増上寺と東京タワー

【はじめに】

こちらのページでは、徳川家の菩提寺として有名な「増上寺」と「寛永寺」につき、その概要と大人散策を盛り上げる(と思われる個人的)妄想」を共有させて頂きます。

皆様は、徳川将軍家の菩提寺と言うと、どういったイメージ・連想をされますでしょうか? 私個人の印象としては「増上寺が徳川将軍家の菩提寺のイメージが強いが、知識として寛永寺も徳川将軍家の菩提寺として認識している」といった感じです。

増上寺には、徳川将軍の霊廟があり、隣接する芝公園には、芝東照宮があり、徳川将軍家の菩提寺である事が理解できます。同時に、個人的に好きで、毎年欠かさず拝見するお正月の箱根駅伝で、スタート直後 & ゴール直前に必ず増上寺の前を通りますし、仕事でもよくお邪魔していた地域なので、増上寺の方が接触頻度が高かったせいか「徳川将軍家の菩提寺 = 増上寺」のイメージが強くなってしまった様な気がします

一方、本ブログ別記事でも触れましたが、現在の上野公園は、元々寛永寺の境内で、戊辰戦争の一つである上野戦争で焼け野原となり、現在の上野公園になった経緯がある公園。その為、清水観音堂上野東照宮、徳川将軍の霊廟等が上野公園内・現寛永寺内にあり、江戸期に寛永寺がこの地にあった(勿論現在も上野公園に隣接する形で存在しますが…)事が理解できます。

こちらのページでは、そんな個人的な印象を持っている徳川将軍家の2つの菩提寺「増上寺」と「寛永寺」につきその概要を抑えた上で、関連するTopicを基に、大人散策を盛り上げる(と思われる勝手な)妄想を共有致します。

【増上寺と寛永寺の概要】

先ずは「増上寺」と「寛永寺」の概要から、Wikipedia の力を借りつつ、抑えさせて頂きます。

・増上寺の概要

Wikipedia の「増上寺」の項目には、以下の様にあります(引用後、サマリ的に考察を加えていますので、引用飛ばして頂いても大丈夫です…)。

増上寺(ぞうじょうじ)は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の仏教寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する

歴史
9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。
室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めたこの聖聡が実質上の開山と言える (略)
中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、酉誉聖聡を継いで増上寺2世となった聡誉酉仰は甥であったと伝えられている。酉誉聖聡・聡誉酉仰共に千葉氏の出身とされていることから、千葉氏の庇護を受け、後に地元の領主であった江戸氏や太田氏の庇護を受けたという (略) 

通説では天正18年(1590年)、徳川家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、12世源誉存応と対面したのが徳川家の菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、家康によって現在地の芝へ移された。風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。ただし慶長7年頃の江戸を描いたとされる『別本慶長江戸図』には後の西の丸下、日比谷入江に面する箇所に「僧正殿」との記述がありこれを増上寺とする説がある。この場合、芝の土地を拝領したものの関ヶ原合戦等で伽藍完成が遅れたと考えられる (略)
元禄14年(1701年)3月に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという挿話が文学作品『忠臣蔵』で有名である。畳替えの件が史実であるかは不明。なお、長矩は内藤忠勝の甥である (略)
徳川幕府の崩壊、明治維新後の神仏分離の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が芝公園となる。太平洋戦争中の空襲によって徳川家霊廟や五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた (略)
2022年7月11日、同年同月8日の安倍晋三銃撃事件で死亡した安倍晋三元首相の葬儀が執り行われた (略)

増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。第二次世界大戦前には台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(秀忠夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が旧・国宝(建造物)に指定されており、その壮大さは日光東照宮に引けを取らないものだったが、1945年(昭和20年)に2度の空襲があり3月10日に北廟68棟が被災、続く5月25日に南廟28棟が被災し、その建造物群のほとんどを焼失した。2021年(令和3年)現在は台徳院霊廟の門4棟、有章院霊廟二天門、文昭院霊廟奥院中門(鋳抜門)、ならびに文昭院・有章院等の宝塔8基(後述)を残すのみである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/増上寺

