小谷城

【更新中/準備中】

【はじめに】

こちらのページでは、織田信長の戦歴におけるターニングポイントになった思われる戦いの舞台で、浅井3代の居城である『小谷城』の概要と大人散策情報を共有」させて頂こうと思います

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「小谷城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

実は小谷城には、麓までお邪魔した事があります(=城郭まではいっていない…)。長浜城長浜の街竹生島と回らせて頂いた際、「出来きる事なら小谷城も見たい!」と思って、河毛駅まで行き、小谷城の麓まで行ったのですが、その日は様々想定外の事もあり、麓に着いたのは17時過ぎ。9月位の事だったので、山城なので、日が暮れる18時位には戻ってこないと」と想定はしていましたので、「もう無理かな…」と思いつつも、でも「もしかしたら少しだけでも回れるかも…」と思って参ったのですが、見事に期待を裏切られました…つまり、麓まで行って城郭の山を見渡すと「でかい…、とても1時間では無理…」と思った次第です。旅における鉄則は「無理をしない事」、「想定外の事が起こったのも『小谷城はまたの機会にしなさい!』と神の思し召し」と自身に言い聞かせ、半分自身のプランニングの甘さを後悔しつつ、泣く泣く小谷城の大人散策を諦めた事があります。かなり前の話ですが、それ以来、小谷城にお邪魔できていませんが、その時の反省を踏まえ、そして次回の訪問に備え、プランニングをさせて頂いた次第です。

こちらのページでは、個人的にそんな背景のある小谷城の大人散策状況を共有させて頂きます。すなわち「織田信長の戦歴におけるターニングポイントになった思われる戦いの舞台で、浅井3代の居城である『小谷城』の概要と大人散策情報を共有」させて頂きます

【小谷城・小谷城の戦いの概要】

まずは、小谷城・小谷城の戦いの概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です… まとめも結構長いので…)。

小谷城(おだにじょう)は、滋賀県長浜市(旧東浅井郡湖北町伊部、かつての近江国浅井郡)にあった戦国時代の日本の城(山城)。城跡は国の史跡に指定されている。

概要
日本五大山城の一つに数えられる。標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の方との悲劇の舞台として語られる城である。
戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城した。その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となった。現在は土塁・曲輪などのほか、先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っている  (略)

歴代三代城主
初代:浅井亮政、 二代: 浅井久政 、 三代:浅井長政

城郭
小谷山一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用した南北に長い山城で、築城当時は現在の本丸跡よりさらに北に位置する大嶽城付近に本丸があったと考えられている。久政、長政によって代々拡張が重ねられ現在の城郭になった。落城後長浜城の建築資材とするため小谷城は解体されてしまったが、山王丸付近に現存する大石垣をみる限り当時としては先進的で大規模な城であったと推察される。

主郭部
城は多くの郭によって構成されており、本丸とその奥に続く中丸との間には深さ5〜10メートルほどの堀切があり主として南北2つの部分に分けることができる。これらの郭を守る形で武家屋敷跡が点在し、清水谷などの要所には重臣の屋敷が配置されていた (略)

御茶屋敷曲輪・御馬屋敷曲輪
御茶屋敷曲輪は番所跡の上にある曲輪で、主郭部の最先端にある (略)
御馬屋敷曲輪は本丸を防備するために築かれ、三方を高い土塁で囲まれている。また御馬屋敷曲輪の清水谷の斜面側にはいくつかの竪堀が見受けられる (略)

本丸・大堀切
本丸曲輪は江戸時代中期の小谷城古絵図には「鐘丸共」と記載されているので、鐘丸として機能していたと思われている。規模は南北40m×東西25m規模があり、上下二段から成り立っている。また東西の裾には土塁があり、本丸下の千畳敷曲輪方向には石垣が築かれている。この本丸跡に『戦国大攻城戦』では二層天守が築かれていた可能性を指摘している。それ以外では小谷城の天守が長浜城に、そして彦根城の西の丸三重櫓として移築されたと伝承されていたが、1955年(昭和30年)の解体修理ではそのような形跡は発見されなかった (略)

