沼田城入口、内部、説明の看板

【はじめに:沼田城から何を連想されますか?】

本日は、群馬県・沼田市にある、沼田城址をご紹介させて頂こうと思いますが、今少し突っ込んで「沼田城の歴史と地形を抑えた上で、最後に『沼田城を攻めるならどう攻めますか?』と言う視点で、少し頭の体操をさせて頂こう」と思います。

とはい言いつつまずは、お城をトピックにさせて頂く際の「いつも通りの連想ゲーム」から入らせて頂きます。皆様は、沼田城と言うと、皆さんは何を連想されますか? 私は、以下の感じです。

  1. 沼田氏が三方を川に囲まれた、台地の上に築いた「堅固なお城」がある 
  2. 堅固ではあるが、戦国時代、城主はかなりの回数変わった 
  3. 小松姫(本多忠勝の娘で、真田信之の奥)の逸話が有名 
  4. その戦国時代、武田上杉北条が激突する最前線 
  5. 北に行けば水上温泉(別記事グにて「龍洞」「旅館たにがわ」を紹介中)、東に行けば、老神温泉(別記事にて紹介中)等、温泉好きな人は通る場所

と、こんな感じでしょうか? 地形的観点・歴史的観点に加え、温泉まで出てきた連想ゲームになってしまいましたが、皆様はどんな連想をされましたでしょうか?

では、ウォーミングアップも済んだという事で以下、「沼田城の歴史と地形を抑えた上で、最後に『沼田城を攻めるならどう攻めますか?』と言う視点で、少し頭の体操をさせて頂く」べく、開始させて頂こうと思います。

【「沼田城」ってどんなお城? その歴史は?】

上記「沼田城に付き連想ゲーム」をさせて頂きましたが、今少し「沼田城の概要・歴史」を抑えていきたいと思います。Wikipedia には、以下の様にあります(引用少々長く、以下にサマリもまとめますので、読まなくても大丈夫です)。

沼田城(ぬまたじょう)は、群馬県沼田市(上野国利根郡)にあった日本の城(丘城)。1976年(昭和51年)3月30日、沼田市指定史跡。幾つかの守護城に囲まれた堅城である。沼田氏の居城として建築され、戦国時代後期から江戸時代初期にかけて真田氏の沼田領支配の拠点として機能した。沼田藩の藩庁。はじめは倉内城と称した。2017年(平成29年)には、続日本100名城(116番)に選定された。

概要
群馬県沼田市倉内にあり、利根川と薄根川の合流点の北東、河岸段丘の台地上に位置する丘城。二つの川側は約70mほどの崖となっており、典型的な崖城でもある。
沼田は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として上杉氏・後北条氏・武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となった。本能寺の変後は真田信幸の支配城として、後北条氏と争った
江戸時代に城主は真田家5代、天領、本多家3代、黒田氏(譜代大名)2代を経て、土岐氏12代目に明治維新を迎えている。真田氏時代には5層の天守や3層の櫓が建てられたが、時代とともに縮小し、本多氏時代には三の丸を改修して館を建てる程度の規模になった。
明治維新後、1916年に旧沼田藩士の家の久米民之助によって城地が購入され整備された。1926年には沼田町(沼田市)に寄付され、現在は沼田公園となっている。

