善光寺 善光寺山門の「鳩字の額」

【はじめに】

こちらのページでは、「戦国期に有名武将を渡り歩いた『絶対秘仏・一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)』をご本尊とし、『一生に一度は…』で有名な、無宗派の単立仏教寺院『善光寺』の概要を抑え、その周囲を含めた大人散策情報を共有」させて頂こうと思います。

皆様は、「一生に一度は善光寺参り」なるフレーズを聞いた事はありますでしょうか? 本ブログ別記事で、「牛に引かれて善光寺参り」の逸話で有名な「小諸にある釈尊寺・布引観音」』、『武田信玄上杉謙信が争ったと言われる「川中島合戦」』・『真田氏の江戸期の拠点「松代城」』等を紹介させて頂きましたが、その中でも登場する「善光寺「一生に一度は善光寺参り」のフレーズで有名なだけではなく、その長い歴史は、様々な歴史の舞台に登場する寺院でもあり、ご本尊の絶対秘仏・一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)は、武田信玄織田信長徳川家康豊臣秀吉と言った有名武将を渡り歩き、『一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)』を私利で外部へ持ち出すと祟られるとの噂」まであると同時に、無宗派の単立仏教寺院」として万人の信仰を集めてきた寺院でもある認識です。

善光寺の様子

こちらのページでは、個人的ではありますが、上記印象を持っている「善光寺」に付き記載いたします。すなわち、「戦国期に有名武将を渡り歩いた『絶対秘仏・一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)』をご本尊とし、『一生に一度は…』で有名な、無宗派の単立仏教寺院『善光寺』の概要を抑え、その周囲を含めた大人散策情報を共有」させて頂こうと思います。

【「善光寺」とは?】

まずは「善光寺」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報集させて頂きますと以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてますので、読まなくても大丈夫です… まとめも結構長いので…)。

善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある。無宗派の単立仏教寺院。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務め、実際の護持・運営は天台宗と浄土宗が担っている (略)
本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)で、絶対秘仏である。近年は七年に一度とされている開帳は前立本尊(まえだちほんぞん)で行い、本堂前には触ると御利益(ごりやく)が得られるとされる回向柱(えこうばしら)が建てられる
この善光寺如来は由緒ある仏像として権威の象徴とも見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させ、各地を転々とした。
昔から多くの人々が日本中から善光寺を目指して参詣し、「一生に一度は参れ善光寺」と言われた。長野市の中心市街地は善光寺門前町を含み、長野市ほか北信に広がる長野盆地は「善光寺平」とも呼ばれる。

概要
(略) 特徴として、日本の仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済が挙げられる。そのため、江戸時代には女性の参詣者が非常に多いという特異な現象があった(昔、女性の旅行者はまれだった)。また、善光寺参詣で得られるのは現世利益ではなく、死後の極楽往生だった。身分も男女も善悪も問わず、どんな人でも必ず極楽往生できるという善光寺の特色が、全国から人々をひきつけたと言える
本尊の一光三尊阿弥陀如来像は丈一尺五寸で、三国渡来の絶対秘仏の霊像とされ、本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、「お朝事」と呼ばれる朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が十数秒ほど上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。
数えで7年に1度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される (略)

歴史
善光寺の創建と発展
(略) 善光寺の正確な創建年は不明であるが、日本への仏教公伝直後に遡る伝承がある。本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、仏教が生まれた天竺(インド)の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済経由で聖王(聖明王)から日本に献呈された最古の仏像とされる。廃仏派の物部氏によって難波の堀江に捨てられるが、本田善光(若麻續東人とも言う)に拾われ(一説に和光寺)、南信濃の元善光寺(現在の長野県飯田市)へ、次いで現在地に遷座したと伝えられる。
実際の創建時期について有力な説としては、善光寺は天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡衙隣接寺院、信濃国水内郡は金刺舎人)の一つで、金刺氏が創建に関わったという説である。『伊呂波字類抄』引用の善光寺古縁起に、「皇極元年(642年)若麻績東人、水内郡の宅を改めて草堂となす」とあるように、善光寺は元々「草堂」であったとされる (略)

・頼朝の善光寺参詣と北条家の信仰
(略) 信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして、文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護兼目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ(『吾妻鏡』同年7月28日条)、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した (略)
頼朝が長く暮らしていた関東では善光寺信仰が盛んで、頼朝も妻の北条政子も早くから善光寺信仰を抱いていたらしい (略)

