丸岡城

【はじめに】

こちらのページでは、北陸地方唯一の現存12天守で、日本最古の天守とも言われていた、福井の丸岡城に付き、周囲の大人観光スポットと併せて、大人散策をプランニング」させて頂こうと思います

と言いつつ…、実はまだ、丸岡城はおろか、福井にすら脚を運んだ事が、残念ながらありません…。その為、こちらのページでは、まだお邪魔した事がない、丸岡城を訪問させて頂くにあたり(いつになるかは不明ですが…)、丸岡城とその周辺における見所や周囲の大人散策情報をリサーチさせて頂き、皆様と共有させて頂こうと思った次第です。

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「丸岡城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

少し昔の話ですが「現存12天守」という言葉を知った頃(数十年前の話なので「かなり昔」かもしれませんが…)、現存12天守で最も古いのは『丸岡城』」と何かの本で読んだ記憶があります。確かに、その「廻り縁が回され、小さな望楼を載せた外観の天守」は、古い形状の天守に見え、姫路城松本城といった大規模な天守群の存在する現存12天守(国宝でもありますが…)と比較すると「歴史感を感じる、そして味のある、犬山城に似た天守」と思った記憶があります。しかしながら、関東甲信越圏にしか住んだ事のない私にとって、最近でこそ、北陸新幹線により関東圏からのアクセスもしやすくなった地域ですが、当時は「北陸は遠い…」と認識しており、中々訪問する機会もなく時間が過ぎてしまいました(金沢新潟だけは参りましたが…)。しかし、この味のある丸岡城は、是非とも直接拝見したい天守で、一条谷や東尋坊と併せて「いつかは訪問しよう!」と夫婦で、旅先リストにあがるお城であり、地域になります。

こちらのページでは、そんな「いつかは邪魔したい『丸岡城』を、周囲の大人散策情報と併せて(プランニング版ですが…)記載」させて頂きます

【丸岡城の概要】

まずは、丸岡城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

丸岡城(まるおかじょう)は、福井県坂井市丸岡町霞にあった日本の城である。別名霞ヶ城。江戸時代には丸岡藩の藩庁であった。現存12天守の一つ。史跡未指定。

概要

福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い独立した丘陵に築かれた平山城である。近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造されたと推定される天守は重要文化財に指定されている。その他、石垣が現存している (略)

「霞ヶ城」の名の由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したという伝説による。

地元の坂井市では2013年(平成25年)、国宝化を目指し丸岡城国宝化推進室を設置した。2019年3月26日、坂井市から委嘱を受けて調査を行っていた丸岡城調査研究委員会は、現存する天守が建造された時期を江戸時代の寛永年間(1624年-1644年)と推定する報告を明らかにした (略)

歴史・沿革
安土桃山時代・江戸時代

1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。
1582年(天正10年) 本能寺の変の後の清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に移された。代わって勝家は安井家清を城代として置いた。
1583年(天正11年) 柴田勝家が豊臣秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝(修理亮)を置いた
1600年(慶長5年) 丹羽長秀死後、領地はそのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで敗者である西軍方につき改易された。越前国には勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。
1612年(慶長17年) 今村盛次は越前騒動に連座し失脚した。幕府より附家老として福井藩に附せられた本多成重が4万3千石で新たな城主となった。
1624年(寛永元年) 福井藩2代目の松平忠直が、不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。
1695年(元禄8年) 4代重益の治世、本多家の丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により改易となった。代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えた (略)

天守

北陸地方で現存する天守は丸岡城のみである。大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守とも呼ばれていたが、福井県坂井市教育委員会の調査で江戸期の寛永年間(1624 – 44年)に建造されたことが判明し、同委員会が2019年3月26日に発表した。

現在見られる天守は、1948年(昭和23年)の福井地震によって倒壊した後、1955年(昭和30年)に部材を70%以上再利用して組み直して修復再建されたものである。その際、最上階の窓の造りが引き戸から突き上げ窓(蔀戸)に改変されている。

独立式望楼型2重3階で、1階平面を天守台に余分を持たせて造られているため天守台を被せるような腰屋根が掛けられている。建築当初は、屋根は杮葺き、木製漆塗りに金箔押しの鯱であった。のちに屋根瓦には越前国で産出される笏谷石製の石瓦に変更されたのは寒冷地であるという気候事情により葺かれているといわれる (略)

天守の建造年

江戸期の1628年(寛永5年)に建造されたことが判明。天守は、前述の通りに古式の形状を踏襲した意匠と、掘立柱を用いていることにより現存最古の天守とされることがあり、それについて犬山城天守との論争があった。

柴田勝豊の建造である場合1576年(天正4年)との説や、建築史の観点では慶長期の特徴を多く見ることができるとして1596年(慶長元年)以降の築造もしくは、改修による姿ではないかという説もあった。1948年の福井地震にて壊れた天守閣を元通りに組み立てたのが現在の丸岡城である (略)

人柱お静

丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、人柱を立てることとなった。城下に住む貧しい片目の未亡人「お静」は、息子を士分に取り立てる事を条件に人柱となる事を申し出た。その願いは受け入れられ、お静は人柱となって土中に埋められ、天守の工事は無事完了した。しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を士分にする約束は果たされなかった。それを怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという。毎年4月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に見舞われ、人々はそれを「お静の涙雨」と呼び、「堀の藻刈りに降る雨は いとしお静の涙雨」と謡われた。現在城内にはお静の慰霊碑が残っている (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/丸岡城