歴史・沿革
・1532年 – 沼田顕泰により築城され、沼田氏の拠点となる。
・1560年以前 – 山内上杉氏没落と後北条氏による上野進攻のなかで、どちらに属すかを巡り沼田氏がお家騒動を起こす。後北条方側が勝ち後北条氏出身の沼田康元が城主となる。
・1560年 – 長尾景虎(上杉謙信)が越山し沼田城を落とす (略)
・1578年 – 謙信死後に起こった御館の乱により沼田城を後北条氏が制圧城代に猪俣邦憲、金子泰清らを置く。 (略)
・1580年 – 昌幸が城代の泰清に調略を仕掛け、また昌幸の叔父・矢沢頼綱が沼田に攻め入ってこれを無血開城させ、武田氏が沼田を支配下におく。同年 (略) 沼田氏は滅亡する。
・天正10年(1582年) – 3月、織田氏・徳川氏連合軍の武田領侵攻により武田氏が滅亡し、その功により、織田家臣・滝川一益が武田遺領のうち上野国一国と信濃佐久郡・小県郡を与えられる。これにより、沼田城は滝川家臣・滝川益重の城となる。同年6月の本能寺の変を経て、武田遺領をめぐる「天正壬午の乱」が発生する。天正壬午の乱において沼田城は後北条家に降った真田昌幸の支配となり、徳川氏と後北条氏の間で沼田領帰属問題が持ち上がるが、昌幸はいずれの提案も拒否し、上杉氏の傘下に入る。これは後年の徳川氏との上田合戦や後北条氏による度重なる侵攻を招くことになるが、いずれも退ける。
・1589年 – 豊臣秀吉の裁定により後北条氏の支配となり、秀吉家臣の津田盛月と富田一白、徳川家康家臣の榊原康政の立ち合いの下、真田氏から北条氏に引き渡され、猪俣邦憲が再び城代となる。しかし、同年に邦憲が昌幸の名胡桃城を略奪したことで、豊臣氏による小田原征伐が起こる。
・1590年 – 北条征伐の戦後処理において、沼田城は真田氏に返還され、家康養女の婿である真田信幸(昌幸長男)が支配する。
・1597年 – 信幸が城郭整備をする。
・1600年 – 関ヶ原の戦いにて、東軍についた信幸(以降信之に改名)が改易となった昌幸の上田領も合わせて継承し、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩する(信之は引き続き沼田城を本拠とする)。この前後(1597年(慶長2年)と1607年(慶長12年)説がある)、五層の大天守を築く。
・1615年 – 大坂夏の陣を期に、信之は上田に本拠を移す。沼田城は、長男・信吉が城主となる (略)
・1681年 – (略) 沼田藩は廃藩にされる。以降1703年まで天領となる (略)
・1703年 – 本多正永が入封し、沼田藩2万石として再興される。以降、黒田氏、土岐氏と沼田藩の藩庁として存続するが、城の本格的な復興はなされないまま、明治の廃藩置県に至る (略)
2017年 – 続日本100名城(116番)に選定された。

小松姫の逸話
小松姫(稲姫)は徳川四天王の本多忠勝の娘であり真田昌幸の長男・真田信幸の妻である。
関ヶ原の戦いの直前、下野国犬伏で真田父子三人が合議し、父昌幸と信繁は西軍、信之は東軍につくことが決した昌幸は犬伏を発ち、上田への帰路桐生辺りで「沼田に寄り孫に会いたい」と言い出し、そのまま沼田城を訪れた。小松姫は「たとえ舅であっても敵である」ということから、武装した姿で対応し城門を開かず追い返した。後に、自ら子供を連れて昌幸のもとを訪れ、舅の願いを叶えた。このことについて、昌幸・信繁は大いに感心したと言う
一方で昌幸には沼田城に立ち寄りそのまま城を奪取する意図があった、小松姫はそれを見越した上で穏便に解決した、とも言われる。

遺構
現存建物として城門が群馬県川場村に1棟、川場村以外に3棟ほどが移築されている。
また本丸跡に鐘櫓が復元されているが、この鐘櫓の鐘は複製である。1634年に真田信吉が鋳造させた「城鐘」そのものは現存し、群馬県指定重要文化財に指定されている。この鐘は廃城ののち寺社で保存されていたが、旧沼田町役場敷地内の「時鐘(ときのかね)」に流用され、市内の公民館で保存されたのち、2019年にテラス沼田内に開館した沼田歴史資料館で展示されている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/沼田城

つまり、以下の様に理解した次第です。

沼田城は、「利根川と薄根川の合流点の北東」、「その二つの川側は約70mほどのになる河岸段丘」の台地上に、「元々は沼田氏の居城」として建築された典型的な崖城(平山城?)。戦国期は、軍事上の重要拠点として上杉氏北条氏武田氏といった諸勢力の争奪戦の的となり、「沼田氏」→「上杉氏」→「北条氏」→「真田氏(武田家臣時代)」→「滝川氏(織田家臣)」→「真田氏(上杉徳川と政治的に動く)」→「北条氏」→「真田氏」と次々に統治者が変遷したお城でもある。関ヶ原直前の「小松姫の逸話(真田昌幸が「孫に会いたい」と沼田城を訪れたが、小松姫は「たとえ舅であっても敵である」ということから城門を開かず追い返したと言う逸話)」でも有名なお城であり、真田氏時代には「5層の天守」や「3層の櫓」が建てられたが、時代とともに縮小し、明治維新後、旧沼田藩士筋の一族によって城地が購入・整備され、その後沼田町(沼田市)に寄付され、現在は沼田公園となっている、続日本100名城に選出されている城郭。

といった理解をさせて頂いた次第です。

【沼田城の堅固な地形】

上記『沼田城は、「利根川と薄根川の合流点の北東」、「その二つの川側は約70mほどのになる河岸段丘」の台地上に、建築された典型的な崖城(平山城?)』と記載させて頂きました通り、沼田城は、堅固な地形に築城させれた城郭の認識です。その沼田城の堅固さ、「地形図」を見ると一目瞭然です。実際に城跡の中にお邪魔すると基本平坦な土地と感じてしまうので、その堅固さを感じる事は、城跡の ”ヘリ” まで行かないと感じずらいかもしれませんが、以下の地形図を見ると、よくご理解頂けるのでないかと思います。

