仙台城址・伊達政宗騎馬像

【仙台城からの連想ゲーム:基本情報】

数年前の夏休み(遅めの夏休みだったので、9月中旬)、東北の旅に出かけました。岩手、秋田、宮城を回る旅です(旅全体の日程は、別記事をご参照ください)。その中で参らせて頂きました、宮城県仙台市にある、仙台城址を紹介させて頂きます。

城をテーマにする時の下記出しでいつも通りですが、仙台城と言うと皆さんは何を連想されますか? 私は、以下の感じです。

  • 東北の伊達者・伊達政宗が建て、名付けた城 
  • 別名青葉城 
  • 天守閣はなかったと言われているが、見事な石垣 
  • 江戸期を通じ、戦火に巻き込まれる事は無く、戊辰戦争でも、戦場にならなかっ 
  • しかし、花火の不発弾の落下や、空襲により被害を受けた

といった感じでしょうか?

【仙台城散策コース情報】

この日は、秋田県仙北市(角館のある所)夏瀬温泉から、仙台城を経由し松島の宿(松島温泉 ホテル 絶景の館:別記事で紹介しています)に移動するスケジュールでした。3時間半くらいの道のりで、車も少なく、快適なドライブでした(ちなみに、翌日松島観光をしてから埼玉の川越まで車でまっすぐ帰りましたが、4時間~5時間くらいかかりました・・・)。仙台宮城のインターチェンジからもわかりやすく、迷わず現地まで行き、仙台博物館の駐車場に止め、散策開始です。

ルートは、まずは、何としても見たかった石垣を見て、本丸から仙台の街を眺め、周囲を若干散策し、博物館であの三日月形の前立てで有名な具足(黒漆五枚胴具足)を拝見させて頂くルートを取りました。駐車場からは傾斜があり、それなりの上り坂です。2代藩主忠宗の時代に、今は東北大学になっている方に、本丸への往来の不便さから、二の丸を建設した事、実感できます・・・。

とは言っても、5分か10分位で石垣が見えてきた記憶があります。なんとも立派な石垣。10m位はあるでしょうか? 石垣を眺めつつ登ると、護国神社の鳥居とともに、本丸への入口が出てきます。こちらから入らせて頂きました。広々とした空間が出てきます。

入って早々、大広間の遺構を見る事が出来、その奥に、仙台市街の街並みが広がっています。お邪魔した時は、非常に天気が良く、太平洋まで見渡す事が出来ました。そして後ろに目を向けると、伊達政宗公の騎馬像があります。かなり大きいのですが、凛々しいお姿です。

写真と取らせて頂き、更に奥に向かって散策すると、護国神社が出てきます。こちらも中々立派なお社で、折角なのでご挨拶させて頂きました。こちらの神社創建は、1904年との事で、比較的新しい神社の様です。そして更に先に進むと、お土産物屋さん、レストラン等の商業施設と小さな庭園がありました。眺めは非常によく、政宗公の騎馬像、石垣には、見入ってしまいましたが、それ以上に、念願の仙台城祉にこれた事に感謝しつつ、博物館に向かいました

【伊達政宗を近くに感じる事が出来る、博物館】

仙台城址・本丸を後にし、博物館に向かったのですが、その前に、仙台城の生みの親、伊達政宗についても、少し連想ゲームをさせて頂きますと。。。

こんな感じでしょうか?

仙台は、私の地元はありませんので、あまり詳しい訳ではありませんが、NHKの大河ドラマで「独眼竜」のカッコいいい名前を聞いてから、好きな武将の一人が、伊達政宗です。仙台城の生みの親で、「仙台」の名付け親でもある政宗ですが、天然痘により失明したり、それがもとで寂しい幼少時代をおくったり、小田原攻め遅参により殺されそうになったり、家康に100万石の約束を反故にされたりと、結構かわいそうなエピソードを耳にします

しかし、奥州の覇者として、仙台藩の初代大名になり、晩年は北上川水系を整備し、今に続く、穀倉地帯の基礎を築き、江戸期を通じて、仙台藩が生き残る礎を気付いた結果、62万石の名目に対し、実質禄高100万石を超えるほどになったと言われているようです。

慶長遣欧使節団を送ったり、先見性の高さも魅力な上、三日月形の前立て、小田原征伐遅参時の白装束エピソードと正に伊達者(ちなみに、”伊達者”と言う言葉は、政宗よりも前にある言葉らしいが、政宗(の行動?)が、この言葉を世に広めたと考えられているらしいです)。本当に魅力的な、戦国武将です。

そんな政宗をを近くに感じる事が出来るのが、この博物館で、あの「黒漆五枚胴具足」を見る事が出来ます(また、「銀伊予札白糸威胴丸具足」、「三宝荒神形兜」も見る事が出来ます:仙台市博物館ホームページ参照:https://www.city.sendai.jp/museum/shuzohin/shuzohin/index.html#a01)。

また、教科書でよく見る政宗の肖像画も拝見する事が出来ます。独眼竜と言われる政宗ですが、こちらの肖像画は、両目とも描かれています。Wikipedia によると、以下の様にあります。

”「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている”

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊達政宗

このように、政宗関する知識やエピソードをおもいながら、実際の展示品を見ていると、より政宗を近くに感じられてきます。こういった楽しみは、正に大人の楽しみ方で、大人散策には持って来いも場所だと思った次第です。

【仙台城の不運な歴史と重なる政宗の生き方】

そんな、仙台城と伊達政宗ですが、仙台城の歴史は、政宗同様、平坦ではなかったようです。江戸期を通じ戦火に巻き込まれることなく、戊辰戦争でも戦場とならなかった仙台城ですが、明治時代には花火の不発弾が落ち火災となったり、戦争中には、国宝となっていた、「大手門と脇櫓」が、空襲により焼失したりと不運があった様です。Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります。

”(略) 太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)7月10日未明、アメリカ軍による仙台空襲の際、米軍のB29により投下された焼夷弾により、大手門、脇櫓(隅櫓)(当時国宝)、衛兵所に使用中の二の丸表舞台楽屋などが全て焼失し、護国神社も焼失した。これにより、江戸時代から伝わる建物は三の丸の巽門(たつみもん)のみとなった(この日の戦災で焼失したという説もある)。(略) 1882年(明治15年)9月7日、追廻で行われた西南の役(西南戦争)戦没者招魂祭の花火が不発のまま落ち、その火災により、表舞台楽屋以外の二の丸遺構はすべて焼失。(略)”

https://ja.wikipedia.org/wiki/仙台城

燃えてしまったのは、非常に残念ですが、本来想定していなかった事象で、運命的に燃えてしまったのは、政宗が天然痘にかかり、失明してしまった事象に重なり、感慨にふけってしまいます。しかし同時に、本丸から仙台の発展ぶりを見ると、東日本大震災の後の復興も含め、政宗同様、生き抜く力強さを感じました。

【最後に】

石垣は立派で、見晴らしも良く、博物館では、あの ”黒漆五枚胴具足” を見る事が出来る、仙台城址(博物館)

見所沢山と言う訳ではないかもしれませんが、そのお城の歴史と政宗の生き様まで踏まえその地に立つと、生きる力の湧いてくる場所です。皆様も是非仙台城址に足を運び、仙台城と政宗の歴史に思いをはせてみてはいかがでしょうか?(旅全体の日程は、別記事をご参照ください)

尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城国宝5城現存12天守現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城彦根城松本城松江城川越城二条城熊本城高知城掛川城小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。

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