・戦国大名による善光寺如来の争奪
戦国時代の善光寺平は、甲斐国(現在の山梨県)から信濃へ侵攻してきた武田晴信(信玄)と、北信国衆を庇護する越後国(現在の新潟県)の上杉謙信による争いの舞台となり(川中島の戦い)、寺は兵火を被り荒廃したこの後、善光寺如来は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。通説では、上杉氏による戦災からの保護を口実として、武田信玄により善光寺は善光寺別当の栗田氏と共に、寺ごと武田氏居館のある甲斐国甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の山梨県甲府市にある甲斐善光寺であるとする (略)
善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、上記を契機として、甲斐国・信濃国を占領下(影響下)に置いた戦国大名はこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させるようになった。善光寺如来は武田氏が織田信長に滅ぼされると(甲州征伐)、その嫡男・織田信忠によって美濃国岐阜(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とした。自領内の寺院に善光寺如来を遷座させた武田氏や織田氏は没落したこと、とりわけ織田氏が善光寺如来を岐阜へ遷座させた直後に本能寺の変が発生し、信長・信忠父子が自刃に追い込まれたことから、善光寺如来を私利で外部へ持ち出すと祟られるとする噂がまことしやかに囁かれるようになり、徳川家康が甲斐善光寺に善光寺如来を返還したのは、祟りを恐れたためとも言われる(この頃家康は背中の腫れ物で苦しみ、一時重篤になったという) (略)

1597年(慶長2年)には、豊臣秀吉の命令により、甲斐から京都の方広寺大仏殿へと移された。これは文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により損壊した方広寺大仏(京の大仏)に代わる、新たな本尊を方広寺に迎えたいとの秀吉の意向によるものである (略) 
善光寺如来の遷座の翌年の1598年(慶長3年)に、秀吉は病を患い、床に臥せるようになったこれは善光寺如来の祟りであるという噂が民衆の間で流布したため、秀吉の死の前日に信濃へ帰されることが決まり、長年の流転の末、ようやく善光寺如来は信濃へ戻った(善光寺公式HPでは、秀吉の死の間際、善光寺如来が夢枕に立ち信濃へ戻りたいと告げたためとしている)。しかし秀吉はその甲斐なく死去してしまった。同時代人には「秀吉公は、善光寺如来を方広寺大仏殿へ遷座したことによる祟りで落命された」と認識されていた (略)
秀吉が善光寺如来を方広寺へ無理に移座させたことについて、宗教を軽視した彼の傲慢とされることもあるが、秀吉が甲斐国から善光寺如来を持ち出さなければ、今日まで如来は甲斐国に留め置かれていた可能性もあったので、如来が信濃国に返還されたのは、(本来の思惑は別として)結果的には秀吉の功績とも言える。なお秀吉が持ち出し、返還したのは善光寺如来のみで、寺宝(最古とされる源頼朝の木像など)は甲斐善光寺に留め置かれた (略)

・江戸時代と明治以後
江戸時代には参詣者も次第に増加し、他国から信濃に入る道はたいてい「善光寺道」と呼ばれるようになった。伊勢神宮への「お伊勢参り」の帰りに「善光寺参り」を行う場合もあった。長野村など門前町の中心部は寺領であったが、近世末以降には寺領人口8000人、町続き他領分もあわせて約1万人に及んだ (略)
 >お血脈
さらに、この時代には「お血脈」が生まれた仏教を開いた釈迦牟尼仏から発し、阿弥陀如来から良忍により確立された、融通念仏の継承者を表にしたもので、歴代大勧進貫主が連なる系図である。授与された者は最新の弟子として阿弥陀如来と結縁し、極楽往生することができるとされた (略)

明治維新後は寺領も失った。しかし1871年(明治4年)、長野県庁が中野から長野に移され、1893年には鉄道(信越線)が全通して交通の便が良くなり、参詣者も増加するようになった。参詣者数は第二次世界大戦後の1958年(昭和33年)に約300万人、1988年(昭和63年)には570万人と増加。1991年(平成3年)には1000万人を超えた。1997年(平成9年)の御開帳には56日間に516万人もの参詣者があった
このように多くの人が長野市を訪れる御開帳は経済波及効果が大きい (略) 2022年(令和4年)の御開帳は約636万人が参拝し、経済波及効果は1095億円と推計されている (略)

善光寺本堂
善光寺本堂は、近世の建築としては東大寺大仏殿につぐ大建築で、屋根の広さは日本一である。建営費は約2万5000両で、そのすべては回国出開帳でまかなった。1953年、国宝に指定された。
現在の本堂は宝永4年(1707年)竣工 (略)

