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【はじめに】
こちらのページでは、「『日本三大仏』の歴史とその変遷、並びに『具体的に名前の挙がった “日本三大仏” のいらっしゃる寺院ってどんな寺院なのか?』につき情報共有」をさせて頂こうと思います。
いきなりですが、皆様が思い浮かべる「日本三(大)〇〇」って何ございますでしょうか? 本ブログでは、様々な「日本三(大)〇〇」を取り上げさせて頂きました。城郭系では「三大山城」・「三大平山城」・「三大水城(海城)」等、神社仏閣に関連する切り口では、「三大東照宮」・「三大八幡」・「三大怨霊」等、更には「日本三大奇襲」・「日本三大河川」・「日本三大急流」・「日本三名園」・「日本三名城」・「三大曳山祭 / 山車祭 / 美祭」と言った内容でも記載させて頂きました。これらを調べ感じた個人的感想は、『「日本三(大)〇〇」の定義って “結構あいまい” で、誰が言い始めたかも不明なケースが多いものの、それなりに納得できるチョイスをしている!』と言ったもので、『であれば、個人的に、そして勝手に「日本三(大)〇〇」として、 “うまいチョイス” が出来れば、独自の「日本三(大)〇〇」を言ったもん勝ちのスタンスで、提唱できるのではないか?』とも思ってしまった次第です…。

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そんな、勝手なイメージを持ている「日本三(大)〇〇」ですが、今回こちらのページでは、本ブログ別記事の「東大寺:奈良の大仏」・「高徳院:鎌倉の大仏」・「方広寺:京の大仏」等を記載している際に出会ってしまった「日本三大仏」に付き記載させて頂きます。すなわち「『日本三大仏』の歴史とその変遷、並びに『具体的に名前の挙がった “日本三大仏” のいらっしゃる寺院ってどんな寺院なのか?』につき情報共有」させて頂きます。
【そもそも「日本三大仏」とは?】
まずは、「日本三大仏」に関し、Wikipedia を調べてみますと、以下の様にあります(引用後にまとめて折りますので、引用読まなくても大丈夫です…)。
(略) 日本三大仏
奈良の東大寺、河内の太平寺(知識寺)、近江の関寺の大仏
奈良の大仏、鎌倉大仏、京の大仏
奈良の大仏、鎌倉大仏、兵庫大仏
奈良の大仏、鎌倉大仏《高岡大仏、岐阜大仏》 (略)
日本三大仏(にほんさんだいぶつ)は、日本にある大仏の中から代表的な3尊を選んだものである。うち2尊は奈良県奈良市の東大寺にある奈良の大仏と神奈川県鎌倉市の高徳院にある鎌倉大仏が挙げられる。残る1尊は京の大仏の喪失以降は定説は無く、戦後以降は富山県高岡市の大佛寺にある高岡大仏や岐阜県岐阜市の正法寺にある岐阜大仏や兵庫県神戸市の能福寺にある再建された2代目の兵庫大仏など諸説ある。
変遷
三大仏の変遷は、京都府京都市の方広寺にあった京の大仏が3尊目に挙げられた江戸時代、兵庫県神戸市の能福寺にあった兵庫大仏が3尊目に挙げられた戦前、富山県高岡市の大佛寺にある高岡大仏や岐阜県岐阜市の正法寺にある岐阜大仏などが3尊目に挙げられる戦後の三期に大きく分けられる。
なお奈良の大仏と鎌倉大仏は江戸時代以前から存在するが、江戸時代以前から三大仏の概念があったかは不明瞭である (略)江戸時代
・奈良の大仏(大和国添上郡(現:奈良県奈良市)、東大寺)
・鎌倉大仏(相模国鎌倉郡(現:神奈川県鎌倉市)、高徳院)
・京の大仏(山城国紀伊郡(現:京都府京都市)、方広寺)
初めて三大仏の概念が大衆に普及した形で現れることを史実として確かめられるのは江戸時代に入ってからである。ただし豊臣秀吉による京の大仏が完成した頃(桃山時代)から、同様の概念が既にあったと考えられる (略)戦前
・奈良の大仏(奈良県奈良市、東大寺)
・鎌倉大仏(神奈川県鎌倉市、高徳院)
・兵庫大仏(兵庫県神戸市、能福寺)
京の大仏が焼失したあと3尊目に挙げられたのは明治24年(1891年)に造営された兵庫大仏であった。その規模はかつての京の大仏には及ばないが、長らく空いていた3尊目の座を埋めるには十分であった。しかし、兵庫大仏は太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に出された金属類回収令によって供出される。その後、兵庫大仏は平成3年(1991年)になってようやく再建された。戦後以降
・奈良の大仏(奈良県奈良市、東大寺)
・鎌倉大仏(神奈川県鎌倉市、高徳院)
・高岡大仏(富山県高岡市、大佛寺)や岐阜大仏(岐阜県岐阜市、正法寺)など
兵庫大仏が供出された昭和時代中期以降、三大仏の3尊目に富山県高岡市の大佛寺にある高岡大仏や岐阜県岐阜市の正法寺にある岐阜大仏、再建された2代目の兵庫大仏や東京都板橋区の乗蓮寺にある東京大仏(青銅製の鋳造大仏では、奈良・鎌倉に次ぐ日本で3番目の大きさとされる)などが挙げられることがある (略) 「三番目の大仏」について、固定化された説はない (略)


