野川・国分寺崖線

【はじめに】

こちらのページでは、武蔵国分寺が建てられた地形に関し考察を加え、実際にその地に赴き、大人散策(フィールドワーク)」して参りましたので、その内容をご紹介します。得た知識をもとに、実際に現地に赴いて大人散策すると、納得感が格段にUpし、新たな発見も得る事が出来、正に大人散策を味わう事が出来るのです。

大学生の頃、武蔵小金井に居住していた事があり、自身にとって別記事で紹介致しました「野川/国分寺崖線沿い」や「玉川上水」と共に、国分寺近辺は、思い入れのある地域です。昔から日本史が好きで、「国分寺・西国分寺駅は、その昔、武蔵国分寺があった事から、その地名になり、駅の名にもなった」と認識しており、山梨から上京して間もなく、この近辺を自転車でめぐっていました。しかしその当時は、この地域の土地勘もなく、絶対的な情報量・知識も不足しており、それなりの感銘はあったものの、「ここに昔、武蔵国分寺が建てられたんだ…」くらいの印象しかありませんでした。

しかしその後、土地勘も少しづつ持ち始め、別記事で記載しております大國魂神社(武蔵国府)東山道武蔵路の痕跡との位置関係や、この地域の地形(高低差等)の特色が見え始め、更に川越に居住地を移した後、鎌倉街道上道とのつながりにより、更に好奇心が芽生え、調べ物をしたり、実際に現地に改めて赴いて散策してみると、「この地形と位置関係だからこそ、ここに国分寺の建設がなされたんだ!」と腑に落ちました

本ページでは、今回のプロセスで、「国分寺」に関し、私が実際に得た知識や、現地に赴いて腑に落ちたプロセスを皆様に共有すると同時に、今後皆様がこの地を大人散策する上で、参考の情報になれば幸いと思っております

【そもそも国分寺(寺院)とは…】

では実際に、武蔵国分寺がこの地に建設された事実をもとに、まずは事実関係から抑えさせて頂きますそもそも「国分寺」に関してですが、Wikipediaの力を借りますと、以下の様にあります。

国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる(略)

『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された(略)

https://ja.wikipedia.org/wiki/国分寺

また、武蔵国分寺のホームページには、以下の様にあります。

武蔵国では国府(現在の府中市)北の広大な平地と、豊かな湧き水に恵まれたこの地に天平宝字年間(757-65)頃に建立されたと考えられている 

https://www.musashikokubunji.jp/history

神道の中心である天皇が、仏教により国を治めようと、国分寺と言う寺の建立を進めた事(「神頼み」ならぬ「神が仏頼み?」)、なんとも日本人らしく、神仏習合の起源はこのタイミングではないかと勝手に思ってしまいますが、武蔵国分寺は、約1300年のかなりの歴史を持つ寺院である事は、間違えない様です。

次に、国分寺を建設するにあたってですが、同じくWikipediaの同じ項目には、以下の様にあります。

国分寺の建設地の選定における条件は、石田茂作の諸国国分寺の調査成果により『東大寺と国分寺』により示されている

地形的条件 
①国華として仰ぎ見るのによい地形 
水害の憂いなく長久安穏の場 
南面(向)の土地 

都市計画的条件 
人家の雑踏から離れている 
⑤人の集合するのに不便でなく、交通至便の地 
条里制区画(六町四方を一里とする方形地割にもとづく土地制度)の拘束を甘受すること

政治的条件 
国府(役所)に近いところ(国司が国分寺を監督したことによる) (略)  

https://ja.wikipedia.org/wiki/国分寺

そして、武蔵国府との位置関係ですが、以下地形図と併せた図を見て頂きたいのですが、武蔵国府のほぼ真北、3㎞強の場所にあります。玉川上水で、わざわざ多摩川から水を引かなければ、水を得る事が難しい武蔵野面でなく、一段下の立川面であれば、「ハケ」によって得られる水もある事、想像できると思います

尚、武蔵野面・立川面に関しては、別記事でも触れておりますが、Wikipediaには、以下の様にあります。

(略)武蔵野台地では2種類の発達した河岸段丘が見られる。ひとつは南側を流れる多摩川によって形成されたものであって、最も低い段丘(低位面)を立川段丘あるいは立川面、それよりも一段高い段丘(高位面)を武蔵野段丘あるいは武蔵野面と呼ぶ。(略)

各段丘の縁端は段差数メートル程度のちょっとした崖になっており、武蔵野の方言ではこれを「ハケ」や「ママ」などと呼ぶ。また、段丘の縁端に沿って延々と続くこうした崖の様子を、学術的には崖線(がいせん)と呼んでいる武蔵野台地周辺ではいくつかの崖線がよく知られている。(略) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/武蔵野台地

言い換えますと、武蔵野台は、国分寺崖線によって、高い面(玉川上水のある面)を武蔵野面、低い面(武蔵国分寺や大國魂神社(武蔵国府)がある面)を立川面と言う」と言う事の様です

