松代城址(海津城祉)

【基本情報:松代と聞いて何を連想されますか?】

こちらのページでは、武田信玄が山本勘助に命じて築城させ、後に真田家の拠点となった『松代城=海津城』を中心に、松代城の概要を抑えた上で松代の大人散策スポットと併せて紹介致します。

武田信玄」・「山本勘助」・「真田氏」・「松代城」に「海津城」と言ったワードが並んでしまいましたので、(本ブログの読者である皆様には必要ないとは思いますが、念の為)それぞれのつながりを簡単に記載しますと以下の様になります。

武田信玄」は、現在の山梨(=甲斐)を拠点にした戦国武将で、その軍師と言われ、高遠城等多くの築城に携わった「山本勘助が、信玄の命の元、上杉謙信との戦の地である川中島に築城したお城が「海津城」で、関ヶ原の戦いを経て、西軍(石田三成方)に組した真田昌幸・信繁(=幸村)は、高野山にほど近い九度山に流されるも、東軍(徳川家康方)に組した真田信之(昌幸の嫡男)は、上田の地を Keep 出来たが、その後松代に移動となり「海津城」から「松代城」に名称変更になった

と言った感じです。言い換ええますと、 真田と言えば「上田市」を連想れる方が多いと思いますが、江戸時代、最も長い真田氏の拠点は実は『松代』」で、真田氏に関連する見所は沢山あります(別ブログで上田城も記載しておりますが…)。と言うより、現在残る真田氏に関連する宝物」は、松代の方が多いと認識している次第です。

少々前置きしましたが、いつも通り、お城に関する Topic の際の連想ゲームから始めさせて頂きます。皆さんは、松代城と言うと何を連想れるでしょうか? 上記にかぶりますが、私の場合は、以下の感じです。

  1. 今(江戸期以降)の名前は「松代城」だが、築城当時は「海津城」と呼ばれていた 
  2. 川中島合戦時、武田信玄」が「山本勘助に命じて築城させたお城 
  3. 第4次の川中島合戦時には、上杉謙信が妻女山」に武田信玄が海津城」に布陣したと言われる
  4. その際の有名なエピソードである「信玄と謙信」の直接対決を模した銅像が、近くの八幡原史跡公園にある 
  5. 江戸期の殆どは、あの真田氏がおさめた地 (真田家発祥の地=上田江戸期の真田氏の拠点=松代) 
  6. 上記の為「真田宝物館は『松代』」にある (真田ファンは『松代』にも行くべし!) 
  7. 日本100名城に選出されている
  8. 幕末の天才兵学者・佐久間象山は、松代藩士

と、こんな感じでしょうか…。

武田上杉真田と歴史好きには、たまらない名前が並び、思いにふけってしまいますが、今回は、松代城とその周辺に焦点を絞って、記載したいと思います。すなわち、武田信玄が山本勘助に命じて築城させ、後に真田家の拠点となった『松代城=海津城』を中心に、松代城の概要を抑えた上で松代の大人散策スポットと併せて紹介致します。

【松代城=海津城の基本情報】

まずは、「松代城=海津城」の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です… まとめも結構長いので…)。

松代城(まつしろじょう)は、信濃国埴科郡海津(現・長野県長野市松代町松代)にあった日本の城元々は「海津城」(かいづじょう)とよく呼ばれていたが、「貝津城」とも言われた。また「茅津城」(かやつじょう)とも言われ、茅の生い茂った地であったと伝える説もある。城の形式は輪郭式平城。国の史跡に指定されている (略)

歴史・沿革
戦国時代・安土桃山時代
海津城の正確な築城時期は不明である。戦国期、甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、着実に領土を併合して北へ目指していく途中、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)と北信・川中島地域で軍事衝突した。の武田晴信と長尾景虎の最初の対決、にらみ合いは、その後の北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展した。この時、千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備された。『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、武田家足軽大将の山本勘助に命じて築城され、『軍鑑』に拠れば本城には小山田虎満(備中守)、二曲輪に市川等長・原与惣左衛門が配置されたという (略)
天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後には、武田遺領のうち信濃川中島四郡を支配した織田氏家臣の森長可の居城となる (略)
天正10年(1582年)6月に本能寺の変が起こると森長可は信濃を放棄して退却する事を決断 (略) 1598年(慶長3年)に上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、海津城の城主には田丸直昌が任じられた。
海津城は甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す (略)