京極丸・小丸・山王丸
堀切より北側には、中丸、京極丸、小丸、山王丸と続いている (略)
京極丸は京極氏の屋敷があったと伝承されている (略) 城内では千畳敷曲輪に次ぐ二番目に広い曲輪跡である。
京極丸の北側に小丸がある。この場所は浅井久政が切腹し果てた場所で、左右2段の曲輪からなる。
主郭部の最も北側にあるのが山王丸である (略) 4段から成り、詰めの曲輪でもある。また、山王丸の東側には高さ5mからなる大石垣があり、また各曲輪の虎口にも石垣が確認できる。『戦国の堅城』ではこれらの石垣は浅井氏の権力の象徴となっていた可能性を指摘している  (略)

大嶽城
山王丸から谷筋へ下り、さらに山道を登った所に大嶽城があり、小谷城の支城の一つとして機能していた。ここは小谷城の主郭部からは100メートル以上高く、小谷山の頂上もここにある(海抜495メートル)。現在は元亀年間に朝倉軍が駐留した際に築かれたと考えられる、曲輪・横堀群などが残されている。これらの遺構は直角に成型されており、小谷城の主郭部より高度な技術がうかがわれる
浅井亮政の築城当初は、小谷城はこの大嶽にあったとの説もある。考古学的に裏付けるものはないが、六角氏の天文年間の文書には、確かに「大嶽」の単語がいくつか見られる。

福寿丸・山崎丸
大嶽城から見ると南に二本尾根が分かれている。うち東側の一本が小谷城の主郭部であるが、西側のもう一本にも小規模ながら城郭の遺構が残されている。これらは大嶽城と同じく元亀年間に援軍に来た朝倉軍が築いたものと考えられ、江戸時代の地誌などから「福寿丸」「山崎丸」と現在では呼んでいる (略)
一方、福寿丸や山崎丸に現在残る遺構は浅井・朝倉両氏滅亡後に羽柴秀吉によって築かれたものとする説が近年提示された (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/小谷城

小谷城の戦い(おだにじょうのたたかい)は、天正元年(1573年)8月8日から9月1日まで織田信長と浅井長政との間で行なわれた戦国時代の戦いである。

経緯
元亀元年(1570年)4月、尾張の織田信長・越前の朝倉義景と同盟関係を結んでいた北近江の浅井長政は、信長による朝倉征伐戦を見過ごせず、織田氏と断交した(金ヶ崎の戦い)。同年6月28日には朝倉氏と連合して、信長と徳川家康の連合軍を迎えるも敗北(姉川の戦い)直後に浅井氏は本拠・小谷城の南方拠点である横山城を奪われ、木下秀吉が守将として浅井氏の監視役に置かれた。
(略) この時期から室町幕府15代将軍足利義昭の呼びかけに応じた石山本願寺らも織田氏を攻撃し始めた(信長包囲網) (略)
元亀3年(1572年)7月、3万の大軍を率いた信長は小谷城の目と鼻の先に在る虎御前山に本陣を布いて砦を修築し、虎御前山から横山城まで長大な要害を作り始めた。これを見た浅井氏は、朝倉氏に (略) 援軍を求め、越前からも朝倉軍(義景の1万5000、朝倉景鏡の5000)が救援に駆けつけた。これと同時期に西上作戦を発動させた甲斐の武田信玄が信長・家康の領国へ侵攻した。
しかし義景はほとんど攻勢に出ず、むしろ朝倉勢から (略) 織田方に寝返る始末で、織田方の要害が完成してしまった。信長は志賀の陣に引き続き、「日を決めて決戦に及ぼう」と義景に申し入れたが、やはり義景は動かなかった。9月16日、信長は木下秀吉を虎御前山砦に残して横山城に兵を引いた。
11月3日に浅井・朝倉勢はやっと動き、要害に攻撃を仕掛けてきたが木下秀吉に撃退され、12月3日に朝倉勢は越前へ撤兵してしまう。武田軍も信玄の体調が悪化したために甲斐に撤退をはじめ、その途中、翌元亀4年(1573年)4月に信玄が病没 (略)