【武蔵国分寺跡をフィールドワーク】

上記得た情報をもとに、実際にフィールドワーク(=大人散策)させて頂きました情報を以下に記載します

まず国分寺・国分尼寺ですが、実際に現地に赴いてみますと上記で記載した、国分寺の「建設地選定における条件」に見事に合致している事、非常に理解が出来ます

西国分寺駅がある国分寺崖線の上(武蔵野面)からアプローチすると、20mくらいはありそうな崖を降りていく形になり、崖の下には、湧水群が広がっており、「名水百選」にも選ばれている綺麗な水が湧きだしております。更に落ち着いた雰囲気を愛する大人散策には持ってこいの散策路(お鷹の道)を西の方に進むと、現在の武蔵国分寺の門と本堂が出てきます。立派な山門(楼門)は、市の重要文化財になっているもので、必見です。

その後、現武蔵国分寺から南に歩を進めると、武蔵国分寺跡があり、現在では建物を見る事が出来ず、何処に何があったのかを説明する説明看板がメインで、歴史的想像力を発揮しつつ見学する必要がありますが、南に開けた平坦な土地(立川面)が広がっており、広い場所の確保が可能な事、良く理解出来ます。そして、少し北に離れますが、武蔵国分寺の薬師堂に向かうと、こちらは国分寺崖線の上(武蔵野面)にあるので、この参道にて、改めて国分寺崖線の急斜面を実感する事が出来ます。

現・武蔵国分寺の後、国分尼寺向かう際ですが、現在では、武蔵国分寺と国分尼寺の間には、武蔵野線が走っております為、若干迂回の必要があります。また、迂回する際、西国分寺駅方面(北側)から迂回すると府中街道、並びに武蔵野線が、台地を削って斜面を緩やかにして通されている明らかな痕跡を見る事が出来ます。その後武蔵野線を下に見つつ、国分尼寺を北側からアプローチする形で歩を進めると、国分尼寺の直ぐ北には、「伝鎌倉街道」と言われる、切通しの道があり、ここが国分寺崖線のヘリで、こちらでも「崖を削り道を通した痕跡」を見る事が出来ます(切通しなので当然ですが…)。

その道を南にそのまま進むと、国分尼寺跡が出てきます。現在は公園となっており、その痕跡は、説明看板でしか、うかがい知る事は出来ませんが、先程眼下に見た武蔵野線が、東側を高架になって走っている状況を見ると、武蔵野面から立川面に国分寺崖線を下ったをを実感でき、国分尼寺も国分寺同様、立川面にある事、ご理解頂けると思います

そして、武蔵国府(現大國魂神社)との位置関係ですが、武蔵国府から北に伸びる同時代に作られたはずの東山道武蔵路が、国分寺と国分尼寺の間を通っていたと考えられている様です。ちなみに、その延長線上の西国分寺駅の南東には、東山道武蔵路の痕跡を伝える場所もあります

ここ武蔵国分寺・国分尼寺から、ほぼ平坦な同じ立川面を南に3㎞強進むと武蔵国府(現大國魂神社)があった事を踏まえつつ、実際に散策して頂くと、上記で記載した『国分寺の「建設地選定における条件」に見事に合致している事』、間違えなく、実感を持ってご理解いただけると思い、「こんな都合の良い場所がよくあったものだ」と思ってしまうと思います。但し、現在では、府中街道をメインに南下する必要がありますので、最下部のGoogleマイプレスで作成した地図を参照しつつ(歩きスマフォはNGですが)、大人散策されてみてはいかがかと存じます。

(最下部に提示するMapは、別記事で紹介しました、野川・国分寺崖線の大人散策の記事でも利用しており、①二子玉川~武蔵小金井②武蔵小金井~西国分寺と野川/国分寺崖線の大人散策場のMapも兼ねております事ご理解頂けますと幸いです)

【最後に】

以上が、『「国分寺(東京)が建てられた地形に関し考察を加え、実際にその地に赴き、フィールドワーク(=大人散策)」して参った内容の紹介』になります

約1300年前に建立された武蔵国分寺・国分尼寺を、地形の面から「なぜここに建立されたのか」を考え、実際に現地に赴き、実感を持って理解する事、正に大人散策(フィールドワーク)の醍醐味だと改めて思った次第です。また、この付近は、古代では武蔵国の正に中心地。その中心地・武蔵国府(現大國魂神社)と歴史の道(東山道武蔵路鎌倉街道)との関連も中々の興味をそそるもので、何度も足を運んでしまっている地域です。皆様も、歴史・地形と言った観点で、この付近を大人散策してみては、いかがでしょうか?

(そしてもう一つ…。興味深い事実として記載しますと、こちらの武蔵国分寺、これだけの歴史を持ったお寺ですが、「757~65年位に建立」との事なので、733年開創と伝わる調布市の深大寺(都内で2番目の古刹)628年開基の浅草寺(都内で最も古いお寺)よりは、新しいお寺と言う事になります…。別記事でそれぞれ紹介しておりますので、宜しければご参照ください)

尚本ブログでは、諏訪大社熱田神宮大宮氷川神社川越氷川神社川越喜多院日光の二社一寺久能山東照宮浅草寺深大寺神田明神大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。

以下、Googleマイプレイス(マイマップ)で作成した地図を、アプリ・GogleMpsで、位置情報をONにしてスマホでご利用頂くと、紹介したスポットを、自身の位置確認しつつ大人散策する事が出来ます!

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