内宮 皇大神宮入口(2023年9月)

【はじめに】

こちらのページでは、「日本神話と関連深く、皇室のみならず『国家の総鎮守』とも言われ、『最高の特別格の宮』とされる『三種の神器の1つ・八咫鏡をご神体とする伊勢神宮』に付き、その概要を抑え、その歴史から妄想」をさせて頂こうと思います。

皆様は、「伊勢神宮」は勿論ご存じですよね? でも、実際に脚を運ばれた事はありますでしょうか? 私達夫婦の場合は、『日本神話に登場し、「三種の神器の1つでもある「八咫鏡」をご神体とし、天照大御神(アマテラス)を御祭神とする伊勢神宮」ですので、勿論存じ上げておりますが、未だに「お蔭参り」を出来ておらず「いつか必ず!」と思っている神社(神宮)』と言った感じです(そもそも三重にお邪魔した事が無いので…)…。「日本人」で、「お陰参り未経験」あれば、私達夫婦と同様に思うのでないかと想像すると同時に、「そもそも伊勢神宮ってどんな神社?」、「日本神話との関連って、どんな関連?」、「2000年の歴史があると言われる伊勢神宮だけど、本当に2000年の歴史があるの?」と言った感じで、疑問も沸いて来てしまった次第です。

こちらのページでは、上記の疑問を解決すべく、「伊勢神宮の概要と日本神話との関連」を中心に調査し、それをベースに感じた事を記載させて頂こうと思います。すなわち、「日本神話と関連深く、皇室のみならず『国家の総鎮守』とも言われ、『最高の特別格の宮』とされる『三種の神器の1つ・八咫鏡をご神体とする伊勢神宮』に付き、その概要を抑え、その歴史から妄想」をさせて頂こうと思います

【「伊勢神宮」とは?】

まずは「伊勢神宮」の概要から抑えさせて頂きます。Wikipedia にて情報集させて頂きますと以下の様にあります(引用長く、以下にポイントをまとめておりますので、読まなくても大丈夫です)。

伊勢神宮(いせじんぐう)は、日本の三重県伊勢市にある神社。正式名称は「神宮」(じんぐう)である。他の神宮と区別するために、「伊勢」の地名を冠し伊勢神宮と通称される。
「伊勢の神宮」、または親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。古来、最高の特別格の宮とされ、現在は神社本庁の本宗(ほんそう。全ての神社の上に立つ神社)であり、「日本国民の総氏神」とされる。
律令国家体制における神祇体系のうちで最高位を占め、平安時代には二十二社の中のさらに上七社の1社となった。また、神階が授与されたことのない神社の一つ。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。

概要
伊勢神宮には天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ。天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。
広義には、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた合計125の社宮を「神宮」と総称する。この場合、所在地は三重県内の4市2郡に分布する (略)
他の多くの神社は瓦屋根や朱塗りの建物に変わっていったが、伊勢神宮は神明造という古代の建築様式を受け継いでいる。これは弥生時代の高床倉庫が起源で、神へのお供え物をする特別な建物だったといわれている。また、式年遷宮が20年に一度行われる (略)
伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い神宮の神体である八咫鏡は、宮中三殿の賢所に祀られる御鏡と一体不可分の関係とされ、神宮祭祀と宮中祭祀は一体性をもって行われてきた。 (略) 現代でも天皇・皇后が参拝するほか、神宮の神嘗祭に際しては毎年天皇から勅使が派遣され、神宮の祭主を元皇族の女性が務めるなど、天皇と神宮の繋がりは深い  (略)
中世以降は、このような天皇の祖神としての性格や公的な性格に加え、「国家の総鎮守」として庶民を含むあらゆる階層から信仰を集め膨大な数の参拝者を生むようになり、とりわけ江戸時代には短期間で数百万人が参拝する「お蔭参り」が生じるなど、伊勢神宮は日本の信仰の中心地となった (略)

祭神
主祭神は以下の2柱
 ・皇大神宮:内宮(ないくう)
  天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ) – 一般には天照大御神として知られる。

 ・豊受大神宮:外宮(げくう)
  豊受大御神(とようけのおおみかみ)
 (略)

