【はじめに:日光東照宮・二荒山神社・輪王寺の「日光二社一寺」説明できますか?】
本日は、「日本人であれば、誰もがご存じと思われる『日光の二社一寺:日光東照宮・日光二荒山神社・輪王寺』に付き、その歴史も含めた “簡単な概要理解” に加え、大人散策情報(コース案含む)に付きご紹介」致します(前半戦ですが…)。
世界遺産にも登録されてている、「日光の二社一寺:日光東照宮・日光二荒山神社・輪王寺」、これらの神社仏閣は、世界的にも有名ですよね。事実、私達夫婦がお邪魔したのは、2016年の8月でしたが、日本人観光客よりも、海外からおいでの観光客の方が多いと思うほどでした(残念だったのは、陽明門・輪王寺本堂等が改修工事をしているタイミングでした…)。
日光山輪王寺 大猷院
仕事がら、海外の方と接する機会が多い(多かった)のですが、日本に対し、興味をもってくださる方も多く、日本の文化や習慣、宗教感等、質問を受けるのですが、この「日光」に関しては、答えるのが非常に難しいと思う場所だと、個人的には認識しています。つまり、日光東照宮は、「徳川家康のお墓があり、神格化され、その神社に神として祭られている…」までは良かったのですが、「二荒山神社や輪王寺は?」、「これらも同じ日光の地にあり世界遺産でしょ?」、「東照宮との関係ってどうなっているの?」、「二荒山神社や輪王寺は、何であちこちにあるの?」等々…、海外の皆さんも、かなり事前学習をして観光に臨んでいらっしゃるようで、中々明確に回答が出来なかった経験を持っております。言い換えると、当時、しっかりした答えをすることが出来なかった私は、「日本人として、恥ずかしいと思った」事を記憶している次第です。皆さんは、こういった質問に的確にこたえる事が出来ますでしょうか?
Wikipediaより:日光東照宮の様子
こちらのページでは、上記の感じで「日本人として恥ずかしい…」と思う経験をしてしまった「日光山の二社一寺:日光東照宮・日光二荒山神社・輪王寺」に付き、その過程で調査させて頂いた内容を記載いたします。すなわち、『日光の二社一寺:日光東照宮・日光二荒山神社・輪王寺』に付き、その歴史も含めた “簡単な概要理解” に加え、大人散策情報(コース案含む)に付きご紹介」致します(前半戦ですが…)。
【日光二社一寺とは?】
まず、「日光二社一寺」の概要から抑えさせて頂きます。早速、信頼する Wikipedia を調べてみますと、以下の様にあります。
日光の社寺(にっこうのしゃじ)は、栃木県日光市にある寺社などから構成されるユネスコの世界遺産である。日光山内(にっこうさんない)、二社一寺(にしゃいちじ)とも称される。
史跡指定
1998年(平成10年)5月14日、世界遺産登録推薦にさきがけて国の史跡に指定された。指定名は「日光山内」、管理団体は日光市である。従来、建造物については国宝や重要文化財に指定され、保護が図られている山内地区であったが、面的な保護策は講じられていなかった。そこで、文化庁、栃木県教育委員会、専門家、学識経験者が協議し、二社一寺をはじめとする土地所有者、土地占有者ならびに関係者等の協力を得て日光山内50.8ヘクタールが文化財保護法にもとづく史跡指定を受けた。世界遺産登録
https://ja.wikipedia.org/wiki/東照宮
1999年12月2日にモロッコのマラケシュで開催されたユネスコ世界遺産委員会で文化遺産として登録された。登録名は「日光の社寺」である。
・日光東照宮
・日光二荒山神社(別宮本宮神社、別宮滝尾神社を含む)
・日光山輪王寺(大猷院霊廟を含む)
103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の「建造物群」と、これらの建造物群を取り巻く「遺跡(文化的景観)」が登録されている (略)
つまり、「世界遺産の日光二社一寺」を簡単に理解すると、以下の様になった次第です。
『100棟以上の「国宝」・「重要文化財」に指定されている「建造物群」と、これらの建造物群を取り巻く「遺跡(文化的景観)」が、「日光の社寺」として、世界遺産に登録されており、その中心が「日光の二社一寺:日光東照宮・日光二荒山神社・輪王寺」』
と言った理解をした次第です。


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【日光東照宮とは?】
