【基本情報:松本城と聞いて何を連想されますか?】
こちらのページでは、「日本に現存する12天守のうちの1つがあり、国宝でもある松本城の概要と見所を抑えた上で『なぜ松本城が国宝なのか?』に付き、個人的ではありますが考察」を加えさせて頂こうと思います。
お城の記事の時は、いつも同じ書出しですが、皆さんは、松本城と言うと、何を連想れるでしょうか? 私は、以下の感じです。
- 国宝である (ほかの国宝天守は、犬山城、彦根城、姫路城、松江城で、松本城も併せて、国宝5天守)
- 武田信玄が抑えていた頃は、昔は、深志城と呼ばれていた
- 五重六階の現存天守は、姫路と松本のみ
- 戦と平和が共存した面白い作り
- 黒い天守群の堀越しの立ち姿は、とにかくカッコいい (地元では、烏城と言われている様です)
- 明治には、天守が傾いた事がある
- 松本の市内は勿論、安曇野等、周辺観光も見逃せない
と、こんな感じでしょうか…。
山梨県の北杜市出身の私にとって、少し距離がある物の、現存12天守を最も近くで拝見できたこの松本城。幼少の頃、歴史好きな私を、幾度となく両親が連れて行ってくれた松本城は、思い出の地でもあります。人生で初めて現存天守を体験させて頂いたお城で、天守閣から見える北アルプスは、北杜市から見える南アルプスと違う峰々で、非常に新鮮で、でも盆地の為か、「韮崎や甲府の景色に似ている…」と思った記憶もある地です。
そんな個人的な思い出はさておき、こちらのページでは、「国宝松本城の概要や見所を抑えた上で『なぜ松本城が国宝なのか?』に付き、勝手な考察」を加えさせて頂こうと思います。
【松本城の歴史的概要と見所】
そもそも、皆様は松本城に行かれた事はございますでしょうか? 松本城は、元々は、深志城と言われていたそうですが、1600年辺りに城全体の構造が一新され、天守もこの時に築城されたと言われているようで、現存する天守の中でも、最も古い方の天守になるそうです。そればかりか、乾櫓・辰巳附櫓・月見櫓も現存しているようです。(これらも国宝との事) Wikipediaには、以下の様にあります(少々引用長いので、以下に箇条書きでまとめております)。
松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市(旧・信濃国筑摩郡筑摩野松本)にある日本の城である。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。天守は安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された現存天守の一つとして国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、犬山城、彦根城、松江城) (略)
国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。天文年間には甲斐国の武田氏による信濃侵攻が開始され、1550年8月27日(天文19年7月15日)には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)。武田氏は林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置いた。その後は信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信濃に至る信濃一帯を領国化した。
Wikipediaより:松本城内部の様子 1582年(天正10年)、甲州征伐に伴う武田氏滅亡により城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵された。本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、同年6月には越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還。さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、当時の松本城主小笠原秀政も下総国古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。石川数正は徳川家を出奔して秀吉の下へ走った経緯があり、天守の築城は関東を領した家康に対する牽制・防衛のためだといわれている。その後、家康が江戸幕府を創始。江戸時代初期には大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長に始まる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした (略)
Wikipedia / 松本城のHP(https://www.matsumoto-castle.jp/)/自身で撮影より:月見櫓・太鼓門(櫓門/高麗門)・黒門・城内地図 天守
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。辰巳附櫓・月見櫓は、第3代将軍徳川家光が長野の善光寺に参拝する途中で、松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主松平直政が建てた。赤い欄干を配して、風雅な雰囲気を持つ。家光の善光寺参拝は中止になったが、天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構となった。
