五街道

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【はじめに】

こちらのページでは、江戸時代に整備されたと言われる「五街道」に付き、考えてみようと思いますもう少し記載しますと「『ちょっと深堀した質問を受けても、回答できる五街道(東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道)の基礎知識』という事で、それぞれの街道に付きその概要と(個人的なチョイスではありますが)雑学的な情報を共有」させて頂きます。

皆さん…、五街道は、ご存じだと思いますが…。東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道の5つの街道の事ですよね。江戸時代に、江戸を中心に整備された道で、基本日本橋を起点に、(重複する区間もありますが)日本各地に伸びる「幹線道路」ですよね。

その五街道の名称は、東海道中山道は別として、現在でもそれぞれ市民権を得ている「○○街道」ですが、整備された当初「甲州街道日光街道奥州街道」は、「甲州海道、日光海道、奥州海道」と呼ばれていた事もあった様です。しかし、「甲州や下野には海がないのに「海道」はおかしい」と新井白石が幕府に意見した事により、幕府は正式名称を「道中」とした様ですが、現在では、この「道中」と言う言葉よりも「街道」と言う言葉の方が、理由はわからないけど、市民権を得ていると思います。「最初は『海道』だったのか?」・「なぜ、現在市民権を得ているのは『道中』でなく『街道』なのか?」と言う疑問に関しては、別記事の「街道と海道」の記事で、(勝手な妄想の元)触れさせていただいておりますが、日々の生活でも(特に関東圏にお住まいの方であれば)よく耳にするこれらの街道、すなわち五街道「東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道」に付き、皆様はどの程度説明する(語る)事が出来ますでしょうか?

正直私の場合、『本ブログでそれぞれ「東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道」に付き記載させて頂くにあたり、少し調べたので、その時以降、ちょっとだけ語れるようになった…』という感じです(それでもまだまだでしょうが…)。しかし「なぜ調べてみたか?」というと、理由は日光二社一寺(二荒山神社・日光東照宮・輪王寺)の記事同様、「海外の知人に、中山道に付き少し深堀した質問を受けた際、回答する事が出来なかったから…」です。昨今では、中山道馬籠宿妻籠宿奈良井宿等、日本人よりも海外からの観光客の方が多いとも言われるスポットもあり、もしかしたら「知識量も日本人よりも海外の方の方が豊富なのでないか…」と思われる状況を感じ、「これでは日本人として恥ずかしい…」と思い、五街道の「東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道」を調査させて頂いた次第です…。

こちらのページでは、その過程で調べた情報をもとに、『ちょっと深堀した質問を受けても、回答できる五街道(東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道)の基礎知識』という事で、それぞれの街道に付きその概要と(個人的なチョイスではありますが)雑学的な情報を共有させて頂きます。

【「五街道」とは?】

そもそもですが、「五街道とは?」を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります。

(略) 
■ 東海道(東海道五十三次)
1624年(寛永元年)完成江戸・日本橋から小田原、駿府、浜松、宮、桑名、草津を経て、京都・三条大橋までの五十三次(約500 km)。江戸幕府のある江戸から帝の座す京都までの始点から終点までの五十五地点を結ぶ道。延長部にあたる京街道 (大坂街道)の4宿も加えて、五十七次ともいう
■ 日光街道(日光道中)
1636年(寛永13年)頃完成日本橋から、千住、宇都宮、今市を経て、日光までの二十一次
■ 奥州街道(奥州道中)
1646年(正保3年)完成日本橋から宇都宮まで日光街道(重複区間)を経て、宇都宮より陸奥・白河までの二十七次。日本橋から宇都宮までの17宿は日光街道と重複する。函館に至る延長部あり。
■ 中山道(中山道六十九次)
1694年(元禄7年)完成。 中仙道とも表記する。江戸幕府のある日本橋から高崎、下諏訪、木曽路の妻籠を経て、草津までの六十七次。草津、大津の2宿を加えて帝の座す京都までの六十九次ともいう
■ 甲州街道(甲州道中)
1772年(明和9年)完成日本橋から、内藤新宿、八王子、甲府を経て、下諏訪で中山道に合流する四十三次 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/東海道