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 元々、柴田勝家の甥・柴田勝豊の築城のお城で、北陸地方唯一の現存12天守で、別名:霞ヶ城
  • いくつか説はある様で、まだ決着していない様子も、「現存する最古の天守」ではない様で、江戸期の初めに建てられた天守と最近では言われている様子(「1624年-1644年」or「1628年」?)
  • その天守は、1948年の福井地震で倒壊してしまうが、多くの倒壊した部材を再利用し、修復再建された
  • 石垣は現存している
  • 瓦は、雪の多い地域である事を考慮した為か「笏谷石製の石瓦
  • 戦国期~江戸期中頃近く位までは、城主が変動したが、1695年入城の有馬氏以降は、落ち着き、明治期まで有馬氏の居城となった
  • 人柱伝説が残る

一度、地震で倒壊してしまった経緯はある物の、約400年の歴史を持つ天守である事は、間違えない様です。個人的には、そのフォルムから「最古の天守は、犬山城か丸岡城だろう!」と思っていたので、昨今「江戸期の初めに建てられた天守(「1624年-1644年」or「1628年」?)」と言われる様になった事は少々残念ですが、丸岡城の価値に変わりは無く、逆に「築城年がある程度見えてきたのなら、国宝でいいのでは?」と思ってしまってる昨今です。また、写真を拝見すると天守を支える石垣は「野面/乱積」に見え、この荒々しい石の一つ一つがこの天守を支えてきたかと思うと、「人柱の伝承」と併せ、また、屋根を覆う「笏谷石製の石瓦」と併せ、見入ってしまうものだと改め感じ入った次第です。

【丸岡城の周囲を含めた見所】

上記、概要を抑えさせて頂きました丸岡城ですが、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。

■丸亀城内における見所

上記、Wikipediaからの引用にある通り、「天守は、現存12天守の1つで、江戸期の初めに建てられた建造物」で、「屋根は珍しい『石瓦』」、「天守台は現存する『野面積』との事。であれば、「『天守(全体図) +石瓦 +天守台(石垣)』は、必ず拝見させて頂くべき、丸岡城の構造物」と理解させて頂きました。

また、丸岡城の周囲を地図でみていると、前々から気になっている以下の気になるスポットも見えてきました。それは、「福井城祉」、「東尋坊」、「一条谷城」、「越前大野城」、「永平寺」の5か所です。以下に、それぞれ本当にサマリ版ですが、記載いたします。

■福井城祉

柴田勝家の居城で、最後の地でもある、北ノ庄城をベースにに築城されたお城と理解しており、江戸時代には、幕末の松平春嶽に代表される福井藩主・越前松平家の居城としても有名と認識しています。「福井発祥の地」(城内の「福の井」に由来)でもある様なので、是非参りたい大人散策スポットです。

東尋坊

荒々しい岩壁が続く日本海に面した海食崖で、約25mとも言われる垂直の崖があり、観光地としても有名な大人観光スポットと理解しております。また、地名の由来は「恨みを買ってここから突き落とされた僧の名前『東尋坊』による」と言われているらしいです。

一条谷城

戦国時代、一乗谷城を居城として、越前国を支配した朝倉氏。その遺構が、一条谷城のみならず、城下町全体で拝見できるエリアと認識しています。朝倉館跡もある様ですが、街全体で「要塞都市」と理解しており、当時の街並みをかなり残すエリアだと思い、是非お邪魔して朝倉氏の繁栄の痕跡は勿論、隅々まで拝見し、その時代に思いを馳せたい大人散策スポットだと思っています。

越前大野城

織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として、この地を与えられた金森長近が、築城を開始したのが始まりと言われる越前大野城。竹田城や備中松山城と並び「天空の城」とも言われている様で「雲海に浮かぶ天守」を是非拝見したいと思っています(雲海なので、運次第でしょうが…)。

永平寺

永平寺は、曹洞宗の寺院との事で、1200年中頃の創建と言われている様です。特別歴史がある寺院ではない様ですが、写真の通りの雰囲気を醸し出す寺院の様で、歴史ある建造物も残ており、大人散策には、うってつけのスポットだと思った次第です。

まだお邪魔できていない地域ですが、調べれば調べるほど興味深い大人観光スポットが出てきてしまい、取り止めのないリサーチになってしまいました。その為、上記「大人散策に適していると思われるスポット」をチョイスさせて頂いた次第です。

【最後に】

以上が、北陸地方唯一の現存12天守で、日本最古の天守とも言われていた、福井の丸岡城に付き、周囲の大人観光スポットと併せて、大人散策をプランニング」させて頂いた内容になります

ただ一方で、最下部のGoogle My Mapで作成した地図と共に、ご参照頂ければと思いますが、実際に地図に落としてみると、それぞれそれなりの距離があり、「車で何日かに分けて行かないと制覇出来ないな…」とも思ってしまいました。同時に、どうやら私達夫婦の居住地である川越からだと、車でであれば、6時間程かかる様です…。自宅から車で行くか、電車等で福井まで行って、レンタカーを借りるかは、今後の検討材料にしなければいけませんが、丸岡城と上記記載した大人観光スポットには、是非訪問させて頂きたいと思っておりますので、訪問できた暁には、今回共有しました大人散策スポットの評価と共に、追加情報を含め、本記事を更新させて頂こうと思います!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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