上記「世界遺産の日光二社一寺」に付き、情報を抑えましたので、それぞれ見ていきたいと思います。トップバッターは、「日光東照宮」。ご承知の通り、この寺院は、日光二荒山神社・輪王寺と全く違った歴史的背景を持っている認識です。そもそも東照宮は、Wikipedia によると、以下の様にあります。
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、栃木県日光市にある神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る、日本全国の東照宮の総本社的存在である。また久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられる。正式名称は地名などを冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために「日光東照宮」とも呼ばれ、東照宮の公式サイトにも「日光東照宮」と記載されている (略)
輪王寺、日光二荒山神社を含めた二社一寺は「日光の社寺」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている (略)歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/日光東照宮
江戸時代の元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去した。遺命によって遺骸は直ちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)に二代将軍秀忠が天海僧正に命じ下野国日光に改葬されることとなった。
家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。金地院崇伝の日記である『本光国師日記』には「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と残されている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。表参道を延長していくと寛永寺の旧本堂(根本中堂)につながる。
久能山東照宮から富士山頂への直線をさらに伸ばすと日光東照宮に達して、また日光東照宮が江戸城の真北にありその先の北極星の周りをすべての天体が回っているように見えることが、現在様々に指摘されている (略)
日光東照宮の様子 (一部写真Wikipediaより)
つまり、「日光東照宮」を簡単に理解すると、以下の様になった次第です。
『徳川家康の遺言に従い、家康の死後、その遺骸は「駿河・久能山に葬られ(久能山東照宮)」、さらに翌年、2代将軍・秀忠が、天海僧正に命じて「日光の地に改葬」され、家康を「東照大権現(=神)」として祭った事に始まる神社が「日光東照宮」。家康は、「この日光の地;不動の北辰(=北極星)の位置」から、「徳川幕府の安泰」と「日本の恒久平和」を守ろうとしたと伝えられており、現在は、輪王寺・日光二荒山神社を含めた「日光の社寺」として「ユネスコ世界文化遺産」に登録され、全国各地にある「東照宮」の総本山でもあり、一般的に「(別格官幣社の)久能山東照宮」・「上野東照宮」と共に「三大東照宮」の一つに数えられる神社が「日光東照宮」』
と言った理解をした次第です。
もっと簡単に言ってしまうと、「〇〇東照宮は、皆様のお住いの地域にもあるかもしれませんが、その総本山的役割として、日光東照宮があり、神格化された徳川家康の墓所も、そこにあると言う事の様で、その創建は、江戸時代以降の話」と言う事です。





【二荒山神社とは? 輪王寺とは?】
上記、「日光東照宮」の概要を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では「輪王寺」、並びに「二荒山神社」に付き、抑えさせて頂きます。それぞれWikipedia で調査してみると、以下の様にあります。
まずは、「輪王寺」から…。
(略) 創建
https://ja.wikipedia.org/wiki/輪王寺