併せて理解すると以下の感じになった次第です。
- 現在、「日本三大仏」と言われる大仏様に関しては、いくつかの説が有る
- ただ、江戸期までは、『東大寺の「奈良の大仏」』・『高徳院の「鎌倉の大仏」』・『方広寺の「京の大仏」』が定説であったらしい
- しかし、『方広寺の「”三代目” の京の大仏」』が、落雷により焼失して以降(1798年)、「日本三大仏」の変遷が始まった
- その変遷は、以下の内容になったらしい
- 戦前
・奈良の大仏(奈良県奈良市、東大寺)
・鎌倉の大仏(神奈川県鎌倉市、高徳院)
・兵庫大仏(兵庫県神戸市、能福寺) - 戦後以降
・奈良の大仏(奈良県奈良市、東大寺)
・鎌倉の大仏(神奈川県鎌倉市、高徳院)
・高岡大仏(富山県高岡市、大佛寺)や岐阜大仏(岐阜県岐阜市、正法寺)など
- 戦前
- つまり、現在「日本三大仏」と言った際、『東大寺の「奈良の大仏」』・『高徳院の「鎌倉の大仏」』+『「能福寺:兵庫大仏」or「大佛寺:高岡大仏」or「正法寺:岐阜大仏」or「乗蓮寺:東京大仏」等』と言った感じで、『「三番目の大仏」について、固定化された説はない』と言われるらしい
つまり、簡単に言ってしまえは、『江戸期までの「日本三大仏」は、『東大寺の「奈良の大仏」』・『高徳院の「鎌倉の大仏」』・『方広寺の「京の大仏」』が定説』だが、現在は、「『東大寺の「奈良の大仏」』・『高徳院の「鎌倉の大仏」』+ アルファ」といった理解になると認識した次第です。


