天王山とは何か?:語源・地名・歴史の交差点を「山崎の戦」の内容を抑えつつ読み解く! (シリーズ! 気になるワード/フレーズ③)

気になるワードフレイズシリーズ 天王山

こちらのページでは、「『天王山』と、この山に深く関連する認識の『山崎の戦い』、並びにこの戦いで敗れた『明智光秀』との関連を抑えた上で、現在使われる『天王山』と言う言葉(ワード)の意味に付き考察」を加えさせて頂こうと思います。

📚本記事で得られる情報📚
✅「天王山」・「山崎の戦い」とは?
✅「天王山」の由来・語源を「山崎の戦い」から一歩深堀

早速ですが、皆さんは「天王山」と言う言葉(ワード)、聞いた事がありますよね? 使った事もありますかね? 良く聞くのは、「プロ野球等で、リーグ優勝を決めるのに “重要な一戦(=試合)”」を指して「天王山」なる言葉が用いられるのでないかと思います。また、ビジネスのシーンでも、別記事で記載した「分水嶺」的な意味で、使われる事もあると思います。つまり、ここでの(小さいかもしれないが)1つの結果が、今後に大きな影響を与える…と言った『「人の意思」が、背後に隠れている言葉(ワード)』と言う理解をしている次第です。

そんな「天王山」なる言葉(ワード)に付き、何故今回取り上げさせて頂こうかと思ったかと言うと、本ブログ内の別記事で分水嶺」なる言葉を使って「地形的な観点」と「人の意思 / 思い」を交え「言葉遊び」的に考えてみました。また、追分」と言う言葉でも、同様の事をしてみました。両方とも、結構個人的には面白かったので、今回は、”天王山”と言う言葉を、使って遊んでみたいと思った次第です。

そういった背景で、今回は「天王山」と言う言葉(ワード)を取り上げさせて頂きます。すなわち、「『天王山』と、この山に深く関連する認識の『山崎の戦い』、並びにこの戦いで敗れた『明智光秀』との関連を抑えた上で、現在使われる『天王山』と言う言葉(ワード)の意味に付き考察」を加えさせて頂こうと思います。

【天王山と日本史の関係:秀吉・光秀の山崎の戦い】

しかし、そもそも「なぜ『天王山』なのか?。 あえてここで記載する必要もないと思いますが、ある歴史上の出来事が、ベースになっている事ご承知の通りだと思います。つまり、山崎の合戦ですね! 折角ですので、Wikipedia の力を借り、この「山崎の戦い」を調べてみますと、以下の様にあります(後に簡単にまとめますので、引用読まなくても大丈夫です…、少々長いですし…)。

山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変を受け、6月13日(西暦7月2日)に摂津国と山城国の境に位置する山崎(京都府乙訓郡大山崎町)から勝龍寺城(京都府長岡京市)一帯で、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉の軍と、織田信長を討った明智光秀の軍勢が激突した戦い
古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。

経緯
>背景・合戦まで
天正10年6月2日の本能寺の変勃発時、織田家中の主要な武将ならびに同盟者・徳川家康の動静は次の通りであった。
・柴田勝家 – 越中魚津城で上杉勢と交戦中(魚津城の戦い)
・滝川一益 – 上野厩橋城で北条勢を牽制
・織田信孝、丹羽長秀 – 大坂・堺で四国征伐軍編成中
・羽柴秀吉 – 備中高松城近辺で毛利勢と交戦中(中国攻め、備中高松城の戦い)
・徳川家康 – 堺で近習数名と見物中(帰国途路の飯盛山(四條畷市)付近で凶報に接する)
羽柴秀吉は高松城に篭る毛利軍を包囲していたが (略) 秀吉は6月3日に本能寺の変の報を入手し、ただちに毛利軍との和議を結ぶ (略) 5日から6日にかけて撤兵すると、6日に沼(岡山城東方)、7日に姫路城、11日には尼崎(尼崎市)に達し、いわゆる「中国大返し」と言われる機敏さで畿内へ急行した (略)
秀吉の懸念材料は、京都への進路上に勢力を張る摂津衆の動向であった (略) 光秀は安土・近江方面の平定を優先したために大坂・摂津方面への対応は後回しとなり (略) その結果、中川清秀・高山右近を始めとする摂津衆の多くが秀吉軍に味方し、信孝・長秀も4千の兵をまとめて合流し、最終的に秀吉軍は2万を超えた。
(略) 光秀は10日に秀吉接近の報を受け、急いで淀城・勝龍寺城の修築に取り掛かり、男山に布陣していた兵を撤収させた。しかし、光秀は予想を越える秀吉軍の進軍に態勢を十分に整えられず、2倍から3倍とされる兵力差のまま決戦に臨むこととなった

