【はじめに:「軍神・武神」とは?】
こちらのページでは、「『軍神・武神』と言うワードのもとに、その意味と日本史における具体的な『軍神・武神』を、(個人的/主観的選択でですが)挙げさせて頂きたい」と思います。
そもそも皆様は、「軍神・武神」と聞くとどういったイメージをお持ちになりますでしょうか? 個人的な印象で申し上げるのであれば、「スポーツ等において勝利をもたらしてくれる神」・「(勝利の女神的な感じで)スポーツ等の戦いにおいて勝敗を司る神」、時には「ある競技(特にスポーツ)において、類い稀な才能を持った神がかり的な選手」と言った様な印象を持ってしまいます。世界では戦争が絶えず行われていますが、非常に幸いな事に、現代の日本では、そういった事とは、(直接的には)ほぼ無縁に生活させて頂いている認識で、その代わりに、スポーツを中心とした「勝敗のある競技」における神として「軍神・武神」と言うワードを使うケースが多いのでないかと思います。しかし、元々の意味をWikipediaの力を借り、調べてみますと、以下の様にあります。
軍神(ぐんじん、ぐんしん、いくさのかみ、いくさがみ)とは:軍事・戦争を司る神。武神もしくは闘神、戦神ともいう (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/軍神
軍神とは戦勝や武運長久を祈願し、聞き届けてくれるといわれる神を指す (略)
今の時代、大変ありがたい事に、日本では平和な生活をさせて頂いておりますが、かつて日本も国内での戦、海外との戦争等、厳しい歴史があった事は事実です。そんな中、生まれた神(人の願望の拠り所?)が「軍神・武神」であると思った次第です。戦・戦争を肯定するつもりは、サラサラありませんが、日本が歩んできた歴史に、戦や戦争があった事も事実ですので、「その当時の(一般民衆も含めた)人達がどんな思いであったのか?」を思う事で、「今の平和な時代を継続する原動力」とすべく、あえてこちらのページでは、「日本史における具体的な『軍神・武神』を、(個人的/主観的選択でですが)挙げさせて頂きたい」と思います。
尚、時代毎に「軍神・武神」を取り上げさせて頂きたいと思いますが、その時代の考え方も(特に古代においては)様々な解釈(区切り)がある認識ですので、こちらのページでは、以下の時代の考え方で記載いたします(少し緩いですが…)。
- 古代:神話時代を含む縄文・弥生・古墳/飛鳥/平安期終わり前後位まで
- 中世:平安期終わり前後 ~ (鎌倉期を含む)戦国期(応仁の乱)前後位まで
- 近世:戦国期(応仁の乱)前後 ~ (江戸期を含む)明治維新前後位まで
- 近代:明治維新前後 ~ 第二次世界大戦の終結まで
【個人的に選出した「軍神・武神」】
以下に、上記に記載した時代の切り口の元、それぞれの時代における「軍神・武神」を ”独断と偏見による個人的思考の元” 選出させて頂きます。 ”独断と偏見による個人的思考の元” なので「それは違うでしょ!」と言う意見もある事、重々承知しておりますが、お付き合いいただけますと幸いです。
■古代:神話時代含む縄文/弥生/古墳/飛鳥/平安期終わり前後位まで
この時代に挙げさせて頂く、「軍神・武神」は、「タケミカヅチ(鹿島神宮祭神)」・「フツヌシ(香取神宮祭神)」・「タケミナカタ(諏訪大社祭神)」・「八幡神(応神天皇(誉田別命)中心とし、比売神・神功皇后の八幡三神)」と言ったところでしょうか? 現在の日本においても、「軍神・武神」として、神社に祭られている「まさに神々」ですし、それぞれ別記事で記載しておりますので、あまり多くの説明は必要ないかもしれませんが、以下に簡単に紹介させて頂きます。
- 「タケミカヅチ(鹿島神宮祭神)」・「フツヌシ(香取神宮祭神)」・「タケミナカタ(諏訪大社祭神)」
- 国譲りの日本神話をベースとした、「軍神・武神」と認識しており、平安期の「梁塵秘抄」では「関より東の軍神、鹿島・香取・諏訪の宮」と言われた、日本最古の軍神と認識しています。
参考:「国譲り神話」の個人的理解の概要
高天原(天上の国?)に住む天照大御神は、建御雷神(鹿島神宮の祭神)と天鳥船神 or 経津主神(香取神宮の祭神)を葦原中国(地上の国?)に遣わし、大国主神(出雲大社の祭神)に「この国は天照大御神の子孫が治めるべき」と『国譲り』を迫った。
