【はじめに:小田原城の基本情報】
今回は、関東の難攻不落のお城として有名な小田原城を紹介させて頂きます。
城をテーマにする時の下記出しでいつも通りですが、小田原城と言うと皆さんは、何を連想されますか? 私は、以下の感じです。
- (後)北条氏の居城として有名だが、築城者は別 (土肥氏一族の小早川氏が築城し、これを大森氏が奪い、更に伊勢氏(後の北条氏)が奪った形と理解)
- しかし、(後)北条氏5代100年の城である事は事実 (早雲(伊勢宗瑞)、氏綱、氏康、氏政、氏直)
- 日本三大奇襲の一つとして有名な「河越夜戦」をやってのけたのは、3代・氏康 (日本三大奇襲、河越夜戦、河越夜戦跡に関しては、別記事で紹介しています)
- 4代・氏政の時代に、後の上杉謙信(1561年)と武田信玄(1569年)が小田原攻めを行うが、落城しなった (「上杉謙信の場合は、小田原攻めの後、川中島に向かい、信玄と第4次川中島合戦をする事になり」、「信玄の場合は、三増峠の戦いで北条氏と一戦交えています」また、信玄の小田原攻めに関しては、別記事で考察を加えております)
- 土の城として有名だが、一番有名なのは、日本最大城郭とされる ”総構え”
- 秀吉による小田原征伐で、秀吉の天下がなった地 (豊臣方の支城で残ったのは、別記事で紹介した、忍城のみと言われている)
- 現在の小田原城の形は「江戸時代の遺構がほとんど」と言われる…
といった感じでしょうか?
「北条5代・100年の城」、と言われ、難攻不落として有名な小田原城ですが、そもそも「北条」と言う名前は、2代・氏綱の頃からの様で、初代の頃は「伊勢」を名乗っていたそうです。勝手な理解かもしれませんが、「関東でブランドのある、鎌倉幕府の執権であった、北条の名を得る事で『身内感を出したかった』ので、勝手に『北条』を名乗った」と言う事でしょうか? 故に、北条早雲は、後世の人がそう呼んでいるだけであって、あの世で本人は自分の事だと思っていないかもしれません… (真田信繁が、後世の講談で、幸村と言われて、それが定着したような物なんでしょうか?)。
いずれにしても、(後)北条氏5代のお城であったことは、事実のようで、川越市民として、北条氏の名前を最も耳にするのが、河越夜戦(日本三大奇襲の1つと言われ、8倍の兵を相手に勝利し、北条氏の関東進出を確固たるものにした戦いと理解)。更に、上杉・武田の攻めをしのぎ、秀吉の攻めも数か月しのいだと言われているので、小田原城のすばらしさもですが、北条氏は武勇に優れた一族であった事は事実だと思っている次第です。
【戦国時代の小田原城と今の小田原城】
そんな、小田原城ですが、”総構えの難攻不落な城”、であったり、”土の城”、なんて言われたりする事があるのを、聞いた事ありませんか? ちょっと前にこちらの小田原城にお伺いし、天守にもお邪魔させて頂きました。天守閣からの眺めも抜群。あいにくの曇り空でしたが、現在の小田原城天守が台地の突端の一段高い所にある事、理解できます。
天守閣にからは、四方を見渡せるようになっており、親切に方向が分かるように、看板がありました。秀吉の小田原攻めで有名な、”石垣山一夜城→”、の看板もありました。この方向を見ながら、小学校高学年位の子供が、「ここから北条氏は、秀吉の一夜城を見て戦意を喪失したんだね?」とお父さんに話かけているのが聞こえてきました。「おっ、中々勉強しているな!」と思いましたが、”若干” 違う事、ご承知の通りだと思います。
(後)北条氏の戦意云々でなく、いくら復元天守と言えど、そもそも(後)北条氏の時代には、天守はおろか、石垣もなかったと言われている理解だからです。言い換えますと、秀吉による小田原征伐の時点で、「小田原城は、北条氏の土の城」と言われる所以がここにあり、(後)北条氏は、真田氏との沼田領土問題(沼田城別ブログで紹介しています)に端を発し、秀吉から小田原攻めを受けますが、この時に、あの日本一の城郭の広さを誇ると言われた「総構え」を作っていると言われている様です。
Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります。
”(略) 3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。(略)
構造
平地部=近世に大久保忠世・稲葉正勝によって改修された部分。現在の小田原城址公園及び、その近辺である。主要部のすべてに石垣を用いた総石垣造りの城である。佐倉城や川越城などのように、土塁のみの城の多い関東地方においては特殊と言え、関東の入口としての小田原城の重要性が伺える。なお、現在のような総石垣の城になったのは寛永9年(1632年)に始められた大改修後のことである (略)八幡山古郭=平地部に対する詰城に当たる。小田原合戦において、北条氏政がここに陣を置いたとされる。(略)
小田原城の様子② 1953年(昭和28年)天守台の石積工事が完成。(略) 現存している旧天守模型を元にし、天守の再建工事が行われる(略) 1960年(昭和35年)5月25日:天守の再建工事が完成。ただし、再建した天守は鉄筋コンクリート構造によるもので、小田原市当局の要望により天守最上階に高欄が取り付けられ、天守の本来の姿を忠実に再現するものではない。(略)”
https://ja.wikipedia.org/wiki/小田原城
簡単に私なりの理解を記載しますと、「現在の小田原城の天守は、江戸期以降の城郭を模している復元天守で、(後)北条氏の時代は石垣もなく、ものすごい大きい空堀や土塁をメインにした “総構え” を含めたお城であった。秀吉による小田原征伐の際、北条方は現在の天守の位置(居館があった場所と理解)と言うより、少し北にある『”八幡山(古郭)” で、秀吉方と対峙していた』と言われている様なので、石垣山城の見え方も若干違う」と言った所でしょうか?
ただ、物理的に若干違うだけであって、その時の(後)北条氏の気持ちを考え、それを感じてるそのお子さんの姿勢が素敵であった事、記憶しています。そのタイミングで、「秀吉の天下統一がなり、時代が大きく動いた時の事」を子供の視線なら、どう感じているのだろうと思った次第です。
【最後に】
今回の小田原訪問はあまり時間がなく、小田原城とその周辺だけを拝見して終わってしまいました。北側にある、八幡山古城郭の辺りや、総構えの痕跡に足を運ぶことはできませんでした。これは、かなりの広範囲になると思ったので、少なくとも丸1日、出来れば2日位かけて回ってみたい思ったためでした。更に言えば、小田原の西にある、小田原城の支城として有名な、山中城(詳細地図:https://goo.gl/maps/WT2AbgS6mjgikc9F7)にも行ってみたいと思っていますので、今度は、この辺りまで含め、プランニングを計画して行きたいと思います!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。