神話
天孫・邇邇芸命が降臨した(天孫降臨)際、天照大御神は三種の神器を授けその一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。」(『日本書紀』)として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれた (略)
その後八咫鏡は皇女の倭姫命に託され、倭姫命は天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をして各地を移動した。『日本書紀』に「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、さらに還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とある通り、垂仁天皇25年3月に倭姫命は伊勢に至った(元伊勢伝承)。倭姫命が伊勢に至ると、天照大御神から「この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ」との神託が降り、伊勢の地に鎮座することが決まったのである。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている (略)
外宮、平安時代初期の『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)によれば、雄略天皇22年7月に、天照大御神から雄略天皇に「吾一所に坐せば甚(はなはだ)苦し。しかのみならず大御饌も安く聞召(きこしめ)さず坐すが故に、丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井(ひじのまない)に坐す我が御饌都神(みけつかみ)、等由気大神(とゆけのおおかみ)を我が許に欲す」との神託があったとされ、この神託の通り、豊受大神を丹波国の真奈井原(まないはら)から伊勢山田原へ、天照大御神の食事を司るための神として遷座したことが起源とされる。 (略)

式年遷宮
神宮式年遷宮は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)である。原則として20年ごとに、内外両宮の正宮の正殿を始めとする別宮以下の諸神社の正殿を造替して神座を遷し、宝殿、外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎といった全社殿を造替する他、714種1576点の御装束神宝(装束と須賀利御太刀などの神宝)、宇治橋なども造り替える。
記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代の天武天皇が定め、持統天皇4年(690年)に第1回が行われた。その後、戦国時代の120年以上におよぶ中断や幾度かの延期などはあったものの、平成25年(2013年)の第62回式年遷宮まで、およそ1300年間行われている。 第63回目の式年遷宮の年は2033年予定で準備が進められている。
なお、伊勢神宮が世界遺産に登録されていない理由として、この式年遷宮が世界遺産に求められる「不変性」「保護」の観点と嚙み合わないためとされる (略)

信仰の性格
このように伊勢神宮は長い期間を通じて膨大な数の人々が参宮してきたが、その要因の一つとして、伊勢神宮が神道の最高神で天皇の祖神でもある天照大御神を祀るという性格から、「国家の総鎮守」として信仰されたことが挙げられる。古くから、伊勢信仰において神宮が「国家の総鎮守」として信仰されてきたことを示す例としては、例えば中世において、源義宗が伊勢神宮に領地を寄進するに当たって「是れ大日本国はすべて皇大神宮・豊受宮の御領たる故なり」との文言を寄進状に載せて両宮を日本全体の神と認識していることや、『吾妻鑑』に見える源頼朝の寄進状にも「公私の御祈祷のため」という文言が見えて、「私」とともに「公(=国家)」も神宮の祈願対象となっていることが挙げられる。この意識は農民層においても同様であったらしく、中世の百姓が書いた起請文に、天照大御神を称して「日本国主」「日本鎮守」と書かれたものが見つかっている。また、仏教勢力においても重源が「天照大御神は我が朝の本主、此の国の祖宗なり」と述べたり、無住が『沙石集』の中で「我が国の仏法ひとえに大神宮のご加護によれり。当社は本朝の諸神の父母におわすなり」と述べたほか、安房国出身の日蓮は『新尼御前御返事』で「安房国東條郷辺国なれども日本国の中心のごとし。其故は天照太神跡を垂れ給へり」として安房国東郷荘に神宮御厨があることを理由に、この地は辺境であるものの日本の中心に等しいと述べている。このように、仏僧においても伊勢神宮が日本の主神であり、仏教をも伊勢神宮により鎮護されているとみなす考え方が広まっている。 (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊勢神宮

