【はじめに】
こちらのページでは、「江戸城祉(現皇居)を大人散策で楽しむ為の情報提供」をサマリ版で紹介致します。
お城を題材にさせて頂く際、こちらのブログでは、まず連想ゲームをさせて頂き、ウォーミングアップをしていますが、同様に進めさせて頂きます…。「皆様は江戸城と言うと何を連想致しますでしょうか?」 私の場合は、以下の感じです。
- 太田道灌が築城し、家康が入城した後、江戸幕府の中枢になったお城
- 「江戸時代の徳川の拠点 ⇒ 戊辰戦争 ⇒ 天皇の在所・皇居」と日本の歴史の中心であり続けているお城
- 日本一の「総構」の広さを誇るお城
- 天守閣は3度作られたが、明暦の大火の後、天守は再建されず、現在は天守台だけが残る(江戸期の多くの期間(260年の江戸時代の内200年程度)天守は存在していなかった)
- 江戸城三十六見附
- 多くの種類の石垣を鑑賞できる
- 桜田門 / 田安門 / 清水門は、国の重要文化財 等々…
さすが、日本のお城の代表とも言える江戸城と言う事だけあって、かなり色々な連想が出来ると思った次第です。
別記事でも、その歴史/地形的観点の考察であったり、江戸城(江戸)の範囲であったり、江戸城の石垣であったり、いくつかの切り口で紹介しておりますので、詳細はそれぞれのページをご参照頂きたいのですが、こちらのページでは、皆様にあった「江戸城祉(現皇居)における、ただの散策を、大人散策にする切り口」を検討頂くべく、それぞれのサマリ版を共有致します。本ブロブの内容が、皆様の大人散策の参考なれば幸いと存じております。
【江戸城(現皇居)を楽しむ為の切り口】
・江戸城の歴史の概要理解
江戸城が築城された場所は、武蔵野台地の東の突端にあたり、縄文海進時は、目の前に海が広がっていたと言われています(家康入場時ですら、現在の大手門くらいまでは、日比谷入江で海だった様です)。江戸城の北、神田川を挟んだ高台の弥生町には、縄文時代後・晩期の貝塚(向ヶ岡貝塚(弥生町貝塚))、弥生時代後期の環濠集落遺跡(弥生町遺跡)もあったと言われています。すぐ近くで、ほぼ同様の地形である江戸城にも、その当時から人が住んでいてもおかしくないと思うのは、私だけではないと思います。
言い換えると、「人が住むのに適した場所」だったと想像出来る訳ですが、その場所に江戸氏が館を築き、それをベースに太田道灌が江戸城を築城。更にその太田道灌が築城した江戸城に、家康が入城し、江戸時代の初めに大規模な改修工事を天下普請として実施した事で、ほぼほぼ現在の形になったと言われている様です。
その後、戊辰戦争を経て、徳川の城から、『「遷都」でなく「奠都」』により、天皇の東京での在所となり、現在に至っていると認識しています。言い換えると、江戸城の歴史は、太田道灌が築城を行った1457年以降と考えると、600年程の歴史で、その内徳川のお城・皇居であった期間は、400年程あり、「その期間(現在進行形ですが)日本の中心」であると言う事です。
そんな歴史の詰まった場所ですから、「大人散策して楽しいに決まっている」と言うのが、私が認識する江戸城祉(現皇居)です。
・江戸城がなぜこの場所に築城されたのか?