上記の通りですが、増上寺の歴史は古く、中々その歴史は明確になってはいないものの、9世紀頃の光明寺(増上寺の前身)にさかのぼり、事実上の開山は、室町時代になる様です。その後「江戸幕府入府の折に、徳川家康が ”たまたま” 増上寺の前をとりかかった事が、徳川将軍家の菩提寺になったきっかけ」との事で、「何処まで真実か見えいない部分があるな…」と思ってしまいましたが、秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂と徳川将軍の6名が葬られている増上寺ですので、徳川将軍家の菩提寺である事は間違いなく、史実は不明も忠臣蔵の発端になったとも言われ、江戸城の裏鬼門を守る増上寺は、江戸の歴史の中で中心にあったお寺である事は間違いないとも思った次第です。

・寛永寺の概要

次に「寛永寺」ですが、Wikipedia の「寛永寺」の項目には、以下の様にあります(引用後、サマリ的に考察を加えていますので、引用飛ばして頂いても大丈夫です…)。

寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は江戸幕府3代将軍の徳川家光であり、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。

徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務めて朝廷との繋がりが深かった。日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、幕末の動乱期に主要な伽藍が焼失した。かつての境内の大部分は上野公園となっている (略)

衰退と復興
江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。現在の上野公園のほぼ全域が寺の旧境内であり、最盛期には、更にその2倍の面積の寺地を有していた。例えば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。
江戸時代には飛鳥山と並ぶ桜の名所として知られており、庶民の行楽地であった。
しかし、上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇を焼失し、残された建物は五重塔、清水堂、大仏殿などだけとなった (略) 江戸時代の境内地だった場所は、上野公園や上野駅の用地となり大きく変貌をとげた。明治12年(1879年)子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、復興の途についた。
太平洋戦争中の東京大空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。2度の戦災をまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している (略)

現存する伽藍
本堂(根本中堂) -(略) 明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではない。内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置する(堂内は非公開)。
書院 – 本堂裏手にあり、徳川慶喜が水戸退去の前に、2か月ほど蟄居していた部屋(葵の間、あるいは蟄居の間)が保存されている(非公開)。
旧本坊表門(略) – 重要文化財。通称黒門。東京国立博物館東側の輪王寺にある。寛永年間の建造物で、もとは博物館正門の位置にあった。
清水観音堂(略) – 重要文化財 (略) 寛永8年(1631年)の建築で、当初は摺鉢山古墳の位置にあったが、中堂建立に伴い現在地に移築された。規模は小さいとはいえ、京都の清水寺本堂と同様の懸造建築である。江戸三十三箇所観音霊場の第6番札所。
弁天堂(略) – 上野公園南側にある不忍池の弁天島(中之島)に、天海が竹生島の宝厳寺の弁才天を勧請して建立。島は常陸下館藩主水谷勝隆が築いたもので、当初は橋がなく、舟で参詣していた。当初の建物は入母屋造であったが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート造の八角堂として再建された。
旧寛永寺五重塔(略) – 重要文化財。寛永8年(1631年)建立の初代の塔が寛永16年(1639年)に焼失した後、同年ただちに下総古河城主土井利勝によって再建された。塔は旧境内地を使って作られた恩賜上野動物園の園内に位置しており、1958年に寺が寄付したため、現在の所有者は東京都になっている(名称に「旧」とつくのはそのため)。塔の初重に安置されていた釈迦如来・薬師如来・弥勒菩薩・阿弥陀如来の四仏は、東京国立博物館に寄託されている。

東照宮(略)
時の鐘(略) – 上野公園内、精養軒の近くにある鐘楼。現在ある鐘は天明7年(1787年)の作。
大仏山パゴダ(略) – 時の鐘の近くにあり、昭和42年(1967年)の建立。もと上野東照宮本地堂(神仏分離の際に破壊)の本尊であった薬師三尊像(江戸時代初期)を祀る。
上野大仏 – 寛永8年(1631年)、堀直寄の寄進で最初の大仏が造られた。以後、地震、火災等で消滅と再興を繰り返し、現在は顔の部分のみが大仏山パゴダ脇に保存されている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/寛永寺

