【はじめに】
こちらのページでは、東武東上線のみずほ台駅~ふじみの駅~新河岸駅~川越の区間における、大人散策情報の前半戦を紹介致します(後半戦はこちらから)。この地域は、武蔵野台地の上を川越街道・東武東上線が走り、その東側を新河岸川が流れる地形で、その地形に由来する(と思われる)歴史や特色ある神社仏閣、木々の中の大人散策等を楽しめるスポットが多くあるエリアのです。
本ブログ、別記事で紹介しました「川越街道」。太田道灌が川越城・江戸城を築城した際(1457年)に整備されたのが始まりと言われており、武蔵野台地のヘリを、川越から都内(池袋・小石川付近)まで伸びている道です。「その川越街道に沿う様に」ではありませんが、川越(勿論、森林公園/武蔵嵐山・小川町/寄居等の駅からもですが)~池袋に伸びる鉄の道が東武東上線。東武東上線は、川越街道よりも更に武蔵野台地のヘリを通っており、途中、川で浸食された低地も通るので、意外と高低差の多い地形を、工夫しながら通された鉄道だと地形図を見ていると理解できます。
一方、こちらも別記事で紹介しておりますが、縄文海進。今から、5000年程前の海面は、現在よりも5m程高ったと言われております。つまり、東武東上線の北西側は、縄文時代は海だったと言えますので、時代が違えば、現在全く海と関係ない東武東上線は、「時代が時代なら、海沿いを走る鉄道であったかもしれない」と言う事になる訳です。
縄文海進時、青色の部分は、海だった可能性大
現在では、全く海と関係ない路線の東武東上線・街道の川越街道ですが、「歴史的な痕跡を探りながら、海を感じ、更にはこの地域の歴史や自然を感じる大人散策@みずほ台~ふじみ野~新河岸~川越」の前半戦をこちらのページでは紹介させて頂きます。(後半戦はこちらから)
【東武東上線のみずほ台駅~ふじみの駅~新河岸駅~川越の区間(富士見市/ふじみ野市/川越市)を大人散策!】前半戦
前半戦のスタートは、東武東上線のみずほ台駅。こちらから北東方向に向かって歩を進め、水子貝塚公園を目指します。
・水子貝塚(公園)/水子貝塚展示館/資料館
水子貝塚公園は、その名の通り「貝塚のあった場所に整備された公園」です。Wikipediaの力を借りますと、以下の様にあります。
水子貝塚(みずこかいづか)は、埼玉県富士見市にある貝塚および環状集落の遺跡。国の史跡に指定されており、水子貝塚公園として整備されている。
概要
武蔵野台地の新河岸川沿いの縁に位置する縄文時代前期(約5500~6000年前)の遺跡である。1894年(明治27年)10月25日に阿部正功によって発見され、1917年(大正6年)の安部立郎による報告、1937年(昭和12年)の酒詰仲男による再発見、および和田誠一等による数回の調査の後、「学術上価値が高く状態が良好」として1969年(昭和44年)9月9日に国の史跡に指定された (略)
水子貝塚公園
大規模な環状の貝塚と集落跡があり、これを再現する形で全体が整備された歴史公園で、「縄文ふれあい広場 水子貝塚公園」として1994年(平成6年)に開園した。園内には地表に白い陶片を用いて貝塚の規模や分布がわかるように表示されており、中央に大きな芝生広場を設け、5棟の竪穴建物が復元されている。一部は内部が公開されており、そこに縄文人の生活の様子が展示されている。(略) 園内の一角に水子貝塚から出土した土器などの考古資料を展示した展示館と、富士見市内のその他の遺跡から出土した考古資料を収めた資料館が設けられている (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/水子貝塚
ここに貝塚があると言う事は、付近に海があったと言う事。その上で、この付近の地形図を見てみると、公園の南側の一部を除いて、周囲を海に囲まれていた地形である事が容易に想像できます(上記地形図参照)。これだけ守備に堅い地形であれば、多くの人がこの場所に住んでいるのは納得で(戦国時代なら「水城」ですね!)、埼玉県民が海と共に生きていた痕跡を感じる事が出来るスポットだと思います。
・水宮神社
水子貝塚公園の北西、道を挟んだお向かいには、水宮神社があります。こちらの神社別記事でも紹介させて頂きましたが、めずらしい狛犬ならぬ、狛蛙がいらっしゃる神社なのです。参道では、多くの蛙さん達が迎え入れてくれます。
・舟運遺構(鶉河岸跡/本河岸跡/蛇木河岸跡):参考情報
水宮神社は、武蔵野台地の正にヘリありますので、その先(北西)側は、低くなっており、縄文時代は海だったのでしょうが、現在では新河岸川が流れております。新河岸川と言えば舟運。この遺構がいくつか川沿いにございます。この付近の遺構は、ちょっと見学するには、整備状況が追い付いていない様な感じもしますので、参考情報として、本散策中に気に留めて頂ければと思い記載しました。