>合戦経過
両軍は12日頃から円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣する。羽柴軍は前夜に中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、池田恒興らが右翼に、黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山(標高270m)山裾の旧西国街道に沿って布陣し、秀吉の本陣はさらに後方の宝積寺に置かれた。これに対して明智軍は御坊塚の光秀の本陣の前面に斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った。当時の山崎には沼地が広がっていたため大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、明智軍がその出口に蓋をした形となっている (略)
局地的な戦闘はあったものの、翌13日(雨天だったと言われる)も対峙は続く。同日午後4時頃、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動していた中川隊に斎藤隊の右側に布陣していた伊勢貞興隊が襲い掛かり (略) それに呼応して斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し戦端が開かれた。斎藤・伊勢隊の攻撃を受けた中川・高山両隊は窮地に陥るが、秀吉本隊から堀秀政の手勢が後詰に到着したことで持ちこたえる。天王山麓に布陣していた黒田・秀長・神子田らの部隊は前方に展開し、中川・高山両隊の側面を突くべく天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家両隊と交戦し、攻防が続いた
戦局が大きく動いたのは (略) 淀川(旧流域)沿いを北上した池田恒興・元助父子と加藤光泰率いる手勢が、密かに円明寺川を渡河して津田信春を奇襲。津田隊は三方から攻め立てられ、雑兵が逃げ出したこともあり混乱をきたす。また、池田隊に続くように丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突くような形となった。これを受けて苦戦していた中川・高山両隊も斎藤・伊勢両隊を押し返し、動揺が全軍に広がった明智軍はやがて総崩れとなった (略)
光秀は勝龍寺城の北門を密かに脱出して居城坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)で農民の落ち武者狩りに遭い竹槍で刺されて殺害されたとも、その場は何とか逃れたものの致命傷を負ったことで、力尽きて家臣の介錯により自害したとも伝えられる (略)

>戦後の経過
(略) 秀吉は、この信長の弔い合戦に勝利した結果、清洲会議を経て信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始める。清洲会議後の7月19日には、最後に残った光秀方の将である武田元明が丹羽長秀に攻められ自刃、京極高次は妹または姉の竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏した。
光秀の敗因はまず兵力差が挙げられる。これには秀吉の動きが予想を遥かに上回る迅速さだったこと、中国平定のために秀吉が信長軍の主力を任されていたこと周辺勢力の助力を得られなかったこと(特に畿内の有力大名であった細川・筒井両氏)、兵を近江方面に割いていたこと(ただし、安土城が織田政権の本拠地である以上、その掌握を果たさなければ信長父子を討ち取った意味が喪われる)、など様々な要因が絡んでおり、結果的に光秀は十分な兵力を揃えられないまま京と西国を結ぶ最後の要所である山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされた。羽柴方にも強行軍による将兵の疲弊という不安要素はあったが、総じて戦略段階で既に大勢は決していたと言える (略)

成句
(略) 「天王山」
山崎の戦いは、天王山の占拠が勝敗を決めたとされ、『太閤記』や『川角太閤記』に書かれていることで、『竹森家記』ではこの説を過剰に主張し、黒田孝高が天王山を早く占拠した方が勝利を得るに相違ないと主張したとか、『永源師檀紀年録』には細川忠興が天王山の西の尾崎を占領したとか、戦闘に参加していない人名までも書かれている。この天王山の争奪戦は良質な史料では全く確認できないものである。つまり天王山の争奪戦が勝敗を決めたというのは作り話であって、事実ではない。天王山での戦闘があったことが具体的に記された一次資料は確認されず、かつて広く使われた「天王山の戦い」は現在では「山崎の戦い(山崎合戦)」と呼ばれるようになっている  (略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/山崎の戦い

