Wikipediaより:東大寺の様子

方広寺京都

方広寺」は、「豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏:京の大仏=かつては「日本三大仏の1つ」)を安置するための寺として 1595年に創建された寺院」で、1598年に秀吉が他界した後、方広寺の東方にある「阿弥陀ヶ峰」山頂に埋葬され、「豊国廟(秀吉のお墓)」が建立されたのに始まる「豊国神社」も置かれたらしい。
ただその敷地は、元々、平安期に「後白河天皇」が譲位して上皇となり、「院の御所に定めた」という「法住寺の敷地だったと考えられている様で、その「法住寺」は、1192年に後白河上皇が崩御し、法住寺殿の法華堂に葬られ、「後白河法皇の御陵をまもる寺」として、長く存続した歴史を持つらしい(=後白河法皇ゆかりの寺院)
一方で、江戸期には、「方広寺鐘銘事件」に端を発する「大坂の陣」で豊臣氏滅ぼされたことを受けて、江戸幕府により「妙法院」門主が「方広寺」住職を兼務するようになり(=「法住寺」は「妙法院」門跡の「院家」として待遇)、「江戸時代の妙法院」は、「方広寺」、「蓮華王院(=三十三間堂:元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂)」等を兼帯する大寺院となったようで、同時に「豊国神社」は、豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となった。

Wikipediaより:方広寺の画像

しかし明治維新時に、「明治天皇の勅命」により、「豊国神社」は再興され「別格官幣社」に列格されたらしく(現在は神社本庁の別表神社で、その敷地の大部分は「方広寺の寺領」であったが、明治新政府により収公され、最終的に「豊国神社境内」となった経緯らしい)、同時に、「後白河天皇陵」と「妙法院門跡法親王の墓所」が寺域から分離され、宮内省の管轄におかれたらしい。また、大坂の陣」の発端になった「方広寺鐘銘事件」の物的証拠である『」の梵鐘は、日本三大梵鐘」の1つとして、現在でも「方広寺」で見る事が出来る

上記少々長めの文章になりましたが、つまり『元々「方広寺のあった場所」は、「後白河上皇の院政の拠点」として設置された「『法住寺』の敷地」で、その歴史においては、秀吉家康・明治天皇の政治的思惑が絡みあった事で、「日本と言う国の舵取りにおける主導権」も、「後白河上皇(院政@法住寺)」 ⇒ 「秀吉(「日本三大仏」の1つ:「京の大仏」の設置@方広寺)」 ⇒ 「家康(『「」の梵鐘』に端を発した「方広寺鐘銘事件」で、大坂の陣を経て妙正寺の管理下)」 ⇒ 「明治天皇(「豊国神社」の再興と「別格官幣社」への列格(法住寺がまもってきた「後白河法皇の御陵も宮内省管理下へ」))」と移り、正に「日本史における転換期の痕跡が詰まったエリア」になった』と認識したという事です。言い換えると、「”” の梵鐘(日本三大梵の1つ)」に端を発した「方広寺鐘銘事件・『日本三大仏」の1つに数えられた「京の大仏」』で有名な『方広寺』を理解するには、「法住寺」・「妙正寺」・「豊国神社(豊国廟)」も併せて認識する必要があると言う理解をしている次第です。

「御本尊善光寺如来」の写真は、甲斐善光寺のHP(http://www.kai-zenkoji.or.jp/index.html)より、それ以外はWikipediaより

【最後に】

以上が、『日本三大梵鐘』の概要を抑えた上で、『具体的に三大梵鐘のある寺院て、どんな寺院なのか?』につき情報共有をさせて頂いた内容になります。

知恩院京都」、「方広寺京都」、「東大寺@奈良」と、それぞれ記載させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか? 実は、今回、本記事を記載させて頂くにあたって、思った事があります。それは、私自身、『「知恩院京都」は成人してからお邪魔した事はあるが、「方広寺京都」、「東大寺@奈良」は、中学生の修学旅行にて参っただけで、その後お邪魔できていない』と言うものです…。つまり、今回情報は結構抑えさせて頂いたつもりですが、「日本三大梵鐘」を意識して「知恩院京都」、「方広寺京都」、「東大寺@奈良」を回れていないという事です…。言い換えますと、今後の訪問に備えての「事前準備として調査させて頂いた側面もある」という事になるのですが(勿論、皆様の大人散策における参考情報になれば幸いとも思っています!)、実際に情報収集させて頂くと、「知恩院京都」、「方広寺京都」、「東大寺@奈良」に、改めて脚を運びたくなってしまいましたので、いつの日か機会を見つけ再訪問し、本ブログで報告させて頂こうと強く思っている次第です!

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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