【はじめに】
こちらのページでは、「日本三大水城(海城)の一つで、築城の名手と言われる藤堂高虎の手による『今治城』の周囲も含めた大人散策 / ポタリングを検討」させて頂こうと思います。
まずは、いつも通りお城に関する題材の際の連想ゲームから入らせて頂きます。皆様は、「今治城」と聞くと、何を連想されますでしょうか? 私の場合は、以下の感じです。
- 日本三大水城(海城)の一つ(他の2つは高松城(香川)・中津城(大分))で、日本100名城の一つでもある
- 藤堂高虎によって築かれたお城と言われる
- 現存12天守の1つ・伊予松山城から1時間ちょっとでアクセスできるらしい (そのほかの現存12天守:姫路城・犬山城、松本城、彦根城・高知城・松江城・宇和島城・備中松山城・弘前城・丸亀城・丸岡城)
- 村上水軍の伊予村上氏の一族・来島村上家(=来島氏/久留島氏)の拠点・来島城跡がある来島も近い
- 現在の天守を初めて見た際「帽子をかぶったおじさんの顔」に見えてしまった記憶がある…
- 今治と聞いて思い出すのが、しまなみ海道と今治タオル…
正直あまり今治城に関しては、知識がないので、連想ゲームもあまり進みませんでしたが、「今治城と言えば、やはり『日本三大水城(海城)の一つで、築城者は藤堂高虎』」。築城の名手と言われ、同じ四国では、現存12天守の一つ宇和島城も高虎の手によるものと認識しております。しかしながら、日本三大水城(海城)に数えられる今治城ですが、実まだ実現出来ておりません…。
こちらのページでは、そんな、まだお邪魔できていない「日本三大水城(海城)の一つで、築城の名手と言われる藤堂高虎の手による『今治城』の周囲も含めた大人散策 / ポタリングを今後の訪問の為に検討」させて頂こうと思います。
【今治城の概要】
まずは、今治城の概要を抑えるべく、Wikipedia の力を借りますと、以下の様にあります(引用の後に、箇条書きでポイントまとめてます)。
今治城(いまばりじょう)は、伊予国越智郡今治(四国・愛媛県今治市通町三丁目)にあった日本の城。昭和28年(1953年)10月9日に愛媛県史跡に指定された。別称「吹揚城(吹上城)」。
歴史・沿革
江戸時代
慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城開始され、慶長9年(1604年)に完成した。普請奉行として渡辺了の名が知られている。今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城であったが、より能率的な都市経営を目指すため築城された。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。今治城の航空写真(Google Map より) 二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだった。慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。 天正年間の天守は望楼型天守が主流であったが、構造上無理があることから、不安定で風や地震に弱く、必ず屋根裏の階ができるため使い勝手が悪かった。 そのため、今治城では新たに層塔型天守を創建した。これは矩形の天守台を造成し、その上に規格化された部材を用いて全体を組み上げたもので、構造的な欠陥が解消されるばかりか、各階別に作事が可能なことから工期も短縮できた。以後、高虎がこの様式を江戸城をはじめとする城郭普請に採用したことで、高虎の新型天守は近世における天守建築の主流となった (略)
現代
本丸の石垣と内堀が江戸時代の姿を残している。
昭和55年(1980年)に5層6階の天守が鉄筋コンクリートで建てられた (略)
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(79番)に選定された (略)今治城再建天守
今治城の天守は、一次資料が不足しているため、築城当時に建造されたか否かが確定されていない。 藤堂家の家譜『宗国史』巻二には「城中に五層の高楼を建て、府下を五街に開き」と記述されているが、敷地内に天守の遺構が確認されていないためである (略)
また、今治城の天守は、藤堂高虎によって上野城に移築する目的で解体され、慶長15年(1610年)の亀山城(丹波国)天下普請の際に徳川家康へ献上され、亀山城へ移築されたとする説がある。この説は『寛政重修諸家譜』の「慶長十五年丹波口亀山城普請のことうけたまわり、且今治の天守をたてまつりて、かの城にうつす」という記述が根拠となっている (略)
いずれにしても、天守の存在を示す一級資料や遺構等の具体的な裏づけとなるものは確認されていないため、天守が建てられたかについて結論に至っていない (略)今治城 亀山城本丸南面(1872年撮影) Wikipediaより:今治城の再建模擬天守と亀山城古写真 再建天守
https://ja.wikipedia.org/wiki/今治城
今治城の再建天守は、当初の建築の実在について明確な資料が少ないため、史実に基づかない模擬天守である。
往時の天守は亀山城に移築されたと伝えられ、亀山城天守については明治初年に撮影された古写真や平面図が残されており、おおよその形状がわかっている。そのため、今治城天守の再建に際しては亀山城天守の外観を参考にしたとされているが、実際には亀山城天守が層塔型の構造で最上重の唐破風と入母屋破風のみであるのに対し、再建天守は望楼型の構造で大入母屋破風を基部としており、張り出しや出窓など亀山城にはない意匠が施されている。また、天守の位置も本丸の中央付近と推定されているが、本丸塁線上の二重櫓(北隅櫓)跡に建てられている。