「五街道」としては、「長男:東海道、次男:日光街道、三男:奥州街道、四男:中山道甲州街道、末っ子:甲州街道」といった感じの様です。また、Wikipediaの同じページ内にあった一覧表(引用内のピクチャ)を拝見した際、東海道は、京都ではなく大阪を終点にしている事(中山道も草津終点になっているので、以降東海道と道を同じにすることを考えると、終点は京都でなく大阪?)、②日光街道奥州街道は、江戸~宇都宮まで道を同じにする為、また、東北を貫く奥州街道は加味されていない様な為、宇都宮~白河間の84㎞と短い事③合宿で45宿32次のはずの甲州街道が22宿しかカウントされていない事、が少々気になってしまいました…。しかし、細かな事は気にせず「こういった括り・考え方もあるんだ…」、「道そのものは、新規に加えた道もあれば、古代から続いている道もあり、長い歴史とともに歩んできたんだろうから『正式にどこから何処までか?』・『明確な完成した年度はいつか?』に関しては、ザックリとらえるようにして、あまり気にしなくてもよいかな…と思ってしまった次第です。

【それぞれの五街道】

上記、五街道全体の概要を抑えさせて頂きましたので、以下それぞの五街道・東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道の個人的な切り口による、個人的な考察も加えて記載いたします。別記事でより詳細も記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

東海道

東海道の語源は、五畿七道から来ていると言われておりこの名称は、街道の名称の中でも一番古く、長年親しまれてきた名称と言って良いと思います。また、現在でもかなりの区間で「国道1号」となっている東海道は、五街道の代表と言って良い道だと思っていますが、戦国期前までは、東海道ではなく中山道(当時は東山道)が、畿内から東国へ行く際の主要ルートとも言われていたそうです。

”大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、揖斐川・長良川・木曽川・大井川・安倍川・富士川・多摩川・利根川(当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された10世紀以降のことと考えられている

https://ja.wikipedia.org/wiki/東海道

では何故、東海道が、五街道の代表的な道になったのでしょうか? それは、個人的推察ですが、家康誕生の地である岡崎や領土拡大を狙って出てきた浜松家康が育ち、晩年を送った駿河(静岡)等の「徳川家のゆかりの地を通る道」という事が大きな理由ではないかと思っています。

同時に、東海道より代表の地位を奪われた中山道は、関ヶ原の直前、第2次の上田合戦で、(真意の程はいくつか見方はある様ですが)「秀忠軍、上田城の真田討伐失敗し関ヶ原に遅参!」と言われてしまった原因の地・小諸上田近辺を通る「因縁の道」になります(小諸城址には「第2次上田合戦の痕跡」を見る事が出来ます)。また、その因縁の相手、真田氏には、(真田丸で有名な)大阪の陣でも「あわや!」の所まで追い込まれておりますので、「2度と行きたくない方面」であると想像してしまう次第です。

それだけの理由ではないかもしれませんが、五街道を設定した徳川としては、その代表が「因縁の地」を通る「中山道」よりも、「家康ゆかりの地」を通る「東海道」の方を「五街道の代表」にしたいのは、当然の結果と思えた次第で、『海沿いの道で、陸路だけではなく、海も渡る道である東海道は、「徳川ゆかりの地を通る海の道」』と理解した次第です。

中山道

本ブログの別記事「街道の楽しみ方:五街道の中で中山道だけが持つ、名前(由来)の違和感と個人的仮説」でも記載いたしましたが、上記東海道は、五畿七道から続く昔からの名前で、東海道と言う名は、腑に落ちます。また、甲州街道日光街道奥州街道もそれぞれ街道の方面を理解できる地方の名前が入っているので、これも腑に落ちますしかし、中山道は?日本列島の真ん中の山道」と言う事なのでしょうか? 今いち「腑に落ちない道が『中山道」でした。そんな「中山道」、並びにその前身(すべてではありませんが…)の「東山道」をWikipediaで調べてみますと、以下の様にあります。

