清澄庭園

【はじめに】

こちらのページでは、明治期に、三菱財閥の岩崎家が所有した、池泉を身近に感じつつ、多くの名石を楽しめる庭園「清澄庭園」を紹介致します。

本ブログ別記事にて、芝離宮浜離宮小石川後楽園六義園(六義園も明治期、清澄庭園と同時期に岩崎弥太郎により購入されたようです…)等を紹介させて頂きました。これれらの庭園は、江戸時代に築庭された大名庭園ですが、今回紹介させて頂く「清澄庭園」は、少しカラーが違います。もう少し申し上げると、こちらの庭園は、江戸時代にも、大名家の庭園として存在していたようですが、明治期に三菱財閥・岩崎家によって購入され、3代かけて改修され、現在の「名石が魅力の庭園」になったと言う事です(東京都内にある庭園としては、椿山荘の庭園旧古河庭園大熊庭園国分寺崖線を活かした滄浪泉園/殿ヶ谷戸庭園ホテルニューオータニの庭園も別記事で紹介しております)。

こちらのページでは、そんな、最寄り駅・半蔵門線/大江戸線の清澄白河駅(江東区)から徒歩数分の立地にある「池泉をまじかに感じる少し大名庭園とは違ったカラーのこちら清澄庭園」を紹介させて頂きます。

【清澄庭園の築堤の歴史】

まずは、清澄庭園の概要と共に、この庭園の歴史を抑えさせて頂きます。Wikipediaの「清澄庭園」の項目には、以下の様にあります(以下にポイントを箇条書きにまとめております)。

清澄庭園(きよすみていえん)は、東京都江東区清澄にある都立庭園。池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園で、東京都指定名勝に指定されている。  

歴史 

かつての清澄  
清澄庭園のある清澄は旧深川区に当たる深川地域内にあり、深川は江戸府内の中では発展が遅く、江戸時代以前のこの一帯は隅田川の三角州に蘆荻の茂る低湿地帯で、海上には幾つかの浮洲が形成されていた。天正18年(1590年)、徳川家康の江戸入府に伴い江戸市民が急速に増加し、隅田川の水運や木場の発展を背景にして、食料特に魚介類の需要に応えるため隅田川河口に深川猟師町が誕生した。清住(現・清澄)周辺に町が出来始めたのは寛永時代(1624〜1643年)頃で、佃周辺の猟師町が発展したため日本橋小田原町周辺に魚河岸が出来、最初の漁師町が定着したといわれており、流通拠点として深川猟師町となった  (略)   
寛永年代(1624〜1644年)から元禄年代(1688〜1704年)頃、江戸の繁栄に伴い猟師町から商業中心の町屋に変貌し、清住町には仙台蔵が出来、仙台掘が深川木場への重要な流通水路として発展した。文政11年(1828年)の『分間江戸大絵図』には、諸大名の受領地が増え清住町には松平陸奥、内藤紀伊、松平越後、戸田越前が、伊勢崎町には久世長門などの下屋敷の名を見ることが出来る (略)

岩崎家の時代   
幕末頃の伊勢崎町と清住町には、久世大和守、戸田日向守、松平美濃守、松平右京などの諸大名下屋敷や、伊奈半左衛門、岡野竜之助などの豪族の住居があったが、維新後は新政府要人などの住居に変わっていった明治11年(1878年)深川清住町と伊勢崎町の土地約3万坪を、三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、以降、弟・弥之助、長男・久弥へと岩崎家3代にわたって清澄庭園は引き継がれた

