この孫子の言葉の意味は?
「戦の様な重要な事象は、論理的に考え、確実に、そして安全に、勝つべくしてして勝つように仕向けなければいけない」といったメッセージと理解しています。
北条氏との関係は?
万全な状態で戦に臨んだ秀吉の小田原合戦で、自身よりも圧倒的に強い秀吉を敵に回し敗れました。
伊達氏はどう関係する?
一方で政宗は、小田原合戦で、最初は秀吉と敵対する事も想定していましたが、「秀吉は自身よりも圧倒的に強い」と認識すると秀吉に従う道を選びました。
現代への応用は?
物事の対局をしっかり理解し、重要な局面で、無理な行動は慎み、論理的に考え、安全な対応をすべきという事と理解します。
北条と伊達の比較から学べることは?
万全な体制で戦に臨む秀吉に対し、「北条:武士としてのポリシー・希望的観測 vs 伊達:論理的な思考」といった感じで対応したと思われ、それぞれの末路を考えると、情的な感情に流されず、論理的思考の重要性を再認識すべきという事に発展すると理解します。
【はじめに:「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」を直訳的に理解すると?】
🔗 この記事は、「孫子の教え」に考察を加えた記事の1つです
▶︎【「孫子の教え一覧」(シリーズまとめ記事)】
本日は、「『孫子』の中に出てくる『勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく』と言うワード(フレイズ?・センテンス?)に付き、その意味を抑えた上で、『具体的な例』を『日本史上の出来事』から考えてみたい」と思います(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)。
📚本記事で得られる情報📚
✅「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」の意味・メッセージの理解
✅この「孫子の教え」における具体的な「日本史に関連する武将・エピソード」を考察

















ちなみに、この『勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく(しょうへい は い(or いつ) を もって しゅ を はかる が ごとく)』のフレーズが出てくるパートは「形篇」であり、ここでは、皆さまも「聞いた事があるフレーズ」と思われる「善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり」や「善く戦うものの勝つや、智名なく、勇功なし」等が出てくるパートでもあります。これらも同様に、「戦をするのであれば、勝てるときに誰もが勝てるように、安全に勝ちましょう!」と言っている事だと認識します。しかし、これって当たり前ですよね…。では、「なぜこれらのフレーズが有名に」なっているのでしょうか?

こちらのページでは、そんな(個人的感想ですが…)「当たり前…」に思えてしまうが、「有名」な「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」と言うフレーズに付き、記載いたします。すなわち、「『孫子』の中に出てくる『勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく』と言うワード(フレイズ?・センテンス?)に付き、その意味を抑えた上で、『具体的な例』を『日本史上の出来事』から考えてみたい」と思います。
参考 : 孫子”に関しては、Wikipedia の力を借りますと以下の様にあります。
『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/孫子_(書物)
「2500年も前の兵法書」で、「古典の中の古典」と言う事でしょうか? 勿論、現代版のものしか、私には読む事は出来ませんが、「端的でシンプルな文章は、読む側の状況に応じて、理解でき、自身の考えを巡らせる為のベースとなる、原理原則が書かれた書物」、と言った認識を個人的に持っている次第です。
また、本ブログ別記事では、他の「孫子の教え」につき、「サマリ的に一覧でも記載」しておりますし、「それぞれの “教え” を一歩深堀して記載」もしておりますので、宜しければ、是非ご参照ください!
①「兵は拙速を聞くも、未だ巧久しきを睹ざるなり」、②「風林火山」、③「迂直の計」、④「百戦百勝は善の善なるものにあらず」、⑤「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」、⑥「人を致して人に致されず」、⑦「囲師には必ずかく」、⑧「正を以って合し、奇を以って勝つ」、⑨「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」、⑩「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」、⑪「善く戦う者は、これを勢に求めて、人に責めず」、⑫「呉越同舟」、⑬「軍を縻す」、⑭「兵を形すの極は無形に至る」、⑮「死地に陥れて然る後に生く」、⑯「君命に受けざる所あり」、⑰「爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」
【「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」のメッセージは?】
「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」って、ちょっと意味が分かりにくいですよね? これは、「鎰(いつ)」と「銖(しゅ)」が、「なじみのない “もの(言葉)”」だからだと思います。ちょっとだけ説明させて頂くと、「鎰(いつ)」、「銖(しゅ)」とは、昔の中国における「重さの単位」だそうです。いろいろ調べてみますと、「鎰」は、「銖」の「500倍の重さ」と言われているようです。つまり、「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」とは、「500倍の兵力で攻める様に、戦は、確実に、そして安全に、勝つべくしてして勝つべき」といったメッセージと理解できます。