大国主神は、先に自身の息子2人に訊ねるよう言った。1人の息子・事代主神(美保神社(松江)の祭神)は、承諾したが、もう1人の息子・建御名方神(諏訪大社の祭神)は、「力競べをしようではないか」喧嘩を吹っかけてきたので、建御雷神(鹿島神宮の祭神)は、手をつらら、そして剣に変化させ、更に建御名方神(諏訪大社の祭神)の手を掴み、若い葦を摘むように握りつぶして放り投げた(相撲の起源とも…)。たまらず、建御名方神(諏訪大社の祭神)は、逃げ出したが、建御雷神(鹿島神宮の祭神)は、諏訪まで追い詰めた。すると、建御名方神(諏訪大社の祭神)は「この諏訪の地から出ない事」を条件に許しを請い、建御雷神(鹿島神宮の祭神)に降参した。
その後、建御雷神(鹿島神宮の祭神)は、出雲に戻り、大国主神に再度尋ねると「二人の息子が天津神(天照大御神)に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私も、私の家臣も従いましょう」と承諾したので、大国主神のために宮殿(16丈(48m)説の古代本殿(32丈(96m)説もあるらしいですが…))を建て大国主を祭った。
- 八幡神;応神天皇(誉田別命)、比売神・神功皇后(応神天皇母)の「八幡三神」
- 「源氏の氏神:八幡神」として有名で、歴代の名だたる武将があがめてきた「八幡神」とは、応神天皇(誉田別命)中心とし、比売神・神功皇后(応神天皇の母)を合わせた「八幡三神」の事を言う認識です。全国各地にある八幡信仰の起源が、この八幡神であり、大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)を総本社として、現在でも数多くの八幡神社が日本全国にある事は、周知の事実だと思います。ちなみに、別記事でも記載しましたが、よく言う「三大八幡」とは、以下の4社のうち「宇佐神宮・石清水八幡宮」に「筥崎宮・鶴岡八幡宮」のいずれかを合わせた3社言われている認識です。
- 三大八幡:「宇佐神宮・石清水八幡宮」に「筥崎宮・鶴岡八幡宮」のいずれかを合わせた3社らしい… (以下社格も併せご参照ください)
■中世:平安期終わり前後 ~ (鎌倉期含む)戦国期(応仁乱)前後位まで
この時代に挙げさせて頂く、「軍神・武神」は、「源義経」・「楠木正成」・「新田義貞」と言ったところだと思っております。「平安期から鎌倉期に時代が移る原動力の役割を果たした源義経」、「建武の新政の立役者で、別格官幣社の祭神として祭られる楠木正成・新田義貞」は、「軍神・武神」の称号を与えるべき武将だと思った次第です。
- 源義経
- 源義経は、ご承知の通り、兄・頼朝により討たれてしまった為、ある意味「敗者」方の扱いで、「神」の認識は一般的にはあまりないかもしれませんが、一の谷・屋島・壇ノ浦の戦いと言った平家との戦における活躍は「軍神・武神」にふさわしいと思いますし、この義経による戦の勝利が与えたインパクト(鎌倉幕府の成立)を考えると、逆に「軍神・武神」となるべきと思ってしまった次第です。
- 楠木正成
- 「元弘の乱」における後醍醐天皇を奉じた「千早城の戦い」で大群の(鎌倉)幕軍を千早城に引きつけ、粘り腰で戦い、結果、日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した功績は大きいと認識しています。建武の新政における元勲の1人で、 明治以降は、(明治政府の意図が見え隠れしますが)別格官幣社・湊川神社の祭神となった、文字通りの「神」と思う次第です。
- 新田義貞
- 「上野の御家人であった新田義貞」は、上記、楠木正成が火をつけた「元弘の乱」で、鎌倉討伐軍に参加し、鎌倉に侵攻した上で、鎌倉幕府・北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた建武の新政樹立の立役者の一人の武将。やはり同じく、(明治政府の意図が見え隠れしますが)別格官幣社・藤島神社の祭神となった、文字通りの「神」と思う次第です。
■近世:戦国期(応仁乱)前後 ~ (江戸期を含む)明治維新前後位まで
この時代に挙げさせて頂く、「軍神・武神」は、「上杉謙信」・「武田信玄」・「大村益次郎」だと思います。勿論、時代に与えたインパクトを考えると、「三英傑:織田信長(別格官幣社・建勲神社祭神)・豊臣秀吉(別格官幣社・豊國神社祭神)・徳川家康(別格官幣社・日光東照宮/久能山東照宮祭神)が、順当なのかもしれませんが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は、「天下人の括りの神」であり、「軍神・武神」と言うには、少し範囲が違う気がしました為、「武・戦」の香りが強い、「上杉謙信」・「武田信玄」・「大村益次郎」を選出した次第です。