当時の弥太郎は台湾征伐や西南の役などで直後で、海運王となった頃であった。『岩崎久弥伝』によれば「ここには旧幕時代の大名屋敷の池庭があった。弥太郎はそれらの庭を改修し、これを綜合拡張して新たに林泉の布置を定めてここに一大庭園を造築した。」と記録されている。また弥太郎は青年時代から造園に興味があった、特に石が好きだったようで『岩崎久弥伝』によれば「吾は性来これという嗜好なけれど、常に心を泉石丘壑に寄す。これを以て憂悶を感ずる時は名庭園を見る。中略、ひとり加賀邸の庭園は無数の巨巌大石を配し、老樹黙綴して豪宕の趣き深山の風致あり。若し吾に庭園を造る時あればかくの如きものに倣はんと欲す。」と記録されている。   
弥太郎の弟・3代目弥之助は、30歳で副社長として兄・弥太郎を助け、明治18年(1885年)弥太郎の没後、「日本郵船会社」を設立し海運業の経営に携わった。兄・弥太郎が完成途中だった清澄庭園の後を受け、施工計画書を作り修築を進め、明治24年(1891年)完成させた。弥之助は、三菱の多角経営企業として日本経済界の重鎮となり、国内外の要人の社交場として豪華さを目指し、巨額の建設費を投じ完成させた (略)   

弥太郎による修築   
幕末の混乱の最中、荒廃を極めた庭園を弥太郎はどう改修したのか、久世家下屋敷では庭池や庭木などは相応の状態であったと思われる (略) 弥太郎は池沼を改修し、新たに林泉を設け大庭園を築造した、池は二カ所の堀で仙台掘りさらに隅田川に通じている、全国から集めた巨石を船便で庭園に持ち込んだ清澄庭園の特徴の一つとして、都内の庭園の中でも見ることが出来ないのが巨石の石組みで、弥太郎の趣味が表れている明治13年(1880年)4月、着工から3年に庭園を「深川新睦園」と命名、平時は三菱社員の慰安の場に、特別の内外の賓客がある時は接待の場とした。   

弥之助による修築   
弥之助は庭園を社内の親睦園だけでなく、会社の隆盛に伴う貴賓接待の場として、内外に誇れる名園を目指して改修した。明治19年(1886年)に京都から武者小路千家一門の茶匠である磯谷宗庸を招き、園游開場、温室園芸場、植込地を設け、多くの庭石を入れ、約5年かけ明治24年(1891年)完成させた  (略)  

弥之助によって完成された庭園は、明治初期の回遊式潮入り林泉の名園といわれ、敷地約3万坪で「汐入り」の庭で渓流、入江、渚灯を設け、池には大小の島を配し橋を架け、東西に藤を擬した小丘を築き、老樹に見事な庭樹で補い、東北、四国、九州、小笠原、伊豆などから庭石を収集搬入し完成された庭園である。 久弥はさらに池の南岸に保岡勝也設計の小亭「池の御茶屋」(現・凉亭)を建て、明治42年(1909年)英国の陸軍元帥ホレイショ・ハーバート・キッチナー(Horatio Herbert Kitchener 1850〜1916年)を歓待した  (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/清澄庭園

少々引用が長くなってしまいますので、ポイントを以下サマリ的に、自身の持っている情報と合わせて、列挙させて頂きます。

  • 江東区にある回遊式林泉庭園で、最寄り駅は、半蔵門線・大江戸線:清澄白河駅で、徒歩数分に立地
  • 江戸期以前のこの地は、低湿地で浮州が形成されている状況で (縄文海進時は、間違いなく海の底)、家康の江戸入府の後、埋立 / 発展が始まった
  • 寛永年代(1624〜1644年)から元禄年代(1688〜1704年)頃、江戸の繁栄に伴い猟師町から商業中心の町屋に変貌し、諸大名の受領地にもなって行った  
  • その中で、久世家下屋敷が、清澄庭園の源でった様で、庭池や庭木などは相応の状態で存在したと思われている  
  • 明治期に入ると、新政府要人の住居に代わって行ったが、1878年に三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取った  
  • 造園に興味がり、特に石が好きだった弥太郎は、自身の財力を駆使し、全国から名石/珍石を庭園に運び入れ、元々の久世家下屋敷の庭園を改修していった  
  • 以降、弟・弥之助、長男・久弥へと岩崎家3代にわたって清澄庭園は引き継がれ、自社内の親睦園だけでなく、会社の隆盛に伴う貴賓接待の場として活用した  
  • 清澄庭園の特徴としては、名石/珍石/巨石の石組みが上げれ、明治初期の回遊式潮入り林泉の名園といわれている
  • 個人的な理解ですが、元々は大名庭園であるが、その後岩崎家3代により、かなりの改修が行われた為大名庭園 < 回遊式林泉庭園」の方が、清澄庭園を分類するにあたり、適切な表現と認識