増上寺同様、徳川将軍家の菩提寺であり、増上寺の裏鬼門に対し、鬼門を守る寛永寺。「増上寺比べその歴史は新しく三大将軍・家光によって創建(江戸時代の創建)され、増上寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺となるも、徳川幕府の終焉と共に、戊辰戦争(上野戦争)で、焼け野原になってしまい、現在では上野公園の北西側に隣接する形で残り、今尚、徳川将軍家の霊廟(徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る)や明治期に川越喜多院の本地堂を移築した本堂(=根本中堂)の残る寺院が寛永寺」と理解した次第です。言い換えますと、「元々上野公園は、ほぼ寛永寺の敷地」と言って良い様で、その痕跡も、清水観音堂をはじめ上野公園の中(正確には隣接するエリアも含むでしょうが…)で、拝見出来る認識です。

【増上寺と寛永寺の比較、そして疑問…】

「増上寺」・「寛永寺」とそれぞれ概要を抑えさせて頂きましたが、それぞれの比較の意味も込めて、以下に一覧表比較表をまとめさせて頂きます

いかがでしょうか? 増上寺も、寛永寺も徳川将軍家にとって重要な仏閣である事ご理解頂けると思いますが、何か思われる事ございますでしょうか? 私の場合は、上記比較表を作成している際、ある疑問がフツフツとわいてきてしまいました。それは「そもそもなぜ徳川将軍家の菩提寺が2つあるのか?」、「家康が指定した徳川将軍家の菩提寺・増上寺から変更する様な行動をなぜ家光はしたのか?」、「何か特別な力が加わったのか?」と言う物です。「歴代の将軍が『鬼門』と『裏鬼門』をそれぞれ守る必要があるので『菩提寺も2つ』ある」なんていわれ方もしますが、上記「寛永寺創建の概要」を拝見するに、「本当にそうなの?」と天邪鬼根性が顔を出し「なぜ2つなんだ…、おもしろいストーリーは考えられないの?」と思ってしまった次第です。

【「なぜ徳川将軍家の菩提寺が2つあるのか?」に対する勝手な妄想:明智光秀=天海=江戸草創期のフィクサー?】

ここからは、(本当に)勝手な妄想の域に入ります。言い換えますと、「そんな(学術的根拠に基づかない)勝手な妄想をしながらこの増上寺と寛永寺を大人散策すると面白いのでないか…」と思ったというだけの話です…。故に、話半分(1 / 100 ?)でお願いします…。

で、その妄想とは、本ブログ別記事でも詳細(妄想?)を記載しておりますが「天海=明智光秀説」。つまり、「明智光秀は、本能寺の変の後の山崎の戦いでは死んでおらず家康の元で生きながらえ、家康秀忠・家光の3代の将軍に仕え『天海』となり、江戸の草創期に江戸幕府の政治を牛耳り、江戸の街の礎を作った『江戸草創期のフィクサー=天海=明智光秀』の痕跡の一つが『増上寺 & 寛永寺の徳川将軍家の2つの菩提寺』」と言う物です…。「何言ってんだ…」の声が聞こえてきそうですが、「個人の勝手な妄想」として、ご容赦頂けますと幸いです。

フィクサー:政治・行政や企業の営利活動における意思決定の際に、正規の手続きを経ずに決定に対して影響を与える手段・人脈を持つ人物を指す (Wikipediaより抜粋(https://ja.wikipedia.org/wiki/フィクサー))

上記記載の通り「明智光秀=天海説に関する妄想」に関しては、別記事にて記載(妄想)していますので、詳細はそちらをご参照頂きたいのですが、サマリのみ記載いたしますと以下の様になります。