上記、「太田道灌が、1457年に築城したのが、江戸城の始まり」と記載しましたが、なぜ太田道灌は、この場所に江戸城を築いたのでしょうか? これは、1455年から28年続いたと言われる、関東管領山内上杉氏と古河公方足利氏の争い(享徳の乱)が起点になっていると言われております。詳細は別記事をご参照頂きたいのですが、太田道灌は同じ年、川越城も築城し、後の川越街道を軍用道路として整備したと言われています。
では、太田道灌が、なぜ江戸城と川越城を築いたかと言うと、古河公方に対抗する為と言われている様です。以下の地図を見て頂くとご認識頂けると思いますが、古河城と江戸城 / 川越城の間には、当時利根川が流れており(江戸時代、利根川東遷事業により、利根川の流れは現在の流れになった)、利根川の東は古河公方、西側は関東管領と言った勢力図だった様で、関東管領勢が古河公方勢に対抗すべく、利根川をはさんだ反対側の武蔵野台地の突端に築いたお城が、江戸城と川越城と言う理解で宜しいと存じます。
別の言い方をしますと、歴史的背景、築城場所のポリーを踏まえると、「江戸城と川越城は、父親・太田道灌の兄弟城」と言って良いと思った次第で、そんな歴史的背景と地形の特色を理解して散策するのも、面白いのでないかと思う次第です。
・江戸城の範囲と、更には江戸の範囲を知る
江戸城は、日本最大のお城と言われておりますが、その範囲をご存じでしょうか?
これを理解するに当り、江戸城は内郭と外郭(総構)のくくりがある事を認識しなければならないと思います。江戸城の内郭は、現在で言うと、「皇居(吹上・西の丸)+皇居東御苑(本丸・二の丸・三の丸)+北の丸公園」と理解しております(現在の皇居周辺と言う理解でほぼOK と存じます)。一方、外郭(総構)は、「北に位置する水道橋から、反時計回りで追っていくと、神田川・外堀経由で、市ヶ谷・四谷に行き、赤坂見附・溜池山王を経由して、虎ノ門・新橋・浜離宮まで行き、そこから隅田川を遡上し、両国経由で浅草橋まで行った後、現在の神田川を遡上し水道橋に戻る」と言った感じと認識しています。江戸城総構の大きさを理解頂けるのでないかと思います。
この範囲だと、「江戸城の総構=江戸?」とも思えてしまいますが、江戸の範囲は「朱引」と言われるエリア(町奉行管轄エリアは「墨引」)で、「大江戸」と言われている様で、以下の地図の通り。思ったよりも江戸城の総構えも大きいですが、江戸(大江戸)も大きいと思われるのでないかと存じます。実際に地図(最下部のGoogleマイプレスで作成した地図であれば、自身の位置を確認しつつ大人散策出来ます(しかし、歩きスマホはNGで…))を片手に、江戸城総構えのキワや大江戸のキワを辿ってみるのも、面白い大人散策の方法ではないかと思っております。
・江戸城内郭の門を巡る
江戸城祉(現皇居)の内郭では、現在でも江戸時代からある国の重要文化財の門(桜田門・田安門・清水門)を始め、10以上の門・門跡を見る事が出来ます。
桜田門外の変のあった場所・桜田門、江島生島事件発端の場所と言われる平川門(江島は事件の後、高遠に流されたと言われているようです)、服部半蔵が伊賀越えの功で任されたと伝わる半蔵門といった歴史の視点で楽しめる門もあれば、桝形門の形状(高麗門+四角いスペース+渡櫓門)や規模の大きさ、石組(石垣)のデザイン性等、門を楽しむ切り口は沢山あります。門を辿って行くと、皇居とその周辺エリアを一周する事になりますので、「門」と言う切り口で、大人散策されても、江戸城(現皇居)を楽しめるのではないかと思います。
・江戸城三十六見附とは? 大木戸とは?
