【はじめに:日本三大奇襲の概要】
こちらのページでは、「日本の歴史に大きなインパクトを与えた『日本三大奇襲』の概要を抑えた上で、その『日本三大奇襲に匹敵するかもしれない “奇襲”』に付き考えてみたい」と思います。
そもそも皆様は、「日本三大奇襲」って、ご存じでしたでしょうか? ご承知の部分もかなりあると思いますが、まずは「それぞれの “戦” に関する概要」を抑える事から、始めたいと思います。故に、Wikipedia にて「日本三大奇襲」を調べてみますと(https://ja.wikipedia.org/wiki/日本三大奇襲)、以下の様に記載があります(情報抜粋して記載します)。
■河越城の戦い(1546年10月31日)
■厳島の戦い(1555年10月16日)
- 誰と誰の戦い?:「毛利元就」 対 「陶晴賢」
- 結果:「毛利勢の勝利」、陶晴賢の討死・大内氏の弱体化となり、「毛利氏が、中国地方の覇者として大大名へ」の道を進み始めた(広島城に関しては、別記事紹介中)
■桶狭間の戦い(1560年6月5日)

どれも「有名な戦」ばかりで、かつ「時代に与えたインパクトは大きい」様です。本ブログ別記事で、「それぞれの “戦”」に関する「詳細や考察」を記載しておりますので、併せてそれぞれのページをご参照頂く事を前提に(河越城の戦い・厳島の戦い・桶狭間の戦い)、こちらのページでは、「概要の記載」を以下にさせて頂き、そこから少し発展させて、「日本三大奇襲」を考察させて頂きます。すなわち、「日本の歴史に大きなインパクトを与えた『日本三大奇襲』の概要を抑えた上で、その『日本三大奇襲に匹敵するかもしれない “奇襲”』に付き考えてみたい」と思います。
【河越城の戦い】
「河越城の戦い」に関しては、別記事でも取り上げておりますが、Wikipedia の力をかり、「河越夜戦の概要」を調べてみますと、以下の様にあります。
(略) 河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いをいう (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/河越城の戦い
「河越城の戦い」で特に有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」である (略) 河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである (略)
今少し記載しますと、「北条軍が、河越城内に3000」、これを「山内上杉家・扇谷上杉家・足利古河公方の軍・8万」が包囲し、その援軍に「北条氏康の8000」が向かったという構図の様です。つまり、「8万」 vs 「1.1万」で、「1.1万の北条軍が勝った」わけです…。
また、簡単に「この “戦” の経過 」を記載しますと、「北条軍は、まずは、奇襲(夜襲)を計画」した上で、「偽り書状で降伏の意思」を敵方に示し、かつ「戦意に乏しい」と思わせるため、「”あえて” 敗走」もし、「油断させ、敵の勢いを極限まで削いだ」うえで、「自軍から奇襲(夜襲)」をかけ、勢いがつき過ぎて、後方から ”まて!” がかかるほどの勢いで「大軍(連合軍)を蹴散らし」、更に「立てこもっていた河越城内」から、その勢いに呼応する形で、更に「相手を追撃 & 撃破」。



結果、「1.1万の兵力」で、自軍の総数以上の(8倍近い)「敵兵を撃破」し、8万の兵を追い払ったと言われており、この戦いで、「北条氏康は、関東における北条氏支配を確立」した訳です(”戦” の詳細の経過は、「河越夜戦における戦いの経過」にて、勝手な個人的仮説と共に別記事で紹介しています。また、戦場となったと伝わる(個人的には少し疑っていますが…)川越の東明寺に関しても、別記事で紹介していますので、併せてご参照ください)。
【厳島の戦い】
「厳島の戦い」に関しても、別記事の「孫子の言葉の例」として取り上げておりますが、こちらも、Wikipedia の力をかり、「厳島の戦いの概要」を調べてみますと、以下の様にあります。
厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は、天文24年10月1日(1555年10月16日)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行なわれた合戦である (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/厳島の戦い
「毛利軍:4000 – 5000」に対し、「陶軍:2-3万」と言われているようで、元々主君であった「大内義隆」を自刃に追い込み、実権を握った「陶晴賢」を打つべく、「毛利元就が仕掛けた戦」です。
簡単に、”戦” の経緯を記載しますと、以下の様に理解しております。
「厳島神社」で有名な、「厳島で行われた合戦」で、この場所を選択したのは、「毛利元就」と言われているようです。「兵力が圧倒的な不利な毛利軍」としては、「大軍で攻めてくると思われる陶軍」を「狭い島」の中に誘い込んで、殲滅しようとしたという事でしょう。計略を巡らし、「村上水軍」を自軍に引き込んだ上で、「元就率いる本隊」が「山側から奇襲」(戦い前日に暴風雨にまぎれ、敵から死角になる包ヶ浦と言う場所から上陸したらしいです)。