【具体的に名前の挙がった「日本三大仏」の寺院ってどんな寺院?】
上記、「 日本三大仏」と言ったワードの概要を、その歴史と変遷も含め、抑えさせて頂きましたので、こちらの段落では『具体的に名前の挙がった「日本三大仏」の寺院ってどんな寺院?』に付き、記載いたします。とは言っても、現在はいくつかの候補の寺院(大仏様)がある(いらっしゃる)様なので、【『江戸期までの定説であった「日本三大仏」』:『東大寺の「奈良の大仏」』・『高徳院の「鎌倉の大仏」』・『方広寺の「京の大仏」』】をメインに記載し、【『現在3つ目の「日本三大仏」の候補』:「能福寺:兵庫大仏」or「大佛寺:高岡大仏」or「正法寺:岐阜大仏」or「乗蓮寺:東京大仏」】についても簡単に触れさせて頂くように致します。
【東大寺の「奈良の大仏」】
『東大寺は、若草山麓に創建された金鐘寺に起源を持ち、奈良時代に、聖武天皇が「国分寺建立の詔」が発せられた事を受け、「大和国(現奈良県)の国分寺」兼「(国分寺の中心をなす)総国分寺」と定められたタイミングで寺名を「金光明寺」と改め、大仏の鋳造が始まり、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと言われる寺院。
平安期には、桓武天皇の南都仏教抑圧策や南都焼討の兵火で打撃を受けたが、多数の僧兵を抱える力を持つ寺院になっていき、鎌倉期初めには、大仏開眼・再建大仏殿の完成と再建は着々と進むが、戦国期には、再び兵火で焼失し、信長は、東大寺保護の姿勢をとるが、その後に天下人になった秀吉は、東大寺大仏に代わる新たな大仏(京都・方広寺大仏(=京の大仏))の造立を発願し、東大寺大仏再建への着手は行わなかった為、1567年の東大寺大仏・大仏殿の焼失後、その再建が遅々として進まず、大仏は露座のまま放置の状態が続いた。
しかし、江戸期に入って1600年代後半、東大寺大仏の修理と大仏殿の復興を行おうと勧進を始めると、徳川綱吉を始め、多くの人々からの寄進・喜捨を受けて、大仏開眼・再々建大仏殿の完成が実現し、現在東大寺には、その時の大仏殿(金堂)・大仏(盧舎那仏像)や南大門(鎌倉期)・金剛力士立像(鎌倉期)・二月堂(江戸期)・法華堂(三月堂;奈良期)と言った国宝をはじめとする、多くの国宝・重要文化財が存在しており、その総数は、(正確ではないかもしれませんが、Wikipedhia に記載のあったものをカウントすると)「国宝=建物系:8・美術工芸品系:23」、「重要文化財=建物系:14・美術工芸品系:127」にのぼり、古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界文化遺産に登録されている寺院となった』
上記の様な理解をさせて頂いますが、皆様は、どの様にお感じになられましたでしょうか? 個人的に思った事は「これだけの国宝・重要文化財の建造物・美術工芸品を所有する東大寺は、日本の中心がまさにこの場所にあった痕跡であり、エビデンスである」と思ってしまった次第です。
Wikipediaより:東大寺の様子
【高徳院の「鎌倉の大仏」】
『「鎌倉の大仏様」は、鎌倉の「高徳院」と言うお寺にある「阿弥陀如来」のご本尊。創建当時は「大仏殿」の内部に安置されていたが、度重なる災害で壊れてしまい、現在は「ほぼ野ざらし」状態であるが、「鎌倉時代から、ほぼ同じお姿を保つ国宝」の仏様でもある。高徳院の開山、開基は不明であるが「鎌倉の大仏」は非常に有名で「鎌倉のシンボル」であり、国宝である以上「日本を代表する大仏様」が「高徳院の鎌倉大仏」』と言った理解をさせて頂いた次第です。
言い換えると、「1200年中頃からその場所に存在している大仏様」になるので、「歴史上の偉人も、私達の御先祖様も、多くの方々がお目にしてきた大仏様で、800年程の期間、この鎌倉の地を見守ってきた大仏様」が「鎌倉の大仏様」になるという事です。「鎌倉のシンボル」である事は、間違いなく、「日本のシンボル」と言っても過言ではないと認識するのは、私だけではないと思い、鎌倉に脚を運んだ際は、必ず脚を延ばすべき「大人観光スポットの一つ」だと、改めて思っている次第です。
高徳院の「鎌倉の大仏」の様子
【方広寺の「京の大仏」】
「方広寺」は、「豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏:京の大仏=かつては「日本三大仏の1つ」)を安置するための寺として 1595年に創建された寺院」で、1598年に秀吉が他界した後、方広寺の東方にある「阿弥陀ヶ峰」山頂に埋葬され、「豊国廟(秀吉のお墓)」が建立されたのに始まる「豊国神社」も置かれたらしい。
ただその敷地は、元々、平安期に「後白河天皇」が譲位して上皇となり、「院の御所に定めた」という「法住寺の敷地」だったと考えられている様で、その「法住寺」は、1192年に後白河上皇が崩御し、法住寺殿の法華堂に葬られ、「後白河法皇の御陵をまもる寺」として、長く存続した歴史を持つらしい(=後白河法皇ゆかりの寺院)。
一方で、江戸期には、「方広寺鐘銘事件」に端を発する「大坂の陣」で豊臣氏滅ぼされたことを受けて、江戸幕府により「妙法院」門主が「方広寺」住職を兼務するようになり(=「法住寺」は「妙法院」門跡の「院家」として待遇)、「江戸時代の妙法院」は、「方広寺」、「蓮華王院(=三十三間堂:元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂)」等を兼帯する大寺院となったようで、同時に「豊国神社」は、豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となった。