・難波田城公園
水宮神社から北西に254バイパスを越えて進んだ先に(実際には、地下道でくぐれますが…)、難波田城址公園があります。鎌倉時代の築城と言われるこちらの難波田城については、Wikipediaに以下の様にあります。
難波田城(なんばたじょう)は、埼玉県富士見市南畑にあった日本の城。埼玉県旧跡。難波田城公園として整備されている。
概要
難波田城は富士見市東部の荒川と新河岸川の間の自然堤防上にあった、武蔵七党村山党の一流難波田氏の居城である。鎌倉時代に村山党金子氏の金子家範の子、高範が当地を与えられ地名を苗字として館を構えたのが始まりと言われている。 (略) 河越夜戦で難波田氏の主家扇谷上杉氏の敗戦により難波田氏が没落すると上田朝直一族の上田周防守左近の知行地となり、支城として縄張りを広げ城郭を改築していったとされる。 (略) 永禄年間初頭には北条氏の家臣清水政勝が河越城衆として難波田城を攻撃したことを晩年に作成した覚書(「清水正花武功覚書」)に記しており、難波田周辺に所領を持っていた太田資正が北条氏と争った時期に難波田城を支配していたと考えられている。その後、太田資正が岩付城を追われたことで難波田城も北条方に戻っている。小田原征伐の武州松山城落城と共に廃城となった。 (略)
難波田城公園
難波田城資料館1928年(昭和3年)に埼玉県史跡に指定され、1961年(昭和36年)に埼玉県旧跡に指定変更された。公園として整備されるまでは、石碑だけが建つ小さな空き地、のような雰囲気のままであった。
難波田城址公園・古民家ゾーンの様子 2000年(平成12年)6月1日に公園として開園(広さ:約17000平方メートル)した。園内は、東側に難波田城の堀や橋などを復元した城跡ゾーンと、西側に富士見市内に建っていた古民家2軒と長屋門(いずれも富士見市指定有形文化財[3])を移築した古民家ゾーンにわかれており、その中央に難波田城資料館がある。この資料館は難波田氏や難波田城についてだけでなく、富士見市の近現代の歴史についても扱っており、鶴瀬団地の模型なども展示されている。 (略)
難波田城址公園・古民家ゾーンと資料館の様子 復元した堀は、蓮や菖蒲の名所にもなっているが、城郭としては、余りに綺麗に整備され過ぎていて、城跡として当時の面影を偲ぶ事は困難である (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/難波田城
こちらの城跡は、どちらかと言うと、地域の歴史を知る事が出来る、観光公園の要素が強い城跡だと思いました。つまり、堀は綺麗に整備され、その堀にはスイレン等が咲き、隣接するエリアには地域の歴史を学べる資料館や古民家を移築したスペースとなっており、楽しみながら園内を散策する事が出来ますし、パンフレットに記載されている情報から推察するに、公園と整備されているのは、城跡と思われるエリアの半分ほどの様で、綺麗に整備され過ぎている事もあり、城跡と言うよりは、公園と言った印象と言う感じです。しかし、パンフレットや資料館内の展示にある難波田城の縄張りを拝見しつつ散策させて頂くと、行田の忍城の様に、「低地には低地なりの縄張りがある」と言った感じで、その意思を感じる事も出来、水堀を巧みに利用している事が見て取れます。
上記引用にもありますが、別記事で触れさせて頂きました河越夜戦や小田原征伐といった歴史上のビックイベントの陰で変遷を重ねてきたお城の様で、難波田氏の名前は、やはり別記事で紹介しました東京調布の深大寺のお隣・深大寺城の築城を扇谷上杉氏から命じられ、築城したとの記載を拝見した事もあります。有名処ではないかもしれませんが、歴史の第一線を支えた一族とお城の歴史がここにある事を思いつつ、イマジネーションを膨らませながら大人散策されてみるのが良いかもしれません…。
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
・水越門樋
難波田城址公園から北東に進むと、上南畑神社のお隣に、綺麗なレンガ作りの「水越門樋」を見る事が出来ます。現地の説明看板によると、「新河岸川からの逆流を防ぐために作られた」とあります。このエリアは、武蔵野台地下の低地で、縄文時代は海だったと思われるエリア。野火止用水や玉川上水の様な「水を得る為の戦い」とは、別の意味の「水との戦い」を感じる事が出来るスポットだと思いました。
・コロボックルの碑(貝塚稲荷旧石碑)
