弘前城

【はじめに】

こちらのページでは、東北地方唯一の現存12天守で、(昔は)桜の季節には必ずと言って良い程目にする(した)、青森の弘前城を周辺の大人観光スポットと併せて大人散策をプランニング」させて頂こうと思います

「プランニングさせて頂こう…」と記載しましたが、理由は「まだお邪魔した事がないから」です…。残念…。その為、こちらのページでは、まだお邪魔した事がない、弘前城を訪問させて頂くにあたり(いつになるかは不明ですが…)、弘前城とその周辺における見所や周囲の大人散策情報をリサーチさせて頂き、皆様と共有させて頂こうと思った次第です。

まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「弘前城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。

1800年の初めに、再建された天守(建前上は「三層櫓」)なので、「200年程の歴史を持つ天守」と理解しており、現在でも城内には、この天守を含め、多くの重要文化財が残る弘前城。周囲には、歴史を感じる城下町や神社、美しく気品ある並木道も残る街と理解しており、私達夫婦の中で、「いつかは訪れたいお城 & 街」として、長年、旅行先の候補としてリストアップしております。こちらのページでは、そんな「まだお邪魔できていない『弘前城』を、周囲の大人散策情報と併せて(プランニング版ですが…)記載」させて頂きます

【弘前城の概要】

まずは、弘前城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。

弘前城(ひろさきじょう)は、陸奥国鼻和郡(のち統合と外浜(青森)、西浜(十三湊)を編入で津軽郡)弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にあった日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。

概要

江戸時代には弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積38万5200平方メートルに及んだ。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている (略)

天守(初代)

最初の天守は、鷹岡藩2代藩主の津軽信枚により1609年(慶長14年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物である。内部6階と推定される建築は東北地方では若松城天守に次ぐものであった。しかし1627年(寛永4年)9月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して(4重目に吊るされていた釣鐘が落下して下層に収納してあった火薬に引火したとも)大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した (略)

天守(御三階櫓)

天守(本丸内側より)
本丸唯一の現存建築である天守は層塔型3重3階の建物である。現在は独立式であるが、往時は北側に多聞櫓を付属させた複合式であった。この多聞櫓は明治29年(1896年)ごろまでに破却されている。天守の高さは約14.4メートルあり、現存する三重天守の中で最も低い

1627年(寛永4年)大爆発して焼失した5重天守の代用として、またロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた。1810年(文化7年)着工、1811年(文化8年)に竣工した。往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持ち現在は書籍などの多くで天守として扱われている。昭和20年(1945年)の空襲で水戸城天守が、昭和24年(1949年)に松前城天守が焼失したため、関東以東で唯一の、そして最も北に位置する現存天守である

外壁は白漆喰塗籠で、窓と狭間の上下に長押形を施し、また屋根瓦には寒冷地のため銅瓦を葺いている。外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いるなど小さな建物を華美で大きく見せる視覚効果が施される。一方で、内側である西面と北面には破風を全く付けずに連子窓を単調に並べただけである。いわゆる「二方正面」である (略)

櫓・門ほか
二の丸の現存櫓は3層の辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓の3棟である。門は、三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭北門(亀甲門)の5棟がそれぞれ築城時の姿で現存し、以上は国の重要文化財に指定されている (略)

外郭の南西に位置する禅林街は、長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)として出城の役割を担っており、堀、土塁、枡形などが残る (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/弘前城

少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます

  • 津軽氏の居城で、東北地方唯一の現存12天守
  • 1609年頃に建てられた初代天守は、1627年の落雷により、天守に置かれていた火薬に引火の後、大爆発し焼失
  • その後200年程、天守は存在していなかったが、1810~11年に幕府への忖度により、三層櫓として建築されるも、現在「事実上の天守」として認識されている
  • その天守は、外側(外から見える面)は、1層目と2層目に大きな切妻出窓を設けるなど、装飾性が高い物だが、内側(外から見えない面)は、非常に地味な作り
  • 二の丸には、3つの櫓が現存しており、門も5つの門が現存しており、いづれも重要文化財
  • 城の南にある禅林街は、長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)として出城の役割を持っていた

ちょっと昔の記憶ですが(2015年位?)、石垣の大規模修繕をする為、石垣の上にある天守(三層櫓)を、曳家で移動する様子が、テレビで放送されていた事を記憶しております。確か10年位かかる大規模工事であると理解しており、その間、桜の季節でおなじみの「バックに天守が移る桜の様子」が見れないと認識しており、「天守が元の位置に位置に戻るまで、弘前への訪問はお預けだね…」と夫婦で会話した記憶があります。

