【基本情報:浜松城と聞いて何を連想されますか?】
本日は、静岡県浜松市にある浜松城を、ご紹介をいたします。出世城として、有名な浜松城の中で、最も出世した人は、誰なんでしょうか? そんな考えを巡らせつつ、浜松城の紹介をさせて頂きます。
お城を題材にする時のいつもと同じ書出しですが、皆さんは、浜松城と言うと何を連想れるでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 徳川家康が三河から進出してきた際の拠点のお城
- その時に、徳川家康によって、浜松城と命名された
- 武田信玄との三方ヶ原の戦いの時には、徳川家康はここから出陣し、命からがら逃げかえった (しばらくの後、武田信玄は、信濃で他界)
- その時の教訓を忘れないように、あの有名な「顰像」(しかみぞう)が書かれた場所
- 現在の天守は、史実には基づかない天守だが「野面積の石垣」は現存の認識
- 江戸時代から、出世城として認識されていた
- 浜松と言えば、浜名湖のウナギ
と、こんな感じでしょうか…。
また、自身で連想ゲームするのも楽しいですが、事実としての概要を抑えるべく、Wikipedia の力も借りさせて頂きます。
浜松城(はままつじょう。旧字体表記は「濱松城」)は、静岡県浜松市中区にある日本の城跡。野面積みの石垣で有名。歴代城主の多くが後に江戸幕府の重鎮に出世したことから「出世城」といわれた。
概要
https://ja.wikipedia.org/wiki/浜松城
浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、築城時の城主は不明である。16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていた。この頃の曳馬城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記された部分であり、現在の元城町東照宮付近にあたる。
徳川家康が元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、浜松城へと改称。城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めた。徳川家康在城時における浜松城の具体像は不明確であるが、古文書や出土遺物から現在の本丸に向けて城域が拡張されたことが窺える。また、徳川家康が築造した浜松城は、土造りの城であり、石垣や瓦葺建物を備えていなかったとされる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い以後、江戸時代を通じて徳川家譜代大名の居城となり、浜松城から豊臣色は失われる。江戸時代の浜松城主は九家二十二代に引き継がれていき、歴代の城主によって城域の改変・改修が進められた。堀尾氏在城期に創建された天守は、17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが現在に伝わる。以降、天守門が浜松城の最高所に位置する建造物といえ、江戸時代を通して浜松城を代表する建物であったことが窺える (略)
自身の持っている情報と併せて、まとめますと、以下の様になる認識です。
- 浜松城の前身は、15世紀頃に築城されたと言われる「曳馬城」が元々のお城で、徳川家康が、1570年に曳馬城に入城し、浜松城へと改称
- 武田信玄との三方ヶ原の戦いの時には、家康はここから出陣し、ここに逃げかえった
- 浜松城は、家康のお城として有名であるが、家康の頃の浜松城は土造りで、有名な野面積みの天守台の石垣は、堀尾氏時代に作られたもの
- 江戸期には、多くの浜松城主が幕府要職に付き「出世城」といわれた
「野面積みの石垣が有名で『出世城』と言われた、徳川家康も居城としたお城が『浜松城』」と言った理解をさせて頂いた次第です。
【浜松城の見所は、野面積みの石垣と公園内の庭園?】
上記、浜松城の歴史的なバックグラウンドを抑えさせて頂きましたので、この段落では、実際の大人散策にあたっての情報を記載させて頂きます(ちなみに、浜松城には、近畿・東海地方を巡る6泊7日の旅の初日にお邪魔させて頂きました次第で、その全体図を別記事で記載いたしておりますので、併せてご参照下さい)。
浜松の駅からだと、徒歩で20分しない位で行けたお城でした。上記の連想ゲーム程度の知識しか持ち合わせていないのですが、徳川家康と武田信玄が争った事で有名な三方ヶ原の戦いの舞台となった地ですので、山梨県民としては、訪れてみたかったお城でした(孫子の記事においても三方ヶ原の戦いを取り上げております)。