戦闘の経過
小谷城籠城・朝倉氏滅亡
元亀4年(追記:1573年) (略) 7月20日に(追記:足利)義昭を放逐し(槇島城の戦い)、28日には元亀から天正に改元させた。更に8月8日、浅井家重臣の山本山城主阿閉貞征が織田方へ寝返ると、信長はこれを好機と見、3万の軍勢を率いて北近江への侵攻を開始、虎御前山の砦に本陣を布いた
織田軍は背後に朝倉氏が控えていた事もあり無理に力攻めはしなかった。一方、浅井長政は居城の小谷城に5千の軍勢と共に籠城したが離反が相次ぎ、小谷城の孤立は益々強まっていく。浅井氏は朝倉氏への援軍要請しか手段が無く、その朝倉氏は朝倉家家中の一部から上がった反対の意見を押し切り、義景自ら2万の軍勢を率いて小谷城の北方まで進出する。
ところが朝倉軍は前哨戦で敗北した上、構築した城砦(大嶽砦など)を容易く失陥。このため撤退し始めるが、そこを織田軍に夜襲され、壊滅的な敗北をこうむった(刀根坂の戦い)。義景は15日に一乗谷城に辿り着いたが、17日に織田軍は朝倉氏の居城一乗谷城を攻め焼き払ったため、最深部の大野郡の山田庄まで逃れ、ついに20日、朝倉景鏡の裏切りもあり、義景は自刃して朝倉氏は滅びた(一乗谷城の戦い)

小谷決戦
越前を制圧した信長は、織田軍の一部を越前での戦後処理に留めて小谷城へと引き返し、26日に虎御前山の本陣へ帰還すると、全軍に小谷城の総攻撃を命じた。翌27日、木下秀吉率いる3000の兵が夜半に長政の拠る本丸と長政の父・浅井久政が籠る小丸との間にある京極丸(兵600)を占拠した。この時、三田村定頼、海北綱親らは討死した。これで、父子を繋ぐ曲輪を分断することに成功した。やがて小丸への攻撃が激しくなり、800の兵を指揮していた久政は追い詰められて小丸にて、浅井惟安らと共に自害した。
その後、本丸(長政以下兵500)はしばらく持ちこたえ、長政はその間に嫡男万福丸に家臣を付けて城外へ逃がす。さらに正室のお市の方を3人の娘(浅井三姉妹)と共に織田軍に引き渡した。 その最後の仕事を果たしたのち、9月1日、袖曲輪の赤尾屋敷内で重臣の赤尾清綱、弟の浅井政元らと共に長政は自害して小谷城は落城した。この日をもって、北近江の戦国大名浅井氏は亮政から3代で滅亡したのである (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/小谷城の戦い