また、この曳家作業の様子がテレビで映し出された際「天守の内側ってこんなに質素なの?」と思った事も記憶しております。上記、桜と共に拝見する弘前城は、大きくはなくとも、気品のあるお姿で、見応えのあるものですが、内側から見てしまうと、のっぺらぼうの様な顔立ち。「天守を建てる際、結構財政難だった?」、「津軽氏は、無理にお金を使わない合理主義者?」、「徳川に天守ではなく『三層櫓です!』と言ってしまったので、あえて内側の装飾は避けた?」等、様々な考え(妄想)が、当時膨らんでしまいました。こういった、築城者の心内に思いを馳せつつ(ただの妄想と言ってしまえは、それまでですが…)、現地を散策するのが、大人散策だと思ってますので、天守が再び戻った暁には、是非お邪魔させて頂こうと改めて思った次第です。

【弘前城の周囲を含めた見所】

上記、概要を抑えさせて頂きました弘前城ですが、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。

上記、Wikipediaからの引用にある通り、「天守は、現存12天守の1つで、1810年位に建てられた建造物」、「二の丸の3つの櫓:辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓」と「5つの門:三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭北門(亀甲門)」が、現存している構造物との事。であれば、「『天守 + 3つの櫓 + 5つの門』は、必ず拝見させて頂くべき、弘前城の構造物」と理解させて頂きました。

また、同じく引用の中に「外郭の南西に位置する禅林街は、長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)として出城の役割を担っており、堀、土塁、枡形などが残る」ともありますので、GoogleMapで位置関係と共に調べてみますと、立派なお寺と並木道がある様です。長勝寺は、戦国時代創建の曹洞宗の寺院との事で、道々には、立派な門(宗徳寺 赤門・長勝寺 黒門等)もある様ですので、こちらも是非とも脚を延ばしたいエリアだと認識してしまいました。

更に、弘前城・禅林街と周囲を地図でみていると、以下の気になるスポットも見えてきました。それは、「最勝院」、「藤田記念庭園」、「弘前市仲町重要伝統的建造物群保存地区」の3か所です。

「最勝院」は、戦国時代創建の寺院の様です。江戸時代の初め(1667年)に作られた立派な五重塔がある様で、国指定の重要文化財となり、五重塔として最北にあるとの事です。

また「藤田記念庭園」は、洋館、和館、倉庫等が、国の登録有形文化財に指定されている建物を持つ庭園で、元々は実業家の藤田氏が、故郷・弘前に別邸(私邸)を構える際、東京から庭師を招いてつくらせた江戸風な景趣の庭園らしく、現在は弘前市の所有で1991年に開園したらしいです。

そして「弘前市仲町重要伝統的建造物群保存地区」は、弘前城の築城当時、追手門(=大手門=正門の認識)であった「北の郭北門(亀甲門)」の北側のエリアで、侍町として整備されていたようです。現在でも武家住宅が一般公開されており、簡素ながらも剛健な江戸時代後期の中級武士の生活を偲ばせてくれる、旧伊東家住宅・旧梅田家住宅、旧岩田家住宅、旧笹森家住宅等を拝見できる様です。

これらの情報から、以下が弘前における、大人散策スポットになると認識した次第です。

弘前城エリア  

  • 現存12天守の天守
  • 二の丸の3つの櫓:辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓
  • 5つの門:三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭北門(亀甲門)

弘前城の北側のエリア

  • 弘前市仲町重要伝統的建造物群保存地区:旧伊東家住宅・旧梅田家住宅、旧岩田家住宅、旧笹森家住宅

弘前城の南側のエリア

  • 藤田記念庭園
  • 禅林街:長勝寺・赤門・黒門・並木
  • 最勝院:五重塔

【最後に:大人散策ルートは?】

以上が、東北地方唯一の現存12天守で、(昔は)桜の季節には必ずと言って良い程、目にする(した)、青森の弘前城を周辺の大人観光スポットと併せて大人散策をプランニング」させて頂いた内容になります。しかし、最後に「上記ピックアップさせて頂いた大人散策スポットのルート」も検討させて頂きたく存じます。

最下部のGoogle My Mapで作成した地図と共に、ご参照頂ければと思いますが、まずスタートは、弘前駅になるのでないかと思います。ここをスタートし、最初に目指すのは、①弘前城の北側のエリアの弘前市仲町重要伝統的建造物群保存地区。ここで江戸後期の中級武士の生活に思いを馳せたいと思います。その後②弘前城に北側(正門)からお邪魔し、東回りで、現存する櫓や門を拝見しつつ、本丸に南からお邪魔し、日本最北端・東北地方唯一の現存12天守を拝見し、弘前城を南から失礼すべきと思います。そうすると、③弘前城の南側のエリアでピックアップさせて頂いた、藤田記念庭園・禅林街・最勝院とスムーズに回れると思った次第です。

正直、まだ訪問できていないので、上記ルートが本当に適切か否か半信半疑ですが、弘前城・大人散策プランの検討段階にあっては、最も適切なルート」でないかと思った次第です。今後この弘前城には、是非訪問させて頂きたいと思っておりますので、訪問できた暁には、上記紹介した大人散策ルートの評価と共に、追加情報を含め、本記事を更新させて頂こうと思います!

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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