縄文海進時、この地域は間違いなく海の底で、江戸期に埋立が行われるまで、人は住んでいなかったこの地域に、江戸幕府が開府し埋立が始まり、人が住み始め発展し、大名屋敷/明治新政府要人の地となった後、岩崎家が現在の清澄庭園の形を造って行った」と言う理解をさせて頂いた次第です。現在の清澄庭園は、他の大名庭園と比べると、大きさその物は少し小さ目の部類に入る印象もありますが(浜松町の芝離宮と同じくらい?)、興味をそそる石その物や巨石/石組み/燈籠、池の中を飛び石で散策できる園路等、大名庭園とは少し違って、「魅せる庭園」を意識した様な印象で、散策していて飽きない庭園だと思っており、そのバックグラウンドが三菱財閥の岩崎家にあるのであれば「まっ、当然かな…」とあらためて思った次第です(同時期に、岩崎弥太郎が買い取った六義園は、大名庭園の印象が強い認識ですが…)。

【清澄庭園の見所】

上記、清澄庭園の概要と歴史を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、現在の清澄庭園における見所をいくつか挙げさせて頂きます(個人的視点ですが…)。

■池泉を身近に感じる散策路

庭園内に入り、まず目に飛び込んでくるのは、大池泉とその奥に見える建物の「凉亭」。開放感のある空間に、池に飛び出すように作られた凉亭は、その名の通り涼しげで、お客様をもてなすには、最高のシチュエーションではないかと思い、多くの方が「清澄庭園のイメージ」として持っている絵なのでないかと思います。涼亭では、池泉をまじかに感じられるのでしょうが、その対岸、磯渡/大磯渡り」でも池泉をまじかに感じる事が出来ますまじかに感じると言うよりも、「池泉の中を大人散策できる」と言った方が正しいニアンスかもしれません。巨石の飛び石非常に大きな一枚岩の船着石池泉に配置された島(山燈籠のある島)への石橋や飛び石の橋と、100m以上は「池泉の中を大人散策できる環境」が整っており、その景色を楽しみながら清澄庭園を満喫する事が出来ます。池には鯉や亀もいて、お子さんも、(また別の意味ですが)楽しみながら散策できるのでないかと思います。但し、万が一脚を踏み外した瞬間、池泉に落ちてしまいますので、足元にはお気を付けください(まあ、落ちてもそんなに深くは無いようですので、脚が濡れるだけで済むとは思いますが…)。

■個性的な表情をもつ名石( / 珍石?) / 巨石 / 石組み / 燈籠 / 水鉢等

池泉を身近に感じながらの散策も良いですが、「個性的な表情をもつ名石( / 珍石?) / 巨石 / 石組み / 燈籠」を拝見しながらの大人散策も、清澄庭園では楽しみ方の1つだと思います。庭園の各所に「この石すごいなー!」と思える演出がなされております。いくつか、以下にピックアップさせて頂きます。

・長瀞峡をわたる石橋

2枚の大きな仙台石(字が明確に読めていませんが…)の石橋です。

・山燈籠

傘の大きな、独特の形をした石灯篭は、圧巻です。

・傘亭付近の紀州青石

ぬいぐるみの様にモコモコした形の青い巨石は、様々な想像を膨らませてくれます。

・自由広場の石舞台付近にある伊豆磯石

地中から出てきたよな生き物の様な石で、更に奥には、自由広場があり、石舞台や芭蕉の句碑もあります。

・本御影の春日燈籠(涼亭付近)