- 上杉謙信
- 「毘沙門天の化身」とも言われ(自称し?)、『自身には「矢」も「鉄砲」も当たらない』と、謙信による小田原城攻めの際、北条軍の目の前で余裕をかましまくったと言われる上杉謙信。「戦での強さ」は勿論、(勿論見た事ありませんが)先の様に伝わる「立ち振る舞い」や、「『頼られたら助けるし、攻められたら戦うけど、自身の領地拡大の為の戦はあまりしなかった』と言われる生き方」も『「軍神・武神」に相応しい』と思うのは私だけではないと思います。別格官幣社・上杉神社の祭神になっていますし…。
- 大村益次郎
- 靖国神社に像がありますが、戊辰戦争における戦いの1つ・上野戦争における新政府軍の指揮官・大村益次郎も「軍神・武神」の一人として選出すべきだと思っております。別記事で紹介しておりますが、意外と知られていない、幕末の江戸(現上野公園付近)での戦・上野戦争。あまり知られていないのは、この戦が「1日で決着したから」だと思っています。言い換えると、「大村益次郎の戦略の元、1日で上野戦争が決着したので、上野戦争の事実があまり広がっていない」と理解しており、「クレバーな戦略家の軍神・武神」と言って良いのでないかと思った次第です。
■近代:明治維新前後 ~ 第二次世界大戦の終結まで
この時代に挙げさせて頂く、「軍神・武神」は、「乃木希典」・「東郷平八郎」です。それぞれ、乃木神社・東郷神社が、現在でもありますので、近代における文字通りの「軍神・武神」と言って良いと思いますが、同時に、日本がその歴史を反省しなければいけない期間の「軍神・武神」とも言えると思った次第です。
- 乃木希典
- 東郷平八郎
- 東郷 平八郎は、日清戦争では「浪速」の艦長を、日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り、日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍のバルチック艦隊を、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により破り、世界の注目を集めた海軍軍人(元帥海軍大将)。死後、東京渋谷と福岡福津に「東郷神社」が建立され、神として祀られ(東郷自身は生前の乃木神社建立時、(陸軍に対抗するために)将来自身を祭る神社の設立される計画を聞いて驚き、「やめてほしい」と強く懇願していたらしい)、埼玉飯能の東郷公園(秩父御嶽神社内)をはじめ、神奈川横須賀の三笠公園、長崎佐世保の東公園、鹿児島の多賀山公園等に、東郷の銅像がある様です。鎌倉武士の血筋であり先祖代々日蓮宗の崇敬者であったことから東京府中の東郷の別荘跡地には海軍関係者が中心となって日蓮宗寺院聖将山東郷寺が建立され現代では枝垂桜の名所と有名な認識です。
【最後に】
以上が、「『軍神・武神』と言うワードのもとに、その意味と日本史における具体的な『軍神・武神』を、(個人的/主観的選択でですが)挙げさせて頂きました内容」になります。
独断と偏見ではありますが、上記各時代の「軍神・武神」を挙げさせて頂きましたが、皆様はどの様にお感じになられましたでしょうか? 個人的には、「それぞれの時代に、それぞれの『軍神・武神』がいらっしゃる事」・「日本の歴史において多くの戦・戦争があったからこそ『軍神・武神』と言う考えが出てきた事」と言った「2つのポイント」を感じてしまった次第です。言い換えますと、現在は、戦争もなく、幸いにも平和な時代を生きさせて頂いておりますが、「日本にも “軍神・武神” を崇拝したくなる期間が多くあった(と言うよりその歴史の方が長い?)」と言う事実を知ってしまうと、「軍神・武神に頼らなくても良い、平和な時代が続く事」を改めて切望してしまった次第で、今後、上記「軍神・武神」の祭られる神社にお参りする際には、「孫氏の考え」ではありませんが、『「戦や戦争に勝つ事」よりも「そもそも戦や戦争を起こさせない事」を「軍神・武神にお願いしたい」』という観点の元、「今後も平和な時代が永続する事を祈願」させて頂きたいと思ってしまいました…。
尚本ブログでは、諏訪大社や熱田神宮、大宮氷川神社、川越氷川神社、川越喜多院、日光の二社一寺、久能山東照宮、浅草寺、深大寺、神田明神、大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。