続いて、「小早川隆景と村上水軍の別動隊」が「海から敵船を攻撃」。「陶軍を挟み撃ち」にして攻撃する形となる。大軍で身動きの取れず、混乱に陥った「陶軍」を攻めたて、更に船も沈め、「戦闘」も「海上への逃走」も困難になった「晴賢」は島の中を逃走するも、「最後は自刃」し、「大きな戦闘そのものは、1日で終結」した戦いです。
この戦いにより、「毛利は、大内氏の旧領を手に入れる」事で力をつける事になり、また、水軍の増強も進んで「一気に中国地方の覇者」に駆け上がっていき、「広島に拠点を構えていく」のです。その後の関ヶ原以降、「毛利は、江戸期を通じて苦しい時代」が続きますが、幕末から明治維新にかけて、再び歴史の主役に」出てくる訳で、その「大大名・毛利氏の礎」が、「この厳島の戦いにある」と言っても良いと思うのは、私だけではないと思う次第です(「関ケ原の戦い」については、別記事で触れており、また孫子の別の言葉で「死地に陥れて然る後に生く」においても「厳島の戦い」を例として、それぞれ取り上げています)。
厳島のMap
【桶狭間の戦い 】
同じく別記事で取り上げております「桶狭間の戦い」ですが、皆さんご承知の戦いだと思いますが、事実を抑えるべく、こちらもWikipedia の力をかり、「桶狭間の戦いの概要」を調べてみますと、以下の様にあります。
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、日本の戦国時代の永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間で行われた織田信長と今川義元の合戦。2万5千人(異説あり)といわれる大軍を率いて尾張東部に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲または奇襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。日本の歴史的に有名な戦いである (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/桶狭間の戦い
「織田軍:3,000 – 5,000人(奇襲を実行したのは2,000人)」に対し、「今川軍:25,000 – 45,000人(諸説あり、また織田軍に直接対峙したのはこのうち5,000 – 6,000人)」と記載があり、「今川義元」が、「尾張を奪取」すべく仕掛け、これを「信長が返り討ち」にした “戦” と理解しています。
簡単に、”戦” の経緯を記載しますと、以下の様な理解です。
「1560年5月10日に駿河を出陣した今川義元」は、東海道を進み、18日には「沓掛城」に入城。翌19日には、既に制圧した「大高城」に向けて移動を開始。この情報を得た「信長は、2000の兵」で、豪雨に紛れつつ進軍。「作戦的な理由」と「地形的な理由」の両面で「兵を分散」しており、連戦連勝で「気の緩みも合ったであろう今川軍」に、「織田軍が奇襲」をかけ、結果「義元は討ち取られる」事になった。これが、私の理解する「桶狭間の戦いの概要」です。


この “戦” の与えた、「歴史的なインパクト」が大きい事は、皆さまもご承知の通り。この “戦” が与えた影響を、Wikipedia には、以下の様に記載されています。
(略) 桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。甲相駿三国同盟の一角である今川家の当主が討ち取られたことで、北条家や武田家と敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎(上杉謙信)を大きく勢い付かせることとなり、太田資正や勝沼信元らが反乱を起こすなど関東諸侯の多くが謙信に与し、小田原城の戦いや第四次川中島の戦いに繋がっていった。さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄11年末には同盟は手切れとなり、武田氏による駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始される。信長と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており、武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった信長と距離を保っていたものの、永禄8年頃には信長養女が信玄世子の武田勝頼に嫁いでいるなど関係は良好となった。以後、信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏の西上作戦で関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/桶狭間の戦い
上記にある通り、「信長のみならず周辺諸国にも様々な影響」を与え、「甲斐武田氏(武田信玄)による駿河侵攻」等に影響を与えていったようですが、この後の歴史も知る現代の私たちにとって、やはり一番の影響を受けたのは「信長自身」であった事、疑う余地はないと思います(別記事で、道としての「桶狭間を通る東海道」、「秀吉」の「小田原攻め」、「川中島合戦」の舞台の「松代」、「武田の居城であった甲府」、「孫子」の別の言葉で「兵を形すの極は無形に至る」においても「桶狭間の戦い」と言った感じで、それぞれ取り上げていますので、併せてご参照ください)
桶狭間古戦場公園Map
【最後に:三大奇襲に並ぶ奇襲は?】
以上、「日本の歴史に大きなインパクトを与えた『日本三大奇襲』の概要を抑えさせて頂きましたので、最後に『日本三大奇襲に匹敵するかもしれない “奇襲”』に付き考えてみたい」と思います。
上記の様に「日本三大奇襲」を調べてみて思った事は、どれも「三大奇襲」に数えられるだけの事はあって、「戦その物も見事」ですが、「歴史に与えたインパクトも大きい」ものがあると認識した次第です…。しかし、皆さん「何か忘れている…」と思いませんか?
はい…。私が思うのは、『義経が活躍した「一ノ谷の合戦」』もここに取り上げ「”日本四大奇襲” とすべきだと思う…」と言う事です。「一ノ谷の合戦」における「”戦” の内容」と「歴史に与えたインパクト」を考えてみますと、最終的には、「『平氏』が滅んで、『源氏(源頼朝)』が日本の歴史で初めて、『武士による政権;幕府』を開いた」訳ですから、上記3つの「三大奇襲」と比較して、「同じか、それ以上の価値」があると、個人的ではありますが、思った次第です…。


「日本三大奇襲」でも、「日本四大奇襲」でも、正直どちらでもいいのですが、「一ノ谷の戦い・屋島の戦い」は、上記の通り、「河越城の戦い・厳島の戦い・桶狭間の戦い」に、「並びうる “戦”」だと思うので、「三大」でも「四大」でもいいのであれば、「一ノ谷の合戦も加えてほしい!」と思った次第です(一ノ谷の戦いの詳細は、別記事で紹介しています。また、義経にゆかりの深い、平泉の毛越寺や金色堂で有名な中尊寺も別記事で紹介しております)。
上記の様な、勝手な考察を最後に加えさせて頂きましたが、皆さまはどう思われましたでしょうか? 皆さまが思う「他の奇襲」ってありますか? その様な事を考えながら、「実際に奇襲」が行われ、「時代を動かしたその地」に赴き、その歴史に思いを馳せてみるのも、「大人散策として面白い」のではないかと、改めて思った次第です。
『「一ノ谷・逆落とし」の「古戦場Map」』と『「屋島の戦い」の舞台になった「屋島」の「大人散策マップ(周辺スポット含むので『水色の★印参照』)」』