中山道(なかせんどう)は、江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。 (略) 南回り・太平洋沿岸経由の東海道に対して、中山道は北回り・内陸経由で江戸と京都を結ぶ。草津追分以西は東海道と道を共にする。江戸から草津までは129里10町余(約507.7 km)あり、67箇所の宿場が置かれた。また、江戸から京都までは135里34町余(約526.3 km)である。現在の都府県では、東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県・京都府に該当する地域を通過する” (略)

”律令時代に東山道は畿内から東日本の各重要地が位置する内陸部を経由し、加えて効率良く陸奥国へ至る幹線路として整備された。 (略) 江戸時代に入り、江戸幕府は、1601年(慶長6年)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備した。それまでの東山道の街道を改良したものが多かったが、大井宿(岐阜県恵那市) – 御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)間や、加納宿(岐阜県岐阜市) – 赤坂宿(岐阜県大垣市)間など、新しく作られた街道筋もあった (略) 戦国時代迄は山道や東山道とも称された。江戸時代には中山道や中仙道とも表記されたが、1716年(享保元年)に、新井白石の意見を入れた江戸幕府の通達により中山道に統一された (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/中山道

”江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光例幣使街道・奥州街道などに再編された”

https://ja.wikipedia.org/wiki/東山道

つまり、中山道の前身は、東海道と同様、五畿七道の道をベースにした「東山道(この場合は、行政区画でなく道の意味)と言う事で、この道の群馬県高崎市の倉賀野宿で、日光例幣使街道と別れ、江戸を目指した道(倉賀野から先の日光・東北方面は、日光例幣使街道奥州街道に再編)と言う事の様でまた名称に関しては、新井白石の意見により、中山道になったと言う事の様です

しかし新井白石は、なぜ中山道としたのでしょうか? 中山道の生い立ちも、道を整備した背景、タイミングも、東海道と同じなのであれば、東海道同様、そのまま、東山道の名称を使えばよかったのに、なぜ「東」を「中」に変えたのでしょうか? 残念ながら、「東」を「中」に変えた、私の腑に落ちる理由は見つかりませんでしたが、思ったことはあります。それは、東海道は、基本大きな変更はないので、そのまま東海道でOKだが、東山道は、中山道日光例幣使街道奥州街道に再編したので、そのまま東山道を使う事が出来なかった。しかし「山道」 は残しつつ、「日本の真ん中」を通る道だし、東海道で使われている「東」の代わりに(紛らわしさを避け)、「中」の文字を使い「中山道」としたと意外と単純な理由だったんじゃないかと言う、(かなり安直ですが…)仮説を思いついてしまった次第です…。皆様はどの様に思われましたでしょうか?

同時に中山道は、東海道=海の道」に対し「中山道=山の道」とも言われますし、その「山の道」の代表区間の木曽路が広義の意味で中山道全体をさすとも言われ、狭義の意味での木曽路を代表する「馬籠宿妻籠宿奈良井宿」といった現在でも歴史を感じることが出来るスポットもあります。更に、別記事で、中山道と東山道のルートが「中津川~塩尻(≒諏訪)間」で大きく違う理由につき考察(妄想?)を加えている通り、『歴史的に見て「なぜ?」がいっぱい感じられる道』でもあるとも思います。つまり、歴史を感じ、その歴史に思いを馳せる事が出来る道が、中山道だとも思っている次第です

甲州街道

山梨県北杜市出身の私にとって、20号線(≒甲州街道)は、中央自動車道・中央本線とともに、故郷に帰るメインストリートです新宿勤務も長く、そこを通る甲州街道には、かなり親しんで来たつもりの道ですが、別記事で記載した「甲州街道」の記事を書くべく調べるまで、存じ上げない事も多くあった次第です。そんな甲州街道ですが、Wikipediaには、以下の様にあります。