重要文化財
・三門(山門)
・経蔵
・金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)
・絹本著色阿弥陀聖衆来迎図 1幅(大本願)
・善光寺造営図(大勧進所有)8幅。享禄4年(1531年)4月
・紙本墨書源氏物語事書(大勧進)
・銅造釈迦涅槃像(世尊院釈迦堂)
登録有形文化財
・鐘楼:嘉永6年(1853年)建、1926年(大正15年)改修
・仁王門:1918年(大正7年)建、1977年(昭和52年)改修 (略)

御開帳
開帳には、寺がある場所で開催する「居開帳の他に、大都市に出向いて開催する「出開帳があり、善光寺の御開帳の歴史はこの出開帳から始まっている。その基礎となったのは鎌倉時代に始まった、善光寺聖たちの分神仏による開帳である。出開帳には、江戸、京、大坂で開催する「三都開帳」や諸国を回る「回国開帳」があった。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた。
善光寺の出開帳は、1692年(元禄5年)に江戸深川の回向院で行ったのが初回である。これより1820年(文政3年)まで江戸時代には江戸で6回出開帳が行われた。出開帳では善光寺縁起を語る『善光寺如来絵伝』の絵解きが行われ、善光寺信仰が全国に広まるのに寄与した。
居開帳は地元では「御回向」とも呼ばれていた (略) 明治時代以降から2009年(平成21年)まで「御開帳」と呼ばれるものは全て居開帳であったが、2013年(平成25年)には東京の両国回向院にて「出開帳」が開催された (略)
現在の正式名は、善光寺前立本尊御開帳。数え7年目ごとに1度(開帳の年を1年目と数えるため、実際には6年間隔の丑年と未年)、秘仏本尊の御身代りである「前立本尊」が開帳される (略)
回向柱(えこうばしら)は、松代藩が普請支配として建立されて以来の縁により、代々、松代町(藩)大回向柱寄進建立会から寄進される。2003年(平成15年)は赤松が使用され、2009年(平成21年)は小川村産の樹齢270年の杉が使用された。
期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が「善の綱」と呼ばれる五色の紐で結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に直接触れたのと同じ利益(りやく)があり、来世の幸せが約束されるとされる。また、釈迦堂前にも小さい回向柱が立てられ、堂内の釈迦涅槃像の右手と紐で結ばれ、回向柱に触れることにより釈迦如来と結縁し、現世の幸せが約束されるとされる。故に、この二つの回向柱に触れることにより、現世の仏である釈迦如来と来世の仏である阿弥陀如来と結縁し、利益・功徳が得られるといわれる (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/善光寺

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 善光寺は、長野市にある「宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている『無宗派の単立仏教寺院』」で、本尊は日本最古と伝わる「絶対秘仏・一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)」とされ、「七年に一度とされている開帳」は、「前立本尊(まえだちほんぞん)」で行い、本堂前には触ると御利益が得られるとされる「回向柱」が建てられ、江戸期には女人禁制が当たり前の旧来仏教の中にあって「女性にも門戸を開いていた」事から「江戸時代には女性の参詣者が非常に多い」という特異な特徴を持ち、「一生に一度は参れ善光寺」と言われる事で有名な寺院
  • 善光寺の正確な創建年は不明であるが、飛鳥時代の創建とも言われ、「廃仏派の物部氏」によって難波の堀江に捨てられた「一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)」を「本田善光」が拾い上げ、南信濃の元善光寺(現在の長野県飯田市)へ、次いで現在地に遷座したと伝えられるらしく、鎌倉時代には、源頼朝が善光寺の再建を命じ、自らも参詣したと言われるらしい
  • 善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)」は、由緒ある仏像として「権威の象徴」とも見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領に「一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)」を遷座させ、各地を転々とした歴史を持っており、「甲斐の武田信玄」と「越後の上杉謙信」による争いで有名な「川中島の戦い」の頃、「上杉氏による戦災からの保護」を口実として、武田信玄により「寺ごと甲斐国甲府へ移された」事に始まり(この際、甲斐善光寺が建てられた)、織田信長によって甲斐武田家が滅ぼされると(甲州征伐)、その嫡男・織田信忠によって美濃国岐阜(善光寺 (岐阜市))へ移され、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ移り、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とした歴史を持っている
  • 「自領内の寺院に『一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)』を遷座させた武田氏織田氏は没落」し、とりわけ「織田氏『一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)』を岐阜へ遷座させた直後に本能寺の変が発生した」ことから、「『一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)』を私利で外部へ持ち出すと祟られるとの噂」がまことしやかに囁かれるようになり、徳川家康甲斐善光寺『一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)を返還したのは、祟りを恐れたためとも言われ、1597年には「前年に起きた慶長伏見地震により損壊した方広寺大仏(京の大仏)に代わる、新たな本尊を方広寺に迎えたいとの秀吉の意向(=命令)により、甲斐善光寺から京都・方広寺大仏殿へと『一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)が移されるも、遷座翌年の1598年に、秀吉は病を患い、床に臥せるようになった為、「これは『一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)来の祟りである」との噂が民衆の間で言われるようになった事から、秀吉の死の前日に信濃へ帰されることが決まり、長年の流転の末『一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)は信濃へ戻った歴史がある(しかし秀吉はその甲斐なく死去してしまった為、同時代の人には「秀吉は、『一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)京都・方広寺大仏殿へ遷座したことによる祟りで落命した」と認識されていたらしい)
  • 一方で、「秀吉甲斐善光寺から『一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)を持ち出さなければ、今日まで如来は甲斐善光寺に留め置かれていた可能性もあった」為、如来が信濃国に返還されたのは、結果的には秀吉の功績とも言えると考えられているらしい