少々引用が長くなってしまったので、以下にサマリとして、ポイントを列挙します。

  • 伊勢神宮の正式名称は「神宮」であるが、他の神宮と区別するために「伊勢」の地名を冠し通称「伊勢神宮」と呼ばれており、「伊勢の神宮」・「お伊勢さん」・「大神宮さん」とも呼ばれ、古来「最高の特別格の宮」とされ、現在は「神社本庁の本宗」であり、「日本国民の総氏神」とされる
  • 伊勢神宮には「“天照大御神(アマテラス)” を祭神とする『皇大神宮』」と、「衣食住の守り神である “豊受大御神(トヨウケビメ:イザナミの孫)” を祭神とする『豊受大神宮』」の二つの正宮があり、「皇大神宮は内宮」、「豊受大神宮は外宮」と呼ばれ、この内宮外宮に加え、広義の意味においては、別宮、摂社、末社、所管社等を含めた合計125の社宮を「神宮」と総称する様で、所在地は三重県内の4市2郡に分布している
  • 伊勢神宮は「皇室の氏神である天照大御神」を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強く、現代でも天皇・皇后が参拝するほか、神宮の神嘗祭に際しては毎年天皇から勅使が派遣され、神宮の祭主を元皇族の女性が務めるなど、天皇と神宮の繋がりは深い関係にあると同時に、「神道の最高神で天皇の祖神でもある天照大御神」を祀るという性格から、「国家の総鎮守」としての考え方は、「源義宗や源頼朝といった武将」、「重源や無住、日蓮といった仏僧」も認めたところであり、「庶民を含むあらゆる階層から信仰」を集め、特に江戸時代には短期間で数百万人が参拝する「お蔭参り」が生じるなど、伊勢神宮は日本の信仰の中心地となった
  • 伊勢神宮の「ご神体である八咫鏡」は、”ニニギ(アマテラスの孫)” の天孫降臨の際、天照大御神が授けた「三種の神器」の内の一つで、天照大御神自身の神霊を込めたとされており、この鏡は神武天皇に伝えられ、更に “倭姫命(ヤマトヒメノミコト;11代・垂仁天皇の第四皇女)” に託され、八咫鏡(=天照大御神の神魂)を鎮座させる地を求め各地を移動すると、神託が降り、伊勢の地に鎮座することになったと言われるらしい

  • 外宮は、21代・雄略天皇に天照大御神から神託があり、「豊受大神」を「天照大御神の食事を司るための神」として遷座したことが起源とされるらしい
  • 伊勢神宮は神明造という古代の建築様式を受け継いでおり、これは弥生時代の高床倉庫が起源で、神へのお供え物をする特別な建物だったといわれ、持統天皇の時代の690年に、第1回の「式年遷宮」が行われ、その後20年に一度のペースで、2013年の第62回「式年遷宮」まで、およそ1300年間継続されているらしい
  • また、伊勢神宮が世界遺産に登録されていない理由として、この式年遷宮が世界遺産に求められる「不変性」「保護」の観点と嚙み合わないためとされるらしい

上記、Wikipedia の引用を出来るだけまとめさせて頂いたつもりですが、更にまとめると『伊勢神宮は、「皇大神宮=内宮」に「神道の最高神で天皇の祖神でもある “天照大御神”」を祀るという性格から、皇室との繋がりが強い「最高の特別格の宮」・「日本国民の総氏神」であり、天照大御神の食事を司るための神・”豊受大御神” を祭神とする「豊受大神宮=外宮」も正宮として、別宮、摂社、末社、所管社等を含めた合計125の社宮で構成された「神宮」で、「天岩屋(岩戸)神話 天孫降臨」と言った神話の世界を起源とする「三種の神器の1つ:八咫鏡」をご神体とし、1300年の間、式年遷宮を遂行してきた「国家の総鎮守」の神社(神宮)』と理解した次第です。

【「伊勢神宮と日本神話の関連」を歴史の観点で少し深堀して考察】

上記、「伊勢神宮の概要」を抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では、「『伊勢神宮と日本神話の関連』を歴史の観点で少し深堀した上で、考察を加えさせて頂こう」と思います。その際のポイントを、まずは以下に記載します。

  • 伊勢神宮と日本神話(三種の神器含めて)の関連は?
  • 伊勢神宮が創建されたタイミングっていつ?(伊勢神宮はいつ創建された?)
  • なぜ伊勢神宮はこの地に創建された?

以上3点をポイントとして、以下に少しだけ深堀し、考察を加えさせて頂きます。

■ 伊勢神宮と日本神話(三種の神器含めて)の関連は?