輪王寺は、下野国出身の奈良時代の僧・勝道上人により開創されたと伝承されているが、当時の歴史書にそのような記録は見られない (略) 天平神護2年(766年)、勝道と弟子の一行は、霊山である日光山の麓にたどりついたが、大谷川(だいやがわ)の激流が彼らの行く手をはばみ、向こう岸へ渡ることができずに困っていた。そこへ、首から髑髏(どくろ)を下げた、異様な姿の神が現われ「我は深沙大王(じんじゃだいおう)である」と名乗った。深沙大王は2匹の大蛇を出現させると、それらの蛇はこちら岸と向こう岸を結ぶ橋となり、勝道ら一行は無事対岸へ渡ることができたという。現在、日光観光のシンボルでもある「神橋」(しんきょう)は「山菅蛇橋」(やますげのじゃばし)とも呼ばれ、その伝承の場所に架かっている (略) 勝道は、大谷川の対岸に聖地を見付け、千手観音を安置する一寺を建てた (略) 後に「四本龍寺」(しほんりゅうじ)と改めたという。この四本龍寺が現在の輪王寺だが、当初は現在の本堂(三仏堂)がある場所から1km以上離れた、稲荷川(大谷川支流)の近く(滝尾神社付近)にあったとされる (略) 翌神護景雲元年(767年)、勝道は四本龍寺に隣接する土地に男体山(二荒山)の神を祀った。二荒山神社の始まりである (略)
日光山 輪王寺:本堂(=三仏堂)と近くの庭園、大猷院霊廟(家光墓所)、神橋 の様子と勝道上人像 (一部写真Wikipediaより)
次に、「二荒山神社」…。
(略) 創建
霊場としての日光の始まりは、下野国の僧・勝道上人(735年-817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に天平神護2年(766年)に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建てたことに始まるとされる。そして二荒山神社の創建は、上人が神護景雲元年(767年)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まるとされる。この祠は現在の別宮となっている本宮神社にあたる。上人は延暦元年(782年)二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒修験の基礎を築いた。その後、神仏習合の霊場として栄えることとなったと伝えられる。
なお、社伝などでは上記のように勝道上人が開祖と説明されるが、実際には太郎山神社周辺で古代の祭祀の痕跡を示す遺跡が見つかっており、相当古くから聖地として信仰対象であったことがわかっている (略)戦国時代には、後北条氏に加担したことにより豊臣秀吉に領地を没収され、衰退した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/輪王寺
江戸時代初め、徳川家康の側近で日光山貫主となっていた天台宗の僧天海(慈眼大師)により、徳川家康を祀る東照社(日光東照宮)が江戸幕府によって創建されると、二荒山神社もまた、江戸幕府のみならず朝廷や諸大名、さらに民衆からも厚い崇敬を受けた。元和5年(1619年)には、徳川秀忠によって本殿が再建された。
1873年(明治6年)に宇都宮の二荒山神社に加えて国幣中社に追加列格した。第二次世界大戦後、神社本庁の別表神社となった (略)
つまり、「輪王寺」・「二荒山神社」関しては、以下の理解になった次第です。
「日光東照宮は、江戸期創建の神社」だが、『「日光二荒山神社・輪王寺」の「始まりの歴史」は、「奈良時代」まで遡る様で、日光東照宮と比べ、圧倒的な長さを誇る』様子。また、現在でこそ、「二荒山神社」・「輪王寺」と別々だが、これは、明治時代の初めに政府によって出された、神仏分離政策(明治政府が天皇を中心とした神道国家をつくる為の指針に基づき出された政策)の影響が大きいと理解でき、それ以前、元々は、(区分けもあったかもしれないが)日光山(日光三山:男体山、女峰山、太郎山)の地で、8世紀あたりから、山岳信仰が行われていた際の「一つの信仰集団的な意味合い」として認識されていたと理解でき、その始まりは「勝道上人」による様で、その象徴が「日光山の信仰の入口」と言って良いと思われる「神橋」。
少々日本独特の宗教感も含めて理解する必要があると思われる為、この歴史的な流れを理解するにあたっては、それなり努力を要すると思ってしまった次第です…(特に海外の人にとっては…)。