善光寺の様子

つまり善光寺は、

長野市にある「宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている『無宗派の単立仏教寺院』」で、本尊は日本最古と伝わる「絶対秘仏・一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)」とされ、江戸期には女人禁制が当たり前の旧来仏教の中にあって「女性にも門戸を開いていた」万人から信仰が厚い寺院で、正確な創建年は不明であるが、飛鳥時代の創建とも言われ、「本田善光」が難波の堀江で「一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)」を拾い上げ、遷座した事に始まり、鎌倉時代には源頼朝が信仰し、戦国期には、本尊の「一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)」は、由緒ある仏像として「権威の象徴」とも見なされ、武田信玄(甲斐善光寺)・織田信長徳川家康豊臣秀吉(京都・方広寺大仏殿)と言った戦国大名を長年流転し、その祟りを恐れられつつ、現在の地(長野市)に戻った歴史を持っており、現在では「七年に一度とされている開帳」が行われ、「一生に一度は参れ善光寺」と言われる有名な寺院。

と理解した次第です。

【善光寺の大人散策をプランニング!】

上記「善光寺」の概要を抑えましたので、こちらでは「善光寺における大人散策情報」を記載させて頂きます。善光寺へのアクセスは、周囲に(特に北側に)広い駐車場がありますので、車でのアクセスでも良いと思いますが、「参道」や「仲見世通り」の散策も魅力的で、南側にある「最寄りの長野駅」からも 2㎞ 程の距離なので、「公共交通機関 & 徒歩」でのアクセスでも良い気がしています。「公共交通機関 & 徒歩」でのアクセスを想定して置けば、「車でのアクセス」も問題無いと思いますので、こちらでは、「公共交通機関 & 徒歩」を前提に、以下記載いたします。併せて最下部に Google My Map で作成した散策マップを記載して折りますので、スマホで自身の位置を確認しつつ大人散策を遂行していただければと思います(ただ、歩きスマホはNGで…)。

・「長野駅」をスタートし「参道」経由で「善光寺」を目指す

「善光寺」は、長野駅の北、2㎞ 程の場所にあり、基本旧北国街道」から続く一本道を北上すれば到着できる認識で、そのまま善光寺の「参道」に入れる認識です。「参道」に入った後、「善光寺大本願」にお参りし、「仁王門(登録有形文化財)」「阿形/吽形の仁王像」を拝見し、その後「仲見世通り」で観光気分を味わいつつ、そして「世尊院(釈迦堂)」へちょっと寄り道しつつ、「旧如来堂跡地蔵尊(延命地蔵尊)」「駒返橋(源頼朝の馬の蹄が挟まったという穴が開いた石が石橋の脇にあります)」・「なで牛(小諸にある釈尊寺・布引観音を紹介したページで触れさせて頂いた:「牛に引かれて善光寺参り」の逸話に関連?)」・「六地蔵」・「濡れ仏 (延命地蔵)」と拝見して進んで行くと、「手水舎」・「山門」が見えてきます。