最上階からは、しまなみ海道の来島海峡大橋が見えるなど、瀬戸内海を眺望することができる (略)
少々引用が長くなってしまいましたので、以下にポイントをまとめます。
- 今治城は、別名・吹揚城(吹上城)とも言うらしく、日本三大水城(海城)の一つで、日本100名城にも選出されている
- 1602年に藤堂高虎によって築城開始され、1604年に完成したと言われる
- その構造(縄張り)は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造であったらしい (築城当時は海から堀へ直接船で入ることができたらしい)。
- またこの時代の天守は、望楼型天守が主流であったが、今治城では層塔型天守で創建され、この後、高虎がこの様式を江戸城をはじめとする城郭普請に採用した事により、層塔型天守が近世における天守建築の主流になったと言われる
- しかし、今治城の敷地内に天守の遺構が確認されておらず、資料不足もあって、築城当時に建造されたか否かが確定されていないが、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時期に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わるらしい
- その為、今治城の今の再建天守は、史実に基づかない模擬天守の位置づけで、明治期には残っていた亀山城の外観を参考にしたと言われるが、亀山城天守が層塔型であるのに対し、今治城の再建天守は望楼型であったり、天守の位置も本丸の中央付近と推定されているが、本丸塁線上の二重櫓(北隅櫓)跡に建てられたりと、かなりアレンジされているらしい…
つまり、「今治城は、築城の名手・藤堂高虎の手による物で、特異な構造(縄張り)から、日本三大水城(海城)にも数えられ、「望楼型天守 ⇒ 層塔型天守」のターニングポイントになったとも言われるお城である様だが、現在の今治城は、資料不足や発掘調査による証明がなされていない事により、史実に基づかない天守の位置づけの模擬天守である」と言う事だと理解しました。
【今治城の周囲を含めた見所】
上記、概要を抑えさせて頂きました今治城ですが、こちらのパートでは、その見所を、周囲の情報と併せて見て行きたいと思います。
個人的趣味がかなり入りますが、このエリアにおける楽しみ方は、「今治城の大人散策 & 周囲の大人ポタリング」 だと思った次第で、様々調べてみますと、さすがサイクリストの聖地と言われるだけの事はあり(私達夫婦の場合は50㎞/日位が限界なので「大人ポタリンガー」ですが…)、レンタサイクルも充実しており(中々の自転車をレンタルしてくれる様です)、多くのお宿もサイクリスト(=ポタリンガー)に優しい(自転車を部屋に持ち込める等の)サービスを提供してくれる様です。
その為、初日は今治城を大人散策で重点的に回った後、2日目は、自転車をレンタルし、しまなみ海道の大人ポタリングで、この地域の自然を満喫しながら、村上水軍の関連する博物館までの往復にチャレンジしてみたいと思った次第です(更に可能なら、村上水軍の伊予村上氏の一族・来島村上家(=来島氏/久留島氏)の拠点・来島城跡に渡りたいですし、渡れなくとも遠望は楽しみたいと思ってますが…)。
参考:ジャイアントのレンタサイクルのページがありました!:https://bicyclerental.jp/area/ehime/1/lineup/
■今治城 (初日)
初日は、じっくりと今治城を大人散策で楽しもうと思います。現在の今治城(本丸?)へのアクセスは、2つの橋からのみ可能なようで、城郭エリアは限られる(=さほどの大きさは無い)様です。その内部から & 外部からしっかりと今治城を堪能させて頂こうと思います。
・土橋~天守
現在のメインの入り口と思われる「土橋」を渡り、枡形虎口で、多聞櫓・鉄御門島を拝見し、三の丸跡に入って藤堂高虎の像にご挨拶。その後、二の丸跡に回り、御金櫓を見学して、月見・南隅・西隅櫓跡と回ろう思いますが、城郭内には、住吉神社・吹揚神社等もある様なので、こちらにもしっかりご挨拶させて頂いた後に、天守をじっくりと見学させて頂こうと思います。
・天守から城郭外へ
天守をじっくりと拝見させて頂いた後は、山里櫓を見つつ山里門から現在の城郭を失礼し、内堀を越えて、今治城の天守遠望を楽しみたいと思います。少々調べてみた所、内堀の周囲を1周回っても1.5㎞程の様なので、東西南北のすべての角度から今治城の遠望も楽しみたいと思います。上記 Wikipedia の引用によれば「本丸の石垣と内堀が江戸時代の姿を残している」との事なので、江戸期の今治城の姿を想像しつつ、大人散策を楽しませて頂きたいと思う次第です。
■しまなみ海道を大人ポタリングで、村上水軍ミュージアムへ (2日目)
2日目は、朝一で自転車をレンタルし、大人ポタリングで「村上水軍ミュージアム」を目指そうと思います。調べてみると、往復で50㎞程の道のりになりそうなので、私達夫婦の限界の距離だと思います為「勇気ある撤退(単なる「体力的限界による引き返し」かもしれませんが…)」も頭の片隅に置きつつ、安全第一でチャレンジしてみようと思います!