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 小谷城の概要
    • 小谷城(おだにじょう)は、滋賀県長浜市にあったにあった戦国時代の山城
    • 城跡は国の史跡であり、日本五大山城の一つとして知られるが、戦国期に織田信長に攻められ落城し、浅井長政とお市の方・浅井三姉妹の悲劇の舞台として知られる城
    • 下剋上によりのし上がったと言われる浅井氏三代の居城であり、初代:浅井亮政が、小谷山最高点・大嶽付近を主郭とした城を築城したのが始まりと言われ(1520年前後と言われ正確な事は分かっていないらしい)、その後 二代: 浅井久政 、 三代:浅井長政と代々拡張が重ねられるが、信長の小谷城攻めにより1573年に落城、その後北近江の拠点は、長浜城に移され1575年に廃城になったと言われる
    • 長浜統治の拠点が、秀吉による長浜城に移る際、長浜城の建築資材とするため小谷城は解体されてしまったらしい(小谷城の天守が長浜城に、そして彦根城の西の丸三重櫓として移築されたと伝承もあるらしい…)
  • 小谷城の構造
    • 城の構造的には、多くの郭によって構成され、本丸と中丸との間に深い堀切があり、南北2つの部分に分けることができる構造と言われ、これらの郭を守る形で武家屋敷跡が点在し、清水谷などの要所には重臣の屋敷が配置されていたらしい
    • 本丸曲輪は江戸時代中期の小谷城古絵図には「鐘丸共」と記載されている様で、南西側に場内でもっとも広い曲輪と言われる大広間の曲輪(千畳敷曲輪)を従え、その北東にある堀切から先に、中丸、京極丸(京極氏の屋敷があったとの伝承あり)、小丸(小谷城攻めの際、長政父・久政が切腹し果てた場所とも)、山王丸(東側には、5mからなる大石垣があり、本丸よりも高所にある)と続いている
    • 本丸よりも高所にある山王丸から、一旦谷筋へ下り、さらに山道を登った所に大嶽城(元々の主郭?)があり、小谷城の支城の一つとして機能していたらしく、現在は、信長による小谷城攻めの際、援軍の朝倉軍が駐留した際に築かれたと考えられるらしい
    • 大嶽城から見ると南に二本尾根が分かれており、うち東側の一本が小谷城の主郭部に続く尾根で、西側のもう一本の尾根筋にも小規模ながら城郭の遺構が残されているらしく、これらは大嶽城と同じく、信長の小谷城攻めの際、援軍・朝倉軍が築いたものと考えられ、福寿丸・山崎丸と言うらしい(福寿丸や山崎丸の遺構は浅井・朝倉両氏滅亡後に、羽柴秀吉によって築かれたものとする説もあるらしい)
  • 信長による小谷城攻め
    • また、小谷城の最後ともいえる「小谷城の戦い」(1573年の織田信長と浅井長政の戦国時代の戦い)の発端は、1570年(4月?)、織田信長・朝倉義景の両者と同盟関係を結んでいた「北近江の浅井長政」が、信長による朝倉征伐戦を見過ごせず、織田氏と断交した「金ヶ崎の戦い」と言われる
    • その後、信長徳川家康の連合軍を迎えうった「姉川の戦い(1570年(7月?))」と続き、室町幕府15代将軍足利義昭の呼びかけにより「信長包囲網」が作られかけるが、武田信玄病死や朝倉義景の消極的対応により完遂には及ばず、逆に1573年には、信長は足利義昭を追放(槇島城の戦い)し、小谷城攻めの準備を着々と進め、ようやく(2万の)援軍に来た朝倉氏から大嶽砦などを奪い、刀根坂の戦い・一乗谷城の戦いを通じて、朝倉氏を滅亡に追い込んだ
    • 朝倉氏滅亡直後、小谷城での決戦となり、秀吉(この頃は木下)が、京極丸(本丸(長政が守る)と小丸(久政 が守る)の間にある曲輪)を占拠した事をきっかけに、連携の取れなくなった浅井氏はなすすべなく、落城に追い込まれた
    • この時、長政は正室のお市の方を3人の娘(浅井三姉妹)と共に織田軍に引き渡した

実際に自身の目で拝見していないですし(麓からは拝見しましたが…)、専門的な情報も持ち合わせておりませんので、何とも言えない部分はありますが、最高所が本丸が無い事」が、気なった次第です。「なぜ、本丸を最高所に置かなかったのか?」、それとも「戦国期なので『現在本丸と言われる曲輪は、通常時政務を執り行う場』、『大嶽城は戦闘時の詰城的な役割』を想定した構造を、本来は考えていたのでないか?と…。

更に言ってしまうと、落城時の当主だった長政が本丸(大嶽城・小丸と比べて低所)を守り、隠居の父・久政が小丸(中盤)を守り、援軍の義影に大嶽城(最も高所)を任せた部分も気になってしまいました。「目上の人を高所に…」と言った発想で、「下剋上でのし上がった元々国衆で京極氏の家臣であった浅井氏よりも、(わざわざ援軍出来てくれたと言うもありますが)天皇の血を引くとも言われる高貴な朝倉氏を最も高所に据えた」と言う発想(考え方)もありますが、朝倉氏がいとも簡単に大嶽城を奪われた事から考えるに「あまり乗り気でなかった…、ポーズだけ…、そもそも弱い?」と言った感じに見えてしまい、もしこの最高所である大嶽城を長政が守っていたら、少なくとも今少し違った結果になったのでないかと思ってしまった次第です…。