大天守は構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、2重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら、外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。ただ、強引とはいえ外見的には層塔型の形状を成立させているため、各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴の一つとなっている。(略)
外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年(昭和25年)の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した1955年(昭和30年)以降は黒漆塗りとなっている。乾小天守も構造的特徴は大天守と同様であるが、最上階に華頭窓が開けられている。
北 西 東 Wikipediaより:天守閣からの眺め 天守の建造年
天守の建造年には、いくつかの説がある。 「天正19年(1591年)説」「文禄3年(1594年)説」「慶長2年(1597年)説」「慶長5年・6年(1600年 – 1601年)説」、「慶長20年(1615年)説」である。いずれも、主に大天守の建造年を示したものである。
天正19年説は、大類伸・鳥羽正雄の共著『日本城郭史』に見られる説で、宮上茂隆は1992年(平成4年)に発表した論文において石川数正とその子康長により建てられた第1期天守の建造年と考え、大天守ではなく現在の乾小天守であると主張している。
慶長2年説は、1940年(昭和15年)に城戸久が論文において述べた説で、当時定説となっていた竣工文禄3年説また慶長5年・6年説を否定し、文献を元に文禄3年着工、慶長2年竣工が至当であると主張している。
慶長20年説は、大坂の陣(1614年 – 1615年)前後の建造とする宮上茂隆の説と同様で1615年(慶長20年)に小笠原秀政によって建造されたとするものである。
層塔型天守に分類されているが、1597年(慶長2年)建造とする場合、最初の層塔型天守とされる丹波亀山城(1609年 – 1610年頃に建造)に10年以上先立つので、建築史の観点から望楼型と見なすことがある。その一方で、1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)に行われた解体修理の時、いくつかの改築の痕跡が見つかっていることなどから創建当時は、望楼型で最上階には外廻縁高欄があり、各重の屋根には多くの破風を取り付けた姿であったと推定されており、松平氏により付櫓と月見櫓が増築された1633年(寛永10年)に現在のように造りかえられたと考えられている
https://ja.wikipedia.org/wiki/松本城
少々引用が長くなりましたので、自身の理解をまとめさせて頂きますと以下の様になります。
- 江戸期前の松本城は「深志城」と呼ばれていた
- 江戸期前の松本城は「小笠原氏 ⇒ 武田氏 ⇒ 織田氏 ⇒ 小笠原氏 ⇒ 石川氏」と目まぐるしく城主が変わった
- 江戸期に入ると、小笠原氏が再び入城したが、大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能し、水野家の後は、松平康長に始まる戸田松平家が城主となった
- 松本城の天守群は、5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守
- 辰巳附櫓・月見櫓は、第3代将軍家光が「善光寺に参拝する途中で松本に立ち寄るかも?」と、当時の藩主松平直政が建てたもので、赤い欄干を配して、風雅な雰囲気を今も感じる事が出来る
- 外壁は初重から最上重まで黒塗(黒漆塗り)の下見板が張られている
- 築城年に関しては、いくつか説がある様だが、江戸の少し前から江戸の初めには限定されている様で、いずれにしても400年前後の歴史を持つ構造物である事に変わりは無い
実際に松本城にお邪魔させて頂くと、天守群は、石落とし・狭間とかなり実践的な装備もあり、戦国を連想させる作りになっています。一方、月見櫓は、上記の通り「徳川家光が、京に上洛した帰りに、善光寺に行きたいと言っているから、そのタイミングで来るもしれない…」と言って、接待用に作られた時代背景もある様で、赤い高欄が設置された、なんとも風流なお姿でした。戦と平和が融合するお姿を、堀越しに収めた写真が、松本城の紹介には、よく使われますが、大人になって、実際に行ってみると、その気持ち、良くわかります。黒いお城ですが、地元の職人の方が、外壁は漆でしっかり補修していっらしゃるとの事で、黒い天守に、月見櫓の赤い高欄がアクセントになっており、本当に、カッコいいんです!
ちなみに、黒ベースのお城は豊臣方、白いお城は徳川方とよく言いますよね。松本城は、元々徳川の家臣であった石川数正が、豊臣に出奔した後に(現在の形に)築城を開始したお城ですから、黒ベースなんでしょうか…。「徳川方は『白』、豊臣方は『黒』なんて、都市伝説に過ぎない」とも言われますが、国宝の五重の天守は、松本城と姫路城のみなので、白いお城の代表格は、姫路城で、黒いお城の代表各は、松本城と言ったところでしょうか?