・今治駅付近~村上水軍ミュージアム
上記ジャイアントの自転車を貸してくれるショップや気になるホテルは、今治駅を中心に考えておけば、アクセスは問題ないようなので、今治駅付近をスタートと致します。朝一で自転車を借り、今治駅付近から大浜八幡大神社を目印としつつ北上して、来島海峡 第三大橋で四国を脱出。「来島海峡 第三大橋」 ⇒「 第二大橋」 ⇒ 「第一大橋」と雄大な海峡の景色や島々を拝見しながらゆっくりと進めば「大島」に渡る事が出来る認識です。大島に渡った後は、原八幡大神社を目印に北島方面に進んで、村上水軍ミュージアムへ。何処まで期待できる展示があるか不明ですが、瀬戸内海に歴史好きの大人ポタリンガーが脚を延ばしたのであれば、素通りしたくないスポットだと信じている次第です(体力が限界になりそうな際は、潔く「勇気ある撤退」として引き返しますが…)。
・村上水軍ミュージアム~今治駅付近
村上水軍ミュージアムで、村上水軍の歴史を感じた後は、基本来た道を戻ります。改めて雄大な海峡や島々の景色を堪能しつつの道のりでしょうが、その道のりの近くにある「稲井城跡」や「村上水軍の伊予村上氏の一族・来島村上家の拠点・来島城跡」にも脚を延ばしたいと思っています(来島城跡には、船で渡ってみたい気もしていますが…)。正直体力が何処まで持つのか、時間的な制限が何処まで許してくれるのか等、出たとこ勝負でもあるので、状況に応じて臨機応変に対応していこうと思って折ります。
【最後に(伊予松山城 / 道後温泉 ・宇和島城・丸亀城 / 金刀比羅宮・高松城 / 栗林公園も併せて?)】
以上が、「日本三大水城(海城)の一つで、築城の名手と言われる藤堂高虎の手による『今治城』の周囲も含めた大人散策 / ポタリングを検討」させて頂いた内容になります。
そして最後に。今治(城)~現存12天守の1つ・伊予松山城 / 道後温泉のある松山までは、電車でもバスでも1時間ちょっと程でアクセス出来る様です。更に、別の現存12天守の1つ・宇和島城のある宇和島までは、電車によっては、2時間ちょっとでアクセス出来る様です。居住地の川越からであれば、飛行機でのアクセスになると思うので、「川越 ⇒ 羽田 ⇒ 松山(伊予松山城 / 道後温泉を周囲も含め堪能) ⇒ 今治(今治城/しまなみ海道堪能) ⇒ 宇和島(宇和島城とその周囲も含めを堪能) ⇒ 松山 ⇒ 羽田 ⇒ 川越」のルートが出来るのないかと思った次第です。また、別記事で紹介した香川(別の日本三大水城(海城)の一つ・高松城や近くの栗林公園、更に別の現存12天守の1つ・丸亀城や近くの金刀比羅宮)と絡めて回る事が出来るのでないかとも思った次第です。四国のもう一つの現存12天守の1つ・高知城は少し方向ずれますが、今治城・伊予松山城 / 道後温泉 ・宇和島城・丸亀城 / 金刀比羅宮・高松城 / 栗林公園は、セットで回ってみてもいいのでないかと思った次第です(かなりの贅沢な旅になりそうですが…)。どんな形になるか全くわかりませんが、今治城に訪問できた暁には、本プランの評価を含め本ブログを更新し、報告させて頂ければと思います!
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。