一方で、私の認識ですが、「孫子」がこのパートで「最も言いたいこと」は、上記(「安全に勝つ」事)もですが、それ以上に、上記(「安全に勝つ」事)は、あくまでも「結果・効果的側面」だと思っており、『「そこに至る過程」が重要と言いたい』のでないかと認識しています。事実、同じパートの中で、以下の内容があります。
「兵法は、一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝」、「地は度を生じ、度は量を生じ、量は数を生じ、数は称を生じ、称は勝を生ず」
この部分の私なりの解釈ですが、「兵法は、一に『国土の大きさ』、二に『量』、三に『数』、四に『それらの比較』、五に『勝つ目算』」。つまり「土地には『大きさ』があり、その土地によって『物量』が決まり、さらにその物量によって『数』が決まり、そして数によって『比較』できるようになり、比較した結果によって『勝敗が予見』できる」と言った感じでしょうか?
更に申し上げると、「戦う前」に、しっかり「論理的に分析」し、「勝てる見込みがあるかどうかを考えなさい!」と言う事で、「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」の様に「勝てる算段をつけてから、戦うようにする事」が重要と言っているという認識です。
故に、結果として、「善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり」や「善く戦うものの勝つや、智名なく、勇功なし」となる理解です。もう少し言いますと、『「善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり」の状況を作り上げる事が出来る非凡な才能の持ち主』のやる事は、”水面下に隠れた”「状況認識」や「戦略立て」がある為、「凡人が全体図で理解することはできない」ので、「善く戦うものの勝つや、智名なく、勇功なし」と言った事になると言う事で、その「結果・効果的側面」として見える部分が、「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」という事になる理解という事です…。
【「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」を実行した「日本史における武将」とその「エピソード」は?】
では、上記を実践した「日本史上の人物(武将)」って、誰か思い浮かびますでしょうか? 私の個人的な見解は、「秀吉」だと思います。ただ上記の様なポリシーで戦が出来たのは、「小田原攻め」だけだったと思います。それまでは、まだ、「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」の体制になく、ほぼほぼ天下の定まった、この「天下統一の総仕上げのタイミング」で、初めて「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」の戦が出来たのでなかったかと思う次第です。


同時にこの戦、「秀吉の視点」でなく、「北条・伊達の視点」に立った時に、「孫子の教え」が最も生きてくると思います(伊達政宗の騎馬像がある仙台城を別記事で紹介しています)。つまり、「北条・伊達の視点」で、「兵法は、一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝」」と考えれば、「秀吉が圧倒的有利」なので、「秀吉とは戦ってはいけない」と「孫子は言っている」と言う事になります。
しかし、北条は、「戦い」を選択してしまった訳です…。つまり、「沼田城割譲」~「名胡桃城事件」の経緯を見ていると、自身の希望的観測に基づいて、都合の良い解釈の元行動している様に見えてしまい、孫子の教えを守っていれば、北条は、「もう少し打てる手」があった気がするという事です(名胡桃城・沼田城に関しては、別記事で紹介しています)。以下に、「沼田城割譲」~「名胡桃城事件」の経緯につきWikipedia からの抜粋を記載します(「北条の秀吉に対する不満」を見て取れる認識です)。