近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという(その為、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねられている) (略) 八王子は徳川家康が武田氏の遺臣を召抱えて組織した八王子千人同心の本拠であった (略) ”

https://ja.wikipedia.org/wiki/甲州街道

甲州街道は、江戸城からの脱出経路との事。確かに、江戸城の裏側、半蔵門甲州街道は、直結しています。この門は、堀で区切られることなく、地続きで、一般道とお城が直結しているので、すごく不思議な感じが以前からしていました。脱出用なので、最後まで守り切る必要があるのであれば、納得です。また、その先の甲州街道を歩いてみると、確かに尾根道(甲州街道の両側が低い事、認識できます)で、この甲州街道さえ守れば、戦いや警備も有利に進められそうとも思っていました。更に、その先の新宿・大久保辺には、鉄砲の百人隊が置かれ、八王子には、甲斐武田家の旧家臣団を家康が召し抱えて組織した ”八王子千人同心” なる組織もあったとの事。こういった事から考えると、確かに脱出経路だったのかもしれないと思ってしまいまった次第です。

戊辰戦争時、新選組の後継ともいえる甲陽鎮部隊の近藤勇・土方歳三が、甲府の地を抑えるべく進軍した甲州街道でもありますので(同じタイミングで、諏訪からは、板垣退助が進軍していますし)、甲州街道の位置づけ・地形的特徴・歴史上の出来事を踏まえつつ、いくつかのスポットを巡り、中山道と合流するポイントにある諏訪大社(下社・秋宮)を目指す旅を企画しても面白いのでないかと改めて思った次第です(山梨・長野の県境(八ヶ岳の麓)付近には縄文時代の遺跡もありますし!)。

日光街道

皆様は、日光街道と聞くと「どの日光街道」を思い浮かべますでしょうか? 「えっ?」、「1つじゃないの?」って感じかもしれませんが、「五街道の日光街道」とは別に、「日光を目指す『日光』の冠を持つ道」がいくつかある認識です。「五街道の日光街道」を含め、いくつかWikipediaよりPickUpさせて頂くと以下の感じです。

日光街道(五街道の1つ)

日光街道(にっこう かいどう)は、日本の江戸時代に設けられていた五街道の一つ。江戸日本橋(武蔵国豊島郡日本橋、現在の東京都中央区日本橋)を起点とし、日光坊中(下野国都賀郡日光東照宮、現在の栃木県日光市山内)に至る街道。(略) 日光街道は江戸時代に徳川幕府(江戸幕府)の政策として整備された五街道のひとつで、1636年(寛永13年)江戸 – 下野国日光間に開通した。江戸から徳川家康を祀る日光山に至る主要道路として東海道に次いで整備された。もともと日本橋から宇都宮城(宇都宮宿)までの区間には古道奥州道が通り、その北部区間の宇都宮城下から鉢石宿間にも古道日光街道が通っていたが、宇都宮 – 日光間にはその東側に新たにこれと並行する道が設置された (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/日光街道

日光御成道

日光御成道(にっこうおなりみち)とは、江戸時代に五街道と同様整備された脇往還の一つである。中山道の本郷追分を起点として北上し岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の上高野で日光街道に合流する脇街道である (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/日光御成道

日光例幣使街道

日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。(略) 倉賀野宿を起点とし、中山道と分岐、柴宿、太田宿、栃木宿を経て、楡木(にれぎ)宿で壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/日光例幣使街道

日光脇往還

日光脇往還(にっこうわきおうかん)は、江戸時代に八王子から日光まで、また鴻巣の追分まで、中山道と街道を同じくし、ここで分岐し袋村(埼玉県鴻巣市)・行田・上新郷(埼玉県羽生市)・利根川を川俣の渡しで越え、館林・佐野・栃木・今市と経て日光街道に合流する、1652年(承応元年)に往還に定められた街道である。またの名は「日光裏街道」 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/日光脇往還

上記、すべてではありませんが、五街道の日光街道に加え「『日光』を冠に持つ道」・日光御成道、日光例幣使街道、 日光脇往還等がいくつもあり、日光脇往還沿いの様に「日光街道」の石碑まで作られているケースがある様です。この状況、皆様はどの様に思われますでしょうか? 中には、「日光街道の名称を、五街道ではない道が使うなんてけしからん!」とちょっとご立腹される方もいらっしゃるかもしれませんし、「正式には日光街道とは言わない…」と冷静に分析される方もいらっしゃると思いますが、個人的には「まっ、いいじゃないの…」と思ってしまった次第です。