・江戸時代
1600年(慶長5年)2月に田丸直昌4万石と領地を交換する形で森忠政が13万7500石で兄の森長可所縁の土地へ入封し (略) 1603年(慶長8年)森忠政は美作一国(津山藩)18万6500石へと加増転封され、松平忠輝が14万石(12万石?)で入封した (略) 1616年(元和2年)松平忠輝改易。代わって松平忠昌が12万石で入り、この忠昌領主時代に (略) 「松城」へと改名された。1619年(元和5年)松平忠昌、越後高田25万9000石へ転封。酒井忠勝10万石が入封。1622年(元和8年)酒井忠勝、出羽国庄内藩13万8千石に転封。真田信之が13万石で入城。以後、松城は松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となった。松代城は松代藩の政治の中心となったが、商人たちは善光寺門前から動こうとしなかったため松代城下は商業の中心地にはならなかった。1711年(正徳元年)幕命により松代城と名を改められた (略) 1864年(元治元年)城外御殿として新御殿(真田邸)が建てられた。

・近世以後
1872年(明治5年)、松代城は廃城となり、跡地は藩士に払い下げられ畑に変えられた (略)
1879年(明治12年)、旧花の丸の一部に「松代城花之丸旧跡」という石碑が建てられた。1904年(明治37年)藩士に分け与えられていた土地を真田幸正が買い取り、本丸跡地を遊園地として開放した (略)
1981年(昭和56年)本丸を中心とした城址の一部と新御殿が国の史跡に指定された。2004年(平成16年)太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元された。2006年(平成18年)4月6日に日本100名城(26番)に選定された (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/松代城

簡単にサマリを記載しますと、

松代城は、元々は「海津城」とよく呼ばれていた、国の史跡・日本100名城に指定されている輪郭式の平城で、長尾景虎(=上杉謙信)と、北信・川中島地域をめぐる緊張関係の中、武田信玄がこの地域の拠点城郭として足軽大将の山本勘助に命じて築城させた事に始まる「甲州流築城術の特徴を強く持ち、甲斐武田氏築城の代表的な城の一つ」とされるお城
甲斐武田家滅亡後は、織田氏家臣・森長可、豊臣氏家臣・田丸氏、江戸期に入って、森忠政、松平忠輝、松平忠昌(この時代に「松城」へと改名)、酒井忠勝と城主が入れ替わるが、1622年に真田信之が上田より入城し、以後「松城は松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城」となった歴史を持つ(「松代城」と名を改められたのは「1711年」で、真田統治の時代と認識)

と理解させて頂いた次第です。

関ヶ原の戦いで、西軍(石田三成方)に組した真田昌幸・信繁(=幸村)は、高野山にほど近い九度山に流され、上田城その物はかなり破却され、真田信繁(=幸村)は「大阪の陣で戦死」してしまいますが、東軍(徳川家康方)に組した真田信之(昌幸嫡男)は上田に入り20年程の後、松代に移動。真田氏は、その松代で江戸時代を生き抜き、現在その痕跡は「松代城址」として残っているという事になります。幕末にも、しっかりその名前は出てきており、その代表格が「佐久間象山」と認識している次第で、武田信玄上杉謙信川中島合戦から続く歴史を、真田氏が江戸期が終わるまで受け継いだ地が『松代(城)』」と認識でき、日本史・歴史ファンとしては、たまらない地だと、勝手に思ってしまう次第です。

【真田家のお宝は「松代」にあり! 見所もあります!】

上記、松代城のその地域と歴史も含め、概要を抑えさせて頂きました。上記の通り、真田家は、親子兄弟が関ヶ原を分かれて戦う事で生き残り、江戸時代の大部分を通じて真田家は『上田ではなく松代』」にありましたので、真田家に関連する真田家ゆかりのお宝は『松代』」にあり、「真田家の宝物館」・「真田邸」・「松代藩文武学校」・「象山神社」等の大人観光スポットが、この松代城周辺にはございます