北に薄根川、南に片品川、西に利根川と三方を川に囲まれており、台地がつながるのは東側だけ。しかもこの崖の高さ、半端ありません。「70m程」と引用中にはありますが、目算ですと「沼田城址から、沼田駅を見た感じ」で「100M弱くらいはありそうな感じ」に思えました。電車でお邪魔したので、実際に歩いてみましたが、かなりの急勾配。夏だったせいもあり、汗だくでした…。つまり、地形的にみると、「沼田城は、かなり堅固なお城」に思えた次第です。

【堅固なわりに、城主がよく変わる…】

では、上記引用にもある通り「なぜ、そんな堅固なお城が、戦国時代、何度も城主が変わる羽目」になったのでしょうか? 改めて引用の情報を記載しますと、以下の感じです。

①沼田氏 → ②上杉氏 → ③北条氏 → ④真田氏(武田家臣時代) → ⑤滝川氏(織田家臣) → ⑥真田氏(上杉徳川と政治的に動く) → ⑦北条氏 → ⑧真田氏で、江戸時代へ

改めて、引用の内容を含め、良く見てみると、「①→②だけが、戦らしい戦」の様です(確かに、沼田氏と上杉氏では、兵力に大きな差があったでしょうから、ここは納得です)。つまり「②→③は、御館の乱に乗じてのもの」でしょうし、それ以降は、「(名胡桃事件小田原征伐と絡んだ)調略・論功行賞・政治的決着の要素」がメインの理由。なので、地形から推察した、堅固さと城主変更頻度の割合は、あまりリンクしていなかったというのが、私の理解した所になった次第です。

【この堅固な沼田城をどう攻めますか?】

では最後に、頭の体操的に「”均衡した兵力差” で 、”この堅固な沼田城” を攻めるとしたら、皆さんは “どんな手” を使いますか?といった内容で、考察を加えさせて頂こうと思います。「たら・れば」の話なので、正解は無いでしょうが、「大人の知恵遊び」として、考えてみたいと思います…。

ちなみに私なら、、、

非常に堅固なお城ですが、弱点を上げるとすると「水」だと思います。堅固であるがゆえに「飲み水」の確保は、かなり難しいと思いますので、秀吉的に包囲作戦で「水の手を切る方法」で行くと思います。そこで、”川だけ地図”(FildAcsess と言うアプリより)なるものがございますので(戦国時代的には反則ですが、知恵遊びと言う事で、ご容赦ください…)、見てみると、やはり「目立った川はなく」、「人工的にお城まで水を引いてきている」事が推察できます

谷に落ちそうな場所を回避しているようにも見えますし、不自然に流路を変え、水を流している痕跡が良くわかります。つまり、「お城で使うメインの水は “この用水路”」と思われるので、「ここを上流で止める方法」で行きたいと思います! 止める場所は、「台地が少しだけ、崖と若干の高台で “隘路的にくびれている” 『現在の沼田インターの東』」ここなら、水を切りつつ、兵の数も抑えつつ対陣できると思います。つまり「この付近に砦を築き、防御に徹した上で、水を切り、相手方の降伏を促す戦略」で行くべきでないかと思った次第です。言い方を変えると、この高台が『「山崎の戦い」における「天王山」』的な場所になるのでないかと思ったという事になりますが、皆様の戦略と違いはありましたでしょうか??? 「だから何だ?」と言う突込みが聞こえてきそうですが、こんなことを考えなら、お城や地形を楽しむのも、大人ならではの楽しみ方だと思っている次第です。

別途、周辺の温泉(錦綉山荘老神温泉(大人宿:仙郷&東洋のナイアガラ・吹割の滝を含めて記載)水上温泉(「旅館たにがわ」利根川源流位に近い「龍洞」)、猿ヶ京温泉(江戸時代から続く丸一城跡にある湖城閣座敷童伝説のある生寿苑四万温泉の積善館豊島屋)や、観光情報も記載していますので、参考にして頂きながら、沼田城にも脚を運んでいただき、上記のような、大人の頭の体操をしてみては、いかがでしょうか? また、昔は、写真の通り、旧土岐家住宅洋館が、沼田城の中にあったのですが、令和2年に、”沼田市上之町1160-1”、に移転したとの事です。南東に徒歩15分程度の様ですので、脚を延ばしてみては、いかがでしょうか? (旧土岐家住宅洋館の詳細地図:https://goo.gl/maps/j3oh8SvSrZXJNpoy6)

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5天守現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

(一部地図は、地理院地図を自身で加工し作成)

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