涼亭付近には、「王道の石灯籠」といった感じの石灯籠が構えています。

・富士山の麓にある石組み

富士山を模したと思われる築山から、枯山水的に(石大き目ですが…)川を表現したと思われる河口付近に見事な石組みがあり、紀州青石や伊豆磯石があります。

・石仏群

岩崎家との関連不明ですが、現地説明看板によると江戸時代からある石仏群の様です。

・赤石と九重塔

赤色が特徴的な伊豆石とその背後にどっしりと構える九重塔があります。

・多重塔

中島に渡る風情ある橋を見つつ進むと出てくるのが、かなりの年代物と言われる「十一重の塔(多重塔)」で、中々の迫力です。

・水鉢と石燈籠

大正記念館の目の前の芝庭脇には、中々の風情の水鉢と石灯籠があります。

・船着石

磯渡りと大磯渡の間にある迫力の&一枚岩の船着き石は、清澄庭園のあり方を象徴している様です。

・芝生の中の様々な名石

大正記念館の前の芝庭には、名石が多数あります。

・大磯渡りの付近にある石組み

「個性的な表情をもつ名石/珍石」の「珍石」がメインと言う事ではありませんが、お大磯渡りの途中、大正記念館側にある石組みは、中々動きのある石組みで、「オットセイが海から顔を出している様な石(オットセイ石①?)」や「オットセイが口を開けている様な石(オットセイ石②?)」を見る事が出来ます…。

・庭園入口付近の水鉢 / 佐渡赤玉石

園内入口付近には、落ち着いた雰囲気の水鉢もあり、そのすぐ近くには、赤い石・佐渡赤玉石があります。

前の段落で、回遊式林泉庭園とありますが、個人的には、回遊式池泉庭園と言っても良いと思っております(林泉回遊式庭園は、池泉回遊式庭園と同一カテゴリに含まれるが、「池泉周囲に植栽や石組で様々な趣向をこらした庭園」と言われているものの、「明確な定義がある訳ではない」と認識)。ただ、上記の様に名石( / 珍石?) / 巨石 / 石組み / 燈籠 / 水鉢等を見ていると、少しだけ違っている印象もあり「回遊式池泉庭園の代表・大名庭園に比べると、石や築山、池泉の扱い方をアレンジした『魅せる庭園』」と言った印象を持った次第です。

【最後に】

以上が、明治期に、三菱財閥の岩崎家が所有した、池泉を身近に感じつつ、多くの名石を楽しめる庭園「清澄庭園」を紹介させて頂いた内容になります。

元々は大名屋敷の庭園ですので、大名庭園の代名詞・回遊式池泉庭園言って良いと思いますが、確かに「石を中心に嗜好を凝らした演出」の要素も感じられ、散策しいて飽きない庭園だと思いました。同時に、この庭園に手を入れた、岩崎家の財力と趣味嗜好も感じられる『魅せる庭園』で、回遊式池泉庭園ですが、大名庭園のイメージから離れる意味でも「回遊式林泉庭園」とした方がより適切な表現であるとも思った次第です。

また、同時期に、岩崎弥太郎が買い取った六義園は、大名庭園の印象が強いと個人的には思っており「六義園は、完成度が高くあまり手を入れられなかった一方、清澄庭園は手を入れやすかったのかな…」とも思ってしまいました…。

ちなみに、園内にある岩崎家の接待施設であった「凉亭」は、借りられる様です…。しかも、3時間半で、5500円(詳細はこちらからご参照ください:https://www.tokyo-park.or.jp/special/teienshukaijo/05.html (更にちなみに、大正記念館も借りられる様です…))。正直一度機会を見つけ、岩崎家の接待施設がどれほどの物か、体験してみたいと思うのは、私だけでしょうか?

尚本ブログでは、東京旧古河庭園東京椿山荘神戸相楽園京都無鄰菴高松栗林公園熊本水前寺成就園山梨恵林寺庭園甲府常磐ホテルの庭園平泉毛越寺庭園名古屋徳川園二条城二の丸庭園川越喜多院の紅葉山庭園/中院の庭園熱海の起雲閣旧芝離宮恩賜庭園小石川後楽園清澄庭園浜離宮六義園新宿御苑日本三名園金沢兼六園岡山後楽園偕楽園等、全国各地の庭園も紹介しており、「日本庭園のカテゴリ分け(庭園分類)」に関しても記載しております(更新中あり)ので、下記一覧表をご活用いただき、ご参照頂けますと幸いです。

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