※Wikipedia の小田原征伐における、沼田城割譲の項目:
(略) 沼田一円は(一応、徳川氏の傘下という立場にあった)真田氏の支配下にあった。秀吉は北条氏、家康から事情聴取を行い、沼田領の内3分の2を北条氏、3分の1を真田氏のものとする、秀吉からすると譲歩に近い裁定を行った (略) 沼田城は北条氏に引き渡され、真田氏には代替地として信濃国箕輪が与えられた (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/小田原征伐#沼田城割譲


※Wikipedia の小田原征伐における、名胡桃城事件の項目:
(略) 北条氏は真田領となった領分の拠点である名胡桃城に沼田城代猪俣邦憲を侵攻させ奪取、いわば先の秀吉の裁定を軍事力で覆した (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/小田原征伐#名胡桃城事件

一方で「伊達」は、当初は「対秀吉」と言う、「敵対的な考え」を持っていたようですが、「秀吉の戦力」を認識するや、「小田原城に参陣」すると言った「方向転換」をしっかりしている様です。この方向転換は、「ギリギリ間に合った」と言われているようですが、その後の「北条と伊達」の「行く末」には、「大きな違い」が生じます。
※ Wikipedia の伊達政宗における、小田原合戦と豊臣政権下の項目:
(略) 天正17年11月、後北条氏が真田領へ侵攻したことにより、豊臣氏により征伐が行われることになった。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたという。秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)中である天正18年(1590年)5月に、豊臣配下浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て同盟国上杉景勝の所領である越後国・信濃国、甲斐国を経由して小田原に至った。秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵した (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/伊達政宗#小田原合戦と豊臣政権下
結果は、上記引用の通りですし、皆様のご承知の通り、「北条は滅亡」しますが、「伊達は生き残り」、江戸期を通じて(「現在も」の認識ですが…)家名を残す事となります。つまり、『「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」の状況を作っていた「秀吉」に対し、「対抗した(孫子の教えに逆らった)北条」は「小田原征伐」で「滅亡」に追い込まれ、「受け入れた(孫子の教えに従った)伊達」は、「家名をつないだ」と言う構図』と理解した次第です。このように歴史を見ると、『「鎰(いつ)」なら攻めるけど、「銖(しゅ)」なら戦ってはいけない…』と言う当たり前の事を改めて認識した次第です(沼田城、名胡桃城、小田原城、仙台城は、本ブログ別記事で、紹介しています)。
【最後に】
以上が、「『孫子』の中に出てくる『勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく』と言うワード(フレイズ?・センテンス?)に付き、その意味を抑えた上で、『具体的な例』を『日本史上の出来事』から考えてみた」内容になります。
上記の様な、勝手な考察をさせて頂きましたが、皆さまはどう思われましたでしょうか? 「勝兵は鎰を以て銖を称るがごとく」=『「鎰(いつ)」なら攻めるけど、「銖(しゅ)」なら戦ってはいけない』。恐らく、「北条もわかっていた」のでしょうが、「武士としてのプライド」が、それを許さなかったのでしょうね。それはそれで、素晴らしい事だと思いますし、非難するつもりはないどころか、「名誉を重んじた武士らしい行動」だったとも思います。

しかし同時に、家が滅亡してしまったら、それはそれで困る人が大勢いるはずなので…。皆さんが、「秀吉ににらまれた」時、「伊達派」ですか? それとも「北条派」ですか? 今度そんな事を考えながら、改めて小田原城と仙台城を、そして大阪城や長浜城(秀吉が初めて城持ち大名になったお城)を訪れてみたいと思いました(小田原城・仙台城・大阪城・長浜城・沼田城・名胡桃城等、別記事で紹介しておりますので、併せてご参照ください! )


【あわせてお読み頂きたい! 関連記事…】
尚、本ブログ別記事では、他の「孫子の教え」につき、「サマリ的に一覧でも記載」しておりますし、「それぞれの “教え” を一歩深堀して記載」もしておりますので、宜しければ、是非ご参照ください!





