信長の視点で言い換えれば、「信長包囲網が狭まる中、信玄の病死や義景の消極的対応に助けられ、更にその朝倉氏が大嶽城を担当した事で、朝倉氏を滅亡に追い込む事が出来、更に小谷城を攻める上で、この上ない立地の大嶽城を手に入れた事をきっかけに浅井氏も滅亡に追い込むことが出来、『ピンチの信長に、桶狭間に続き、光明が差し込んだ(運が開けた)舞台が小谷城』ではなかったかと思った次第」です。

(1573年の小谷城攻めの後の信長の主な戦歴抜粋1575年の長篠合戦甲斐武田家に大勝、1576年の第一次木津川口の戦いで敗北、1577年の手取川の戦いで上杉軍に敗北、1578年の第二次木津川口の戦いで毛利軍にリベンジ、1582年には甲斐武田家を滅亡に追い込んだが、数か月後の本能寺の変で最期を迎える)

【小谷城の周囲も含めた見所とルート】

上記、小谷城の概要を抑えさせて頂きましたが、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。「まだ麓までしかお伺いした事がない」と最初に記載しましが、今後の小谷城における大人散策のプランニングの内容になりますので、以下皆様の参考にもなれば幸いです。

■小谷城を大人散策

・小谷城戦国歴史資料館~番所跡

スタート地点は、小谷城戦国歴史資料館を想定します。駐車場もある様ですし、目の前は大手門と言われる事から、正規ルートだと思われるためです。小谷城戦国歴史資料館で、小谷城に関する情報をインプットし、大手門付近を拝見しつつ山道(大手道?)を、出来れば「出丸跡」等の痕跡を拝見しつつ、戦国の世に思いを馳せながら「番所跡」に向かって進みたいと思います。

・番所跡~本丸

「番所跡」の後は、「御茶屋跡」・「馬洗池/御馬屋跡」・「桜馬場跡」・「黒金御門跡」・「赤尾屋敷跡」・「浅井長政公自刃之地」等を巡りつつ、その高低差や地形、更には「山城ならではの眺望」も楽しみつつ、ゆっくりと登っていきたいと思います「大広間跡(千畳敷)」まで来れば、「本丸跡」は目の前のはずですので、本丸で、(何処まで確認できるか不明ですが…)他の曲輪(特に上記で触れた「小丸」・「大嶽城」)との “高さ違い” を実感させて頂きたいと思ってます。

・本丸~山王丸

「本丸」まで来たら、次に目指すのは「山王丸」。本丸のすぐ北東には「城郭全体を二分する」と言われる「大堀切」があり、「中丸跡」・「(浅井氏のかつての主君京極氏が幽閉されていたと言われる)京極丸」・「(小谷合戦の際、長政の父・久政が守って最後は自害したと言われる)小丸」とあって、「大石垣」を備えた「山王丸」がある様です。「主郭と言われるエリアの中で最も高所にあると言われる『山王丸』の位置づけ」を想像しつつ、大人散策を楽しませて頂こうと思います。

・山王丸~大嶽城

「山王丸」の後は、一旦標高を下げつつ進み、大嶽城を目指す感じになるようです。「六坊跡」を過ぎると「月所丸跡」・「岩尾展望所」とあるようですので、城郭の遺構とそこからの景色を堪能できる事を期待しつつ進むと「大嶽城」が出てくるようです。「大嶽城」は、浅井氏の初代亮政が、小谷城を築城した場所とも、朝倉義景が陣を置いた場所とも言われるエリアで、上記の通り個人的には「小谷城の戦闘時の詰城の機能を想定した場所」とも思っている、小谷山の頂上。その歴史に思いを馳せつつ、山頂での達成感を味わいたいと思います。

・選択肢①:尾根ルート(大嶽城~小谷城戦国歴史資料館)