理由は「すべての『日光の冠が付く道』は、『日光』・『日光東照宮』を目指す、目的を同じにした道」だからです。私自身、川越に居を構えた30年以上昔、何気なく日光脇往還沿いを散策している際「日光街道の石碑」を見つけ、(まだ土地勘もなかった事もあり)「えっ、この道って、位置関係ちょっと違う気がするけど、五街道の1つ・日光街道なの?」と思った事があります。皆様の中にも、五街道の日光街道とは違う道を通っている際、同じような経験をした事がある方もいらっしゃるかもしれませんが、「騙された!」と思わず、家康公に対する『敬意を表した道』が、『日光の冠を持った道』」の理解のもと、その道の意味やルート、遺構を探しつつ、大人散策してみてもよいのでないかと思った次第です。

奥州街道

皆様は、奥州街道」というワードを聞くと、どんな街道を連想されますでしょうか? 個人的な理解も入りますが、本ブログ別記事の「奥州街道」のページから抜粋いたしますと、以下の様になります(引用も含め、奥州街道の詳細ページでは記載していますので、併せてご参照ください)。

  • 奥州街道の意味(≒目的/活用)
    • 律令国家時代に、道としての東山道が、「東北地方を収める拠点の多賀城」と「京都」を結ぶ目的をメインに通され、鎌倉時代には、鎌倉政権が平泉を抑える為に活用し、江戸期になると参勤交代・蝦夷地(北海道)開拓 / 防衛と様々な目的に利用されてきた様だが、一貫して言える事は東北・北海道地方を日本の管轄とすべく活用された道」という事になる理解で、統治・制圧・侵攻・発展といった様々な日本の歴史を、いい意味でも、悪い意味でも支えてきた道が「奥州街道」と理解
  • 奥州街道の区間
    • 「律令国家時代に通された道」としての東山道における宇都宮以北が、奥州街道の最初の原型になる様に思われるが、鎌倉期には鎌倉街道中道もつながり、江戸期初めの日光街道の整備で宇都宮以南も踏襲されたかと思えば、江戸期中盤以降から明治にかけては、奥州街道名称や括りの問題はさておき、北海道の函館札幌まで(海上も含め)つながった道と思われ、定義的には「江戸(日本橋 or 江戸城大手門)~厩石(陸奥国)」or「宇都宮~厩石(陸奥国) & 江戸~宇都宮は日光街道 or 共通」or「宇都宮~白河 & 江戸~宇都宮は日光街道 or 共通」or「白沢~白河」等々、様々な範囲(区間)の理解があるが、宇都宮から以北の東北の主要地を結んでいた(いる)道である事は事実」と言って良い認識で、本来の道の役割を考えれば、奥州街道の区間をあえて決める必要はなさそう

つまり、「私なりの奥州街道に関する勝手な理解」は『奥州街道は、時には侵攻や制圧を目的とし、時には日本と言う国の発展を支え、時代とともに大きな目的 / 役割を変えつつも「東北・北海道地方が、日本である事」を、良い意味でも、悪い意味でも支えてきた、中央と東北・北海道エリアを結ぶ、歴史ある主要幹線路』といった理解をさせて頂いた次第です(かなり大雑把ですが…)。

【最後に】

以上が、「『ちょっと深堀した質問を受けても、回答できる五街道(東海道中山道甲州街道日光街道奥州街道)の基礎知識』という事で、それぞれの街道に付きその概要と(個人的なチョイスではありますが)雑学的な情報を共有」させて頂いた内容になります。改めて簡単にまとめますと、以下の感じになります。

かなり個人的な思考が入っていますので、首をかしげる方もいらっしゃるかもしれませんし、語りつくすことはできないかもしれませんが、「五街道を語ってみて!」とリクエストされた際、5分くらいは話ができるのでないかと思います…。同時に、「五街道それぞれに、それぞれの歴史があり、自身の視点で深堀する事で、一歩踏み込んでそれぞれの街道を知ることが出来る」と思た次第です。皆様も、皆様の視点で、それぞれの五街道に考察を加えてみてはいかがでしょうか?

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