【松本城が国宝である理由の勝手な考察】
上記、松本城の歴史的概要と見所を抑えさせて頂きましたので、この段落では「松本城が国宝の理由につき勝手な考察」を加えさせて頂きます。
まずは、松本城の国宝の範囲を調べてみますと、松本城のHPには、以下の様にあります。
松本城天守群は、大天守(だいてんしゅ)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)・辰巳付櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓(つきみやぐら)の五棟で形成されています。大天守と乾小天守を渡櫓によって連結し、辰巳付櫓と月見櫓が複合された、連結複合式の天守です。
これらの天守群は、昭和4年(1929年)に指定された「国宝保存法」により、昭和11年(1936年)4月20日国宝に指定されました。
https://www.matsumoto-castle.jp/
大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳付櫓・月見櫓の五棟で形成された天守群。この規模の天守群が、江戸期の初めから400年程の歴史を重ねて来たのであれば「国宝にふさわしい!」と思うのは、私だけではないと思います。
また同時に、Wikipediaには、以下の様にもあります。
(略) 明治以降
1872年(明治5年)に天守が競売にかけられ、解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって、買い戻されて難を逃れる。市川はまず破却の延期を申請したうえで、天守を借りて博覧会(筑摩県博覧会)を開き、それによる収入を活用して天守を購入した (略)
明治30年代頃より天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学(旧制)校長の小林有也らにより「松本天守閣天主保存会」が設立され広く修理費の寄付を募り、1903年(明治36年)より1913年(大正2年)まで「明治の大修理」が行われた。
1930年(昭和5年) 国の史跡に指定された。1936年(昭和11年)4月20日には天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟が国宝保存法により当時の国宝に指定され、1952年(昭和27年)3月29日にはこれら5棟が文化財保護法により改めて国宝に指定されている (略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/松本城
改めて、松本城は、本当に地元の方に、愛されているんだろうと思いました。明治期の天守の競売/解体の危機に、地元の有力者の人力によって買い戻され、天守が傾いた際には、保存会が出来、改修を行う。こういった地域の方々の支えであり、愛情が、松本城を守り、国宝に押し上げている要因である事、疑う余地はありません。2023年10月にお伺いした際にも、修復作業を行ており、一瞬「松本城のフォルムが隠れてしまっている…」とも思いましたが、こういった活動を地域の方々が愛情を持って行ってきたからこそ、今の松本城の雄姿を拝見できるんだと思うと、感謝したくなってしまった次第で、心が温かな気持になりました。言い換えると、こういった地域の方々の支えであり、愛情が、松本城を守り、国宝に押し上げている要因である事、疑う余地はなく「松本城が国宝である本当の理由は、地域の方々の松本城に対する愛情!」と結論付けした次第です!
【最後に】
以上が、「日本に現存する12天守のうちの1つがあり、国宝でもある松本城の概」要と見所を抑えた上で『なぜ松本城が国宝なのか?』に付き、個人的ではありますが考察」を加えさせて頂いた内容になります。
1600年前後に建てられた天守で、400年程の長い歴史を持ち、大天守だけでなく、小天守も、3つの櫓も現存の天守群の規模であれば、当然「松本城は国宝」といった所でしょうが、それ以上に、地元の方の愛情が、松本城を国宝たらしめている理由だと、素直に理解できました。そんな、地元の方に愛されている、本当にカッコいい、国宝松本城。周辺観光も見所沢山ですので、機会があれば、是非訪れてみて下さい!(松本市内観光に関しては、別ブログで紹介中)
尚、本ブログ別記事で、日本100名城や続日本100名城、国宝5城、現存12天守、現存4御殿等のお城の分類と共に、姫路城・彦根城・松本城・松江城・川越城・二条城・熊本城・高知城・掛川城・小諸城等々50以上のお城についても情報発信しており、以下一覧表の画像をクリック頂くとダウンロードされたPDFファイルより、リンクで各分類/各お城の個別ページにアクセスできますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
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