この三方ヶ原の戦いで勝った武田信玄は、しばらくの後他界。負けた徳川家康は、これを糧に、江戸幕府を開いて行った訳ですが、260年程続く江戸時代を築いた礎が「この浜松の地にある」かと思うと、ここで起こった三方ヶ原の戦いは、歴史に大きな影響を与えたのだと思いますし、「後の家康が居城とした、超巨大城郭の江戸城」と「若かりし家康が大志を抱いて進出した浜松城」との比較も「楽しみ方の1つ」と思われ、そんな事を考えながらの散策も、また興味深いものだと思いつつ、この地を散策させて頂く事は、正に大人散策だと思った次第です。
実際に訪問してみると、まずは、現存の石垣のは、マジマジと見てしうものです。本ブログ別記事で紹介させて頂きました「石垣の分類」で見てみると、基本「野面積み/乱積」に見えますが、部分的には「野面積み/布積」にも見える部分があります。江戸城の様な広大なエリアではないので、「(恐らく)400年程の歴史を持つ “石垣“」を、じっくりと時間をかけて堪能することが出来るのが浜松城の良さだと思います。
一方、天守は史実に基づかい復興天守の認識で、内部もお土産屋さんの色が強く、正直見所は限られるかと思いました。しかしながら天守最上部からの見晴らしはよく、三方ヶ原方面も見渡せる立地で、お城が建てられた場所については、納得できた次第です。
また、周辺には公園も整備されており(浜松城公園)、高低差を活かした、日本庭園(公園の要素が強いですが…)もあります為、アップダウンを楽しみながら散策でき、大人散策にちょうど良いと思いました。
【浜松城=出世城の日本史上のエピソードと家康】
所で、出世城の異名をとる浜松城。本当なんでしょうか?
浜松城公園のホームページ内にある、”出世城の言われ” のページによると、以下の様にあります。
「浜松城には、藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。在城中に幕府の要職に就いた者も多く(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)、浜松城は「出世城」と言われるようになりました。なかでも有名なのが天保の改革を行った水野越前守忠邦」
https://www.entetsuassist-dms.com/hamamatsu-jyo/facility/history.html
何かの本で読んで覚えていたのは、”水野忠邦は、肥前唐津から、実録高が低い浜松に “わざわざ移動” させてもらい、その後「老中」になった”、という話でした。確かに、出世城と言われるだけの事はありそうです…。
しかし「最も出世したのは??? 」と聞かれるといかがでしょうか?
はい、もう推察して頂いた通り、徳川家康ですよね。「浜松に進出し、三方ヶ原の戦いで敗れるも、その敗戦を忘れぬよう、命からがら逃げかえった自身を、「顰像(しかみぞう)」として残させ、生涯その教訓を忘れる事の無いよう傍らに置き、征夷大将軍まで上り詰め、江戸の城下町の整備にとどまらず、利根川東遷事業を始めとした関東の礎を築いた」徳川家康です。
タヌキとかよく言われますが、そう考えると本当にすごい人ですよね。自身は、もう出世を考えるには、大人になりすぎてしまってますが、そのパワーには、是非あやかりたいと思ってしまうのでした…。
【最後に】
歴史を感じつつ、徳川家康の人生に思いを馳せつつ、浜松城を堪能させて頂いた後、お城に行く前の道すがら、予約しておいたウナギ屋さんで、おいしいウナギを頂戴し、浜松の宿に戻りました。お城の見学、公園内の散策、最後の食事も含め、4時間程度のコースでしたが、浜松を大人散策で満喫する事ができました(ちなみに、浜松城には、近畿・東海地方を巡る6泊7日の旅の初日にお邪魔させて頂きました次第で、その全体図を別記事で記載いたしておりますので、併せてご参照下さい)。
関東圏なら十分日帰りも可能な距離ですので、出世したい人も、そうでない人も、浜松の地に、脚を運んで頂き、家康の生きたこの地に思いを馳せつつ、大人散策してみては、如何でしょうか?(武田氏の館跡、武田神社に関しても、別ブログで記載しています。また、三方ヶ原の戦いに関しては、孫子の記事においても、取り上げております)。
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。