明智光秀は、室町幕府の将軍・足利義昭に拾われた恩義があり、室町幕府の政治に貢献する事が自身の使命と元々感じていたそんな時、信長甲州征伐による武田家滅亡により、東国で次の脅威になりつつあった家康を、信長が暗殺しようとした為、光秀にとってはチャンス到来とばかりに、陰で家康と結んだ。しかし信長は、その兆候を見逃さず、逆に光秀家康暗殺を命じたが、光秀はこれを拒否。これにより、光秀は左遷的に秀吉のサポートに回るよう命令されるも、これ以上信長に仕える振りをしても、諜報員としての活動が出来ず、「元々の使命である幕府の再興は難しい」と考え、ちょうど信長の警備が手薄である状態であった為、(信長の事が嫌いな事もあり)「自身による打倒信長」と言う強行突破に出て、本能寺の変を実行した。しかし、秀吉の素早い行動に阻まれ、「壊滅的な打撃」を受けてしまった為(山崎の戦)、次のチャンスを待つべく、本能寺の変の前に結んだ家康を頼って、その庇護下で身を隠した

そんな状況であった為明智光秀」を名乗る事は出来ず、「室町幕府の諜報員として活動していた時の寺院との繋がり」や「家康が治める関東の寺院とのつながり」を活用し、僧侶として生きていく事になった。同時に、あまたの戦国武将と交わり、室町幕府の政権中枢ともつながっていた光秀と言う人材は、家康にとっても重要な人材であった為、戦場にも同行してもらいつつ、良き相談役として家康と行動を共にする様になっていった。その為、江戸にとっても重要で、かかわりの深い無量寺北院(現川越喜多院)の僧侶・天海として表舞台に出てくる事になった。
天海は、光秀時代に得た情報や知識・経験を「かつて夢見た室町幕府の再興」と重ねる様に、江戸草創期の政に活かす事で貢献し、気が付くと家康秀忠・家光の3代の将軍に仕えていた天海の江戸幕府における貢献は目を見張るもので、彼の情報・知識・経験は、家康を魅了し、光秀ゆかりの人や寺院の復権を後押しするものとなった。更に秀忠・家光も魅了し、江戸の街の為と言う大義ではあるが、秀忠は、天海の為に寛永寺創建の為の土地を与え家光に至っては、天海がもう既に他界しているにも関わらず、自身の葬儀は、それまで徳川の菩提寺とされていた増上寺ではなく、寛永寺で行う様に遺言した。
つまり、天海は、明智光秀の後半生の姿であり、室町幕府の諜報員として活動したことにより得た情報や知識・経験を江戸幕府草創期の政に活かす事で信頼を得て、影の支配者であり、フィクサーになって行った」と言う事である。

つまり、「江戸期草創期に、天海として江戸幕府を陰で操った明智光秀が、江戸城の鬼門と裏鬼門を抑えるという大義名分で(=自身が住職を務める寺院を創建し)、江戸の街づくりの一環として増上寺と寛永寺を配置したから『徳川将軍家の菩提寺が2つある』=『徳川将軍家の菩提寺が2つあるのは、天海明智光秀が江戸草創期にフィクサーとして活躍した痕跡』」と妄想した次第です…。

【最後に】

以上が、徳川家の菩提寺として有名な「増上寺」と「寛永寺」につき、その概要と大人散策を盛り上げる(と思われる個人的)妄想」を共有させて頂いた内容になります。

妄想ですので、その真意を問われると何も言い返す事は出来ませんが、そんな妄想をしつつ徳川将軍家の菩提寺である「増上寺と寛永寺」を散策する事は、ただの散策を大人散策に昇華させるものだとも思っている次第です。

増上寺には、隣接する芝公園の隣(公園内?)に、四大東照宮の一つと言われる芝東照宮もありますし、寛永寺には隣接する上野公園内に清水観音堂や、やはり四大東照宮の一つと言われる上野東照宮があります(他2つの四大東照宮で、日光東照宮久能山東照宮は外せない…)。徳川将軍家の菩提寺ですので、代々の徳川将軍の霊廟に遠くからでもお参りをしつつ(墓地ですので、立入りが難しい事もあるので…)、家康ゆかりの神社・東照宮(=芝東照宮 & 上野東照宮)も併せて(芝東照宮に隣接する形で、芝丸山古墳や丸山貝塚がありますが…)、上記の様な妄想をしつつ参拝し、その歴史(増上寺:忠臣蔵、寛永寺上野戦争)に思いを馳せてみるのも大人の楽しみ方ではないかと思った次第です!

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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