【はじめに】
こちらのページでは、「良く解っていない、太田道灌時代の江戸城と川越城の縄張りに付き、一般的な歴史観点の情報や地形観点の情報をもとに、江戸城と川越城の縄張りを想像(妄想?)」してみたいと思います。
別記事でも記載いたしましたが、江戸城と川越城は、1457年に太田道灌により築城された、兄弟城だと思っております。そちらの記事では、以下の項目(一言サマリですが…)で、「兄弟城と言って良いのでないか?」と考察させて頂きました。
・川越城と江戸城は、築城の年 / 築城者 / 築城目的が同じお城
1457年に、主家の扇谷上杉氏の指示により太田道灌により、東側の当時の利根川を挟んだ古河公方に対抗する為に築城されたお城(扇谷上杉氏のこの時の主家は、関東管領山内上杉氏で、居城は平井城)
・川越城と江戸城が築城に選定された地形は類似している
同じ武蔵野台地のヘリに旧利根川流域の低地を見下ろす形で築城されている
・川越城と江戸城は連携する前提で築城された
川越城・江戸城の築城と同じタイミングで、川越街道の前身が武蔵野台地のヘリを通して、川越・江戸間に整備された(=川越街道の始まり)
上記の詳細は、別記事をご査収頂きたいのですが、先日、自身で色分けできる地形図で、川越城と江戸城を見ている時、ふと「もし川越城と江戸城が、ある縄張りなら、はやり同じく兄弟城と言えるのでないか?」と思った次第です。
しかし一般的には、太田道灌時代の川越城と江戸城の具体的な縄張りはイマイチ見えていないのが、実情だとも思っております。故に、こちらのページでは、勝手な想像(妄想?)になってしまうかもしれませんが、現在知られている歴史的な情報の観点、現在見える地形の観点より、太田道灌時代の川越城・江戸城の縄張りに付き、考察を加えさせて頂こうと思った次第です。
【太田道灌時代の川越城の縄張りを妄想】
太田道灌時代の川越城は、現在の現存4御殿の1つ川越城本丸御殿付近を中心に、縄張りが行われていたと考えられている様です。Wikipediaには、以下の様にあります。
(略) 河越城は武蔵野台地の北端の丘陵に位置し、東方の低地を睨んだ自然の要害に位置している、比高5~6mの平山城であった。城の北に赤間川(現新河岸川)が流れ、さらに北を入間川・越辺川などが流れて外堀の役割を果たす。城の南は遊女川(よながわ)の湿地帯であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/川越城
道灌の築城方法は、「道灌がかり」という「連郭式縄張り」で、子城、中城、外城など独立した曲輪を連ね、周囲に高さ二間ほどの土塁を築く。そして曲輪の間には堀を巡らし、飛橋と呼ばれる橋で連結し、連結した入口には土橋、引き橋、食い違い虎口や横矢がかりなどの仕掛けを作ることで敵が侵入しても各曲輪にて防ぐ構造であった。
河越城の城郭はおよそ5万坪、8門8櫓を構えた。新編武蔵風土記稿によると本丸南西の20mの高台に富士見櫓を築いたのも道灌である (略)
現在でも、富士見櫓跡は残っており(建物はありませんが…)、地形をたくみに利用して、高台に築城した事を実感できるポイントです。道灌時代から少し歴史を下った、江戸期の川越城の地図は以下の様になり、こちらの地図と併せ、地形図も拝見してると、現在の本丸御殿のある場所が、子城(本丸)で、北側の現在の川越市立博物館の辺りが、中城 or 外城、東西は堀に囲まれ(西側は現川越高校内に堀)、南に中城 or 外城、といった縄張りに見えてきました。
言い換えると、江戸時代の川越城は、西の現市役所付近まで拡大していったんだろうと思われ、道灌時代の川越城は、江戸時代のそれと比べ大きくなく、「子城(本丸)を中心に、外城・中城が連携して守りを固める縄張りだったんだろうと」と勝手な想像(妄想?)をした次第です(ただこの想像になると、Wikipedia中の記載『「道灌がかり」という「連郭式縄張り」』では無く、『本丸(子城)を中心とした3つの曲輪のお城』と言う事になってしましますが、地形図からは、上記の様に思えた次第です)。