「国家安康」「君臣豊楽」
![Wikipediaより:方広寺, 1890年撮影。明治17年(1884年)再建[197]の鐘楼(現存)を撮影したもの。 奥に見えるのが3代目大仏殿。](https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_780/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/04/Wiki 方広寺-1890年撮影。明治17年1884年再建197の鐘楼現存を撮影したもの。-奥に見えるのが3代目大仏殿。 .jpg 780w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_300/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/04/Wiki 方広寺-1890年撮影。明治17年1884年再建197の鐘楼現存を撮影したもの。-奥に見えるのが3代目大仏殿。 -300x227.jpg 300w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_768/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/04/Wiki 方広寺-1890年撮影。明治17年1884年再建197の鐘楼現存を撮影したもの。-奥に見えるのが3代目大仏殿。 -768x581.jpg 768w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_380/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/04/Wiki 方広寺-1890年撮影。明治17年1884年再建197の鐘楼現存を撮影したもの。-奥に見えるのが3代目大仏殿。 -380x287.jpg 380w)

しかし明治維新時に、「明治天皇の勅命」により、「豊国神社」は再興され「別格官幣社」に列格されたらしく(現在は神社本庁の別表神社で、その敷地の大部分は「方広寺の寺領」であったが、明治新政府により収公され、最終的に「豊国神社境内」となった経緯らしい)、同時に、「後白河天皇陵」と「妙法院門跡法親王の墓所」が寺域から分離され、宮内省の管轄におかれたらしい。また、「大坂の陣」の発端になった「方広寺鐘銘事件」の物的証拠である『「国家安康」の梵鐘』は、「日本三大梵鐘」の1つとして、現在でも「方広寺」で見る事が出来る。
上記少々長めの文章になりましたが、つまり『元々「方広寺のあった場所」は、「後白河上皇の院政の拠点」として設置された「『法住寺』の敷地」で、その歴史においては、秀吉・家康・明治天皇の政治的思惑が絡みあった事で、「日本と言う国の舵取りにおける主導権」も、「後白河上皇(院政@法住寺)」 ⇒ 「秀吉(「日本三大仏」の1つ:「京の大仏」の設置@方広寺)」 ⇒ 「家康(『「国家安康」の梵鐘』に端を発した「方広寺鐘銘事件」で、「大坂の陣」を経て妙正寺の管理下)」 ⇒ 「明治天皇(「豊国神社」の再興と「別格官幣社」への列格(法住寺がまもってきた「後白河法皇の御陵も宮内省管理下へ」))」と移り、正に「日本史における転換期の痕跡が詰まったエリア」になった』と認識したという事です。言い換えると、『「”国家安康” の梵鐘」に端を発した「方広寺鐘銘事件」』・『「日本三大仏」の1つに数えられた「京の大仏」』で有名な『方広寺』を理解するには、「法住寺」・「妙正寺」・「豊国神社(豊国廟)」も併せて認識する必要があると言う理解をしている次第です。