一部写真Wikipediaより:日光二荒山神社 (本社・奥宮)
【「日光二社一寺」の概要理解(=簡単な理解)】
上記、「日光二社一寺:日光東照宮・輪王寺・二荒山神社」につき、その概要と歴史を抑えさせて頂きましたが、「じゃあ説明して!」と言われると「まだまだ心もとない…」と思ってしまった次第です。故に、私なりの理解を、「日光二社一寺(日光東照宮・輪王寺・二荒山神社)」につき、簡単に記載しますと、以下の様になります。
『「日光二荒山神社・輪王寺は、元々は基本一つの信仰」で、8世紀ごろに、いらっしゃった「開祖・勝道上人」が、今の「神橋」を、地元の神によって、川(大谷川)を渡りらせてもらい、そこから山岳信仰が始まった事に由来する認識。山岳信仰ゆえに、「ご神体を日光三山」とするも、神様が、あちらこちらにいらっしゃるので、活動拠点も必要。その為か、現在「二荒山神社の境内」は、「神橋を渡った所」・「中禅寺湖畔の男体山の登山入口(中宮)」や「その頂上付近(奥宮)」と複数あり、「輪王寺」も同様に、「中禅寺湖畔の中禅寺(立木観音)」・「湯ノ湖近くの温泉寺」等の別院も含め、あちらこちらに点在している。言い換えると、「二荒山神社」と「輪王寺」それぞれの神社仏閣が、異なった場所に、それぞれの敷地がある様に見えるが、これらは、「元々神仏習合の考え方で、同じ信仰の内」。
つまり、『現在では「二荒山神社」と「輪王寺」の2つの神社仏閣があり、それぞれ複数拠点がある様に見えるが「根本的な信仰心は “1つ” で、それを支える施設があちこちにあった」と考えるべき』と言った認識という事。
その中に、家康を神とする「東照宮」が、江戸の初めに創建され、「日光山の中の信仰の1つ」と言った側面を持ちつつ続いてきたが、明治期になって、神道をベースとする国家をつくる指針の下、政府により「神仏分離政策」が推し進められ、「新参者で、少しカラーの違う東照宮」は別として(別格官幣社に)、「二荒山神社」と「輪王寺」は、無理矢理に分けられ、現在に至っている。しかし、こういった「特異で、日本的な歴史背景」の為、「日光の二社一寺」として、世界遺産に登録されるに行至った』
素人的理解なので、甘い部分もあると思いますが、概要として認識する程度で、ご理解いただければ幸いです。
神橋・二荒山神社・と日光東照宮(奥社(家康公のお墓))の様子 (一部写真Wikipediaより)
【いったん、最後に・・・】
以上が、「日本人であれば、誰もがご存じと思われる『日光の二社一寺:日光東照宮・日光二荒山神社・輪王寺』に付き、その歴史も含めた “簡単な概要理解” に加え、大人散策情報(コース案含む)に付きご紹介」の「前半戦」の内容になります。
「簡単な概要理解」と言いつつ、それなりのボリュームになってしまいました…。しかし、個人的には、上記の認識があるだけで、観光のコースや、楽しみ方が変わってきますし、大人散策する上で、腑に落ちる所も出てくるのでないかと思っている次第です。これらを踏まえ、「日光山の二社一寺:日光東照宮、日光二荒山神社、輪王寺の大人散策コース」に付き、ご紹介さえて頂こうと思いますが、少々長くなっていますので、ここまでを「前半戦」とさせて頂き、いったんこちらで切り、次のページより、「大人散策コースを紹介する『後半戦』」を記載させて頂く様に致します。引き続きお読み頂くもよし、トイレ休憩するもよし、明日以降に回すもよし、と思いますので、一旦切らせて頂きます…。
それぞれのホームページも以下に共有します…
・日光東照宮 : http://www.toshogu.jp/
・日光二荒山神社 : http://www.futarasan.jp/
・輪王寺 : https://www.rinnoji.or.jp/
尚、別記事で、この付近の大人散策情報として、以下の記事も記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
尚本ブログでは、諏訪大社や熱田神宮、大宮氷川神社、川越氷川神社、川越喜多院、日光の二社一寺、久能山東照宮、浅草寺、深大寺、神田明神、大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。
以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!