伊勢神宮と日本神話の関連について考える際、真っ先に思い浮かぶのは「三種の神器の1つ:八咫鏡」11代・垂仁天皇の第四皇女である「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)」が、神託を受け、伊勢の地にご神体として鎮座させた事が、伊勢神宮の始まりとなっている様ですが、この「八咫鏡」は、アマテラスがスサノオの乱暴狼藉に困り果て、岩戸(岩屋)に隠れてしまった際、アマテラスを何とか岩戸(岩屋)から引き出そうと周りの神(玉祖命(たまのおやのみこと)が作ったと言われる(らしい)神器の1つと言われている認識です。つまり、その神話「天岩屋(岩戸)神話」が、「八咫鏡」の起源になる理解をしており、その後、この「八咫鏡」をアマテラスが、孫であるニニギに「天孫降臨」の際に授けた事で「三種の神器」の1つになった理解です。

また、初代天皇である神武天皇の東征(=武東征)においては、日向を出発した神武天皇一行は、瀬戸内海を抜け、現在の大阪付近で戦に敗れ「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない、廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と、紀伊半島を南に回り込み、伊勢神宮よりも少し南の位置する熊野から回り込んで奈良盆地を目指した事を考えると武東征』も伊勢神宮と無関係ではないかもしれない…」と思ってしまった次第です。

更に、ヤマトタケル(日本武尊)の西征・東征の神話」においても、ヤマトタケル(日本武尊)は、「八咫鏡」を伊勢の地に鎮座させた・倭姫命が、叔母である事からか、西征の前、そして東征の前に伊勢の地に立ち寄っているようで、東征前には、「八咫鏡」とは別の「三種の神器の1つ:草薙剣(スサノオのオロチ退治の際にオロチの尾から出てきたと言われる)」を授けられている理解です(倭姫命は、八咫鏡と草薙剣を伊勢の地に鎮座させた理解で良い?)。

つまり、「伊勢神宮と日本神話の関連」と言う切り口で考えると、『天岩屋(岩戸)神話」、「天孫降臨」、「ヤマトタケル(日本武尊)の西征・東征の神話」、そしてもしかしたら「武東征」や「スサノオのオロチ退治の神話」にも関連する神社(神宮)』と言って良いかもしれないと思った次第です。

■ 伊勢神宮が創建されたタイミングっていつ?(伊勢神宮はいつ創建された?)

上記の通り、『伊勢神宮(の内宮)は、11代・垂仁天皇の第四皇女である「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)」が、神託を受け、伊勢の地にご神体として「八咫鏡」を鎮座させた事が、伊勢神宮の始まり』となっている認識です。つまり、垂仁天皇の時代をそのまま当てはめれば、いつ創建されたかわかる訳で、垂仁天皇25年に倭姫命が伊勢に至った事を、下記表をご参照頂きつつ踏まえると「伊勢神宮の創建は『BC4年』」という事になり、「2000年以上の歴史を持った神社(神宮)」という事になります

しかしご承知の通り、天皇家の草創期は、「『欠史八代』と言われる天皇がカウントされている事」や、「天皇の崩御年齢が現実離れしている事」から、実際の時代の特定は難しいと言われている認識です。一方、ある程度時代が見えている20-21代目の天皇から逆算する事は可能だと思って折り、その逆算の考え方に基づくと、同じく下記表のとおり「内宮の創建は、4世紀前半(300年~350年位?)」と推察できます。同時に外宮の創建は、雄略天皇22年」と言うのは、ある程度信頼できる時代である認識の為、「外宮の創建:478年(1500年程度の歴史)」となり、「内宮の創建と外宮の創建の差は『150年程度』」となる理解(妄想?)をした次第です。

■ なぜ伊勢神宮はこの地に創建された?

こちらも同様に、『倭姫命が、神託を受け、伊勢の地にご神体として「八咫鏡」を鎮座させた事が、伊勢神宮の始まり』となっていますが、天孫降臨の神話」・「武東征」・「ヤマトタケル(日本武尊)の東征の神話」を踏まえると、違った景色が見えてくると思っています。

つまり、別記事で勝手な妄想をしておりますが、「出雲を中心とした山陰地方から、宍道湖に似た淡水湖のある場所(琵琶湖・大和湖・諏訪湖・見沼周辺等)を求めて稲作の知識・技術を武器に拠点を広げた国津神一族」に対し、「天津神一族は、武東征ヤマトタケル(日本武尊)の東征鹿島神宮/香取神宮の配置から推察するに、九州から瀬戸内海・太平洋側を軸に拡大してきた一族」に見えます。