簡単に言ってしまうと、つまり「山崎の合戦」とは、、、

本能寺の変で、「明智光秀」が、「主君・織田信長」を討ち、自身の天下を固めようとするも、備中高松城で毛利軍と戦っていた「羽柴秀吉」が、水攻め真っ最中にも関わらず、早々にケリをつけ「中国大返し」と言われる、迅速な進軍を行い「本能寺の変から11日後」には、山崎の地で、明智軍と対峙し、そしてこれを撃破し、「秀吉の天下」に大きく躍進する契機となった戦い

といった理解をさせて頂いた次第です。

ちなみに、この「山崎の地」は、京都から南西に10-15Km位の位置にある地で、あの有名な会社の蒸留所がある事でも有名なエリアと認識して折り、ここに、標高・2 – 300m程度の山「天王山」がある訳ですこれを「地形図」と「歴史的観点」で考えてみると、『この言葉(ワード)としての「天王山」』の意味や使うべきシーン・ポイントと言った物が、より鮮明にイメージできるのでないかと思っている次第です。

【山崎の戦いにおける考察:天王山を抑えたのは?】

上記、「山崎の戦い」の概要を復習しましたので、この戦に関し「地形図」や「戦略」等を踏まえ、今少し深堀りしてみたいと思います。

上記、Wikipedia の引用から推察すると『「山崎の地」を合戦地に選んだのは「秀吉』とも読める印象ですが、個人的な妄想では、『恐らく、この地を戦場に選んだのは「明智光秀』だと思っています。理由は、記載の地形図(別記事・縄文海進の考察時に使った地形図ですが…)を見て頂いた通り、「この地は、中国地方からくる、大軍勢の秀吉軍を迎え撃つには、絶好の場所」だからです。と言うか「この場所しかない!」と思います言い換えますと、引用にもありますが「この場所が、山(高地:天王山)と川(低地:桂川/宇治川/木津川)に挟まれた『隘路』で、4万とも言われる秀吉軍を、1.5万程度の明智軍(明智光秀)が迎え撃つには、地の利を活かし『隘路』で敵軍に蓋をして、大軍のメリットをなくすしか方法はない為」です。「南側では、桂川・宇治川・木津川が合流」し、「北側は天王山」である為、大軍の進軍においては、この狭い場所(=隘路)を抜けないと、京都にはたどり着かない。秀吉」の視点で言えば「山崎の地」の北(北東?)側でも、南(南西?)側でも構わないので、「少しずれて、少しでも広い場所」で戦う事が出来れば「兵数が多い状況を有利に活用できるはず」という事になります。つまり、『「数に劣る明智軍(明智光秀)が、唯一勝てる可能性がある地」が、「山(高地:天王山)と川(低地:桂川/宇治川/木津川)に挟まれた『隘路』」の地形である「この山崎の地」』だと推理した次第です

しかしここには、条件が入ります…。そう「天王山」です! つまり上記推理に付け加えると、『「数に劣る明智軍(明智光秀)が、唯一勝てる可能性がある地」が、天王山を抑える事が前提」に「山(高地:天王山)と川(低地:桂川/宇治川/木津川)に挟まれた『隘路』」の地形である「この山崎の地」』という事になります。地図を見ると270mの標高で、さして高い山とは思えないかもしれませんが、この高低差が、重要なんですよね。中国の軍記の古典「孫子」でも、”兵は高きを好み、低きを嫌う” と言ったメッセージがある様に、高い所に布陣できれば、敵軍の状況も見えますし、鉄砲等飛び道具の威力も増します(逆の言い方をすると低地からの攻撃は難しい…)。敵軍が、頭上からの攻撃を準備をしているところに、しかも狭い行軍路を攻めていきたくないですし、通りたくもないですよね。

つまり『この「隘路」に蓋をして、そして「天王山」を抑える事で、初めて明智軍(明智光秀)に大きなプラスをもたらしてくれる場所』と言う事になります。しかしそこは「秀吉」。同じことを、恐らく考えたでしょうし、逆に「天王山」を抑える事で、この戦いを手中におさめる事が出来ると思ったはずです。結果、秀吉方の先発隊が、この場所を先に抑え「勝負あった」と言う事だと理解しています。