水越門樋から、西側を流れる新河岸川を越え、コロボックルの碑(貝塚稲荷旧石碑)に向かいますが、途中、上記で少々触れました舟運遺構・蛇木河岸跡を経由しても良いかもしれません(地図参照)。
コロボックルとは、アイヌ民族に伝わっていたと言われる「先住民の小人」と言う事らしいですが、ここで見つかった貝塚を「コロボックルが生活をしていた痕跡」と言った学者さんがいたそうです。別記事の吉見百穴の記事でも記載いたしましたが(吉見百穴はコロボックルの住居跡と言われた事がある)、こういった夢のある話、大好きです。恐らく現実はそうではないかもしれませんが、個人的には、「コロボックルの痕跡であってほしい!」と思っています。
・榛名神社(イチョウ)
コロボックルの碑(貝塚稲荷旧石碑)から、そのまま北側にに進み、砂川堀を越えた先に、榛名神社があり、その境内には、樹齢400年と言われるイチョウの大木があります。尚この付近は、河川による浸食か、理由はわかりませんが、武蔵野台地よりも低い場所となっており、その高低差を意識しつつ、散策されても面白いエリアです。
・苗間神明神社(ケヤキ)
榛名神社で、樹齢400年と言われる、イチョウの木を見た後は、苗間神明神社のこちらも樹齢400年と言われるケヤキの大木を目指します。基本、砂川堀に沿って歩を進めますが、住宅街の分かりにくい所の散策になるので、(歩きスマホはNGですが)最下部の地図を確認しつつ、樹齢400年の大木リレーを目指して頂ければと思います。
・大井弁天の森/大井戸跡
苗間神明神社からは、更に西に歩を進め、東武東上線を越え、大井弁天の森/大井戸跡を目指します。大井弁天の森は、木々の中を散策できるスポットで、昔は湧水が湧き出していたエリアの様です。現在は、湧水は枯れてしまったので自然の湧水ではなく人工的に水を引いている様ですが、森の中の散策は、心が落ち着く大人散策になるはずです。
そして、森を抜け、砂川堀を渡った右手に、大井戸跡がございます。あくまでも「跡」で、元の場所から少し移動して復元した様ですが、鎌倉街道上道の大人散策時、狭山で拝見した七曲井や、堀兼道に大人散策で外見した堀兼井に近い形(規模はかなり小さめですが…)は、この地域の生活に必要で、大きな貢献を果たしてきたな場所であった事を想像できるスポットです(と言うより、水があったから人が住み始めたのでしょうが…)。
・徳正寺
上記、大井戸跡から川越街道に向かって西に進み、川越街道を越えると(大井橋では、川越街道の下をくぐれます)、かわいらしいお地蔵様が、お迎えしてくれる徳正寺がすぐ近くにあります。大井宿の中心的存在であったと言われる徳正寺。弘安の板碑もあり、大井宿が栄えた当時の歴史に思いを馳せる事が出来るスポットです。
・大井宿 本陣跡(上木戸跡/下木戸跡)
徳性寺から、少し北上すると、大井宿本陣跡が左手に出てきます。わずかなスペースに、説明看板があるだけで、「本陣」と言う感じではありませんが、(恐らく「大井戸」が地名の由来になった)大井宿の痕跡は、見ておくべきかと思います。また、その大井宿本陣跡の少し北の右手には、上木戸跡の標柱がございます。(ちなみに、大井戸跡から川越街道に出て、徳正寺・大井宿本陣跡とは反対の南側に行くと、下木戸跡の標柱もありますので、参考までに…)。
・旧大井村役場
大井宿上木戸跡を今少し、川越街道に沿って北上すると、旧大井村役場が出てきます。現在では、旧上福岡市と旧大井町が合併し、ふじみ野市になっている認識ですので、大井町(村もですが…)は、存在していませんが、かつてこの地に大井町(村)があった痕跡だと思い、国の登録有形文化財になっているこちらの素朴な建物は、大人散策において、素通りしてはいけないスポットだと思った次第です。
【最後に】(でも後半戦に続きます…)
以上が、東武東上線のみずほ台駅~ふじみの駅~新河岸駅~川越の区間における、大人散策情報・前半戦の紹介になります。
本記事では、「ここで、散策を終了し、ふじみ野駅に行き、帰宅」の選択肢(=前半戦)の形をとっておりますが、体力に自信があり、時間的制限もないのであれば、もしくは、自転車利用の大人ポタリングであれば、別記事で紹介している、後半戦に進んでも良いと思います。後半戦のスポットに関しては、別記事で紹介しておりますので、併せてご参照頂き、皆様のプランをご検討頂ければと存じます。
派手な観光スポットがある訳ではありませんが、この地域の歴史やそこで生きてきた人達の営みを感じる事が出来るエリアだと個人的には思っておりますので、皆様の興味度合いや体力的・時間的制限に応じて、フルコース・分割作戦等を検討し、この地域の歴史を感じる大人散策をされてみてはいかがでしょうか?