また、伊勢神宮の目の前にある猿田彦神社の祭神・猿田彦神は、天孫降臨の際、ニニギ一行の道案内を行った国津神であり、天孫降臨の後、ニニギ一行の中にいた天宇受売命(あまのうずめ天岩屋(岩戸)神話で神楽を舞った神)を娶ったとも言われている事から推察すると、「伊勢の地は、太平洋側を軸に領地の拡大を図る天津神一族にとって重要な拠点で、この地を抑えるべく国津神の猿田彦神を寝返らせ、その拠点とすると同時に、アマテラス・ツキヨミと言う三貴子の内の2柱の天津神の拠点となった事に始まる」と妄想してしまった次第です(神話の世界では、三貴子のもう一人はスサノオで、元々天津神だったが、地上に降って国津神の祖になった)。

【最後に:伊勢神宮の大人散策をプランニング!】

以上が、「日本神話と関連深く、皇室のみならず『国家の総鎮守』とも言われ、『最高の特別格の宮』とされる『三種の神器の1つ・八咫鏡をご神体とする伊勢神宮』に付き、その概要を抑え、その歴史から妄想」をさせて頂いた内容になります。

伊勢神宮は、「天岩屋(岩戸)神話」、「天孫降臨」、「ヤマトタケル(日本武尊)の西征・東征の神話」、そしてもしかしたら「武東征」や「スサノオのオロチ退治の神話」と言った日本神話に関連し、内宮の創建は、4世紀前半(=1700年位の歴史)で、太平洋側を軸に領地の拡大を図る天津神一族にとって重要な拠点であった地に創建された神社(神宮)』と言った妄想をさせて頂きましたが、皆様はどの様に思われましたでしょうか?

実は、上記には記載しませんでしたが、本記事を記載していて一つ思った事があります。それは『「伊勢神宮が世界遺産に登録されない理由」=「式年遷宮により世界遺産に求められる「不変性」「保護」の観点と嚙み合わない」』と言う不可解な理由。つまり、誤解を恐れずに申し上げると、これは「マテリアリストによるナンセンスな考え方」にしか思えないと言うものです。別の言い方をすると「少なくとも1500年以上、日本国の総鎮守として存在し、日本人の根源ともいえる伊勢神宮を『その建造物だけを見て “不変性”・”保護” の観点とかみ合わない」と断じるのは、日本人の心の中に息づく文化を何もわかっていない」という事だと思った次第です。1300年続く式年遷宮は、正に日本人の心の在り方を証明する世界に誇るべき遺産である事は、どう見ても明らかなのに『「現物がない…」と言うのは、そう言っている人には「心が無い」という事』だと思ってしまった次第です(ちょっとキツイ内容で申し訳ありませんが、それくらい「物の捉え方が違うんだな…」と思ってしまったもので…)。

少し脱線してしまいましたが、まだ実行できていない「お陰参り」。上記の妄想をしつつ、「皇大神宮(内宮)」・「豊受大神宮(外宮)」のみならず、「三貴子の1神・”ツクヨミ” を祭る『月讀宮』・『月夜見宮』」、「天津神一族の領土拡大に多大な貢献をしたと思われる “猿田彦神” を祭る『猿田彦神社』」、更には「伊勢神宮の始まりに貢献した “倭姫命” を祭る『倭姫宮』」等も含めこの地域を改めて大人散策させて頂きたいと強く思った次第ですので(最下部の地図参照)、「お陰参り」実行の暁には、本ブログで報告させて頂こうと思っております!

また別ページにて、①日本書記 vs 古事記 (日本書紀とは? 古事記とは? 日本神話とは?) ②天地開闢の神々の分類と国生み (別天津神・造化三神・神世七代・天津神・国津神とは?)③天照大御神 vs 須佐之男命 (黄泉国神話と天照大御神 vs 須佐之男命の誕生・誓約の神話とは?)④アマテラスが岩屋れる「天岩屋神話」とは? (天孫降臨神話への序章?)⑤「スサノオによるヤマタノオロチ退治の神話」とは?⑥大国主関連の神話 (因幡の白兎& その後(スサノオの住む根国訪問)・国作り神話とは?)⑦大国主関連の神話 (国譲り神話とは?)⑧天孫降臨とは?⑨ニニギと息子2人(海幸彦・山幸彦)ってどんな人?⑩神武東征とは?⑪ヤマトタケル(日本武尊)っどんな人?⑫日本神話の全体図を勝手に理解⑬日本神話の全体図から “メッセージ” と “リアリティの程度” を妄想⑭天皇家の「欠史八代」って何?⑮神話の時代から天皇家の家系を三種の神器って何?、と言った内容でそれぞれ記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

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