Wikipediaより

・「山門」くぐり、「本堂」にてご挨拶

「山門」をくぐると、圧倒的なスケールの『国宝「本堂」』が目に飛び込んできます。まずは「大香炉」で、線香を供え煙を体にかけて無病息災を祈願し、いよいよ江戸の中頃に建造された「本堂」に赴きご挨拶させて頂こうと思います。武田信玄織田信長徳川家康豊臣秀吉と言った有名武将を渡り歩いた「一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)」絶対秘仏」なので拝見できませんが、その歴史に思いを馳せつつ、また「本堂」を建造物としてもじっくり拝見させて頂こうと思います。併せて、源義経一行が奥州へ向かう途中、善光寺に立ち寄った際、義経追討を命じた源頼朝への怒りを抱えた弁慶が、本堂の柱に組み付き一気に柱をねじってしまった事から、その後何度も建て替えても、弁慶の恨みのこもったこの柱は、どうしてもねじれてしまうようになったと言われる「弁慶のねじり柱」も拝見し、善光寺の国宝「本堂」』を満喫させて頂こうと思う次第です。

国宝「本堂」を楽しんだ後は「本堂」を『東 ⇒ 北 ⇒ 西 ⇒ 南』と回り込む

国宝「本堂」』を満喫した後は、その「本堂」を、『東 ⇒ 北 ⇒ 西 ⇒ 南』といった感じで回り込んで、ゆったりと大人散策を楽しませて頂こうと思います。国宝「本堂」』の東側にある「鐘楼」をまずは拝見し、「小林一茶句碑」・「真田家関係古塔」・「東庭園」・「松代藩真田家の古塔」・「日本忠霊殿 (善光寺史料館)」・「経蔵(重要文化財)」・「歴代の回向柱」・「聖徳太子碑」とじっくり、じっくり拝見しつつ、日本の歴史に、様々な角度から思いを馳せつつ散策させて頂こうと思います。特に真田ファンとしては、江戸期の真田氏の居城は目と鼻の先である松代城であった事を踏まえ、散策を楽しむと、善光寺における大人散策の度合いがバージョンアップするのでないかと思う次第です。

本堂」を『東 ⇒ 北 ⇒ 西 ⇒ 南』と回り込んだ後は

本堂」を『東 ⇒ 北 ⇒ 西 ⇒ 南』と回り込んだ後は「大勧進 護摩堂」・「仏足跡」・「蓮池」・「萬善堂」・「大勧進 大門」等も併せて拝見させて頂きたいと思います。そして、折角埼玉の川越から長野善光寺まで脚を運ぶのであれば、(別記事でも紹介して折りますが)少しだけその周囲にも視野を広げ、『大好きな「長野県信濃美術館・東山魁夷館」・武田信玄上杉謙信が争ったと言われる「川中島古戦場」・真田氏の江戸期の拠点「松代城」と言ったスポットにも脚を運び、そして更には『「別所温泉」や「上山田温泉」辺りにお宿を取って、「森将軍塚古墳」・「姨捨の棚田」・「荒砥城址」・「上田城」の観光をする』と言ったプランもあれば、『「湯田中温泉」・「渋温泉」辺りにお宿をとって「小布施」・「地獄谷野猿公苑」・「志賀高原」の観光』と言ったプランも可能でないかと思う次第です。つまり、善光寺参拝にあたっては、周囲の観光と温泉も楽しみたい!」と思う次第です。

【最後に】

以上が、「戦国期に有名武将を渡り歩いた『絶対秘仏・一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)』をご本尊とし、『一生に一度は…』で有名な、無宗派の単立仏教寺院『善光寺』の概要を抑え、その周囲を含めた大人散策情報を共有」をさせて頂いた内容になります。

「善光寺」の概要と歴史、そして関連する逸話を含め、(さわりだけですが)周囲の大人散策スポットを含め記載させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか?。その長い歴史と様々な逸話が関連する『善光寺』無宗派の単立仏教寺院として万人に門戸を開いてきた『善光寺』日本人であれば、『一生に一度は善光寺参り』と言うフレーズの意味を実感できるのでないかと思った次第です。自身に置き換えるとと「一生に何度も善光寺参り」といった感じで、もう既に何度も脚を運んでいる善光寺ですが、本記事を記載して「改めてお参りしなけれればいけないかな…」と思ってしまいましたので、また機会を見つけ、周囲の大人散策スポットと共に「長野周辺を巡る旅」に行きたいと思った次第です!

善光寺とその周辺の大人散策スポット

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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