真田邸、文武学校は、由緒ある建物で、真田家らしく(?)、豪華と言えないかもしれませんが、風格のある建物は大人好みのもので、見ていて飽きが来ず、心の落ち着いた時間を過ごす事が出来ると思い、真田家の歴史に思いを馳せてしまうと思います。また目の前の通りも、「城下町の色を残している街並み」であり、「象山神社」までの道は、毎日散策しても飽きないのではないかと思ってしまうくらいです。

そんな中、特に(個人的な)お勧めは「真田家の宝物館」しつこいですが、真田家のお宝は「上田ではなく、ここ『松代』」にあります。戦国から江戸を生き抜いた真田氏(上田城含め)戦国の真田氏に思いを馳せるなら上田でしょうが、真田氏の歴史に思いをはせるなら『松代』」と認識して折ります最終的に真田氏が大名として生き続け地がこの松代な訳ですから、その家のお宝が、松代にあるのは当然の事と言える訳です。

その宝物館の中で、今でも忘れられない展示物は「赤備え」です。繰り返します! 歴史好きなら一度は、「かっこいー!」と思った事があるはずの「赤備え」です。勿論レプリカでしたが、そのカッコよさは、強烈な印象を与えてくれると思っています!

【赤備え】

ちょっと話はそれますが、赤備え”と聞いて、誰を連想されますか? 恐らく一番有名なのは、井伊赤備えだと思います。勇猛果敢な井伊部隊の象徴が「赤備え」というワードに表れていると思います。そしてもう一つ有名な赤備えが、「真田の赤備え大坂の陣で、真田信繁(=幸村)率いる、真田の部隊が、徳川家康本陣を強襲した際に身に着けていたのが「赤備えと言う事も有名な認識です。

この「2つの赤備えが有名だと思いますが、皆さん何か気づきませんか? これらの「赤備え」には、起源があると言われているようです。それは「武田の赤備え」。元々は、「甲斐武田家の家臣・飯富虎昌が始めた」と言われている様です。そしてその後、一族の「山縣昌景が引き継いだ」と言われているようです(この山縣昌景公を先祖に持つのが、山梨の温泉宿・山縣館との事で、別記事で紹介させて頂きました)

武田と言えば『戦国最強の騎馬隊』」ですが、「飯富・山縣は、武田軍の中で武勇に優れた武将であると共に、武田軍の中心として活躍した武将」として知られており、その騎馬隊を「赤備えで編成」し、特に飯富は「甲山の猛虎」とも言われた武将です。武田信玄は「甲斐の虎」と言われていますので、「飯富は『虎の中の猛虎』と言う認識をしてよい武将」と理解すべきだと個人的に思っている次第です

そんな武将を起源に持つ赤備えを使う事で、「真田は、その武勇にあやかろうとした」んでしょうし、「井伊は、武田家滅亡の後に井伊の家臣団に加わった旧武田家・家臣団の赤備えに敬意」を表したんだと思います。まっ、簡単に言うと『真田氏井伊氏赤備えカッコいー、強そー」と思った』と言う事だと思います…。その赤備え、(勿論レプリカでしたが)宝物館で、拝見」させて頂く事が出来ました! 画像ちょっとぶれてますが、実際に見て頂くとわかって頂けると思います。本当に「赤備え、カッコいー」と言う感じで、いい大人が一人で興奮してしまった次第ですので…。

松代城の様子⑤

【最後に】

以上が、武田信玄が山本勘助に命じて築城させ、後に真田家の拠点となった『松代城=海津城』を中心に、松代城の概要を抑えた上で松代の大人散策スポットと併せて紹介申し上げた内容になります。

脱線し触れさせて頂いた赤備えも見れる真田家の宝物館がある「松代」。松代城からもさほど距離なく、「真田家の宝物館」・「真田邸」・「松代藩文武学校」・「象山神社」と言った大人散策スポットも巡る事が出来ます。そしてなんと言っても、真田ファンなら『松代』は必ず訪れるべき場所」だと思いますので、「上田だけでなく松代にも是非」脚を運んでみてください! 

また別記事で、川中島合戦の関する勝手な考察や、善光寺を中心とする周辺の大人観光スポットの紹介上田城に関する大人散策情報別所温泉の大人散策情報等も紹介しております。この上田・松代・長野近辺の皆様の旅の計画にお役立ちできればと思っておりますので、併せてご参照頂ければ幸いです。

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5天守現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!

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