「江戸城三十六見附」・「大木戸」、皆様も耳にした事あるのでないかと思います。では、この「江戸城三十六見附」とは何でしょうか? 現在では、赤坂見附が駅名にもなっていて有名ですが、他に35もあったかと思うと、「何処なんだろー」と持ってしまう部分もあるかもしれません。Wikipedia には、「江戸城三十六見附」の項目があり、以下の様な記載があります。
江戸城三十六見附(えどじょうさんじゅうろくみつけ)とは、江戸城に置かれた見附(見張り番所)のうちの主な36か所を挙げたもの。堀に架けられた橋と一体的に設置されたものが多い。(略) 俗に江戸城には36の見付があったといわれ(江戸城三十六見附)、現在も四谷見附・赤坂見附など、地名として残っている。実際には、江戸の城門の見張り場所自体はもっと多数あったようだが(66、90など諸説あり)、枡形門を持つ見附は、幕府作事方の資料によると外曲輪に26門あり、内曲輪にいくつあったかは明らかになっていない。語呂の関係から、枡形の26門に、目ぼしい10門を足して「三十六見附」とし、江戸の名所として喧伝されたようである (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸城三十六見附
「語呂がいいので、もっとあるはずだが、36見附と言っている…」なんて、なんとも日本人らいしい感じがしてしまいます。「具体的にどんな門が、何処にあったのか?」は別記事で紹介しておりますので、そちらをご覧頂きたいのですが、江戸城内郭の上記に上げた、桜田門も、清水門も、半蔵門も、江戸三十六見附でありますし、外郭では、浅草橋、牛込(飯田橋)、四谷、虎ノ門、小石川、常磐橋といった辺りも、江戸三十六見附にあたる様です。
また、見附の外縁部の大きな街道には、関所として大木戸も設けられた様で、現在では甲州街道に対し四谷、東海道に対し高輪にあった大木戸の痕跡を見る事が出来ます。江戸の治安をハード面(橋や番所)とソフト面(見張り)の両面で守った江戸三十六見附と大木戸。これらの痕跡を巡る事も、おすすめしたい大人散策の切り口だと思います。
・江戸城の石垣を楽しむ
江戸城では、様々なタイプの石垣を見る事が出来ます。別記事で詳細を記載しておりますので、そちらも含めご参照頂きたいのですが、基本的に石垣は、「石の積方(布積/乱積)、石の加工と接続(野面/打込接/切込接)で、マトリックスを組んで、6種類に分類する方法」で分けられるそうです。江戸城の散策で、実際に実物の石垣を拝見すると、「微妙…」、「混ざってる?」、「不明…」と言った事も多々ありますが、それぞれ違い、それぞれ特色がある事をご理解頂けるのでないかと思います。デザイン性を意識した物、権力を見せつけようとしている(大きい石を配置)物、遊び心がある様に思える物と施工者の意思を感じるような錯覚を覚えるような瞬間も出てきます。
徳川の入城後に作られた石垣が、江戸城の基本と理解しておりますので、時代背景的には、野面積の石垣を拝見するのは、ちょっと難しい側面もありますが、様々なタイプの石垣があります。それぞれの石垣が、それぞれの特色を持っていますので、正直見ていて飽きないのが石垣です。(勿論江戸城だけでなく、石垣のあるすべてのお城に言えますが)こんな切り口で江戸城祉(現皇居)を散策すると、ただの散策が、大人散策になると思いますので、皆様も石垣にスポットを当て、大人散策を考えてみては、いかがでしょうか?
【最後に】
以上が、「江戸城祉(現皇居)を大人散策で楽しむ為の情報提供」をサマリ版で紹介させて頂いた内容になります。
現在進行形で400年程、日本の歴史の中心であり続ける江戸城祉(現皇居)。天皇の御所・宮内庁があるエリアに、基本入る事は出来ませんが(西の丸には、一般参賀等でのイベント時に入る事が出来ますが…)、江戸時代の中枢であった皇居東御苑(本丸・二の丸・三の丸)は、基本解放エリアで、散策する事が可能です。本丸では天守が建ったことはありませんが、美しい布積切込接の天守台、二の丸では二の丸庭園等を拝見出来ますし、武道館等がある北の丸公園では、国指定重要文化財の田安門・清水門をまじかで見る事が出来ます。皇居外苑では、広々空間に松の林や、桜田門外の変の舞台、桜田門では遊び心が感じられる渡櫓門の石組を拝見する事が出来ます。
歴史や地形、門(城門)や石垣と様々な視点で、飽きることなく大人散策を遂行できる、江戸城祉(現皇居)。行かれた事の無い方には是非一度、脚を運んで頂きたいと思いますし、何度も脚を運んでいる方は、また違った切り口で、楽しむべきスポットではないかと思っております。私達夫婦は、まだ片手位の回数しかお邪魔できていないので、今後も継続的にお邪魔させて頂き、今回ご紹介した切り口以外でも、江戸城祉(現皇居)での大人散策を楽しんで行きたいと改めて思っております。
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。