ちなみに、上記想定であれば、東西300~350m、南北500~550mになるので、300m × 500m =15万㎡になり、15万㎡ ÷ 3.3=4.5万坪になりますから、大体5万坪となり、上記、Wikipediaの記載とほぼ近しくなる想定です(様々調べていると「中城=本丸」の記載が目に付き、個人的にもそんな感じしますが、Wikipediaの記載し従い「子城=本丸」としました)。
【太田道灌時代の江戸城の縄張りを妄想】
川越城に関しては、上記の勝手な想像(妄想?)をしましたが、太田道灌時代の江戸城は、現在の皇居東御苑の旧本丸跡・二の丸付近が、太田道灌時代の江戸城ではないかと言われている様です。Wikipediaには、以下の様にあります。
(略) 道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城
『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている (略) 江戸幕府を開いた徳川将軍家の祖である家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した (略)
つまり、上記Wikipediaの内容をベースに、地図に落とすと、以下の様になります。
しかし、1点腑に落ちない事があります。徳川時代に本丸・二の丸部分が、どの様に造成・改修されたか、情報が無いのですが、本丸と二の丸だけでは、「子城」「中城」「外城」の構造にならないのでないかと思った次第です。
そんな漠然ととした状況で地図を見ていると、「子城」「中城」「外城」の構造に近い地形が目に飛び込んできました。それが、現在、皇居宮殿や宮内省のある西の丸一帯。以下がその地図になりますが、「子城」「中城」「外城」の三重構造の形に見えてしまった訳で、しかも西側に広がる濠の名前は、道灌堀。道灌堀の名の由来も解らないのですが、「太田道灌が掘らせた濠だから道灌堀」と思ってしまいます…。
また、この3つの曲輪の配置を見ていると、上記に記載しました、川越城の縄張りにも似ており、「子城(本丸)を中心に、外城・中城が連携して守りを固める縄張り」と見えてしまいました。正直、根拠の薄い内容で恐縮ですが、現在の地形図から見ると、本丸/二の丸付近よりも、西の丸付近の方が、道灌時代の江戸城ではないかと勝手な想像(妄想?)をしてしまった次第です。
様々調べていると「中城=本丸」の記載が目に付き、個人的にもそんな感じしますが、Wikipediaの記載し従い「子城=本丸」としました
【最後に】
以上が、「良く解っていない、太田道灌時代の江戸城と川越城の縄張りに付き、一般的な歴史観点の情報や地形観点の情報をもとに、江戸城と川越城の縄張りを想像(妄想?)」してみた内容になります。
今回調べて見て思った事は、「もし今回の想定した太田道灌時代の縄張りが正しいのであれば、『縄張り的にも似ており、やっぱり兄弟城?』」と思ってしまいました。一方で、「まだまだ調べ切れていない情報が多くあるんだろうな…」、「もう少し調べてみると違った結論になるのかな…」、「川越城の築城者は太田道灌だけど城主は主家の扇谷上杉氏、一方、江戸城の城主は、その家臣太田道灌だけど、江戸城の方が大きくない?(また、関東管領・山内上杉氏のこの時の居城は群馬の平井城で、川越城は第二拠点的な位置づけ?)」と言った感じで、まだまだ本Topicに関しては、継続して調べてみたいとも思った次第です。
川越城も江戸城も良く大人散策させて頂くエリア。今後も各種調査させて頂き、その内容を持ってしてフィールドワーク(大人散策)を行い、また新たな仮説が出てきたら、本ブログを更新させて頂こうと思います!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。