![甲斐善光寺 御本尊善光寺如来[重要文化財]](https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_450/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/04/甲斐善光寺 御本尊善光寺如来[重要文化財] .jpg 450w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_273/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/04/甲斐善光寺 御本尊善光寺如来[重要文化財] -273x300.jpg 273w, https://sp-ao.shortpixel.ai/client/to_auto,q_lossy,ret_img,w_327/https://tomoaki.tokyo/wp-content/uploads/2025/04/甲斐善光寺 御本尊善光寺如来[重要文化財] -327x360.jpg 327w)

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【現在の「日本三大仏」候補の寺院】
「能福寺:兵庫大仏」
・住所:兵庫県神戸市兵庫区
・宗派:天台宗
・ご本尊:阿弥陀如来
・大仏様:
毘廬舎那仏像で、像重量約60トン、像高11m、蓮台と台座を含めると高さ18mになる巨大な坐像だったらしい…


「大佛寺:高岡大仏」
・住所:富山県高岡市大手町
・宗派:浄土宗
・ご本尊:阿弥陀三尊蔵
・大仏様:
台座の内部には回廊があり地獄絵などが展示され、中央の部屋には1900年に焼失した木造大仏の頭部が鎮座しており、高岡市の象徴的な観光地となっているらしい「高岡市指定有形文化財」


「正法寺:岐阜大仏」
・住所:岐阜県岐阜市大仏町
・宗派:黄檗宗
・ご本尊:釈迦如来
・大仏様:
釈迦如来の坐像で、江戸時代後期に塑像漆箔で造られた「日本最大級の乾漆仏」と言われる硫黄で、像高13.63m、顔の長さ3.63m


「乗蓮寺:東京大仏」
・住所:東京都板橋区赤塚
・宗派:浄土宗
・ご本尊:阿弥陀如来
・大仏様:
阿弥陀如来像で、坐像で青銅製の鋳造大仏としては、日本で4番目の大きさとなり、高さは基壇が地上2メートル、蓮台2.3メートル、座高8.2メートルの計12.5メートル


【最後に】
以上が、「『日本三大仏』の歴史とその変遷、並びに『具体的に名前の挙がった “日本三大仏” のいらっしゃる寺院ってどんな寺院なのか?』につき情報共有」をさせて頂いた内容になります。
江戸期までの「日本三大仏」で定説であった、『東大寺の「奈良の大仏」』・『高徳院の「鎌倉の大仏」』・『方広寺の「京の大仏」』に加え、「能福寺:兵庫大仏」・「大佛寺:高岡大仏」・「正法寺:岐阜大仏」・「乗蓮寺:東京大仏」等の大仏様を記載させて頂きましたが、いかがでしたでしょうか? 自身が感じた事は、どの大仏様も魅力的で「すべての大仏様を、是非直接拝見させて頂きたい!」と言うものです。もう既になくなってしまい、拝見できない大仏様もいらっしゃいますが、現在拝見できるにも関わらず、訪問できていない大仏様もいらっしゃる事、改めて認識しましたので、いつの日か機会を見つけ訪問し、しっかりとご挨拶申し上げ、本ブログで報告させて頂こうと強く思っている次第です!
尚本ブログでは、諏訪大社や熱田神宮、大宮氷川神社、川越氷川神社、川越喜多院、日光の二社一寺、久能山東照宮、浅草寺、深大寺、神田明神、大國魂神社等々、有名何処の神社仏閣に加え、日本三大怨霊 / 日本三大八幡 / 神社の社格 / 神社のカテゴリー分類と言った内容に関する考察の記事も記載しております。以下に、本ブログで記載した(一部記載が追い付いていない神社仏閣もありますが…)祭神の系統や社格(神社)や宗派(仏閣)といった切り口で、マトリックス上にまとめた一覧表を共有させて頂きますのでご参照頂けますと幸いです。また、今後調査や訪問を行い、本ブログで記載していきたいと思って折りますので、「更新中」である事を予めご容赦頂けますと幸いです(画像では見にくいので、クリック頂くとpdfのファイルが開く様になっております)。