しかし昨今は、この「天王山の奪い合い=天王山の戦い」は「創作」とも言われているようで、上記引用には、

この天王山の争奪戦は良質な史料では全く確認できないものである。つまり天王山の争奪戦が勝敗を決めたというのは作り話であって、事実ではない。天王山での戦闘があったことが具体的に記された一次資料は確認されず、かつて広く使われた「天王山の戦い」は現在では「山崎の戦い(山崎合戦)」と呼ばれるようになっている

とあります。確かに「秀吉の勝利」は、引用にある通り、

様々な要因が絡んでおり、結果的に光秀は十分な兵力を揃えられないまま京と西国を結ぶ最後の要所である山崎での決戦に挑まざるを得ない状況に立たされた。羽柴方にも強行軍による将兵の疲弊という不安要素はあったが、総じて戦略段階で既に大勢は決していたと言える

といった側面もあり、「秀吉あっぱれ!」な勝利なのでしょう…。

しかし「地形図」と「戦力差」・「戦のセオリー」・「タイミング」等を考えると、『光秀」には、「天王山を抑える事を前提に山崎の地」で戦う事が最善』で、『「秀吉」は、「山崎の地から少しでも戦地をずらす事」が良策』な事は間違えないと思いますし、「天王山の争奪戦は無かった」としても、「天王山を抑える事の重要性(秀吉としては、明智軍(光秀)に天王山を抑えさせない事が重要)」は変わらないと思うので、「この『山崎の戦い』において、『天王山を抑える事を前提に』ここを戦地に選んだのは『光秀だと個人的には思っている次第で、結果として『秀吉軍」が先に「天王山」を抑えた』だけの事と思った次第です…。

【最後に:天王山を抑えることが、真に天王山】

以上が、「『天王山』と、この山に深く関連する認識の『山崎の戦い』、並びにこの戦いで敗れた『明智光秀』との関連を抑えた上で、現在使われる『天王山』と言う言葉(ワード)の意味に付き考察」を加えさせて頂いた内容になります。

上記引用にもある通りで、皆様もご承知の通り、戦その物は秀吉軍の圧勝」秀吉軍」が「兵の数」に勝り、「天王山の争奪戦」は無くとも「天王山」を先に抑え、「隘路」のデメリットを受けない状況まで持っていったのであれば、「明智軍(光秀)」は「なすすべなかった…」と推察できます。そしてその後、これも皆様ご承知の通り、「秀吉は天下人への階段を一気に登って行く」事になります。故に、今風に言ってみると、「天王山の争奪戦は無かったかもしれないが、山崎の戦いに勝利し、天下への道をまい進するために『(結果的かもしれないが…)天王山を抑えた事が、真に天王山だった』」と言ったところでしょうか?

こういった理解をしてみると、「『天王山』は、秀吉の天下取りの為に重要な局面で、舞台になった地」ですが「これを生み出した地形と、歴史的な背景があって、初めて私達が今使っている『言葉の裏に隠された、本当の意味(メッセージ)』が込められる」と言う事と言って良いと思います。更に言ってしまえば、「『天王山』という『意味の込められた言葉(ワード)』は、『明智光秀が、(天王山を抑える事を前提に)山崎の地を戦場を定めた』事に始まった」と言う理解になった訳です…。同時に、一般的には、「ポジティブな勝負時」を連想させる「天王山」ですが、「秀吉を主体にする天王山:ポジティブなイメージ」で、「光秀を主体にする天王山:ネガティブなイメージ」と、全く違った印象を持ってしまった次第です…。

勝手な妄想も結構入ったかもしれませんが、皆様はどの様にお感じになられましたでしょうか?個人的には、私達が今使っている「言葉やフレーズ」を、「地形や歴史の観点で掘り下げてみる遊び」は、「改めて面白い」と思いましたし、いつも「新幹線で通り過ぎてしまうこの地」に、実際に赴いてみて「秀吉光秀がその時何を考えていたのか…」、その「心持」に思いを馳せてみたいと思った次第です。皆様も、是非脚を運んで「秀吉光秀の心持」を感じ取ってみてはいかがでしょうか?

また、『「明智光秀」には「山崎の戦いの後も、実は生き残っていて、「天海」と言う僧になり、「江戸幕府のフィクサーとして活躍した」と言う「光秀=天海説」』と言う物があります…。こちらに関しても、勝手な考察(妄想?)を別記事でしておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

(地図は、地理院の地図に、自身で標高を設定し作成)

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