「大嶽城」まで来たら、後はスタート地点の「小谷城戦国歴史資料館」に戻るのみなのですが、どうやらルートは2つあるようです。心情的には2つのルートを両方行きたいですが、体力的にも、時間的にも厳しいと思うので、1つを選択する必要がありそうです。その一つの選択肢が、尾根ルート「大嶽城」から南西方面に伸びる「尾根伝いに進むルート」がある様です。信長の小谷城攻めの際、朝倉氏が整備したとも、戦後秀吉が整備したとも言われる「福寿丸跡」・「山崎丸跡」があり、「清水神社」を経由して「小谷城戦国歴史資料館」に戻るルートがその一つになる様です。

・選択肢②:清水谷ルート(大嶽城~小谷城戦国歴史資料館)

そしてもう一つの選択肢が「清水谷ルート」「大嶽城」から来た道を「六坊跡」付近まで戻ると「谷に通じるルート」がある様です。信長の小谷城攻めの際に、秀吉軍が攻め上ったルートを含む様で、「三田村屋敷跡」・「八畳岩/蛙岩」・「水の手跡」・「御屋敷跡」・「山城屋敷跡」・「木村屋敷跡」・「遠藤屋敷跡」等がある様です。現時点では、「秀吉が攻め上ったルートで、小谷城攻めの歴史に思いを馳せてみたい…」と思っていますが、「当日大嶽城を出る際の『神の思し召し』」でどちらのルートにするか決めようと思っています…。

■小谷城周囲の大人散策(観光)の切り口

上記、小谷城における大人散策情報を記載しましたが、周辺の大人観光スポットも併せて紹介します。最初にも記載しましたが、以下は「かつて、小谷城での大人散策が出来なかった際にお邪魔したスポット」になります。それぞれ別記事で紹介しておりますので、詳細を併せてご参照頂けますと幸いです。

長浜城

観光天守ですが、天守があります。秀吉が初めて城持ち大名になった地であり、高知城で有名ですが、山内一豊にも縁のある地。天守閣からの琵琶湖の眺望と併せて、この地域の歴史、秀吉一豊の歴史に思いを馳せるべきスポットだと思って折ります。

長浜の街

日本三大山車祭りの1つ・長浜曳山祭でも有名な長浜。北国街道沿いの雰囲気ある街並みは歩いているだけで楽しいものです。出来る事なら、長浜曳山祭に合わせ、魅力的な山車と子供歌舞伎を拝見しつつ、長浜の街並みとその歴史に思いを馳せたいと思いますが、長浜曳山祭は「喧嘩がおこる事を前提にして定められたルールのある裸参り」といった側面もある様なので、長浜曳山祭に合わせて訪問する際は、巻きこまれない様に注意したいと思います…。

竹生島へのクルージングで参拝

長浜の市街地と長浜城の徒歩圏内に、竹生島に渡る事が出来るフェリーが出ています。琵琶湖のクルージングで、竹生島まで行き、竹生島で「竹生島神社」・「宝厳寺」にお参りし、宝厳寺の唐門(国宝で、現存する唯一の豊臣大坂城の遺構でと言われているらしい)の見学と併せて楽しむべきだと思います。

【最後に】

以上が、織田信長の戦歴におけるターニングポイントになった思われる戦いの舞台で、浅井3代の居城である『小谷城』の概要と大人散策情報を共有」させて頂いた内容になります

小谷城の大人散策は、恐らく4-5時間は見ておいた方が良いと思うので、前後の移動も踏まえると「1日かかる」と言う前提で、望むべきだと思って折ります。前回は「長浜城長浜の街並み竹生島・小谷城」と全て1日で回ろうとして失敗したので、次回を余裕をもって、「長浜城長浜の街並み竹生島」で1日、「小谷城」で1日、合計2日を想定して、実行したいと思います。「長浜城長浜の街並み竹生島」に関しては、経験済み情報として記載しましたが、「小谷城」に関しては、大人散策を実行できた暁には、本ブログで、改めて報告申し上げようと思います!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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